沢木に指定された場所は、彼の住むマンションだった。ほとんど降りたことのない赤坂駅で下車する。土曜日だが、オフィス街なので、それほど混雑している感じはしない。いかにも高級そうなタワーマンションのエントランスに到着したのは十三時前だった。

 少し調べたが、ここは芸能人も住んでいるマンションらしく、ひと月の家賃は僕の住んでいるアパートの一年分でも足りない。

 沢木はYouTubeの活動で相当に稼いでいるが、本業の格闘家としてのファイトマネーも国内トップクラスだ。高校生の頃から十年に一度の逸材として注目され、格闘技の興行でメインイベンターを任されていた。格闘家として名を馳せてから、YouTuberの方でも成功したのである。

 十代にはそぐわない大金を持っているので、着用している服や装飾品、自宅の内装や家具まで成金趣味だった。例えば、時計はパテック・フィリップのようだし、壁には現代アートの絵画が飾ってあった。詳しくないので銘柄は知らないが、僕が座っている椅子もおそらく有名なヴィンテージとかなのだろう。

 しかし、そういう富豪ぶりは別に僕を萎縮させなかった。むしろ、社会的に成功しているにもかかわらず、外見のチンピラ具合が学生時代と同じであることに驚愕した。

 あの放課後の教室のように、だだっ広い部屋には僕と沢木の二人だけだった。僕たちは机を挟んで、向かい合う。

「久しぶりだな。中学の卒業式以来か?」
「そうなる。同窓会には一度も参加してないから」

 中学については、三年生のときだけ一緒のクラスだった。

 沢木はすぐに本題に入った。僕と無駄話をしても仕方ないという判断なのだろうが、それはこちらも同じだ。

「あの女とはどういう関係だ」

 詳細をどの程度話すかについては、駆け引きだと思った。そのため、最初からすべてを言わない。このミッションのゴールは沢木に小鈴を諦めさせることだ。

「古い友人だ。ちょうど君にいじめられていた頃の」
「どこで知り合った」
「自殺未遂現場。僕が死のうとしていたら、彼女が止めてくれた」
「具体的には」
「それは秘密だ。自殺を考えた場所なんて、他人に言いたくない」
「名前は」

 ほとんど尋問みたいなので、僕はため息をついて、自分のペースを取り戻した。それから、彼女の名前を言う。

「小鈴だ」
「小鈴……か。今はどこにいる」
「一昨日までは池袋にいた。今は行方不明だ。僕も知らない」
「使えないな。お前に期待した俺が馬鹿だった」
「それでも名前を知れたんだから、収穫だろう。僕からも質問したい。君は小鈴を見つけて、なにを目論んでるんだ」
「男が女を探してるんだ。当然、やることは一つだ。お前、見た目は多少垢抜けたけど、中身は鈍臭いままだな。童貞だろ?」
 お前こそクラスメイトに強姦紛いのことを仕掛けたあの頃と少しも変わってない、と僕は心の中で呟いた。
「性欲だけで、よくここまでできるな」

 沢木は大声で笑ってから、蔑むような目で僕を見た。

「お前はマジで馬鹿だな。ガキの頃と同じで、クソ真面目で融通が利かない」
「お互い様だ」
「いいか、俺は本気で惚れてるんだ。一目惚れだよ、一目惚れ。この世界のどこに俺を殴る女がいると思う? リングの上でどんな強い男を殴り倒すよりも、その女を落とす方が面白い」
「結局はゲーム感覚じゃないか。それは一目惚れとは言わないと思うけど」
「いや、これは戦いであり、純愛だ。お前の平凡な感覚を勝手に一般化するな。今の時代に愛の多様性を認めないなんて、笑われるぜ」

 詭弁のようにも感じるが、口論が強いことは否めない。言い合っても埒が明かないので、彼を諦めさせるための布石を打つ。

「本来は実在しない人間でも?」

 沢木の顔が険しくなる。

「どういう意味だ」
「彼女はタイムトラベラーだ。七年前の夏からの」
「頭がおかしくなったのか?」
「そう考えるのは自由だけど。タニコーと知り合いなのも、当時、同じ大学に通っていたからだ」

 沢木は腕を組み、考える素振りを見せた。

「年齢は?」
「普通に歳を重ねていたら、二十六歳」

 彼はスマホでなにかを調べている。僕は彼が喋るのを待った。

「即興で作った設定じゃないみたいだな。谷村も二十六歳だ」
「彼女の思考は元の時代に帰還することで埋め尽くされている。そんな人間と恋愛なんてできない。目を覚ますんだ」
「お前はつくづく分かってないな。万が一その与太話が本当だとして、俺がどう思うのか、想像つかないのか? そんな狂った設定の女、最高だよ。前よりもっと、ヤッてみたくなった」

 彼の反応は想定の範囲内だった。僕は詰めの段階に入る。

「だけど、彼女を落としたら、この世界は破滅する」
「なんだそれ。もうちょっとマシな嘘を考えろ」
「極夜は小鈴とともに、八月十二日に現れた。そして、徐々に地球を蝕んでいる。多分、八月の終わり、世界は完全に暗闇になる。集団催眠にかかっていて誰も気づかないが、太陽の光がなければ環境は崩れる。近い将来、日本だけじゃなく、地球全体が終焉を迎えることになる」
「ふーん、なるほどな。確かに、今、頭をぶん殴られた感じがした。変な感覚だ。薬でもやってたみたいに、脳みそが麻痺してた。極夜なんて不自然な現象が普通だと思ってたんだからな。お前の言うことも、嘘じゃないように思えてきた」

 作戦は成功したように思えた。極夜の洗脳さえ解ければ、今の状況がいかに異常であるか分かる。それだけで、彼が僕の話を信用する確率は格段に増す。

「世界が終わったら、元も子もない」
「つまり、もうあの女に手を出すな、と」
「ああ、それを伝えに来た」
「考えておく」

 沢木はそれ以上、なにも言わなかった。

 僕は彼の部屋を出て、エレベーターに乗った。そこで初めて、心臓の鼓動が早くなった。冷房が効いていて涼しいのに、額に汗が滲む。意識的に抑え込んでいた緊張が一遍に解き放たれたようだった。強い倦怠感が全身を襲った。

 自宅で休憩し、動く気力が出てきたのは二十時頃だった。猛烈な空腹を覚えて、駅の近くまで歩き、洋食屋に入る。普段は少食なのに、大盛りにしても足りなかった。体がエネルギーを欲していたのだろう。それから、コンビニでエナジードリンクを買って、西口公園に向かった。外の空気を吸いたかった。

 適当に腰を下ろし、缶の中の砂糖水を一気に飲み干す。そして、Xで沢木の動向をチェックする。彼はついさっき、動画を投稿していた。

 イヤホンを装着し、再生ボタンを押す。僕の手は小刻みに震えていた。

 画面には沢木と一緒に、推進派の指導者である犀川彩葉が映っていた。意表を突く組み合わせだった。

「女子大生で、インフルエンサーで、極夜の推進派のリーダー。そんなキャラてんこ盛りのハイスペック女子と言えば、……俺の動画を見てる奴らは当然知ってるよな。知らない奴はマジでヤバいから、すぐに覚えた方がいい。というわけで、今めっちゃ熱くて、話題の人、犀川彩葉ちゃんとのコラボ動画。はい、驚いた人。……OK。うん、俺も驚いてるから。一番、交わらない人種だからね、俺と彩葉ちゃん。格闘界とインテリ界の若者代表。だけど、こうやって来てもらってるってことは、当然、意気投合してるわけだから。俺から連絡取って、緊急でコラボが決まって、出演してもらってる。ありえないと思うけど、これ全部今日の話なんで。で、どうしてそんなスピードで進展したのか。その理由は簡単。俺、推進派の幹部になります」

 趣味の悪い冗談みたいな内容だが、犀川が同席している時点で本気だ。沢木のあとに、彼女が喋る。沢木は推進派に不可欠な人物だとか、なんだとか、頭に全然入ってこないが、それらしいスピーチを行う。

 その後、二人のトークがしばらく続いた。終盤になって、沢木は第二の爆弾を投下した。

「彩葉ちゃんに言っても、はいはい、って感じで流されるんだけど。俺さ、極夜の原因が例の女の子、俺のことを殴った美少女にあると思ってるんだよね。というのも、あの日から極夜が始まったから。なんなら、俺が殴られた瞬間からだと思ってる。なんか特別な運命の相手、みたいな感じ? だから、俺は極夜も暗闇も肯定する。とにかく、俺は真面目に彼女を探したいわけ。で、暗闇の中で、光を消して、彼女と語り合いたいと思ってるんで、引き続き、情報よろしく」

 沢木の発言に戦慄した。小鈴と極夜の因果関係を知った彼は、僕の忠告を受け入れるどころか、彼女を手に入れたいという欲望をますます増大させ、躍起になっているようだ。これでは小鈴はさらに追われる羽目になってしまう。

 完全に裏目に出てしまった。僕は自分の愚かさに、頭を抱えた。