家を出発したのは午前十一時で、小鈴の父が昼食後のタイミングを狙って、訪問しようと考えていた。食事のあとは人が一番穏やかになる時間だと思ったからだ。

 千葉行きの電車の中で、僕はあれこれと思案していた。

 窓の外は当然真っ暗で、闇が広がっている。一日中同じ景色なら、この夜空を有効活用できないものかと思う。例えば、広告媒体として、テキストを掲載できるとか。そうすれば、小鈴がどこにいても僕のメッセージを届けられる。空の景観を汚されたら嫌な人もいるかも知れないが、幸せになる人も相当数いるはずだし、悪くないアイデアだと思う。

 どうしてこんな荒唐無稽なことを考えているのかというと、現実逃避のためだ。僕は不安だった。

 いなくなった自分を思い出して、父親が悲しむことを小鈴は嫌がっていた。なるべくその気持ちを汲んであげたいが、現実的には不可能だろう。彼女がこの世界にいることは伏せるつもりなので、必然的に失踪した娘の思い出話になる。

 つまり、「①面識すらない父親を訪問し、門前払いされずに会話を続ける」「②小鈴の思い出の場所を聞き出す」「③(可能な範囲で)お父さんをしんみりさせない」という三つのハードルがある。すべてをクリアするのは至難の業だ。

 仮に③を諦める場合、小鈴の父親への思いやりを無下にするわけだが、果たしてその対価として十分な成果を得られるのだろうか。なに一つ、保証はない。ただ、他人の心の傷をえぐるだけで終わるかも知れないのだ。

 ともあれ、僕は彼に会わなければならない。どんな困難なことでも、一歩を踏み出さないと状況は好転しないのだ。沢木もタニコーも、そして花波までも、そうしている。僕だけが停滞していてどうする。

 小鈴の実家に到着する。ここまで来て、インターホンを押すか、家から出てきたところで話しかけるか、迷っていた。当初は前者の予定だった。しかし、少しでも成功の確率を上げることを考えたら、断りにくい場面を作る方がいい気もする。

 報道記者である父なら、アポイントのない取材のノウハウを知っているのだろう。親の仕事に無関心で、そういう話を一度も聞いたことがなかった。まさか、こんなシチュエーションで後悔するとは。

 家の前で一分くらい考えて、結局、インターホンを押すことにした。外は蒸し暑いので、しつこく話しかけられると、むしろ鬱陶しいのではないかと思い至ったのである。

 一回、音を鳴らす。反応がない。汗が頬を流れる。もう一度。

「はい」

 と、か細い声が聞こえた。僕は大きく息を吸い込んで、準備していた台詞を勢いよく吐き出した。

「突然、すみません。僕は黒羽透夏と申しまして、すぐ近くに住んでいるんですが、小学生のとき、小鈴さんに命を助けてもらったことがあります。ずっとお礼がしたかったんですが、連絡先はもちろん、どこに住んでるかも知らなくて、できなかったんです。ところが、先日、小鈴さんの同級生だった人と知り合って、事情を聞きました。それで、せめてご家族にお礼がしたくて、伺いました。少しだけお話させていただけませんか?」

 相手は十秒ほど固まった。一刻も早く、スピーカーから声が聞こえてくることを願う。間を埋めるために追加で喋りそうになったが、ぐっと堪えて、返答を待った。

「はい。今、出ます」

 まずは一つ目のハードルを飛び越えた。僕は胸をなで下ろした。

 家の中に招かれ、リビングのソファに座る。小鈴のお父さんはアイスティーを出してくれた。

「急にお邪魔した上、飲み物までありがとうございます」
「いえ、久々に小鈴の名前を聞いたので、嬉しかったですよ。驚きのあまり、一瞬フリーズしてしまいましたが」

 彼は笑顔で言った。物腰が柔らかく、優しそうな印象を受ける。小鈴の親だけに顔は整っているが、あまり似てない。彼女は母親似なのだろうか。

「ところで、さっきの話ですが。詳しく教えてもらえませんか」
「ちょうど七年前の話です。僕は小学六年生で、クラスメイトにいじめられていました。それで、ある夜に、自殺を考えてこの近くの中学校に忍び込んだんです。校舎の外の非常階段を登ってたら、小鈴さんに呼び止められました。なぜかプールサイドにいて、僕を見つけたんです。そのあと、二人で話をしました。小鈴さんは僕に両親を悲しませないで、と言ってくれました。他にも、いじめっ子を自分がやっつけるとか。僕は勇気をもらって、もうちょっと生きてみようと思ったんです」

 僕の話を聞いて、彼は深刻な表情になった。気に障る箇所があったのだろうか。

「小鈴は非常階段についてなにか言ってましたか」
「いえ、特になにも」
「実は、縁があるんですよ。彼女はまさにその非常階段から落ちて、大怪我をしたことがあるんです」
「どうしてあんなところから。事故ですか?」
「……事故なのかも知れないし、そうじゃないかも。結局、小鈴は真相を語ってくれなかったんですが、私はそれこそ自殺を試みたんじゃないかと思ってます」

 自殺というワードが耳に飛び込んだ瞬間、悪寒が走った。彼女に対するイメージが反転し、頭がくらくらした。

「小鈴さんと自殺が結びつかないんですが」
「明るい子ですからね。明るくて、少し変わり者。昔からそうなんですよ。それに、自分を曲げない。一人っ子だからなのか、我が強くて。そういう性格が災いして、そこの中学校に通っていたとき、クラスの女の子たちからいじめを受けていたんです。半年くらいだったと思うけれど。それで、非常階段から落ちて、しばらく入院して……。でも、次に学校に行ったときには、もういじめはなくなっていたらしいんです」
「全然、知りませんでした。だから、親身になって助けてくれたんですね」
「自分と重なったんだと思います」

 ずっと気まぐれだと思っていた。彼女が僕に手を差し伸べた理由なんて、考えたこともなかった。体が内側から沸騰するように熱くなり、涙がこみ上げてきた。滅多に心を打たれることなんてないのに。

「小鈴さんのおかげで、僕もいじめを乗り越えて、今もこうやって生きることができています」
「そう言ってもらえると、どこにいるんだか分からないけど、彼女も喜ぶと思いますよ」

 彼の言い回しが気になった。失踪した小鈴が今も生きていると思っているのだろうか。僕の心を読んだように、彼は言った。

「親としては、どうしても小鈴が死んだと思えないんですよ。いじめを経験してから、彼女はとても強くなりました。周囲と馴染めない変わり者も、突き抜けることができたというか。不思議と、友達も増えたりして。……あの子なら、どこかでたくましく生きていてもおかしくない。そう思いませんか?」
「僕もそう思います」
「小鈴は母親に似ているんです。見た目も、性格も。妻は病気で若くして亡くなりましたが、きっと彼女の魂が小鈴を守ってくれている」
 我が子に対する親の思いやりの深さに、胸を揺さぶられた。僕の両親も同じように僕のことを考えているのだろうか。

 そのとき、ちょうど部屋の隅に飾られたフォトフレームが目に入った。

「あの写真の方がお母さんですか?」
「そうです。小さい頃の小鈴も一緒にいますよ」

 彼は立ち上がり、写真を持ってきた。小鈴の母親は美しい人だった。確かに親子でよく似ていて、特に猫っぽい大きな目がそっくりだった。その写真の小鈴はおそらく未就学児で、愛らしい笑顔を向けている。

 肝心の質問をするなら、今しかないと思った。

「小鈴さんの好きだった場所とか、思い出の場所があったら、教えてもらってもいいですか。なんというか、その場所で、感謝の気持ちを伝えたいと思ったんです」
「そうだなぁ。ちょっと来てもらっていいですか」

 そう言って、彼は二階に上がった。一人で住むには広すぎる家だ。奥の部屋に入る。一目で、小鈴の部屋だと分かった。当時のままにしているのだろう。

「小鈴にバレたら怒られるけど、今日はいい日だったから、ちょっとだけ。ほら、あれ見てください」

 彼が指し示す先に、一枚の絵があった。夜空に巨大な花火が打ち上がる絵画。

「小鈴さんの絵ですか?」
「高校生の頃の作品です。私の故郷、彼女の祖父母が住む秋田の花火大会の絵。彼女が一番好きな景色です」
「大曲の花火ですか」
「ええ、見たことありますか?」
「いえ、ないです。有名だから、知ってましたけど」

 長岡、土浦と合わせて、日本三大花火と呼ばれている。どれも行ったことないし、花火大会に詳しいわけでもないが、名前くらいは聞いたことがあった。

「一度、見に行くことをおすすめします。圧巻ですよ」
「今年はまだ開催されていないんですか?」
「毎年夏の終わりの休日にやるから、来週じゃないかな」
「行ってみます」
「それなら、私の実家に泊まるといいです。こうしてお話できたのもなにかの縁だと思うので。部屋はたくさんあるから、友達と一緒でも大丈夫ですよ。今から、住所と親への手紙を書きますね。年寄りですけど、しっかりしてるので安心してください」

 リビングに戻ってから、彼はテーブル席に座り、ペンを走らせた。僕は残りのアイスティーを飲んでいた。彼はふと顔を上げて、僕の目を見た。

「もしどこかで小鈴に会うことがあったら、伝えてもらえますか。私は元気に、それなりに楽しく暮らしているから安心してくれ、と」
「約束します」

 彼の言葉を届けられるのは僕しかいない。小鈴を探したい気持ちに、新たな使命が加わり、僕は名状しがたい高揚感を覚えていた。