八月十六日は特に予定が入っていなかった。朝方に帰宅したあと、眠れなかったので、久しぶりに読書をした。

 どうやら、僕の体はおかしくなってしまったようだ。小鈴が来た夜から、これまで僕は一睡もしていない。不眠症の域を超えている。普通の人間なら、正常ではいられないはずだ。極夜と同じで、異変が起こっているのだろう。本来なら気が狂いそうな状態なのに、妙に冷静でいられるのは、あまりにも変な出来事が続いているからに違いない。このことは誰にも言わないでおこうと思った。

 小鈴が起きたのは昼前だった。僕はマスターに言われた通り、自然な言動を心がけた。すると、彼女も同様に、何事もなかったかのように対応してくれた。

 ……と、思ったのだが。

 家で昼食を食べていると、小鈴は僕の顔を見てニヤニヤし始めた。

「なに?」
「初恋の人がわたしだったなんて、なんか可愛いなって思って」

 ド直球で昨日の話題に言及したので、僕はむせた。

「デリカシーってものがないのか」
「昨日の帰り道はさすがのわたしでもちょっと気にしたけど、一晩寝たら関係ないでしょ。それより、これまで誰かと付き合った経験はないの?」
「ないよ。誰とも」
「告白されたことは?」
「高校生のときに二回」
「分かった。一人はかなみんだ。もう一人はどんな子だったの?」
「花波じゃない。一人はバイト先の別の高校の子で、もう一人はクラスメイト」
「どうして付き合わなかったの」
「別にそういう風には見てなかったから」
「付き合ったら、好きになるかも知れないじゃん」
「僕はそんなに達観していない。そういう小鈴の方はどうなんだ」
「わたしも誰とも付き合ったことないよ。タニコーが初恋の人って言ったじゃん」
「そしたら、同じじゃないか」
「うん、わたしたちは似た者同士みたい」

 僕たちは同時に笑った。彼女の笑顔を見るのはしばらくぶりだ。胸のつかえが取れて、冗談を言う余裕ができた。

「初恋に囚われてる同盟で、どこかに出かける? 僕も特に予定ないし」
「いいね。渋谷とか、今はどんな感じになってるか見てみたいかも」

 いつの間にか、二人の雰囲気は元通りになっていた。小鈴は不思議な力を持っている。学校で死のうとしたときも、気づいたら彼女のペースに引き込まれていた。コミュニケーション能力とか会話力とかとは別の才能なのだろう。

 夏休みの渋谷は人が多かった。空が暗いことなんて、全く関係ないようだ。僕たちは適当に新しめの施設に入ったり、七年前にはなかった流行のグルメを食べ歩きした。それから、小鈴が表参道方面に行きたいと言うので、徒歩で向かった。

「みんな真っ暗でもちゃんとお洒落してるから、見てて楽しいね」

 彼女の何気ない一言に、僕はハッとする。彼女は追加で購入したユニクロのTシャツとショートパンツを着用していた。

「もしかして、今のトレンドの服を着てみたい?」
「あっ、そういう意図じゃないよ。お金もないし、ユニクロも結構いい感じだし。でも、なんか嬉しかった、今の。わたしのこと、考えてくれてたんだ」
「羨ましそうな顔で見てたから」
「それじゃあ、せっかくだからお店を見てみようかな。買わなくても、一緒に行くだけで面白そうだし。付き合ってくれる?」
「もちろん、行こう」

 僕たちは青山―表参道―原宿エリアを歩いて、いくつかの店に入った。小鈴は生き生きとして、今だけはタニコーのことを忘れているように見えた。
「男の子の服は九十年代のストリートをリスペクトしてる感じだけど、女の子のトレンドはもうちょっとあとの時代かも。ミニ丈&へそ出しとか」
「かつてのギャルファッションのリバイバルらしい」
「開放的で楽しそう。真夏の太陽の下で、ああいう格好をしたら最高に気持ちいいと思う。ていうか、透夏ってお洒落だし、結構ファッションに詳しいよね」
「周りに好きな人が多いから、ほどほどに」
「ちなみに、普段はどんなところで服を買ってるの?」
「古着が多いかな。今着てるシャツもリーバイスもそうだし」
「古着、いいかも。トレンドの服は可愛いんだけど、なんかしっくり来なくて。つい外しを求めてしまう、わたしの天邪鬼な心を満たしてくれそう」
「この辺は古着屋が多いから、見てみる?」

 小鈴は子供のように目を輝かせて、大きく頷いた。僕は続ける。

「それと、古着ならそんなに高くないし、気に入ったものがあったらお金貸すよ」
「甲斐性なしのタイムトラベラーでごめん」
「気にしなくて大丈夫」

 結局、古着屋を回って、Tシャツと短い丈のデニムスカートを購入した。Tシャツは裾を結ぶかリメイクするかして、へそ出しで着こなす予定らしい。

 夕方になり、近くのスターバックスに入った。フラペチーノを飲みながら、小鈴は上機嫌に言った。

「デートみたいだったね、今日一日」

 僕も同じことを考えていたが、微妙にはぐらかした。

「気分転換になった?」
「うん、すごく楽しかった。わたしたち、相性がいいのかも。変なこと言うけど、もし同級生として生まれてたら、恋人になってた可能性もあるんじゃない」

 反射的に、僕は弱気な発言をしそうになった。卑下するのが癖になっている。感情を飾るのは得意なはずなのに、彼女の前だとちっともコントロールできない。差し障りのない相槌を打つのが精一杯だった。

「そうかも知れない」

 そんな僕の葛藤はつゆ知らず、マイペースな小鈴は新しい話題に移行した。

「恋人で思い出したんだけど、同じクラスの子の彼氏がタニコーと同じ軽音サークルに入ってるの。そっちの方がタニコーのバンドより人気あるんだけど、今はどうなってるんだろう」
「なんてバンド? 調べてみる」
「tapirだったかな」
「……動物のバクのことか」

 と、僕は検索しながら呟いた。「バンド」を入れると、Twitterのアカウントが出てくる。ツイートを確認すると、思いもよらない情報が目に入った。

「今日、解散ライブをするらしい」
「マジ? どこでやるの」
「渋谷、宇田川町。当日券もある」

 見に行きたいと顔に書いてあるので、僕はチケットの情報まで伝えた。案の定、そういう流れになった。

 開演は十九時なので、渋谷に移動してから、軽く夕食を食べた。その間、バンドについて調べる。

 tapirは四人組のロックバンドで、ベースのみ女性だ。大学の軽音サークルで結成してから、メンバーの入れ替わりはない。小鈴のクラスメイトの彼氏はギターボーカルで、彼の中性的な声がバンドの特徴らしい。それなりにキャパのある老舗のライブハウスで解散ライブをするだけあり、一定数のファンを獲得しているようだが、悪く言えば、突き抜けてはいないのだろう。同じサークル出身のタニコーと比べると雲泥の差だ。

 開演の十五分前に会場に到着し、当日券を二枚購入する。意外にも観客は多く、活気づいていた。見た感じでは、二十代が一番多く、やや女性の方が多い印象だ。

 ライブはしっかりと盛り上がり、小鈴も僕も楽しんだ。曲も演奏もよく、解散しなくてもこのままバンドを続けていれば、どこかでブレイクする可能性もありそうだと思った。

 終盤、ボーカルが解散理由を告げた。「メンバーのステップアップのため」というありがちな話をして客を一回がっかりさせたあと、
「というのが表向きの理由。実際はそんなわけない」と続けた。

「落日、というか谷村への嫉妬で焦燥感が半端なかった。徐々に、メンバー同士に軋轢が生まれたんだ。大学の仲間で始めたバンドだから、これ以上一緒にいることで、友達ですらなくなるのが嫌だった」

 ボーカルの率直な告白はファンの心を揺さぶった。今日までこのバンドの存在を知らなかった僕ですら同情した。もしタニコーが聞いていたら、どんな気持ちになるのだろうか。

 終演後、小鈴は考え事をしているようだった。他人の未来を覗き見するのは、あまり気持ちのいいものではない。彼女にしてみれば、同世代の青春の終わりを目撃して、メランコリーに襲われたに違いない。

 ライブ会場を出て、駅の方に歩き出す。すると、突然、小鈴が後ろを振り向いた。彼女の肩には男性の手が置かれていた。

「小鈴……なのか?」

 身長は僕よりも五センチほど高く、パーマのかかったミディアムヘアをしている。眼鏡とマスクで顔を隠していても、僕はその人物が誰であるかすぐに分かった。多分、小鈴も同じだと思う。しかし、彼女は黙っていた。

「俺だ。谷村だ。分かるだろ」

 彼はまずマスクを取り、そのあと、眼鏡を外した。やはり、タニコー本人だ。

 小鈴はようやく反応した。

「……うん、わたしだよ。ライブを見てたの?」
「一緒にしのぎを削ったライバルの最後のライブだから。それより、教えてくれ。お前は本当に小鈴だよな。どうしてずっといなくなってたんだ。行方不明になって……見つからなくて。みんな、お前が死んだと思ってた」
「詳しくは言えないけど……」

 小鈴は僕の方を見てから、「記憶喪失になってた」と言った。

 タニコーが初めて僕に視線を向ける。彼が質問をする前に、小鈴は僕を紹介した。

「透夏は七年前からの知り合いで、わたしの恩人」
「分からないことばっかりだ。あの頃と見た目が全く変わってないし、記憶喪失だとしても今までどこで生活してたんだ。これからどこかで話さないか」
「ごめん、今は心の準備ができてない。今度じゃ駄目?」
「連絡先を交換しよう」
「携帯、持ってないの。電話番号を教えて」

 タニコーは再び僕を見る。その眼差しには敵意が感じられた。彼はバッグからペンとメモを取り出し、電話番号を書いて、小鈴に渡した。

 そのとき、背後から女性の声が聞こえた。

「あの人、落日のボーカルのタニコーだよね」

 あっという間に、声が複数になり、多くの人が集まってきた。さらに、野次馬の一人が小鈴の存在に気づいた。

「一緒にいる子、沢木勇吾が探してる女じゃないか?」
「どうして一緒にいるんだ」
「写真撮って週刊誌に売ろう」

 と、口々に騒ぎ始めた。早くここから逃げた方がいい。僕は小鈴の手を引っ張り、駆け出した。

 渋谷駅の半側の方へ走る。後ろから何人か走って追いかけてくる。小鈴は息を切らしながら言う。

「このままじゃ、追いつかれるよ」
「自転車とか見つけたら、乗って逃げてくれ」
「待ち合わせはどこ?」
「代々木公園駅!」
「分かった!」

 彼女は瞬発的に右前を歩く男性に突進した。そして、彼が左手で持っていたスケボーをかっさらうと、そのまま井ノ頭通りの方へ消え去った。スケボーは盲点だったが、乗れるなら得策だ。代々木公園まで緩い坂道になっているので、一度加速すれば追いつかれる心配はない。

 問題は僕だ。何人かのうち、二人ほど僕を追跡している。捕まえたところで、全く意味はないのに。神山町を道なりに抜けて、富ヶ谷の住宅街に逃げ隠れた。

 追手を振り切ったことを確認すると、富ヶ谷交差点の方から遠回りをして、駅に向かった。

 小鈴は余裕綽々で僕の到着を待っていた。汗まみれの僕とは対照的に、彼女は随分と爽やかだった。