始発列車が動き出す頃に帰宅して、家の中でぼんやりと過ごしていたら、昼になっていた。近所の飲食店でテイクアウトして、部屋の中で食べる。不意に卓上カレンダーが目に入る。八月十九日。小鈴がこの世界に来てから、ちょうど一週間が過ぎたことになる。

 慌ただしい日々だった上に、たまたまバイトの予定が重なったりしたので、このところ大学の友人たちからの誘いをすべて断っていた。そのため、今日は学科の仲間内の飲み会に顔を出す予定だった。正直な話、今の精神状態では気乗りしないが、社交性に乏しいというレッテルを貼られるのは避けたいので、致し方ない。参加者もそれなりに多いので、適当に相槌を打っていれば、乗り切れるだろう。

 池袋駅に十八時に集合し、誰かが予約した居酒屋に入る。僕も含め男性が五人、女性が三人だ。日頃から会話をリードするタイプではないが、いつにも増して聞き役に徹した。

 二時間くらい経った頃、隣のテーブルが急に騒がしくなった。僕たちのグループも大概うるさいので、誰も気づいていないが、若い男女が口論を始めたのだ。

 耳をそばだてて、会話を盗み聞きする。彼らは大学生のカップルで、極夜の是非について意見が対立していた。どうやら彼女の方が「推進派」の熱烈な信者で、「反対派」の彼氏を論破しようとする構図だ。無理やり自分の思想に引き込もうとする彼女に対して、彼氏は反論を続けていた。

 彼女はあれやこれやと喋っているが、よく聞くと「推進派」の提唱者、犀川(さいかわ)彩葉(いろは)の言説そのものだ。同じ女子大生だから、共感しやすいのかも知れない。暗闇は人生に気づきを与えてくれるとか、環境問題を見直すきっかけだとか、個人的には一ミリも刺さらない主張をまくし立てる。彼氏もうんざりしながら、とはいえ納得できないので、言い返す。

 すると、気持ちが高ぶったのか、彼女は「相容れないなら、別れるしかない」と啖呵を切った。

 そこで、ようやく僕のテーブルの面々も、彼らの存在に気づく。

「なにが起こったの?」
「修羅場だ」

 と、口々に言うので、僕は答える。

「極夜をめぐって、論争になったんだ。彼女は推進派で、彼氏は反対派」

 カップルに聞こえるくらいの声で無神経な解説をしたので、怒りが僕に飛び火するかもと思ったが、そんなことはなかった。想定外の出来事に、彼は泡を食って、じっと恋人を見つめていた。引くに引けない彼女は代金を置いて、店を出た。彼もすぐに後を追ったが、その姿には迷いが感じられた。別れてもいいと思っているのかも知れない。

 恋人たちの喧嘩を酒の肴に、僕たちの席は盛り上がった。

「あんなくだらねーことで喧嘩するなよ」
「でも、極夜の議論は政治とか宗教とかに近いよ。飲み会の席のタブーになってるってパパが言ってた」
「えー、俺は全然大丈夫。ちなみに、みんなはどっち派?」
「当然、私は反対。太陽のない夏なんて、面白くない」
「俺は逆だけどな。こういう夏があってもいい」
「今年だけならいいけど、来年も続いたりして」
「夏で終わるとも限らない」
「治安悪くなりそうだな」
「そういう相関関係はないらしいよ。ネットニュースで見た」
「ところで、透夏はどっち?」

 隣に座る女子が僕に聞いた。

「僕は反対派……かな」
「どうして?」

 原因を知っているから、とは言えない。もっともらしい理由で逃げるか、それとも冗談で受け流すか。

「高校球児が気の毒だ。甲子園がナイター中継で、全く青春感がない」

 僕の返答に、彼女は吹き出した。

 そんなことを話しているうちに、割といい時間になった。一人がカラオケに行こうと言うと、みんなは賛成した。

 一軒目を出て、移動していると、再び奇妙な光景に出くわした。

 街の一角がお祭り騒ぎになっていた。怒声や歓声や悲鳴など様々な声が入り混じり、空気のうねりが生じている。

 好奇心から近づいてみると、反暗闇デモが行われていた。若者を中心に、数百人は参加しているだろう。彼らはプラカードやのぼりの他に、ペンライトなどの光を発するアイテムを持っていた。

 第六感が働いたのかも知れない。とても嫌な感じがした。僕は友人たちを残して、デモの中に飛び込んだ。背後から止める声が聞こえるが、耳を貸さない。

 興奮状態の群衆をかき分け、進んでいく。ロックフェスのような熱気だ。体中から汗が噴き出す。

 狂騒の真ん中に、見覚えのある男たちがいた。以前、カフェで見た反対派の若い二人組だ。坊主頭の眼鏡と、鉄仮面の長髪。

 坊主の方は声を張り上げてアジる。彼に呼応して、取り巻きたちも叫び、音が周囲に拡大していく。長髪の男は横にいるだけだが、どことなく指導者のようなオーラがある。

「正しい啓蒙のために、民衆を惑わす推進派を駆逐しろ!」

 彼らの視線の先には推進派の集団がいた。数十人程度なので明らかに劣勢だが、それでも果敢に立ち向かっている。反対派のデモを邪魔するのが目的のようだ。男性の比率が多い反対派に対して、こちらは女性が半数近い。同じ空間に両派がいるのは非常にまずい状況だ。今は言葉での応酬だが、暴力行為に発展しそうな気配を感じる。暴動になったら、取り返しがつかない。

 どのように収束するのか、全く見えなかった。どちらも引き下がらないし、場のエネルギーは増幅するばかりだ。僕は不安になった。光が失われたことで、これほどの混乱が生まれてしまったのだ。しかも、その原因は自分だけが知っている。なんともおぞましい事実だ。僕には世界の責任を背負えない。

 突如として、終わりが訪れた。無思慮な参加者が警察官と衝突し、公務執行妨害で逮捕されたのだ。国家権力の強制力は凄まじく、たちまち一帯の空気は冷めていった。

 デモは自然と散開し、先ほどの熱が嘘のように池袋の街に溶けていった。僕は脱力感に苛まれていた。友人たちと合流する気力がないので、連絡だけ入れて、二軒目には行かず家に帰ることにした。

 シャワーを浴びたあと、パソコンを立ち上げて、反対派について調べる。すぐに、二人の男の素性が判明した。

 坊主の方は岡田公教《きみのり》という名で、二十三歳の東大生。そして、長髪の男、岡田(よう)は二十三歳の医大生で、ともにインテリだ。驚くべきことに、彼らは双子の兄弟だった。容姿は決して似ていないので、二卵性なのかも知れない。

 岡田兄弟はヌーベルバーグを訪れた十六日の夜に、X(Twitter)上で極夜に関する問題を提起し、大反響を呼んだ。そこから一気に反対派の若者たちのカリスマとして台頭したのである。

 偶然なのか、必然なのか。小鈴とヌーベルバーグを起点に、キーパーソンたちと僕は繋がった。沢木、タニコー、岡田兄弟、いずれも世間の注目を浴びる曲者ばかりだ。胃が痛くなると同時に、小鈴のことが気になった。