目の前の紙を見て、思わずため息をついた。
ーー進路希望調査。
毎年毎年、私を苦しめ、困らせている進路。自分の将来の姿なんて、想像できるわけがない。
「それは、再来週までに提出。進路のことだから、提出期限は守れよ」
ざわざわとする教室で、声を張り上げながら担任が言う。
私の担任は体育の先生で、うるさいくらい声がでかい。なのに教室が静まる気配は一向になかった。
「あ、それと、適当に書くなよ。よくサッカー選手とか書いてるやついるけど、まあそれはそれでいいんだが、ちゃんと考えて書け。もう高2だぞ」
ーーちゃんと考えて書け。
ふざけてんの?
そう言いたくなった。
だって、ちゃんと考えている人は考えている。サッカー選手になることが、どれだけきつくて厳しいか。プロの世界は甘くないということだって、わかっていると思う。
毎日毎日練習して、基礎から鍛えて、体も作って、全国優勝をしたことがあるような人でさえ、なれるかわからないというのに。
もちろん、サッカーが好きだから、進路希望調査にはサッカー選手と書いておこうかな、という人はいると思う。
それはそれでいいと思うけど、周りにちゃんと考えろと言われるのは無理もない。
だけど、ちゃんと考えているのに、考えている上で書いたのに、それを否定するのはおかしい。
本気でなりたくて書いているのに。なのに、どうして否定されないといけないんだろう。
「いいか?現実的な夢を書くこと」
なんでそんなに縛られないといけないの。自分がどんな夢を見ても、自分の自由じゃない。
自分ができると思ったら、きっとできる。
私はそう信じている。

とはいえ、私はそんな強いわけじゃない。心の中ではどんなに反論できても、その言葉が口に出ることはない。
私は、自分の夢を親に反対されている。
中学生のとき、思い切って話してみたことがある。やはり、自分の将来について相談したいと思ったから。
笑われるかもしれない。ばかにされるかもしれない。
でも、私の親だから。だからきっと、笑わないで私の話をちゃんと聞いてくれるはず。
そう思って話した。
『なに言ってるんだ?』
『ちょっと、おかしくなっちゃったのかしら』
ーー私の夢は、歌手だった。
幼い頃から歌うことが大好きだった。よくカラオケに連れていってもらったり、家族や親戚の誕生日会などでは、歌を披露していた。
『真依ちゃんは、きっとプロの歌手になれるよ』
私が歌うたびに、みんなはそう言って褒めてくれた。
『ほんと?じゃあ、CDとか買ってね!』
『あはは!絶対買うよ。百枚くらい買っちゃおうかな』
そう言ってくれたから、私は本気でプロを目指そうと思った。
音楽の勉強をした。作詞も自分でしてみた。さらには作曲もして、ためしに歌った。
歌手について調べた。アルバムについて調べた。CDについて調べた。
中学になる頃には、もうカラオケで高得点を出せるようになっていた。
友達と学校帰りにカラオケに行くと、褒めてもらえた。嬉しかった。
そして言われた。
『真依なら、絶対なれるよ!』
と。
だから進路希望調査に、なりたい職業の欄に書いた。
〈歌手〉
と。
堂々と、大きな字で。
自分の夢を語るのは、とても勇気がいった。紙を持ってリビングに降りるのはとても緊張した。
『ねえ、聞いてほしい』
ふたりはそれぞれしていたことをやめ、私と向かい合った。
『私、歌手になりたいの』
震える声だった。でも、精一杯言った。
だから大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
きっと親はわかってくれる。どんなときも味方でいてくれる。
『は?』
『待って、真依。あなた、ほんとに言ってるの?』
ふたりは顔を見合わせて笑った。そんなのなれるわけがない、と。
バケツの中の水をかけられたような気分だった。
崖から谷底に落とされた気分だった。
裏切られた気分だった。
そのくらい、ショックだった。
自分の夢を馬鹿にされ、なれないと断言され、本当にショックだった。
でも、そのときはそんなのどうだってよかったらしい。
そのときの私は、親が自分の味方じゃないとわかって、悲しんだ。絶望した。
だけど私は言い返せなかった。強くないから。親の言ったことを否定できるほど、強くないから。
『……だよね……。あはは!なれるわけないもんね!』
そう言って部屋に逃げ込んだ。
ドアを乱暴に開けて閉め、ベットにうつ伏せになった。
何時間泣いたかなんてわからない。
泣き終わったあとーー涙が枯れたときには、枕がびちゃびちゃだった。

そんなことを思い出しながら、今日の担任の言葉を思い出す。
あの言葉は、本気で目指している人に対して、とても失礼な言い方だ。
バックの中から進路希望調査書を取り出し、見つめる。
〈なりたい職業〉
そう書いてある欄を見つめ、正直に書くべきか迷った。
ーーもう、あんなふうに、味方がいなくなるのは嫌だ。
それが、今の私の本音。
だからペンをとり、
〈未定〉
と書いた。
そう書くだけなのに、ものすごく手が震え、罪悪感を覚えた。

「お願いします」
朝、担任が教室に入ってきた瞬間、紙を提出した。自分の気が変わらないうちに。
「おお、早いな。ちゃんと考えたのか?親とも相談したか?」
なんとも答えきれず、私は苦笑いで誤魔化した。
最初は満足そうに見ていた先生だったが、なりたい職業のところで、その顔が一変した。
「伊ノ戸、なるべく未定は書くな。もう高2なんだぞ?そろそろ本気で、将来のこと考えないと。あとで新しい紙やるから、もう一度検討してこい」
はい、とプリントを突き返され、担任は別の生徒のところに行き、話し始めた。
私はその場で立ち尽くすしかなかった。
だって、どうしろっていうの?
本当のことを書いたら、また親に笑われる。どうせ、友達だって、先生だって笑うだろう。「なれるわけがない」と。
なのに、検討してこいなんて。
ーー限界だった。
「えっ」
だけど、そう声が出てしまったのは、急に手首を掴まれたから。
そのまま教室を出て、東階段を駆け上がり、屋上のドアをバンと開く。
「うわぁ……」
こんなにもきれいな世界があったなんて。
どこを見ても、青しかない。空しかない。私の視界を遮るものはなにもなかった。
ただただ、青がどこまでも広がっていて、本当にきれい。
「それで?」
だけど唯一、遮るものがいた。
「なにになりたいの?伊ノ戸は」
ーー夢咲漣。
今年初めて同じクラスになった、クラスメイト。一重だけど、大きくてきれいな、まっすぐな瞳。その瞳に吸い込まれそうになり、口が動いた。
「……か」
つい挑発に乗ってしまいそうになった。
ここで言ってはだめだ。彼がどれだけ誠実な人間かは知らないけど、こんなのを聞いたら、笑うに決まっている。
「ホームルーム始まる……から、もう行かなきゃ」
本当は、ホームルームが始まるまで、あと20分以上ある。
だけど、ここにいたら私の答えをずっと待たれる気がしたのだ。
「答えになってないけど」
冷ややかな声。ドアノブにかけていた手を、思わず離してしまう。
「あるんだろ?伊ノ戸にもさ、夢が」
「……あるよ」
「じゃあ言えよ。俺が聞くから。否定せずに、馬鹿にせずに、聞くから」
何度そう言われてきたことか。
『馬鹿にしないから』
『誰にも言わないから』
『否定しないから』
そんなの、何回も聞いてきたっての!
なのに、その度に、裏切られてきた。今更信じられるわけがない。
「そんなの無理だよ。私の夢は、必ず否定される。笑われる。馬鹿にされる」
「ふーん」
自分から聞いてきたくせに、興味もないような返事をされて、イラッときてしまった。
「じゃあ、その夢諦めるわけ?」
「諦めるとか言ってないでしょ。諦めてるんじゃない。言いたくないだけ」
「人に言えないで、どうやってなるんだよ」
確かに、と思った。
人に言わないで、どうやってなるつもりだったんだろう。プロの世界は甘くないというのを、誰よりもわかっていたはずだったのに。
「私は……」
嫌だ、言いたくない。また馬鹿にされる。笑われる。自分の夢を否定される。
「歌手に……なりたい」
あぁ、言ってしまった。
中学のときに親や友達に言って以来、誰にも言っていなかった。同じ中学の人は、この高校には少ない。だから、ほぼ誰も私の夢を知らないだろう。
「へえ、いいじゃん」
てっきり馬鹿にされると思っていたのに、彼の口から出たのはそれだけ。
思わず自分の耳を疑ってしまう。
「それで、進路希望調査には?」
「……未定」
「なんで」
「なんでって……。だって先生からは絶対否定されるし、親に見せたら笑われるし、友達に見られたら、頭おかしいんじゃないのっていう目で見られるし」
「だから未定って書いたわけ?」
「うん……」
そこから沈黙が流れた。
そして、彼が言った。
「ーーいいじゃん。否定されても」
思わず、は?とつぶやいてしまった。
否定されてもいい?なに考えてんの。
「笑われてもいいじゃん。変な目で見られてもいいじゃん。そんな理由で、夢諦めていいわけ?」
だから、諦めてるんじゃないって何度も言ってるでしょ。
でも、そう思ったけど、そんなことは言わなかった。
だって、彼の瞳が、言葉が、あまりにもまっすぐだったから。
彼の瞳が、言葉が、あまりにもきれいだったから。
「伊ノ戸は、絶対歌手になりたいの?」
「うん」
「じゃあ、誰になに言われても関係ないだろ。先生がお前の人生決めるんじゃない。親が決めるんじゃない。俺でも、友達でもない。決めるのは自分だから。親とか、先生とか友達は、お前の生き方にアドバイスするだけ。その言葉に左右されるときもあると思うけど、結局決めるのはお前自身だから」
苛立ちなんてなかった。
そんな感情があることすら忘れていた。
そうだ。決めるのは自分なんだ。誰になんて言われたっていい。否定されたって、そんなの関係ない。
自分が生きたいように生きていい。
「新しい紙もらうんだろ?じゃあその紙にちゃんと書けよ。『歌手』って」
「うん」
私の返事を聞いた彼は、満足そうにうなずき、屋上をあとにしようとした。
「ねえ!」
もう彼とは話さなくなってしまいそうだったから、私は大きな声で呼び止める。
「ん?」
「なんで、私にこんなことをしてくれたの?」
「教えない」
いたずらっぽく笑い、彼はドアノブを回す。
「でも、いつか絶対わかると思う」
今まで誰のことも信じなかった。信じられなかった。
だけど、彼のことは信じられる気がした。そして、いつかきっと、わかる気がした。

「伊ノ戸、これ」
夕方のホームルームが終わり、帰る準備をしていると、担任から進路希望調査書をもらった。
「期日までまだまだあるんだから、時間いっぱい考えなさい。それでもわからなかったら、未定と書いてもいい」
「はい」
私の心は決まっている。もう、歌手以外、なにも書かない。

「ねえ。これ、読んで印鑑押しておいて」
キッチンで洗い物をしているお母さんに、私は進路希望調査書を見せる。
お母さんは一瞬ちらりと見たけど、深く内容までは見ていないみたい。
私は机に置いて、部屋に戻った。
夕飯の時間に降りていくと、両親がふたりして神妙な顔をしていた。
ご飯の匂いはするのに、机に用意されていないということは、これから私の進路について話し合いがあるのだろう。
「真依、歌手になりたいってなんなの?」
まず、お母さんが呆れた声で言った。
「中学のとき、一度話したことがあったよね?私、歌手になりたいの」
震えた。あのときと一緒なくらい震えた。
でも、あのときと今は違う。
夢咲漣という味方がいる。だから、両親が了承してくれてなくても、夢咲くんが味方でいてくれるはず。
「なに言ってるの」
わなわなとしているお母さんの声も、震えていた。
「歌手なんて!歌手なんてね、選ばれた人しかなれないのよ!どんなにうまくても、どんなに練習しても、それでもなれる可能性なんて、1パーセントもないっていうのに!」
家中に響き渡る、悲鳴のような声。
今までは、そんな声にびくびくしていた。だけどもう、私は堂々としていられた。
「そんなのわかってる。歌手を目指してるくらいなんだから、わかってる。だけど、辛くても、私は歌手になりたいの。歌手になるという夢を、諦められないの。夢を咲かせたい」
こんなに両親と向き合う日が来るなんて。
これも全部、夢咲くんのせいだ。彼が、私を変えてくれたから。あのまっすぐできれいな瞳と言葉で、私を変えてくれたから。
「そんなこと、口だけだったらなんとでも言えるのよ!歌手になりたいなんて……。一体どこで育て間違えたの……」
「育て間違えたなんて言わないで。お母さんはなにも悪くない。お父さんも、私も、誰も悪くないんだよ。歌手になりたいって思う私の気持ちが悪いの」
それでも顔を覆って嘆いているお母さんに、私は続けて言う。
「だから、育て間違えたなんて言わないで。そんなこと言われたら、悲しくなる」
お母さんは顔を覆ったまだった。