翌日はバイトが入っていた。帰り際、店長を捕まえて、向こう一週間のシフトをばらしてもらった。理由はその場で適当に考えたが、身内の都合にしたので、すんなりと承諾が得られた。

 火曜、水曜の二日間は、ある準備に時間を使った。寝食を忘れて夢中になり、完成した頃には二十五日の朝になっていた。バッグに着替えを詰め込んで、そのまま家を出た。

 東京駅の構内で朝食を食べ、秋田新幹線に乗った。不眠が続いているので本来なら寝てしまうところだが、目は冴えきっていた。

 スマホの地図アプリを開いて、小鈴の父にもらったメモに書いてある住所を打ち込む。もう二、三度確認しているが、気になって調べてしまう。彼女の祖父母の家は花火大会の会場からそう遠くない場所にあった。家の敷地から花火がよく見えるだろう。彼女が高校生の頃に描いた絵も、庭から見たアングルだと想像できる。

 東京から約三時間、大曲駅に到着した。構内は花火づくしで、どこを歩いても、花火のビジュアルが目に飛び込んでくる。平日なのでそれほど人は多くないが、明後日には観光客で大賑わいになるのだろう。この時期の駅周辺のホテルは全く取れないらしい。

 そのまま目当ての場所に行ってもいいが、僕は心の準備がしたくて、少し寄り道をした。花火の資料館までは徒歩で十分くらいだった。花火についての知識が皆無なので、花火大会の前に詳しくなりたかったのだ。

 多分、日本人の大半は花火が好きだと思う。音がうるさいとか、人混みが嫌いだとか、そういう理由はあっても、日本の夏と花火は強く結びついている印象だ。

 僕の場合は無関心だった。実家の近くで毎年花火大会が開催されるので、打ち上げ花火を見る機会は少なくなかったが、「今年もやってるな」くらいの印象しか持たなかった。理由は単純で、僕にとって夏の風物詩は、花火でも祭りでもスイカでも風鈴でも海でもなく、小鈴が消えた真夜中のプールだったからだ。それ以外のものに興味がなかったのだ。

 展示を見ていると、明後日への期待が膨らんできた。ここまで来たけど、小鈴がいるとは限らないのだから、もし残念な結果だった場合は花火だけでも楽しもうと思った。

 目的地までは歩くと数十分かかるので、大通りでタクシーを捕まえた。

 車窓から街の景色を眺める。橋を渡って、雄物川の河川敷を通り過ぎた。ここが大曲の花火の会場となる。

 この大仙市では毎月のように花火が上がるらしい。決して夏の時期だけの賑やかしではないのだ。花火が街に馴染んでいる。もしかすると、絶えず暗闇の空が広がる極夜もここでは悪くないのかも知れない。いつでも花火が打てるのだから。

 家の少し手前で車を降りた。帰る際にもタクシーを利用するので、電話番号が書いてあるレシートを財布にしまった。

 小鈴の祖父母の家は年季が入っているけれど、立派だった。土地もかなり広く、僕のイメージする「田舎の家」そのものだ。

 敷地に入り、玄関の前でインターホンを押す。思いのほか冷静でいられる自分に驚いた。千葉の実家を訪問したときの方がはるかに緊張した。

 引き戸を開けて出てきたのは、柔和な顔立ちのおばあさんだった。八十歳くらいだろうか。僕は小鈴の父の手紙を見せながら、自分が何者であるかを説明した。

 早口で喋る僕の話を一通り聞いてから、彼女は「待ってましたよ」と言った。父親が事前に電話してくれていたようだ。

「あの、一つ聞いてもいいですか」

 彼女は頷く。色んなフレーズが頭の中にあふれたが、回りくどい質問の仕方はやめようと思った。

「ここに小鈴さんはいませんよね?」
「いませんよ」

 あっさりとした返事に僕は落胆した。駄目だったか、と心の中で呟く。

「図書館に行ってるから」
「……図書館?」

 僕はかろうじてオウム返しをした。ほとんど放心状態だった。

「さっき、出かけたの」
「よかった。探してたんです、彼女を」

 おばあさんはにっこりと笑った。

「うちの息子にはコレで」

 人差し指を口に当てた。父親には内緒にしておくように、という意味だ。小鈴から強くお願いされているのだろう。

 小鈴は二時間前に自転車で出かけたらしい。ここで待たせてもらうことになり、家の中にお邪魔した。

 居間に案内されると、おじいさんがスイカを食べていた。僕は簡単な自己紹介をする。彼はうんうんと小さく首を動かして、なにも言わずに別の部屋に移動した。寡黙な人だからあれでも歓迎している、とおばあさんが解説してくれた。

 座布団に座り、麦茶をいただく。それから、彼女は僕にもスイカを用意してくれた。

「縁側で食べてもいいですか?」

 と言って、僕は腰を上げる。

 縁側に座ると、真夏の田舎の風景に自分が溶け込んでいる気がした。これで花火まで上がったら、なかなか趣きがある。

 そんな風に思っていると、表で自転車のブレーキの音が聞こえた。タイミングが悪い。しかし、僕と小鈴の出会いはいつもそうだ。

 こちらに歩いてくる彼女を眺める。タンクトップとショートパンツ姿だ。暗いので、僕には気づかない。だいぶ近くに来てから、縁側に視線を向ける。

「久しぶり」

 と、僕から声をかける。

「わたしもスイカ食べる」
「小鈴らしい第一声だ」
「ありがとう。……来てくれて」
「色々考えたんだけど、やっぱり僕は君が心配で、探すことに決めた。だから、お父さんに会いに行って、この場所を聞いたんだ」
「……手を洗ってくるね」

 平静を装っているが、小鈴の声は震えていた。僕も胸が熱くなっていた。

 彼女は玄関から入り、おばあさんたちに「ただいま」と言った。しばらくしてから、半月のスイカを持って居間に現れ、縁側にいる僕の横に座った。

「この前はごめん。反省してる」
「別にいいよ。透夏は悪くないし」
「傷つけるような言い方をした」
「わたしだって同じ」
「それと、花波も謝りたいって言ってたよ。小鈴の失踪をきっかけに、彼女とも向き合うことができた」
「……また友達になれるかな」
「東京に戻ったら、ヌーベルバーグに行こう。あれからずっとこっちにいたのか?」
「うん。かなみんと喧嘩して、その夜は適当にファミレスで過ごして、朝一の新幹線に乗った」
「とりあえず、寝る場所に困らなくてよかった」
「優しいね、透夏は。わたし、酷いこと言ったのに」
「いなくなってから、小鈴のことばかり考えていた。もう二度と会えないかも知れないと思うと、なんとも言えない気持ちになった。そこでやっと気づいたんだ。一人でこの時代に来てしまった君の心細さに。よく分からない場所に放り出されたら、誰だって絶望する。でも、小鈴はそれを感じさせなかった。だから、僕は甘えてしまった。君のことを考える前に、自分の気持ちを優先して、迷惑をかけた。唯一、君の事情を知っていて、助けになれる立場の人間なのに。僕が悪かったんだ。小鈴は悪くない。僕が言われたことも、君が僕に関して花波に言ったことも、別に気にしてない」
「……」
「それに、好きだとか好きじゃないとか、そういうのは関係なく、小鈴には借りがある。命を助けてもらったんだから。今度は僕が君を助けてあげたい。必要ないって言われたとしても」
「あの夜に言ったこと、撤回するね。透夏の方がわたしよりずっと大人だった。わたしも透夏と離れてから、よく考えたの。プールでの出来事もわたしにとってはこの前なんだけど、その間、透夏は七年間もの日々を生きて、成長してきた。そのことをちゃんと尊重できなかったことを、今になって後悔してる。だから、もう年下の男の子だなんて思わない」

 彼女は照れ隠しのように、スイカを頬張った。

「理解が足りなかったのは僕もだ。お父さんから聞いたんだ。小鈴の過去を」
「中学生の頃の話かな」
「ああ、非常階段から落ちたことも」
「幻滅した?」
「全く。それどころか、親近感が湧いたよ。それと……」

 僕はバックパックからタブレットを取り出し、一枚の画像を開く。夜のプールにたたずむ、制服を着た少女のイラスト。あの日の光景を絵の中に閉じ込めた。

「君の秘密を聞いたから、僕が隠していたことを話そうと思う」
「これ……透夏が描いたの?」

 僕は小さく頷いた。二日間、この絵を描いていた。

「今年から、江古田のキャンパスに通っている。先輩と後輩の関係だ」

 小鈴に憧れて、僕は芸術学部を目指すようになった。中学校に入ってから絵の練習を始めて、高校生の頃からはデジタルで描くイラストに熱中した。同じ大学に現役で合格できたときは心底嬉しかった。

「謎の美大生が僕に与えた影響は、君が考える以上に大きかったんだ」
「本当だったんだ。ずっとわたしのこと……」
「好きだったよ。憧れてもいたし、また会いたかった」

 次の言葉を伝える前に、僕は大きく深呼吸した。小鈴と目が合う。

「だから、もう離れないでくれ。この世界にいる間は」

 彼女の瞳は潤んでいた。瞬きをすると、涙が落ちる。

「そうする」

 そう言って、小鈴は再びスイカを口にした。