思春期の到来はいつでも唐突だ。身体的な変化で気づくこともあれば、精神的な変化で気づくこともある。前者はパターンが決まっているが、後者はバリエーションが無数に存在する。

 ある友人は放課後の教室で同級生から性の秘密を教えてもらった瞬間に思春期を迎えたと言っていた。別の友人は高齢出産だった母親の手のしわを見て、老いの残酷さを知ったことが原因らしいし、年上のいとこは警察に職務質問されて、大人や社会正義に嫌悪感を覚えたときだと話していた。

 僕の場合、小学六年生、つまり十二歳の夏の夜に、思春期の扉が出現した。それはあまりに鮮烈な体験だった。

 ある女性と出会い、別れ、僕は大人への階段を登り始めるのと同時に、重度の不眠症を患った。

* * *

 あれから僕は七年の歳月を生きて、その分だけ成長した。小柄だった身長もまあまあ伸びて、今では一七五センチあるし、初恋の女性が隣に座っていても、冷静を装うくらいの心の強さを持っている。もしこの再会が平凡な人生を彩る定番のイベントなら、きっと彼女を口説くことだってできたと思う。

 しかし、残念ながら僕の人生はところどころ普通じゃない。だから、彼女を口説くどころか、状況を整理することで精一杯だ。

 横目で彼女を見る。やんちゃな印象の猫っぽい目。忘れもしない、美しい横顔だ。アッシュブラウンに染めたショートボブの髪型で、インナーカラーは淡いピンク。高校の制服の白いシャツとチャコールグレーのスカートに、足元は真っ赤なオールスターのスニーカーを合わせている。やはり、僕の認識に間違いはない。

「どこから突っ込めばいいかな」

 と、とりあえず僕から口火を切ってみる。

「そんなに突っ込みどころはないと思うけど」
「えっと、じゃあ全部言ってみるけど……。まずは、どうしてびしょ濡れなんだ。ここはカフェで、シャワールームじゃない。それから、手に血がついている。ここは落ち着いたカフェで、格闘技の会場じゃない。最後に、七年前の夏、中学校のプールで消えた君が、なんでそのままの姿でこの世界にいるんだ」

 くりっとした目をこちらに向けて、彼女は微笑む。

「なるほど、じゃあ君は透夏(とうか)なんだ、わたしと同じ年の。イケメンになったじゃん」
「僕の名前が分かるってことは、やっぱり君なのか」
「うん。どうやら、タイムスリップしたみたいだね」

 彼女は平然と言い放ち、マスターが出したコーヒーを優雅に飲んだ。

「順を追って聞きたいんだけど」
「その前に。ここが七年後の世界で、十九歳の透夏が目の前にいるということは分かったけど、今は何月何日の何時なわけ」
「八月十二日、深夜二時十五分。君がプールの中に消えた日と同じだ」
「ということは、本当にちょうど七年後の同じ時間に来たんだね。透夏と学校で出会ったのは一時。わたしがプールに飛び込んだのは多分、一時半くらい。この世界に来てから、一時間も経っていないと思うから、計算も合う」

 七年前の今日、小学生の僕は近所の中学校に忍び込んだ。ある目的のため、非常階段を登っていたら、プールサイドに人影を見つけた。それが彼女だった。彼女の方も僕の存在に気づいて、手を振りながら、こっちに来るように言った。美大生なのに高校の制服を着た変な女は妙に優しかった。僕たちはプールサイドに座って、話をした。しばらくして、彼女は立ち上がり、「夏を感じてくるね」と呟いて、プールの中に飛び込んだ。そして、そのまま消えてしまった。

 これが彼女と僕の関係のすべてだ。彼女は当時、僕に名前を尋ねたので、黒羽(くろばね)透夏(とうか)という名前を知っていたのだけれど、僕の方は彼女の名前さえ知らなかった。十九歳の美大生、彼女の情報はそれだけだった。

「ところで、どうして透夏はこんな夜中にカフェでコーヒー飲んでるの」
「眠れないから、気を紛らわせるために」
「素敵なお店」
「気に入ってるんだ」

 大学生になり、一人暮らしを始めてから、いよいよ不眠症が悪化し、僕は深夜に散歩するようになった。そこで偶然見つけたのが、この名前のないカフェだ。三十代前半のマスターが真夜中だけ開く風変わりな店。アルコールを提供しないから柄の悪い客もいない。静かで居心地がよく、家からも近いので、頻繁に通っている。

「話を戻すけど、君がプールにダイブしたあと、どうなったのか教えて欲しい」
「わたしも曖昧なんだけどね。水の中に入ったら、真っ暗になって、意識が吸い込まれるような感じがした。それで、気づいたら、ずぶ濡れの状態で、このカフェの前に座ってた。もちろん、店の中に透夏がいるなんて分からないから、そのまま街の中を散策したの。で、なんとなく池袋のあたりだ、って気づいたところで、声をかけられて」
「ちょっと待った。散策って、そんな姿でうろついてたら、まずいと思わなかったのか」
「どうして。プールから街なかにワープしてる方がまずい状況だと思わない」
「そうだけど……」
「で、輩に絡まれたの。三、四人くらいでナンパしてきて、ボスっぽい奴が強引に体を触ってきたから、全力で殴って、逃走してきたというわけ」

 彼女はあっけらかんと言った。僕は唖然として、彼女の拳に付着した血液を見る。

「それじゃあ、それはナンパ男の返り血ということなのか」
「うん。でも、危なかった。体を鍛えてる感じだったから、捕まったらヤバかった」
「なんでそういう男を殴るんだよ」
「咄嗟に手が出るタイプなんじゃないかなぁ」
「他人事みたいだな。それでここまで戻って、店の中に入ったのか」
「そういうこと。そしたら、かっこいい男の子がタオルハンカチを差し出してくれたから、隣に座ったという流れ」

 彼女が自分をかっこいいと表現したことに、動揺を隠せなかった。僕は彼女から目を逸らし、マスターの方を見た。

 店内には僕たちしかいないので、会話はすべて聞こえているはずだが、こちらに全く意識を向けずに、黙々と作業をしている。

 すると、彼女はいきなりマスターに声をかけた。

「質問!」

 少し遅めの反応で、彼は僕たちの方を振り向く。

「自分ですか?」
「そう。どうして、こんな時間にお店を開いてるの。バーならともかく、深夜営業のカフェなんてお客さん来ないでしょ」

 失礼な発言に対して、僕は割って入る。

「意外といるんだよ。今日はたまたま誰もいないけど」
「どんな人に需要があるのよ」

 マスターは笑みを浮かべる。

「例えば……不眠症(インソムニア)

 一瞬、静寂が生まれる。僕は彼に続ける。

「僕みたいな人は結構いるんだよ。マスターに絡むのもいいけど、まだ君に聞きたいことがある」
「なーに?」
「君の名前だ」

 彼女は間抜けな表情を浮かべた。

「あれっ、言ってなかったっけ」
「七年間、ずっと知りたかった」
「長いなぁ」

 実際、途方もなく長い時間だった。思春期の間、僕は闇雲に彼女を探し続けた。妄想の中で、彼女の名前は何度も変わった。

 どうやら、それは無駄な試みだったようだ。なぜなら、僕の予想は完全に外れていたのだから。

「……小さいに、鈴で、小鈴(こすず)

 僕は「よろしく、小鈴」と言った。奇妙な感動が、胸の中に響いていた。