午前中はずっと複雑な気分だった。早く会いたい気持ちと、そうでない気持ちが半々だ。彼女が心配だが、一方でどんな風に向き合ったらいいのか。大人なのだから、家に帰ってこないということは、タニコーと一夜をともにしたと考えるのが自然だ。彼女が家のドアを開けて入ってきたとき、なにが妥当な一言目なのだろう。「どこ行ってたの?」とか白々しく聞くのがいいのか。あるいは「心配してた」と思いやりを持って接するべきなのだろうか。

 答えのない問いについて考えていると、次第に堂々めぐりになってくる。そして、たまに突拍子もない発想が生まれたりする。……タニコーとこの世界で幸せになる彼女を応援したらいいのではないか。そんな聖人みたいな考えが正しいように思えてくる。

 花波からのLINEで我に返る。

―昨日は楽しかったね
 小鈴さんとは大丈夫?(12:33)
―(12:34)まだ帰ってない
―(12:34)別の話だけど、沢木が小鈴を探すのをやめさせようと思ってる

 勢いで送信してしまった。小鈴が帰らないことに関して話すのが気まずかったからかも知れないし、単純にさっき降りてきた思いつきを聞いて欲しいと思ったのかも知れない。

―本気で言ってるの?(12:35)
―(12:35)知り合いだから

 花波から電話がかかってくる。確かに、会話した方が手短な説明で済みそうだ。

「沢木と知り合いってどういうこと。唐突すぎて、話が見えない」
「言葉の通り、面識がある。小中学校が一緒で、同級生なんだ」
「関係は良好なの?」

 彼女が言葉に詰まったのは、僕がいじめを受けていたことを知っているからだ。親しくなったばかりの頃、中学時代の楽しかった思い出みたいな話題で、打ち明けたのだと思う。「中学校は楽しくなかった」という文脈の中で。ただし、そのときは詳細を話さなかった。場が暗くなるのが嫌だったから。花波も無理に聞き出そうとしなかった。

「全く。僕をいじめてた張本人だから」
「そんな人を説得するのは難しいよ」
「そう思う。けど、やってみたいんだ」
「小鈴さんになにかあったの?」
「いや、昨日から会ってない」
「それなら、なおさら透夏が頑張る意味が分からない。谷村さんに責任を取ってもらえばいいじゃん。沢木も彼も有名人同士なんだから」
「タニコーがそこまでの人物ならいいんだけどね。どんな人か、どれくらい小鈴のことを考えているかも、僕には分からない」

 少しばかり沈黙が生じる。花波は静かなトーンで言った。

「透夏は小鈴さんのことが好きなの?」
「そうなんだと思う、自分でも不明瞭なんだけど。少なくとも十二歳の頃から、プールの中に消えた彼女のことをずっと考えていた。年上の小鈴が好きだった。だけど、同じ十九歳として現れた彼女については、そういう風に見ていなかった。最初のうちは」
「今は?」
「段々と境界がなくなって、混同するようになった」
「谷村さんと結ばれてるかも知れないのに」
「小鈴がそれを選ぶなら、仕方ない。僕はせめて彼女の障壁を取り除いてやりたい」
「理解できないよ。私は透夏に傷ついて欲しくない」
「平気だよ。沢木は嫌いだけど、いじめは乗り越えたし、僕も変わった。沢木だって今の立場があるから、変なことはしないはず」
「……」
「また連絡する」
「うん」

 電話を切って、すぐに白井(しろい)(りょう)へメッセージを送る。小中学校を通して、唯一の友人だ。彼なら沢木の連絡先を知っているに違いない。

 白井は高校も別で、今は地方の国立大学に通っているが、定期的に連絡を取り合っている。沢木のターゲットになり、誰もが僕と関わることを避けていた時期に、彼だけはフラットに話しかけてくれた。クラスメイトどころか、学年全体が恐怖していた沢木に対して、彼は臆していなかった。勉強もスポーツもできて周囲から一目置かれていたから、中立的な立場を貫くことができたのだ。

 一時間後、白井から返信が来る。沢木の連絡先を知りたい理由を聞かれたので、「友達が沢木のせいで困ってるから、助けたい」と答えた。彼はさっぱりした性格なので、なにも言わずに教えてくれた。「夏休みはこっちに戻らないのか?」と話を振ると、「当分、戻らない」と返ってきた。彼が高校生のとき、父親の浮気が原因で、両親は離婚している。「千葉には嫌な思い出がある。できるだけ遠くに行きたい」と、彼は地方の大学を選択した。しかも、向こうで就職し永住するために職に困らない医学部に入るという徹底ぶりだ。

 白井に「今年中に、そっちに遊びに行く」と送ってから、沢木への連絡文面を作る。

 当たり前だが、なかなか苦戦した。内容によっては見向きもされない可能性がある。沢木に会って、直談判することが目的だ。そこで、「探している人をよく知っている」と書くことにした。どうしても長文になるので、文章をかなり削って、百文字以下にした。

 十五時に送信ボタンを押した。携帯を持つ手が汗ばんでいた。

 即座に反応があることを期待したが、そんな気配はなく、気がつけば夜になっていた。