ヌーベルバーグに行こうと思い立ったのは、二十三時前だった。今日も眠れそうにない。一人で家の中にいるよりも、外の空気に触れている方が生きた心地がする。

 カフェに到着すると、意外な先客がいた。声をかけると、彼女の頬に一筋の涙が流れた。口元が震えている。僕は状況を飲み込めないまま、彼女に並んでカウンター席に座った。

「花波が泣いてるところ、初めて見た。なにがあったんだ」
「なんでもない」
「小鈴と喧嘩した、とか」
「……どうして分かるの?」
「僕も同じだから」
「もう少し、待って。頭を冷やすから」

 僕は首肯して、彼女にハンカチを差し出した。そう言えば、以前、小鈴にも同じことをした。ただし、向こうはプールの水が滴り、こっちは落涙という違いがあるけれども。

 店内を見回す。木曜の夜なのに、客はまばらだ。大抵、日曜から水曜は低調で、最も賑わう金曜と土曜の夜に向けて、木曜に微増する。しかし、今日は週初めの趣きだ。ある意味、花波が話しやすい空間ではあるが。

「バイト終わりに、ふと、ここに寄ってみたの。透夏が来てるかも知れないと思って。そしたら、小鈴さんがいた。透夏と喧嘩したあとのことだったんだね」
「僕の態度が原因で、言い合いになったんだ。その途中で、タニコーのニュースが流れてきて、家を飛び出した」
「私もそのニュースを見てたから、彼女が不憫で、慰めてあげたかった。隣の席に座って、話しかけてみたら、やっぱりすごく落ち込んでたの。最初のうちは他愛のない話をして、気分転換になったのか、少しずつ元気を取り戻したように見えた。だけど、透夏の話題になって、流れが変わった」
「僕の?」
「うん。もちろん、いきなり変な空気になったわけじゃないよ。小鈴さんが高校時代の透夏のことを知りたがって、そこまでは普通に仲良く喋ってたんだけど。……急に、小鈴さんが変な質問をして」
「……」
「どう思ってるのか、聞かれたの。透夏を」

 花波は流し目で、僕と視線を交わす。色気のある表情だった。緊張している自分に気づく。僕が黙っているので、彼女は続けた。

「私は質問に答えて、それから小鈴さんに同じ問いを投げかけた。そしたら、彼女は……」
「気にしないで、言ってくれ」
「小鈴さんは『なんとも思わない』って言ったの。透夏が彼女のために色々悩んでることとか、沢木とコンタクトを取ろうとしてることとか、全然知らないのに」

 花波はまたもや目を潤ませた。その涙を僕のために流してくれているのだと思うと、たまらなく愛おしくなる。

「ありがとう。花波の気持ちだけで十分だ」
「でも、酷いことを言っちゃった」

 彼女は両手で顔を隠して、嗚咽した。次の言葉が出てくるまで、時間がかかりそうだった。僕は何気なくマスターを見る。無意識に助けを求めたのかも知れない。彼はいつもと同じように、淡々と作業をしている。その姿を見ていると、妙に安心する。僕はコーヒーを口に含んだ。

 花波が落ち着くのを待ってから、僕は口下手なりに優しい言葉をかけた。

「僕のために言ってくれたんだから、自分を責めないでいいと思う。花波は悪くないよ。……どんなことを言ったのか、教えてくれたら嬉しい」
「嫌いにならない?」
「なるわけない」
「あなたなんて、この世界に来なければよかった。小鈴さんが現れたから、透夏は迷って、苦しんでる。透夏のずっと胸に秘めてきた想いを簡単に踏みにじらないで。……みたいな感じ」
「小鈴はなにか言った?」
「なにも。悲しそうな顔をして、席を立った。お店を出たんだと思うけど、彼女の方を見れなかった」
「そのあとに僕が来たのか」
「ほとんど入れ違いだったと思う。小鈴さん、どこに行ったと思う?」
「分からない。けど、また戻ってくるよ」

 彼女の手前、楽観的な発言をしてみたが、実際は不安に駆られていた。

「そうだといいんだけど。悪い予感がする」

 もう二度と小鈴に会えないような、そんな気がした。

 その夜、花波はそれほど遅くない時間に兄弟の家に帰り、僕は朝方までカフェで過ごした。一人になると、タニコーのことを考えた。恋人がいるにもかかわらず、小鈴を弄んだ男。許せるわけがない。頼れる人がいないこの世界で、彼に再会して、小鈴は嬉しかったはずだ。その気持ちを裏切った。沢木のように一発殴られても、文句は言えない。そのときは、小鈴の代わりに僕が殴ってやろうと思う。

 行く当てのない彼女が心配だが、探し出そうとするのは悪手なのだろう。子供扱いしている僕に世話を焼かれると、彼女の自尊心は傷つくのだ。だから、戻ってくるまで待つしかない。