彼女は入口で立ち止まり、僕を見た。今、最も会うのが気まずい人だが、目を背けることはしなかった。僕は軽く手を挙げ、無言で挨拶する。彼女は硬い表情のまま、隣の席に座った。

「予定を断ったのに、ここにいるんだね」

 花波は冷たい口調で言った。彼女が怒るのは無理もない。

「日中に、沢木に会うことになったんだ。突然決まったから、迷惑をかけて、申し訳なく思ってるよ」
「沢木、妙なことになってるけど」
「僕のせいでエスカレートしたんだ。小鈴を追うのをやめさせようとしたのが、逆効果だった」
「バチが当たったんだよ。友達を蔑ろにしたから」
「ごめん」
「傷ついた」

 花波はそっぽを向いた。

「今回のことは絶対に償うよ」
「……」

 よく考えてみると、僕たちはほとんど喧嘩をしたことがない。そのため、こういう状況になったときに、彼女に許してもらうためのセオリーを僕は持っていない。

 普段の僕なら、ここで沈黙してしまいそうなところだが、今日はいつもと同じではいけない。花波に対しても、心の扉をもう一つ開けようと思った。

「ちゃんと話すから。僕の思っていることも、沢木との関係も全部」
「……ここで?」
「うん。まあ、人がいない場所に越したことはないけど。結構、お客さんいるし」
「一応確認するけど、今日はもう予定ないんだよね?」
「もちろん、なにも」
「それなら、付き合って。コーヒーを飲んだあとに」
「どこに?」
「まだ決めてない。どうしよう。……海とか」

 僕は時計を見る。二十三時台から行けるエリアは限られる。

「お台場くらいしかないかも」
「お台場でいいよ」

 表情が少しだけ和らいだように見えた。彼女はアイスコーヒーを飲み干して、立ち上がった。僕も慌てて、残りのコーヒーを飲んだ。

 ゆりかもめの終電に乗り、お台場海浜公園で降りた。砂浜まで歩くと、レインボーブリッジと高層ビルのネオンがよく見える。深夜なので人はいないが、多分、典型的なデートスポットなのだろう。

 花波は夜景を眺めている。僕が切り出すのを待っているようだった。

「話したことがなかったけど、実は昔、自殺しようとしたことがあるんだ」

 唐突な告白に、彼女は息を呑んだ。僕は淡々と説明を続けた。小学校の頃の沢木の罪、その後のいじめ、自殺を試みた夜のこと、そして、小鈴との出会いと別れ。時折、花波が質問を挟んだが、基本的には僕のモノローグだった。

 過去の話が終わると、花波は独り言のように呟いた。

「沢木なんかに、絶対負けて欲しくない」
「そのために、まずは小鈴を探そうと思ってる」
「実家に帰ってる可能性は?」
「小鈴は父親との再会を避けてた。ぬか喜びさせたあとに、やっぱり元の時代に戻ることになったら、より悲しませてしまうから。だから、その線は薄いと思う」
「意外とそういう一面もあるんだ。もしお父さんと話せたら、彼女が行きそうな場所を探れるんじゃない?」
「確かに、今は手がかりもないし……。家の場所は前に聞いてるから、明日にでも訪ねてみるよ」
「それがいいと思う。小鈴さんを見つけたら、透夏はどうするの?」
「七年前に帰る方法を見つけるつもり」
「この世界からいなくなってもいいの?」
「小鈴がこの時代に存在し続けると、極夜は終わらない。知ってると思うけど、極夜の範囲はどんどん広がってる。このペースだと、八月の終わりには世界が暗闇に包まれるんだ。太陽の光が消失すれば、自然は破壊され、生態系も崩れる。しばらくしたら、人間の社会にも影響が出るはずだ。そうして、世界は終わる」

 花波は呆然としていた。僕が陰謀論を熱心に語っているように見えているのだろう。

「それが本当なら、どうして誰もその指摘をしないの?」
「人類全体が魔法にかかってるんだ。でも、それは徐々に薄れてきている。池袋を中心に。いや、もしかするとヌーベルバーグを中心に」
「ヌーベルバーグ?」
「反対派のリーダー、岡田兄弟はあの店で極夜について議論していた。偶然、僕もそこにいたんだ。その日中に、彼らはSNSで有名になり、反対派の指導者に成り上がった。あまりにも、僕たちの周りに関係者が集中しすぎている。正確に言えば、小鈴の周りに」
「そっか、変だもんね、普通考えたら。なんで気づかなかったんだろう、私。夜が続くなんて、ありえない」
「魔法が解けたんだ」
「透夏はいつ気づいたの?」
「小鈴と僕だけは最初から催眠にかかっていなかった。それは極夜と直接的に関係しているからなんだと思う」
「ずっと一人で悩んでたんだね」
「誰にも言えないよ。頭がおかしいと思われるから。信頼してるから、花波には話したんだ」
「今まで力になれなくてごめん。透夏のことが好きなのに」
「……今、なんて言ったの」

 驚く僕を見て、花波は微笑んだ。

「今なら、なに言ってもOKみたいな空気だったから。ずっと好きだったの、透夏のこと」
「そんな……。いつから?」
「いつの間にか。少なくとも高校三年生の頃には好きだったと思うよ」
「かなり前じゃないか。全然、気づかなかった」
「鈍いなぁ。小鈴さんもヤバいけど、透夏も相当鈍い」
「そう言えば、小鈴にも言われたことがある。花波は僕のことが好きだって」
「だから、今日の予定を急に断られたときも、本当に落ち込んだんだよ」
「ごめん。最悪だった、僕は」
「ううん、いいの。私の方が最低だから。勝手に好きになって、透夏は迷惑だよね。好きな人が別にいるのに」
「そんなことない。嬉しいよ、花波にそんな風に言ってもらえるのは」
「でも、私とは付き合えないんだよね」

 健気な台詞に胸が痛くなった。中途半端な返答では駄目だ。好きだと言ってくれた人に対して、最大限の誠意とはなんだろうか。それは僕の好きな人の名を打ち明けることだ。たとえ、彼女がすでに知っていようとも。

「そうだね。小鈴のことが好きである以上は。何度も自問自答してみたんだけど、やっぱり僕は彼女が好きみたいだ。いつでも頭の片隅にいるし、放っておけない」
「透夏の口から、ちゃんとそれを聞けてよかった」

 その瞬間、彼女の大きな瞳から大粒の涙がこぼれた。

「泣くなよ」
「無理」

 そう言って、彼女は僕に抱きついた。それから、子供のように泣いた。彼女の気が済むまで、失恋を慰めたいと思った。

「私と友達でいるの、もう気まずい?」
「これからも親友だ。そんなに簡単に崩れるような、脆い関係じゃないよ。花波は僕の数少ない友人なんだから、大切にさせて欲しい」
「……ありがと」

 僕たちはしばらく抱き合ったままだった。彼女が落ち着くと、少しだけ砂浜を散歩した。そして、タクシーを呼んで、池袋に戻った。

 移動中の車内で、花波は小鈴のことを気にかけていた。

「小鈴さんを探すの、私も手伝おうか」
「さっきヒントを貰ったから、とりあえず、小鈴の実家に行ってみるよ。それでも無理そうなら、相談させて」
「分かった。連絡してね。それと、私。今度、小鈴さんに会ったら、この前のことを謝りたい」
「うん、夜のカフェで会おう」

 先に花波の兄弟のマンションに行ってから、僕のアパートの順で帰った。タクシーを深夜にそれなりの距離で利用するのは初めてだったので、心なしか大人になったような気分だった。