「なぁ、まおちゃんってこの人?」
「そう。まおちゃん、走るの、めっちゃ速いから」
「へぇ、そうなんだ」
 目をきらきらさせてあたしを見つめる古澤柊斗の隣であまり興味なさそうに頷くのは、やや茶色がかった髪をした、彼よりも少し大人びた顔付きの見知らぬ男の子。
 翌日の学校帰り。何を間違えたのか、それとも古澤 柊斗の陰謀か。
 彼に言われた通りに河川敷までやって来てしまったあたしの前に、スウェット姿の男子高校生が二人も立ちはだかっていた。
 何か、一人増えてるし……。
 眉をひそめるあたしに、古澤柊斗がへらりと笑ってみせる。
「こいつ、恭介(きょうすけ)っていって俺の部活の友達。まおちゃんと俺の勝負の審判してもらおうと思って」
「部活……」
「そう、恭介も同じ高校のサッカー部」
「へぇ」
 あたしがちらりと視線を向けると、恭介が社交辞令的に軽く頭を下げた。頭を下げられたからあたしも一応頭を下げ返す。
「まおちゃーん、スタート地点はどこにする?」
 そうしている間に先に土手の下に降りていた古澤柊斗が、あたしたちを見上げてにこにこと笑いながら大きく両腕を振っていた。
「あんたも、あいつに付き合わされて大変だね」
 土手の下で満面の笑みを浮かべている古澤柊斗を冷めた目で見てから恭介に同情の眼差しを向けると、彼が肩を竦めながらクッと笑った。
「別に俺は慣れてるし。まおちゃんこそ、よくあいつとの約束守ったね」
 そして、初対面且つ年下のくせに人のことを勝手に『まおちゃん』呼ばわりして河川敷の土手を下っていく。
 あぁ、やっぱりこのまま帰ろうかな。
 顔をしかめてその場を立ち去りかけたとき、古澤柊斗が大きな声であたしを呼んだ。
「まおちゃーん。早く降りてきてよ」
 古澤柊斗に大きく手招きされて数秒躊躇した後、結局河川敷の土手を下る。
「ここがスタート地点。で、恭介が立ってるところがゴール」
 古澤柊斗はスニーカーのつま先で地面にスタートラインを引くと、にこっと笑いながらあたしを見上げた。
 古澤柊斗が線を引いた五十メートル先では、スウェットのポケットに手を突っ込んだ恭介がやる気なさそうに突っ立っている。
「わかったわよ」
 あたしは持っていた鞄を草むらの中に放り投げると、やる気満々の古澤柊斗の隣に立った。
「準備運動とかしなくて平気?」
 軽く手足を振りながら、古澤柊斗があたしに訊ねてくる。
「別にいらない。あんたの準備できたら、いつでもどうぞ」
 いつもだって、特に何も準備をしなくたって心地よく走れる。
「了解」
 古澤 柊斗はにこっと笑うと、ゴール地点に立っている恭介に手を振って合図した。
「こっちはいつでもスタートできる」
「おー、わかった」
 恭介がスウェットのポケットから片方手を出して、やはりやる気なさそうにその手を振り返す。
 それからあたしと古澤 柊斗の顔を交互に見ると「よーい」と、予想以上に大きな声をあげた。
 恭介の声に合わせて、大きく深呼吸して目を閉じる。そしてそのまま数秒待った。
「スタート!」
 遠くで恭介の掛け声が響くと同時に、あたしはスタートダッシュを切った。あたしの隣で、古澤 柊斗が思いきり地面を蹴るのがわかる。だけど、彼の気配を感じたのはスタートのその一瞬だけだった。
 走り出したあたしはもう、耳元を過ぎる風の気配しか感じない。
 固いローファーの靴底で地面を蹴り、制服のスカートを翻しながらいつもと同じ感覚で一直線に駆けた。
 五十メートルほど全力で駆けたところで、恭介の気配を感じる。
 恭介が立っている場所から数メートル通り過ぎたところで立ち止まって振り返ると、あたしよりも少し遅れて古澤柊斗がゴールした。
「やっぱ、はやっ!」
 数メートル後ろで、古澤柊斗が肩で息を整えながら余裕そうにへらりと笑っている。
「な、まおちゃん。めっちゃ速いだろ?」
 笑いながら恭介に同意を求める古澤柊斗は、まだあと十回は全力ダッシュができそうなくらいに余裕そうだった。そのくせあたしのことを嬉しそうに笑って褒めている彼が、何だか嫌味に思えてくる。
 あたしは恭介の隣でへらへら笑っている古澤柊斗の傍まで歩み寄ると、その肩を手の平で思いきり小突いた。
 横から不意打ちを食らった彼は、向こうに少しよろけてそれから驚いたように大きく目を見開く。
「何? まおちゃん」
「あんた、あたしのことバカにしてる? 川原で変な女見つけたから、友達と一緒にからかってやろうとでも思った?」
 腰に手をあてながら仁王立ちで睨むと、古澤柊斗はわざとらしいくらいに何度も目をぱちぱちと瞬かせた。
「へ?」
「へ? じゃないし。あんた今、わざと手抜いたでしょ」
 あたしの言葉に、古澤柊斗がとぼけたように首を傾ける。その態度が癪に障ったから、あたしはもう一度古澤柊斗の肩を思いきり小突いてやった。
「柊斗、とぼけてもバレてんじゃない?」
 恭介があたしをちらっと見ながら、クッと笑う。
 古澤柊斗は「そっかぁ」と呟くと、片眉を垂れながら気まずそうに笑った。
「ごめん、まおちゃん。ちょっとだけ、ね」
「手、抜いた」
「でも、ちょっとだけだよ」
 あたしが睨むと、古澤柊斗はへらりと笑いながら「ごめんー」とあまり反省していない様子で謝ってきた。
「やっぱり、人のことバカにしてたんだ」
 あたしは最後にもう一度古澤柊斗と恭介を渾身の力で睨みつけると、スタート地点まで戻って草むらに投げた鞄を拾い上げた。
「もう二度とあたしに構わないで。たとえ顔を合わせても、絶対に話しかけてこないでよね!」
 不機嫌な声でそう言うと、古澤柊斗が慌てた様子であたしの傍に駆け寄ってきた。
「ごめん、まおちゃん。怒んないでよ。俺、こないだ初めて走ってるまおちゃん見たときに、何かすげぇ綺麗だなーと思って感動しちゃって。それで、一度一緒に走りたいなって。だから、別にバカにしようとか、からかおうとか思ったわけじゃないんだって」
 古澤 柊斗の弁明を白けた表情で聞いていると、恭介も歩み寄ってきた。
「信じるか信じないかは別だけど、柊斗が言ってることは嘘じゃないよ。まおちゃんのこと見かけた次の日、学校で『すげー女の子見た!』って一日中興奮気味に騒いでたから」
 恭介がそう言って、クッと笑う。
「そうそう。初め会ったときに俺言ったでしょ? 制服姿であんなに速く、しかも綺麗に走ってるまおちゃんに、尊敬の念抱いたって。だから、今日は来てくれてありがとね。一緒に走れて楽しかったし」
  古澤柊斗が無邪気な顔でへらりと笑う。その笑顔を見ていたら、一瞬でも彼に腹を立てた自分がバカらしく思えてきた。
「わかった。もういいよ」
「よかったー、許してもらえて」
 かなりふて腐れた声でそう言ったのに、古澤柊斗が嬉しそうにへらへらと笑う。
「別に、許したわけじゃないから。自分から勝負を申し込んできといて、手抜くとかありえない。年下のくせに、生意気」
「えー、年下って言ったって一個じゃん」
 古澤柊斗が笑いながら眉尻を下げる。
「一個でも、年下は年下でしょ。あたし、自分より一日でも年下のやつには興味ないの」
 冷たくそう言ってツンと顔をそらすあたしの傍で、古澤柊斗と恭介が顔を見合わせて小さく肩を竦める。その態度が何だか人のことをバカにしているように思えたあたしは、ムッとして顔をしかめた。
「何よ、その態度」
 しかめっ面で二人を睨むと、彼らがそれぞれの方法で口元に苦笑いを浮かべる。
 何だか、嫌なやつらだ。このままだと妙な敗北感が胸に残って、何だか悔しい。
 あたしは古澤柊斗に歩み寄ると、その胸に人差し指をぐっと突きつけた。詰め寄られた古澤柊斗が、驚いたように目を瞬かせる。あたしは彼の深い黒の瞳をぐっと睨み上げると、ゆっくりと口を開いた。
「今度は制服じゃなくてちゃんとした格好で来る。だからそのときは、真剣に走りなさいよ?」
 古澤柊斗はしばらくきょとんとした顔であたしを見つめたあと、頬の筋肉を緩めてへらりと笑った。
「まおちゃん、また一緒に走ってくれるんだ? いいよ」
 古澤柊斗のゆるい笑顔に、思わず脱力しそうになる。
「だから、真剣に走れって言ってんの」
「わかった」
 強い口調で言ってみたけど、彼はやっぱり気の抜けるような表情でへらりと笑っていた。
「バイバイ、まおちゃん」
 川原をあとにするあたしの後ろで、古澤柊斗の大きな声が響く。ちらっと振り返ると、彼が嬉しそうに笑いながらあたしに向かって大きく手を振ってきた。
 その隣で恭介が、ついでに……、という感じでやる気なさそうに手を振ってくる。
 いつまでも手を振る彼らを軽く睨んでみたけれど、なぜか彼らに見送られることはそれほど不愉快に感じなかった。

***

「ごちそうさま」
 夕飯を食べ終わって部屋に戻ろうとすると、まだ食べ終えていない姉があたしを見ながらにっこりと微笑んできた。
「何?」
 怪訝に思いながら首を傾げると、姉がゆるゆると左右に首を振る。
「うぅん。なんか今日の真音、いつもより機嫌がいいなぁと思って」
「そうかな」
 姉の前で、特別いつもと違った態度をとったつもりはないけれど……。
「うん、何かいいことあった?」
 そう訊ねられたので少し考えてみたけれど、特に思い当たることはない。
 あぁ、そういえば。面倒くさいことならひとつだけあった。
 普段と違ったことといえばそれくらいだけど、あれは決して「いいこと」ではない。面倒だって思っていたくせに、うっかり自分のほうから次の「勝負」の約束までしてしまった。
 川原でのできごとを思い出しながら眉根を寄せていると、姉がくすっと小さく笑う。
「何?」
「うぅん。真音にどんな楽しいことがあったのかなーって想像したら、私も楽しいから」
「何が?」
 姉が言うことは、ときどきよくわからない。
 最近はあまり姉とふたりで長い時間話すことがないけれど、たまに話せば今みたいによくわからないことを言ってくることがある。
「詩音、食べ終わったなら食器持ってきて」
「待って、もう少し」
 母が呼ぶ声がして、姉の注意が私から逸れる。その隙に、あたしはそっとリビングをあとにした。

 部屋に戻ると、スマホにメッセージが一件届いていた。
 その送信者を確かめて、あたしは思わず眉をしかめる。
《今度の土曜日、会えない?》
 コージ先輩からだった。
 うまくいっていない彼女との鬱憤をはらすためだけにあたしを誘ったくせに……。
 部屋から逃げ出すように帰ったあたしを追いかけても来なかったくせに。
 時間が経ってから何もなかったように連絡してくるなんて……。人をバカにするにも程がある。
 あたし、そんなにバカで、ちょろそうで、都合のいい女に見えた……?
「むかつく……」
 あのときのことを思い出しながら低い声で呟くと、あたしはコージ先輩のラインをブロックし、連絡先に残っていた電話番号も躊躇うことなく削除した。
 今後一切、コージ先輩に会うつもりもなければ連絡をするつもりもない。あたしはコージ先輩とのつながりを全て削除すると、スマホをベッドに投げつけた。