次の日、僕は隣家から自転車を借りて、小鈴と二人で駅の近くに向かった。おばあさんたちのいないところで話をするためだ。昨日はお互いに周りが見えなくなっていたが、古い家なので、話し声は筒抜けだったに違いない。落ち着いて考えると、ものすごく恥ずかしい。その認識は共通だったので、どちらからともなく家を離れようということになった。

 小鈴がおすすめする喫茶店に入り、アイスコーヒーを二つ頼んだ。店内の雰囲気もよく、くつろげそうだ。ヌーベルバーグに通うようになってから、僕は自宅よりもカフェや喫茶店の方が落ち着くようになっていた。

 コーヒーを一口飲んでから、気になっていたことを聞いてみる。

「おじいさんとおばあさんには、どんな風に説明したの。かなり難しかったんじゃないかと思うんだけど」
「全然してないよ。どうして受け入れてくれてるのかも謎。おおらかなんじゃない」
「おおらかにも程がある。何年もいなくなってた孫が急に現れたら、理由くらい確認しそうなものだけど。その上、お父さんにも黙ってくれてるんだろ」
「そうそう。まあ、それだけわたしのことが可愛いんじゃないかな。ていうか、お父さんに言ってないよね。わたしがいるって」
「もちろん、それは守った。そう言えば、お父さんから伝言を……。いや、今はやめておこう」
「どうして。気になるんだけど」
「泣くから」
「泣かない、絶対に」
「絶対に泣く」
「……確かに、泣くかも」
「必ず伝えるよ、しかるべきタイミングで。ところで、いつまでこっちにいるつもりなんだ」
「昨日までは決めてなかったけど、透夏も来たし、花火大会の次の日には東京に帰ろうかな。もう一回、試行錯誤してみようと思う。戻るために」
「なにか思いついたのか」
「まだ具体的にはないんだけど、考え方を変えてみようかなって。わたし、これまで『どうしたら帰れるか』に固執してたんだけど、逆に『どうしてここに来たのか』を深く考えてなかったんだよね。それが分かったら、帰るためのヒントも得られるんじゃないかな」
「この時代に来た理由か……。過去に偶然なにかのトリガーを引いてしまった場合。きっかけになりそうなのは、夜中のプールか、小鈴の制服か、あとなんだろう」
「わたしの気持ちとか? 別に未来へ行きたいなんて思ってなかったんだけど、深層心理ではそういう気持ちがあったのかなぁ」
「なるほど、小鈴自身か。あとは、未来に要因がある場合。例えば、この時代でなにかやるべきことがあって、それをクリアしたら戻れるみたいな」
「ゲームみたい」
「難易度が高すぎるクソゲーだ」
「クリアしても、元の時代で友達と自分の命を救うミッションが残ってるしね」
「隠しダンジョンと言うべきか、裏ボスと言うべきか。でも、それは簡単とか言ってなかったっけ」

 以前、深夜の池袋で彼女が言っていたことを僕は覚えていた。

「簡単なんだけどね、嘘をつけば。けど、ちょっと不安。……嘘でいいのかな。ループものとかのアニメや漫画だと、どれだけ上手にごまかしても大抵NGだったりするじゃん。結局、ちゃんと条件を満たしていないとループから抜け出せないみたいな」
「嘘じゃ駄目なんじゃないか……。で、その条件ってなんなんだ?」
「秘密って言ったでしょ」
「それなら、公平に行こう。もし僕が正しい回答を言ったら、白状する。外れてたら、内緒のままでいい」
「いいよ。ただし、それは公平とは言えないかな。間違える度に、わたしの言うことを聞くっていうのは?」
「面白い。じゃあ、一回目。友達との旅行がなくなる条件。夏の間に、恋人を作ること。メンバーの誰か一人でも恋愛が成就すれば旅行には行かないし、誰にも彼氏ができなければ慰め合うために旅行へ行く。行き先が韓国でいかにも女子旅っぽいし、理由も恋愛とかそういう方面だと推理した。いい線行ってるんじゃないか」
「……ハズレ!」
「惜しかった?」
「言わない。もう一回、チャレンジする?」
「悩ましいな。今回はやめとく」
「それじゃ、わたしの言うことを聞いて。お腹が減ったから、透夏のおごりで軽食とデザートを頼もう」
「いいけど。やっぱり、これ僕の方が不利じゃないか」
「そんなことない。こっちだってバレたら恥ずかしいんだから」
「ん? 今のヒントだよな。恥ずかしいことなのか」
「あっ、ずるい!」
「ずるくない。それより、なに食べる?」

 と、僕はメニュー表を渡した。小鈴は切り替えが早く、楽しそうに食事を選ぶ。もう一つだけ彼女に確かめたいことがあったが、重い話なので、食べ終わってからにしようと決めた。

 小鈴はナポリタンとパフェを、僕はトーストを注文した。結構な量だったが、彼女はぺろりと平らげた。前から漠然と思っていて、昨日の晩ご飯のときに確信したのだが、僕は小鈴の食事姿が好きだ。彼女はいつも美味しそうに、楽しそうに食べる。一緒にいると、自分まで幸せな気分になる。

 そろそろかなと思い、先ほどやめた話題を出そうとすると、彼女の方が先に喋り始めた。

「東京を離れる前はぎすぎすしてたんだけど、秋田に来てから調子がいいんだ」
「以前の小鈴に戻った気がするよ」
「毎日のように美味しいものを食べて、おばあちゃんたちと会話して、たまに家のことを手伝ったりして、自然な生活を送ってただけなんだけどね。ネットのない環境って、心が洗われるみたい」

 小鈴はスマホを持っていないし、祖父母宅にもインターネット機器がない。実は僕が確認したかったのもこの点だ。彼女がネットに触れていたかどうか。ネットカフェなどを利用していた可能性もある。

「東京にいたときはリアルでもネットでも情報が多すぎて、きっと精神が疲弊してたんだ。こっちに来てからは、完全にネットを断ってるの?」
「うん。一切見てない。でも、今はそれが必要なんだと思う。なにがきっかけになるか分からないから。教えて。この一週間のうちに起こったこと」
「分かった。まだ知らないなら、僕も伝えなきゃいけないと思ってた」

 どれから話そうかと迷ったが、まず沢木の件から伝えた。僕たちの過去の因縁、小鈴に懸賞金がかけられていること、そして、彼の自宅で対峙した話。その後に更新された、推進派の犀川彩葉とのコラボ動画についても。

 小鈴は自分のことよりも、僕と沢木の浅からぬ関係に衝撃を受けたようだった。彼女の怒りがヒートアップしそうだったので、岡田兄弟の話に移行した。彼らに関してのポイントは極夜とそれにまつわる社会現象の中心が池袋、しかもヌーベルバーグにあるということだが、小鈴はすぐに理解を示してくれた。

 最後はタニコーの動画とX(Twitter)の投稿の説明だが、他のお客さんがいる喫茶店の中で伝えるべきだろうか。彼女が動揺するのは目に見えているので、躊躇してしまった。

「外に出ないか?」
「……いいけど」

 僕の提案に、彼女はなにかを察したみたいだった。表情がこわばり、明らかに緊張していた。不安にさせてしまったことを後悔した。

「ごめん。やっぱり、もったいぶらずに、ここで話すよ。タニコーのことなんだけど、小鈴に向けた歌をYouTubeにアップしたんだ。しかも、Xにラブレターまで投稿した」

 小鈴は怪訝な顔をした。

「その曲、聴ける?」

 ヘッドホンを渡して、動画を再生する。小鈴は画面を注視していた。沈黙の四分間が終了し、彼女は「もう一度だけ」と呟いた。

 それから、Xの一連の投稿を見せた。彼女はじっくりと見てから、僕に質問した。

「どう思う?」
「三つ目のツイートの解釈か? 別れたんだと思うよ、人気女優と」
「やっぱり、そうだよね。でも、許せない」

 意外な反応だった。正直なところ、再びタニコーに傾いてしまうんじゃないかと思っていた。

「気持ちを弄んだこと?」

 小鈴はグラスの冷水を飲み干した。からん、と氷のぶつかる音が鳴った。

「タニコーと会ったあの日、池袋で待ち合わせをして、お茶を飲みながら話をして、そのあと、久しぶりにカラオケに行ったの。当時もみんなでよく行ってたし、歌が聴きたかったから。夜になって、高級そうなレストランで食事をして、車で送るって言ってくれたから、池袋までお願いしたの。そしたら、車内でキスを迫られた」

 そこで、彼女はわずかに間を置いた。会話を繋ぐのが難しかったので、僕は黙ったまま、次の言葉を待った。

「もしそこでキスをしたら、そのままずるずると最後までする流れになったと思う。それで、『次に会ったときに』って言って、うやむやにして逃げた」
「それじゃあ、その夜は……」
「家に帰る気分でもなくて、ヌーベルバーグに行ってた。タニコーに迫られたのは嬉しかったけど、ちょっとショックで。感傷に浸ってた」
「ショックって、どういうこと」
「うーん、説明が結構難しいんだけど。昔は全然そういう感じじゃなかったのに、大人になったら、急に異性の関係になるハードルが下がるんだなって」
「でもさ、タニコーの肩を持つわけじゃないけど、同棲までしてる彼女と別れたんだから、真剣だったんじゃないのか?」
「結果的にはそうだとしても、そのときは彼女がいることを一言も言わなかったんだよ。全然、男らしくない!」
「反論の余地がない」
「とにかく、青春の思い出が汚されたみたいで悲しかったの。時間は飛び越えても、関係は簡単に飛び越えたくない、みたいな」
「おやじギャグで締めるなよ。なんか悲壮感が薄まる」

 と、小言を言いながらも、僕はホッとしていた。二人が一線を超えたと思い込んでいたからだ。同時に、勘違いでやきもきし、彼女に強く当たってしまった自分の浅ましさを恥じた。

「それでも、嫌いにはなれないけどね。タニコーのこと。歌もメッセージも嬉しかったし。根本的にはいい人なんだよ、昔から。だから、好きになった」
「そう言えば、タニコーとは大学で知り合ったんじゃなかったのか? 今の言い方だと、もっと前からの友達みたいだけど」
「うん。嫌な記憶と結びつくから、あえて言わなかったんだけど、中学時代に同じクラスだったんだ。非常階段から落ちて入院したあと、いじめがぱたっとなくなったんだけど、それはタニコーが働きかけてくれたからだった。透夏にとってのわたしと同じで、彼は命の恩人だったわけ。そして、初恋の人。高校は別で、特に交流もなかったけど、ずっと気になってた」
「それで、偶然、大学で一緒になった」
「だから、運命だと思って、積極的に仲良くなろうとしたの」

 小鈴とタニコーの関係を知り、また一つ霧が晴れた。タイムリープと極夜をめぐる重要人物の関わりはほとんど整理できた。なんとなく、元の世界に戻る鍵は、この人間関係の中にあるのではないかと考えていた。

 タニコーの捨て身の策に対して、小鈴は反応する気がなさそうだった。とはいえ、タニコーがこれで諦めるとは思えないので、まだなにか一波乱あるのだろう。

 色々と考え始めると、不安になる。とりあえず、明日に控えた花火大会を楽しんでから再び憂慮しようと、僕は思った。