彼女は今、どこにいるのだろう。もう一度カフェに戻ることはありえないし、タニコーのところに行くとも思えない。わずかな所持金しかないので、ホテルに寝泊まりすることも不可能だ。

 小鈴のまっすぐな性格を考えると、父親を悲しませたくない一心で実家には帰らないと思う。それよりは、当たって砕けろの精神で過去へのタイムスリップに挑戦している可能性の方が高そうだ。……いや、さすがにそれはないか。時空を飛び越えた理由が少しも解明できていないのに、カナヅチの彼女がプールにダイブし続けるなんて、自殺行為だ。

 自殺という言葉で、沢木のことを思い出す。僕は彼のいじめが苦痛で、自死を試みようとした。

 発端は僕が沢木の罪を糾明したことだ。

 小学六年生の四月。とある放課後、沢木が同じクラスの女子に無理やり抱きついている場面を目撃したのである。教室には彼らだけしかいなくて、僕の方も一人だった。女の子は明らかに嫌がっていた。

 沢木は当時すでに百七十センチ以上の身長で、スポーツも万能だった。女子が抵抗しても相手にならない。僕が止めに入ったとしても一蹴される。彼女を助けたいと思っても、良案が浮かばずに、思考がストップしてしまった。

 意外なことに、沢木は彼女から手を離した。「出ていけよ」とでも言われると思っていたのに。さらに、彼は形式的にではあるが、女子に謝罪した。彼女は涙を流しながら、教室の外に逃げ出した。おとなしい子なので、誰にも言えずに、泣き寝入りするのだろう。

 僕と沢木だけになる。彼はヘラヘラと笑いながら、僕に近づいた。その表情には若干の羞恥と、邪魔をした僕に対する怒りが含まれていた。

「ちょっとふざけてただけだ。あいつもOKしたんだ。分かるよな」

 僕は彼の威圧感に負けて、首を縦に振った。

 そのとき、嫌なものが視界に入った。沢木の股間のあたりが膨らんでいたのだ。下品で、暴力的で、唾棄すべき代物だった。当然、僕自身もそういう生理現象は経験しているので、それ自体は問題じゃない。体格の優位性を振りかざして、か弱い女子から強制的に興奮を獲得した点が許せなかったのである。

 沢木は僕を睨みつけ、念を押した。

「言わないでくれよ」

 その小心さが腹立たしかった。相手の女の子を傷つけ、泣かせておいて、自分のことは守ろうとする。沢木とは五年生から一緒のクラスで、それまでは好きでも嫌いでもなかったが、初めて嫌悪した。

 僕は職員室に直行し、担任の先生に密告した。ここで僕はミスを犯した。三十代の男性教師に、丁寧なレクチャーをすべきだったのだ。僕はてっきり彼が上手くやってくれるのかと思っていた。例えば、「偶然、自分が見かけた」体にするとか。しかし、彼は愚直に僕がリークしたことを漏らしてしまった。

 沢木は教師から面罵され、顛末を知った両親からも殴られたそうだ。もちろん、相手の親からも憎まれた。それで、彼は怒りの矛先を僕に向けた。

 まずは、僕をいないものとして扱うように、クラス全員に命令した。彼は以前から権力者だった。そもそも喧嘩では誰も勝てない上に、中学生の不良グループとつるんで悪さをしているから、余計にたちが悪い。沢木の反感を買ったら、彼らも敵に回すことになる。みんなが沢木の言いなりになるのは当たり前だし、正しい自己防衛だと思う。

 しかし、当事者としてはなかなかしんどかった。いじめとは無縁の人生だったので、無視というシンプルな手法がかなり効いた。昨日まで友達だった人たちの裏切りにショックを受けて、僕は数日で気が狂いそうになった。

 沢木は徹底していて、僕に同情する者を発見したら、見せしめとして、そいつも同じ目に遭わせた。クラスメイトを恐怖で完全に支配し、僕の逃げ道を塞いだ。

 さらに、いじめはエスカレートした。陰湿な手口だった。自ら手を下すのではなく、中学生を使って僕をいたぶったのだ。恐喝されたり、暴力を受けたり、一度、性のはけ口にされそうになったこともある。なんとか回避したが、一生のトラウマになるところだった。色んなことをされたが、詳しく思い出したくもない。

 当時、両親はともに仕事で忙しく、ほとんど家にいなかった。テレビ局の報道部門で働く父だけでなく、母も管理職になったばかりで家庭のことを考える余裕がなさそうに見えた。他に頼れる大人もいない。教師は論外だ。すでに見て見ぬ振りをしていたのだから。

 四月から始まったいじめは三ヶ月以上続いた。僕はもう耐えられなくなっていた。終わりが見えないなら、いっそのこと自分から終わりにすればいい、という考えが浮かんできた。八月の初旬のことだ。そうして、僕はあの夜、中学校に向かった。

 今となっては別に沢木を恨んでいないし、どうでもいい。いじめは中学一年の後半まで終わらず、その名残で二、三年も残念な学生生活となったが、なんにしても僕はいじめを乗り越えたのだ。耐え抜いたという方が近いかも知れないが。とりあえず、そのことを割り切っているのは本当だ。

 ただ、小鈴に近づいて欲しくない、それだけだ。あのときのクラスメイトの女子のように、暴力をもって沢木が小鈴を服従させる姿など見たくもない。想像するだけで、吐き気がする。

 昨日の連絡に対して、まだ沢木から返信は来ていない。YouTubeのアプリを立ち上げ、沢木のチャンネルを見てみる。異常な登録者数にめまいがする。どうしてこいつが人気者になるのか、人間性を知っているだけに心底理解できない。

 今日投稿された、最新の動画を再生する。短めの金髪がいかつい感じを醸し出している。鋭い眼光は昔と変わらない。喋りは達者で、物事を煽ることにかけては天才的だ。

「俺を殴った女の子、あの落日の谷村と知り合いだったってだけで面白いじゃん。なのに、それが分かったタイミングで、今度は谷村の熱愛が発覚。あ、ちなみに俺、畠中伊織は結構ファンだったから、めっちゃ辛いわー。ま、それはどうでもいいんだけど、なんかさ、持ってるよね、彼女。もう、この子を見つけて、話すしかないでしょ。というわけで、彼女を見つけた人に沢木勇吾から懸賞金を出します。百万円! あー、でもそれじゃインパクト弱いか。もう、俺を一日好きに使っていいです。コラボ動画をやるのでもいいし、男なら俺と喧嘩マッチやってもいい。女の場合はよく分かんねーから任せる。それかお金。好きな方を選んでくれ」

 コメント欄を見ると、視聴者たちは盛り上がっていた。遊び感覚なのだろう。Xを確認すると、早くも小鈴探しがファンの間で始まっている。

 危険な展開だと思った。人の目が一斉に増えれば、小鈴が見つかるのも時間の問題だ。沢木が彼女に接触する前に、僕が手を打たなければならない。

 僕は再度、沢木に連絡した。白井から教えてもらった連絡先だけでなく、動画の概要欄に記載されたメールアドレスにも。それでも反応がなければ、Xのリプライでアプローチしようと考えた。

 三十分後、沢木から返信が来た。個人の連絡先の方だ。「明日、会って話がしたい」という内容だった。直接話ができる方が僕としても好ましい。即座に了解の返事をした。

 そのあと、花波にLINEを送った。先日カフェで計画した遊びの予定について、キャンセルを申し出るためだ。沢木に会うためにはそうするしかなかった。明日の約束を破るのは最低だと思いつつも、頭の中は小鈴と沢木のことで一杯だった。