小鈴が目を覚ましたのは十四時前だった。彼女はベッドの上であぐらを組んで座り、目をこすりながら僕に言った。

「あー、よく寝た。透夏は眠れた?」
「いや、あんまり」

 というより、一睡もできなかった。小鈴はお金を持っていないし、頼れる人もいない。だから、カフェを出て、自然な流れで僕のアパートに来ることになった。三時過ぎに到着し、彼女はそのままベッドに横になった。制服は汚れていたので、家着のTシャツとショートパンツを貸した。部屋の電気を消したあと、僕は外に出て、散歩をしたり、早朝からやっている店に入ったりして、時間を潰した。家に戻ったのは昼過ぎ。それから歯を磨き、シャワーを浴びて、昼食を作っていたら、彼女が起きたというわけだ。

「いい匂い。なに作ったの?」
「炒飯。食べる?」
「うん、お腹すいた」

 彼女は立ち上がり、背伸びをした。そして、窓の外を見た。

「あれ、もう夜なんだ。わたし、一日中寝てたんだね」
「いや、違うよ。今は日中だ」
「でも、外は真っ暗」

 僕はテレビの電源を入れる。ワイドショーでは、ちょうどそのニュースを扱っていた。

―この夏は異例の極夜(きょくや)が続きます。太陽の光が恋しくなる気持ちもありますが、街を歩く人たちはこの珍しい現象を楽しんでいるようです。

 リポーターが渋谷のスクランブル交差点前で街頭インタビューを行う。三人組の女の子たちは「昼間からナイトプールを楽しめるし、いいと思いまーす」と軽快に答える。

「こういうことらしい。極夜は白夜の反対。ずっと昼が来ないという意味」
「どういうこと。そんなのありえないでしょ」
「そうなんだ。絶対にありえない……はずなんだけど、なぜか誰も疑問視していないんだ。メディアも、世間の人たちも」
「うーん、全然意味が分かんない。集団催眠にかかってるんじゃないの」
「その可能性はある。というか、君がタイムリープしてきたから、こんな風になっているんじゃないか。昨日までは普通だったんだ」
「こらこら。わたしがこの世界に来たせいで地球規模の影響をもたらすなんて、ありえないでしょ」
「タイムリープ自体、ありえないんだけど」

 小鈴はムスッとした顔をする。

「まあ、それはね。それより、わたしはキミじゃなくて、小鈴ね。ちゃんと名前で呼ぶこと」
「分かった。とりあえず、炒飯を食べよう、小鈴」

 言われた通りに名前で呼ぶと、彼女は満足そうににっこりと笑った。

 食事を済ませてから、このあとの行動について相談した。大学は夏休み中だし、今日はバイトもないので、彼女の助けになってくれそうな友人の家に行ってみるということで話がまとまった。

「僕はあっち行ってるから、これを着て」

 と、ユニクロの袋を渡す。先ほど外出した際に、彼女のTシャツとジーンズを買っておいたのだ。レディースの服を買うのは人生で初めてだった。

 外は蒸し暑く、熱帯夜という感じだった。真夏の日中に、真っ暗な空の下を歩く違和感はなかなかのものだ。僕の場合は昨日から寝ていないから余計にそうなのかも知れないが、体内時計が狂っていく感覚があった。

 西武池袋線に乗り、練馬駅で下車する。小鈴が大学生の時代から七年が経っているので、一人暮らしの友人はもう同じ場所に住んでいないと思われる。そのため、これから行くのは実家暮らしの友人宅だ。

 隣を歩く小鈴を横目で見る。僕より二十センチくらい小さいので、身長はだいたい一五五センチといったところだ。体型は細く、引き締まっていてスタイルがいい。横顔は猫みたいで、クールなようにも見えるし、いたずら好きのようにも見える。

 彼女が直面している状況を考えれば、少しは気落ちしそうなものだが、その様子は一切感じられない。むしろ、楽しそうにすら見える。かつて小学生の僕が抱いた印象と同じで、天真爛漫な性格だ。

 僕の視線に気づいたのか、彼女もこちらを見る。

「透夏のファッション、結構変わってると思ってたけど、今はルーズな服を着てる男の子が多いんだね。そういうセンターパートみたいな髪型も流行ってるの?」
「うん、まあ。割と多いかな、大学でも」
「九十年代っぽいね。ファッション二十年周期説は本当なんだ」
「じゃあ、このあとはまたタイトな服が流行るのかな」
「ありえる。あと、気づいたんだけど、わたしって流行の最先端を行ってたんじゃない。当時から」
「髪のインナーカラーとか?」
「そうそう。七年前、こんな髪型の女の子をほとんど見かけなかったと思うんだけど、なんかあふれてるよね、街の中に」
「さすが、美大生。時代を先取りしてる」
「ところで、この世界のわたしって、どういう扱いになってるの。このあと、(りん)に会うとき、どんな感じにすればいいかなと思って」
「失踪したことになってるよ。だから、その友達も驚くと思う」
「うーむ。もし突っ込んで色々聞かれたら、返答に困るなぁ。まっ、考えても仕方ないか」
「一応、僕もサポートするよ。最悪、記憶喪失という設定にしておけば、どうにかなるし」
「それいいかも。……なんか、透夏は変わったね」
「そうかな」
「頼もしい男の子に成長した。あのとき、死のうとしてた少年がこんな風になるなんて、想像できなかったよ」

 小鈴は僕の過去にさらっと触れた。ごく自然に、ためらいもなく。彼女からすれば昨日の出来事なのだから、当然なのかも知れない。だが、僕は軽くぎょっとした。それは長い歳月をかけて心の奥底に隠した古傷だったからだ。

 七年前の昨日、僕が深夜の中学校に侵入したのは自殺するためだった。当時、僕はクラスメイトにいじめを受けていた。客観的に見て、それが自死に値するくらいひどいレベルだったかどうかは微妙だ。しかし、少なくとも小学六年生の僕にとっては、耐え難く、命を捨ててでも回避したい問題だった。

 非常階段を登り、ある程度の高さから身を投げる予定だった。特に怖いという感情はなく、むしろ高揚感に浸っていたのを記憶している。その途中で、偶然、プールサイドにたたずむ彼女を見つけ、同時に彼女に見つけられたのだ。

「そこでなにしてるの?」

 声をかけられたとき、心臓が止まりそうだった。割と大きな声だったので、誰かに聞かれたらどうしようと不安になったのだ。死ぬことよりも、誰かに見つかることの方がずっと怖かった。もちろん、校内には誰もいるはずないし、近隣住民にも届かないだろう。しかし、そんな正常な思考ができるほど、僕は大人じゃなかった。

 彼女を無視してそのまま階段を上がったら、もっと大声で騒がれるかも知れないと思った。そこで、ひとまず目的を諦め、プールに向かうことにした。

―君、ここの中学生?
―違います。
―そう、じゃあ別の中学校の子?
―いや、小学生です。
―それなら、どうして中学校で自殺しようと思ったの。自分の学校でやろうとは思わなかったの。

 僕の目的は看破されていると予感していたが、まさか単刀直入に聞いてくるとは思わなかった。その裏表のない感じは好印象だった。

―小学校よりも家から近くて、誰かに見つかる可能性が低いと思ったから。
―なるほど。こんな時間に大人とエンカウントしたら、確実に家に連れ戻されちゃうもんね。

 こっちの一大事に対して、ゲームの用語みたいな軽い表現を使ったのが妙に笑えた。初対面の彼女に対して不思議と信頼感を持ったのは、この瞬間だったと思う。

―とりあえず、座って話そうか。

 そう言うと、彼女はプールサイドに腰を下ろし、三角座りをした。僕も彼女に倣った。

―名前は?
―……透夏。
―どんな字を書くの?
―透ける、に、夏。で、透夏。
―詩的で、素敵な名前。
―そうかな。僕はあまり好きじゃない。
―訳ありな感じだね。

 それから、彼女はいくつかの質問によって、僕の自殺の理由を聞き出した。他人に話すのは初めてだったが、どうせ知らない人なのだからと思うと気楽に感じた。僕は包み隠さずに、死を選ぶに至った経緯を説明した。

―ところで、お父さんとお母さんは好き?
―まあ、好きだと思うけど。
―わたし、お母さんがいないんだ。……中学生のときに、病気で死んじゃったの。それでね、やっぱり残された家族は悲しくて、寂しくて、わたしもどうかなりそうだった。だから、自信を持って言えるんだけど、お父さんやお母さんを悲しませないであげて。
―もちろん、そうできるなら、その方がいいけど。
―安心して。わたしが力になるから。例えば、いじめっ子たちを全員ボコボコにするし。

 彼女はおどけた調子で言った。僕は思わず吹き出した。

―次の日から、もっといじめられるよ。

 声を出して笑ったのは久しぶりだった。

―楽しく生きなきゃ。せっかく生きてるんだし。……それじゃ、わたしはそろそろ夏を感じてくるね。

 彼女はさっと立ち上がり、深呼吸をした。

―一度、制服を着て、夏休みのプールに飛び込んでみたかったんだ。夏っぽいイベントでしょ。

 僕は彼女を止めようとした。しかし、あまりの突然の出来事に、声が出なかった。

 彼女は勢いよくプールの中に飛び込んだ。真っ赤なオールスターが弧を描いて、水の中に消えていった。

 そのまま、彼女は浮かび上がってこなかった。最初は潜水泳法をしているのだと思ったが、三十秒くらい経過すると、段々と不安になってきた。水面はダイブした一点以外、穏やかなままだった。僕はTシャツを脱いで、プールに入り、彼女を探した。

 しかし、彼女はどこにもいなかった。この世界から、一瞬で消えてしまったのだ。

 まるで幻を見ているようだった。日が昇る前に、彼女を諦めて、僕は家に帰った。圧倒的な気だるさが全身を襲い、気絶するように眠った。

 あの日から七年間、彼女が消えた謎が気がかりで、僕は生きてこられた。もしかすると、再び会える日が来るかも知れない。それだけが原動力となり、いじめも耐え抜くことができた。

 ……おそらく、数秒間は沈黙していたと思う。僕は小鈴の顔を見つめる。頼もしく成長した、か。

「そうだとしたら、それは小鈴のおかげだ。多分」