「杉本さん」
 放課後。エリナと一緒に昇降口に向かって歩いていたあたしは、誰かに呼びとめられて足を止めた。振り返ると、顔にはなんとなく見覚えがある、同学年らしき男子生徒が立っている。
「何?」
 首を傾げると、彼がくしゃりと前髪をかきながらはにかむように笑った。
「あの、ちょっとだけ話す時間ない?」
 彼がそう言った瞬間、隣にいたエリナがにやりと笑いながらあたしの腕を肘で小突いた。
「悪くないじゃん。あたしに気にせず、行ってきな」
 あたしの腕を小突きながら、エリナが小声で囁く。彼女はどうやら、あたしに声をかけてきた彼の用件を「告白だ」と踏んだらしい。
 軽く苦笑いを浮かべながら、目の前に立つ彼をさり気なくチェックする。首を若干後ろに倒して見上げないといけないくらい背が高いけど、エリナのいう通り見た目の雰囲気は悪くない。
 ぼんやり彼のことを観察していると、エリナがあたしの肩を軽く叩いた。
「あたし、先に帰るね」
 そう言ったあとに、あたしにだけにやりと笑って見せながら「報告待ってるよ」と囁いていくのを忘れない。
「時間、大丈夫?」
 エリナの姿が遠ざかるのを確認してから、彼があたしに訊ねてくる。一人で取り残されたあたしは、「じゃぁ、あたしも帰ります」とも言えず。とりあえず、小さく頷いた。
「ここじゃ話しにくいから、移動してもいい?」
 彼がそう言って、廊下の向こうを指差す。あたしは小さく頷くと、歩き出した彼から少し距離を置いてその後ろをついていった。

 彼があたしを連れて行ったのは、体育館の裏だった。もう部活が始まっているのか、体育館からは部員たちの掛け声とボールが床に叩きつけられて弾ける音が聞こえる。
「ごめんな、急に呼び出したりして」
 あたしと向き合うと、彼がそう言って感じよく微笑んだ。
「いえ、別に」
 彼に愛想笑いを返して、首を軽く横に振る。
「俺、二年の河野(こうの)。杉本さんて、今彼氏いないんだよね。よかったら、俺と付き合わない?」
 河野と名乗った彼の言葉に、どこか違和感を覚える。けれど、あまりにあっさりと「付き合わない?」という言葉を投げかけられたせいで、深く考える間もないままにその違和感は意識の隅を通り過ぎていった。
 これって、一応告られてる……、んだよね……?
 気持ちは嬉しいけど、あたし、年上にしか興味ないしな。
 ただ、年上ではないけれど、あたしの前に立つ彼は背が高くて、見た目だってそれほど悪くない。とりあえず今すぐ彼氏が欲しい! って状況なら、オッケー出すのもアリなんだろう。
 どう答えたものか。返答に迷っていると、彼が一歩近づいてきてあたしの手首をつかんだ。
 突然のことに驚いて後ずさると、彼があたしを引き戻す。
「突然だし、すぐ返事とか難しいよね。返事は急がないから、少し考えてみてよ。よかったら、今度の土曜日二人でどっか遊びに行かない?」
 彼がそう言ってにっこりと微笑む。彼の笑顔は穏やかなのに、それに反してあたしの手首をつかむ力は強かった。
 返事をしないと離さない。そんな感じの雰囲気に、思わずごくりと唾を飲み込む。
 なんか、怖い。
 そう思ったから、つかまれたままの手首を気にしながらできるだけやんわりと彼に断りを入れることにした。
「あの、ごめんなさい。河野くんの気持ちはすごく嬉しいんだけど、あたし今は誰かと付き合うとかあんまり考えてなくって。それに、今度の土曜日はちょっと予定が……」
「そうなんだ? でもさ、杉本さんて、付き合ってない男と遊ぶのとかも全然アリなんでしょ?」
 それまで穏やかな笑顔を見せていた彼が、突然意味ありげに、にやりと唇の端を吊り上げる。
「え?」
「土曜日が無理なら、別に今からでもいいんだけど。俺と遊んで帰んない?」
 彼がにやりと笑いながら、あたしに顔を近づけてきた。
 何、こいつ……。
 こいつが言ってるのはたぶん、学校帰りに何か食べに行くとか、カラオケ行くとか、そういう類の「遊ぶ」じゃない。ぞくりと、背筋に悪寒を感じた。
「嫌だ! 離してよ!」
 本能的に身の危険を感じたあたしは、彼の脛を力いっぱい蹴飛ばして、その身体を突き飛ばした。
「……って」
 突き飛ばされた彼は、蹴られた足を庇うように腰を屈めると、あたしを見上げて小さく舌打ちした。
「なんだよ、つまんねー。ちょっと誘えば、即効でヤらせてくれるって聞いたのに。嘘ばっかじゃん」
「は?」
 意味がわからず眉をしかめると、体育館の陰から同学年らしき男子生徒がもう二人、突然姿を現した。
「だっせ、河野」
「賭けは俺の勝ちな。お前ちょっと、我慢できずに焦りすぎ。やっぱ、先輩だからうまくいったんだって。かっこよさも落ち着きも違うもん」
 出てきたのは河野と同じように背の高い男子達で、足を押さえる彼を指差しながらケラケラと笑っていた。
「賭け? 先輩……?」
「杉本さんだっけ? もう用ないから帰っていいよ」
 体育館の陰から出てきた男子のうちの一人が、あたしを振り返る。
「は?」
 あたしが眉をしかめると、彼が唇の端を歪めて笑った。
「それとも、噂どおりヤらせてくれんの? だったらのここに残っててくれてもいいけど」
「どういう意味?」
「どういうって、そのまんまの意味」
 唇の端を歪めた彼が、河野から離れてあたしににじり寄ってくる。
「最近彼氏と別れたばっかりで、暇な毎日なんでしょ?」
 にやけた顔の彼に手をつかまれそうになって、数歩後ずさる。彼に言われて、河野が「付き合って」と言ってきたときの違和感が何だったのかがようやくわかった。
 どうしてこいつら、あたしに彼氏がいないとか、最近別れたとか知ってるの?
「あんた達、何なの? さっき言ってた賭けってどういう意味?」
 目の前にいる男子生徒達とちょっとずつ距離をとりながら彼らを睨むと、三人はそれぞれ意味ありげに笑いながらお互いに目配せをした。
「二年の杉本真音はすげーちょろくて、ちょっと優しく誘えば簡単にヤらせてくれるって噂聞いたから。それがほんとかどうか俺らで賭けてたんだよ」
「だけど、思ってたよりガード堅くて残念」
「近くで見たらそこまで可愛くねーのにな」
 彼らがあたしの目の前で、ゲラゲラと下品に笑う。
 何、それ――? 誰が、そんなこと言ったわけ?
 彼らの下品な笑い声を聞いていると、ふつふつと激しい怒りが込み上げてくる。
「誰? そんなロクでもない噂流してるやつ」
 気付くとあたしは前に飛び出して、自分よりも頭ひとつ分以上背の高い河野のシャツの胸元を引っ張るようにしてつかんでいた。
「何だよ」
 あたしにつかまれた河野が驚いたように目を瞠り、その隣にいた二人の男子が彼からあたしを引き剥がそうとする。だけどあたしは纏わりついてくる二人を思いきり蹴飛ばすと、つかんだ河野の胸ぐらを両手でぐいっと引っ張った。
 力はそんなに強いほうじゃないけど、気迫だけはすごかったと思う。
 それに、彼らのほうもまさかあたしが抵抗してくるとは思っていなかったんだろう。河野の両サイドに蹴り飛ばされたふたりは、唖然としていた。
「言いなさいよ。誰がそんな噂流してるのか」
 鋭い眼差しで河野を睨むと、彼がぴくりと眉を動かしながら渋々口を開く。
「わかった。言うから離せよ」
「言うまで離さないっ!」
 あたしがさらに凄むと、河野はしばらく考えてからやがて諦めたように言った。
「コージ先輩。こないだ俺らの練習見に来てくれたあと、軽くメシ食いに行って。そのとき、先輩がお前のこと笑って話してた」
「は?」
 コージ先輩……?
 その名前を聞いた瞬間、あたしの手から力が抜ける。
 あたしが急に力を抜いたものだから、河野はバランスを崩して勝手に尻餅をついていた。
「……ってぇな」
 でかい図体をしているくせに、お尻から転んであたしを睨み上げている彼の姿は情けない。
 コージ先輩ってことは、こいつらバスケ部の仲間ってことだよね。ていうか、あいつ。人をバカにするのもいい加減にしろ。
 あたしをダシにして賭けを楽しんでいたこいつらよりも、バスケ部のやつらに変な噂を流したコージ先輩に対して殺意に近いくらいの怒りが湧いた。
「言っとくけど、あたしはそんなに軽くない。あんた達と一緒にその噂聞いたやつらにもちゃんと言っといて。二度とこんなことすんなって」
 あたしはまだ尻餅をついている河野と、若干呆気にとられているほかの二人を睨むと、踵を返した。
「腹立つ!」
 あたしは低い声で呟くと、誰も人がいない廊下を力いっぱい踏み鳴らして昇降口へと向かった。
 昇降口へと向かいながら、ポケットからスマホを取り出す。コージ先輩の連絡先は電話帳から削除したけど、ラインのほうは一時的にブロック解除もできる。
 腹が立つから、知ってる限りの罵倒の言葉を送りつけてやろうか。住んでるアパートも知ってるから、恨みをたっぷりこめた呪いの手紙を血糊で書いて、ポストに突っ込んでやってもいい。
 かなり本気で呪いの手紙の内容を練っていると、昇降口の傍の階段から誰かが軽快な足音を立てながら降りてきた。
 顔を上げると見覚えのある黒のスウェット姿の男子生徒と目が合って、お互いに「あ」と小さく声を出す。
「まおちゃん」
「古澤柊斗」
 お互いの名前を呼んだあと、古澤柊斗は笑顔に、あたしはしかめっ面になる。
「まおちゃん、ちょっとひさしぶり」
 彼が嬉しそうにへらりと眉尻を下げた。そう言われてみれば、川原で二人で勝負をしてからしばらく彼と顔を合わせていなかったような気がする。
 古澤柊斗の顔を見た瞬間、コージ先輩宛に考えていた呪いの手紙なんてすっかりどうでもよくなった。
 そんなことより、無性に走りたい。
 あたしは古澤柊斗に近づくと、ちょっと上から目線に訊ねた。
「あんた、今日暇?」
「へ?」
 古澤柊斗がきょとんとした顔で首を傾げる。
「だから、今日暇かって聞いてんの」
「あぁ、俺今から部活に戻るとこで――」
「だったら、部活が終わったらでいいや。川原で待っててあげるから、勝負しよう」
「え? でも今日は練習遅くな……」
「口答えしないでよね、年下のくせに」
 あたしは古澤柊斗の言葉を遮ると、きちんとした承諾も取らずに彼に背を向けた。
 あたしの背中を見つめながらぽかんとしている彼の顔が頭に思い浮かぶけど、確かめはせずに想像するだけにしておく。
 あたしは一度教室に戻って体育用のジャージをとってくると、一人で先に川原へと向かった。

***

「まおちゃーん、俺もう限界」
 河川敷の草むらの上に座り込んだ古澤柊斗が、あたしを見上げながら情けない声をあげる。
「うるさい。もっと本気で走ってよ」
「本気で走ってるって。今日部活で走りこみしたあとだし、俺相当疲れてるんだけど」
 あたしが腕組みをしながら睨みおろすと、古澤柊斗は子どもみたいに頬を膨らませてふて腐れた顔をした。
「普段鍛えてるでしょ? これくらいで情けない」
「柊斗、まおちゃん。俺、予備校あるからもう帰っていい?」
 座り込んでいる古澤柊斗を引っ張り上げようとすると、さっきからもう何回もあたしと彼の勝負の審判をやらされていた恭介のだるそうな声が聞こえた。
「恭介。あんた、まだ一年のくせに予備校なんて行ってるの?」
「うん、一応」
 あたしの言葉に、恭介が頷く。
「あっそ、じゃぁとっとと帰れば」
「ああ……。恭介、ずるい」
 鞄をつかんで帰っていく恭介の背中を、古澤柊斗が恨めしげに見送る。
「まおちゃん、今日すごく苛立ってるでしょ? 走ってるときの気迫がすごい」
 古澤柊斗がへらりと笑いながら核心をついてくるから、あたしは無言でスルーした。
 コージ先輩と河野達に腹を立てていたあたしは、身体中に溜まるもやもやとした鬱憤を晴らすためにさっきから一時間以上も古澤柊斗と二人で全力疾走の勝負をしている。
 今日のあたしの格好は制服にローファーじゃなくて、体育用のジャージとスニーカー。走りやすい格好で何度も何度も思いきり走っても、身体の中に溜まった怒りは治まらない。それであたしは、もう何セットも古澤柊斗に全力疾走を強要していた。
 彼の部活が終わるまで川原で寝転がって力を温存していたあたしはいくらでも走れるけれど、部活帰りの彼はだいぶ疲れているらしい。
 仕方がないから、そろそろ解放してやるか。
「じゃぁ、次がラストね」
 あたしがそう言うと、古澤柊斗は諦めたように腰を上げてスウェットについた草を払った。
「絶対にラスト、ね。まおちゃん」
 立ち上がった古澤柊斗がにこっと笑う。
 邪気のない笑みで顔を覗き込まれて、思わずドキリとする。
「わかってる」
 素っ気無い声で彼をあしらうと、あたしはスタート地点に立った。
「じゃぁ、俺が合図出していい?」
 あたしから少し距離を空けてスタート地点に立った古澤柊斗が、こっちを向いてへらりと笑う。
「どうぞ」
 短くそう答えると、進行方向をすっと見据えた彼が急に真剣な表情になった。
「よーい」
「スタート」
 へらへらとしていた彼の表情の変化に数秒見とれてしまって、スタートを切るのが遅れた。
 掛け声とともに走り出した古澤柊斗を追おうと慌てて足を前に出す。
 けれど焦って踏み出そうとしたせいで両足が同時に前に進もうとしてしまい、自分の右足と左足が変にもつれて絡まった。
 身体が前へと倒れかけるのがわかって両腕を宙で動かしもがいたけれど、その努力もむなしく……。膝から地面に崩れ落ちる。
「い、った」
 かろうじて手をついたけれど、膝と足首に激しい痛みを感じた。
 崩れ落ちた場所はコンクリートではなく川原の土の上。それなのに、想像よりもその衝撃は大きかった。
 苦痛に顔を歪めていると、あたしが走ってこないことに気がついた古澤柊斗が驚いた顔で駆け戻ってきた。
「まおちゃん、大丈夫?」
 あたしの傍にしゃがんだ彼が、横から顔を覗き込んでくる。
「すっごい、痛い」
 顔を歪めながらものすごく感情を込めて言うと、古澤柊斗が心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫? 立てる?」
「足、捻ったかも。あんたが合図出したタイミングが悪かったせいで、スタートのときに足が絡まった」
「え、何それ。まおちゃんが勝手に転んだんじゃん」
 古澤柊斗があんまり心配そうにあたしの顔を覗き込んでくるから、つい反発心が湧いてしまった。
 じとっと見ると、彼が全然納得がいかないというように、唇をへの字に曲げる。
「勝手にって、何よ。その無責任な物言いは」
「だって実際そうだし……」
 あたしが眉根を寄せると、古澤柊斗はまだ何か言いたりなさそう顔をしつつも、口を噤んだ。
 手の平で足首を擦ると、右側が猛烈に痛い。
 傍にしゃがんでいる古澤柊斗の肩を支えにして何とか立ち上がったけど、歩こうと力を入れるとズキンとした痛みに足全体が貫かれるような気がした。
「古澤柊斗」
 名前を呼ぶと、彼がしゃがみ込んだまま無防備な表情であたしを見上げる。
「痛いから、送ってけ」
「歩けそうにないの? 痛いほうって、こっち?」
 痛む右足を庇うように左足に重心をかけて立っていると、古澤柊斗がそれに気付いてあたしの右足首に触った。
「い、った」
「あ、ごめん」
 思わず大きな叫び声をあげると、古澤柊斗が何の悪びれもない顔でへらりと笑う。
「余計なことしないで、とっとと送ってって。年下でしょ」
「今、年下とか関係なくない。まおちゃん、めちゃくちゃ」
 古澤柊斗はあたしを見上げながら笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「普通に心配だし、家まで送るよ。あ、おぶってあげたほうがいい?」
 あたしと自分の分の鞄を拾い上げた古澤柊斗が、顔を上げながら冗談なのか本気なのかよくわからない顔でへらりと笑う。
「は?」
「まおちゃん、それ。たぶん軽い捻挫だと思う。歩くのきつかったら家までおんぶしてあげるよ?」
 古澤柊斗がそう言ってあたしの前に背を向けてしゃがもうとする。
 その仕草になぜかドキリとしてしまったあたしは、こちらに向けられた彼の背中を思いきりぶん殴ってやった。
「まおちゃん、力強……」
 古澤 柊斗が背中をさすりながらあたしを振り返り、片眉を下げる。
「年下のくせに、余計なことしなくていいの。肩だけ貸して」
「はーい」
 彼は素っ気無いあたしの態度に苦笑いを浮かべると、歩きやすいようにあたしの肩をしっかりと支えて家まで歩いてくれた。
「うち、この角曲がったところ」
 そう言うと、古澤柊斗が黙ってあたしの肩を支えながら曲がり角を折れる。
「まおちゃんちも川原から近いけど、俺の家とは真逆だ」
 笑いながらそう言った古澤柊斗が、あと少しで家の前に差し掛かろうというところで不意に足を止める。
 あと数メートルで家だけど。怪訝に思いながら古澤柊斗を横目に見上げたとき、彼が放心したような顔で前を見ながら呟いた。
「詩音、さん?」
「え?」
 顔を上げると、あたし達とは反対方向から家に向かって歩いてきていた姉と目が合った。
 どうして古澤柊斗が姉の名前を知っているのだろう。
 そんな疑問を抱きながら姉を見つめていると、彼女があたしの隣にいる彼を見ながら大きく目を瞠る。
「柊くん?」
 姉は古澤柊斗のことを「柊くん」なんて親しげに呼ぶと、先ほどまで見開いていた目を細めて口元を綻ばせた。
「何、あんた。お姉ちゃんと知り合いなの?」
「え? 詩音さんて、まおちゃんのお姉さんだったの?」
 訊ねているのはあたしなのに、古澤柊斗も疑問系で言葉を返してくる。
 お互いに疑問を投げかけあっていると、姉がにこにこしながらあたし達に歩み寄ってきた。
「柊くん、ひさしぶりね。真音と知り合いだったなんて、知らなかった。そういえば、ふたりとも同じ高校だもんね」
 歩み寄ってきた姉が、古澤柊斗に愛想よく話しかける。
 姉と彼は、どういう知り合い──?
 眉を寄せながら訝しんでいると、姉があたしの額を指先でつついた。
「真音、何難しい顔してるの? 柊くんは、瑛大くんの弟でしょ?」
「瑛大くん……? こいつが?」
 姉の言葉に、瑛大くんの容姿を思い浮かべ、それから改めて古澤柊斗を見る。
 瑛大くんの名字って古澤だったっけ? 姉の彼氏の名字なんてまともに記憶してなかったけど。
 言われてみれば、古澤柊斗の目元がなんとなく瑛大くんと似ているようにも思えてくる。
 ただ、大人っぽくて落ち着きがあって優しそうな瑛大くんと、いつもへらへら笑っていてくるくると瞳がよく動いて子どもっぽい古澤柊斗とでは、醸し出す雰囲気が全く違う。
「真音。知らなかったの?」
「知らなかった。別にそんな話にならなかったし」
「俺も、今詩音さんに出会うまで全く気付きませんでした。そういえば、まおちゃんの名字って詩音さんと同じ杉本ですね」
 古澤柊斗が、姉に対して何か眩しいものでも見るような眼差しを向ける。その瞳はきらきらとしていたけれど、川原であたしを見てきたような好奇心丸出しの眼差しとはまた少し違っていた。
 憧れているものとか、何か神々しいものでも見るような目。
 あたしはなぜか、古澤柊斗が姉を見るその眼差しに軽い不快感を覚えた。
 そうするともう、古澤柊斗に肩を支えてもらっていることすら不快に思えてきて。らしくもなく、やけに熱っぽい目で姉を見つめている彼を突き飛ばしたくなる。
「もういい。送ってくれてありがとう。帰って」
 ついに我慢できなくなって本気で古澤柊斗を横に突き飛ばすと、姉も彼も驚いたように大きく目を見開いた。
「真音?」
「まおちゃん?」
 姉と古澤柊斗の声が重なって、あたしの不快感がさらに増幅する。
 あたしは古澤柊斗に鬱陶しげに視線を投げると、痛む右足を引き摺りながら家の中に入った。
「なんだかごめんね。ありがとう、柊くん……」
 ゆっくりと閉まっていくドアの向こうから、姉が話す声が聞こえる。
 その声にあたしの不快感がさらに増幅した。八つ当たりするみたいに玄関の床にドスンと腰を落とすと、痛めた足首にビリビリと電流が走る。
「い、ったい……」
  なんで、あたしがこんな目に……。ていうか、なんなの。さっきのあいつの表情。
 足は痛いし、姉のことをキラキラした目で見ていた古澤柊斗の顔を思い出すだけでムカついてくる。

 しばらく経ってから家に入ってきた姉は、不機嫌な顔で玄関に座っているあたしを見てぎょっとしたように一瞬だけ後ろに身を引いた。
「真音、まだここに座ってたの?」
 姉は形の整った眉を呆れたように下げると、手に持っていた鞄をあたしに差し出してきた。
「これ、柊くんが」
 姉が差し出したのは、川原からずっと古澤柊斗が持っていてくれたあたしの鞄。
「柊くんに聞いたけど、怪我したんだって? 柊くんは軽い捻挫だと思うって言ってたけど、大丈夫なの?」
 姉が玄関にしゃがみ、その細くて綺麗な指であたしの右足首に触れようとする。
 さっきから、「柊くん」「柊くん」って、なんなの。ちょっと甘えたみたいに古澤柊斗を呼ぶ姉の声に、無性にイライラする。
「うるさい!」
 姉の指先が右足の一番痛い場所に僅かに触れたとき、あたしは飛び上がるようにして彼女を払い除けた。
「ごめんね、真音。痛かった?」
 姉が心配そうに眉を寄せながら、あたしの顔色を窺う。
 姉はただ心配してくれただけなのに、それを「うるさい」だなんて。きっと、もっと他に言い方はあった。
 咄嗟にひどいことを言ってしまった自分の性格が嫌になるけど、姉のそばにいると、苛立ちと不快感が身体の奥の方からふつふつと湧き上がってきてどうしようもない。あたしの中で留めておける許容量限界にまで達したそれは、今にも爆発しそうだった。
「真音、手を貸そうか?」
「平気」
 あたしの心の中には醜い感情が渦巻いているというのに、何も知らない姉の声は優しい。
 これ以上姉の声を聞いていたら、「うるさい」よりももっとひどい言葉が口をついて出そうだ。
 あたしはぐっと唇を噛み締めると、右足の痛みを堪えて立ち上がった。
 足を前に一歩踏み出すたびに、足首から足全体に痛みが走る。
 これまで両親や周りから評価される姉に嫉妬したこともあるし、姉と比べられる理不尽さを憂いたことも幾度とある。
 思春期をすぎてからは姉との間に距離ができ、小さな頃と同じようには彼女と接することができなくなった。
 それでも、姉に対して、「うるさい」なんてきつい言葉をかけたことはこれまでに一度もない。
 美人で、頭が良くて、ピアノがうまくて、優しくて。そんな姉のことを、心の中ではいつも尊敬して憧れていたから。
 でも今は……「うるさい」と。そう言わずにはいられなかった自分の気持ちが、自分でもよくわからない。
 少しでも気を抜けば溢れ出しそうになる不快感を押さえるために、あたしは何度も何度も深く深呼吸した。