学校の近くのカラオケで二時間ほど歌ったあと、駅前でエリナと別れる。
 改札を抜けようとパスケースを出したところで、ふと今日が毎月買っている雑誌の発売日だったことを思い出した。
 駅から五分ほど歩いたところに、小さな本屋さんがあったはず。
 あたしは一度取り出したパスケースを鞄の中に入れると、本屋に向かって歩き始めた。
 あたしの目当ての雑誌は店頭のわかりやすいところに置かれていたから、迷わずそれを手にとって会計を済ませる。
 雑誌が入ったビニール袋を持って本屋を出たとき、ちょうどその向い側のコーヒーショップから出てきた背の高い茶髪の男の人が、あたしを見つけて手を振ってきた。
 コージ先輩……?
 どうして先輩がこんなところにいるんだろう。
 こっちに向かって手を振る彼の顔を見た瞬間、あたしの頬が引き攣った。
 コージ先輩と顔を合わすのは、以前彼の家に誘われたとき以来だ。
 騙されたと思ったあの日から、コージ先輩の電話番号は消去したし、ラインだってブロックしている。
 絶対にもう二度と会いたくないと思っていたのに、また顔を合わせることになるなんて最悪だ。
 あたしは雑誌の入ったビニール袋を胸の前で抱えて半分顔を隠すと、手を振るコージ先輩に気付かないふりをして駅のほうに足早に歩を進めた。
「真音ちゃん!」
 口もききたくないし、目も合わせたくない。
 そう思っているから逃げているのに、コージ先輩はあたしの名前を呼んで後ろから追いかけてくる。
 駅が見えてきたから、そのまま急いで電車に乗ってしまおうと小走りで改札に向かって駆ける。
 パスケースを取り出して改札を通りぬけようとしたとき、ぎりぎりのところで追いついたコージ先輩があたしの肩をつかんで後ろに引っ張った。
「真音ちゃん、ひさしぶり」
 コージ先輩にがっちりと肩をつかまれて、あたしはその場から逃げられなくなってしまった。
「おひさしぶりです。ここで、何されてるんですか?」
「あぁ。高校の部活のやつらとメシ食うために待ち合わせ中。何か真音ちゃん、反応悪いね」
 低い声で迷惑そうに挨拶を返す私に、コージ先輩が苦笑いした。
 あたりまえです。
 そう言い返したかったけど、ムダに口をきくのも嫌だったからぐっと言葉を飲み込む。
「そんなことより、会えてよかった。あれから全然連絡繋がらないから、どうしてんのかなーと思って」
 あのときのことをどう思ってるのか、コージ先輩がポケットからスマホを取り出しながら、気安く微笑みかけてくる。
 以前彼に会ったときはときめいたその笑顔に、今は嫌悪しか感じなかった。
 唇をきゅっと引き結んで睨むと、コージ先輩が笑いながら首を傾げる。
「真音ちゃん、どうかした?」
「コージ先輩、彼女いるんですよね」
 あたしの言葉に、コージ先輩がふっと口元を歪めた。
「あぁ、一応いるけど。前話したとおり、相変わらずうまくいってないし。なんかカタチだけ?」
 コージ先輩が自嘲気味に笑う。
「それより真音ちゃん。前も誘ったけど、今度どっか一緒に遊びに行かない? あ、またうちに来てくれてもいいけど」
 意味ありげに微笑んだコージ先輩が、あたしに顔を近づけてきた。
 元彼の香水とよく似た、爽やかで甘い香りがふわりと鼻先に漂ってくる。
 この前会ったときは頭がくらくらするほど魅惑的に思えたその香りが、今はものすごく不快だ。
 この人は、自分があたしにしたことをなんとも思っていない。
 溜まった鬱憤の捌け口としてあたしを利用できたらそれでよくて、あたしの気持ちを理解するつもりもない。
 こんな人のために、少なからず傷付いてしまったことが悔しかった。
 肩に置かれたままになっているコージ先輩の手を乱暴に払い落として、爪が食い込むくらいに手の平をぎゅっと握り締める。
「先輩と遊びになんて行きません。あたしはあのとき、軽い気持ちじゃなかったんです。ちょっと優しく誘えばとか、そんなふうに思ってるんだったら違いますから!」
 コージ先輩を睨んで、くるりと彼に背中を向ける。
「あ、ちょっと真音ちゃん」
 けれどコージ先輩は、立ち去ろうとするあたしの手首をしつこくつかんできた。
「離してください」
 振り返って彼を睨みながら、つかまれた手首を力いっぱい上下に振る。
「そんな怒らなくたっていいだろ。なんか勘違いさせてたなら謝るから」
「勘違いなんてしてません。ただ利用しただけじゃなくて、あたしのこと、おもしろおかしく人に話したでしょ?」
 あたしを体育館裏に呼び出してきた河野とその仲間たちのニヤけた顔を思い出したら、コージ先輩への嫌悪がさらに強くなる。
「だから、勘違いさせたなら謝るって。俺、真音ちゃんのこと利用したつもりはないんだけど」
 コージ先輩が困ったように、片眉を下げる。
 だけど、その顔は本気で悪いと思っているようにはとても見えなかった。
 優しく諭すフリをして、煩く騒ぐあたしをとりあえず黙らせたいのが本音だろう。
「謝罪なんてどうでもいいから、もう二度とあたしに関わらないでください。会っても絶対に話しかけてこないで!」
 苛立った声で喚きながらコージ先輩を睨んだとき、彼につかまれているのと反対側の手首が誰かに強く引っ張られた。
「すみませんけど、その手、離してください」
 怒気を含んだ低い声。
 後ろを振り向くと、あたしの手首をつかんだ古澤柊斗がコージ先輩のことを鋭い眼差しで睨んでいた。
 突然現れた彼にも驚いたけど、それ以上に、いつもへらへらと笑ってばかりいる彼の目が、誰かを鋭く睨んでいることに驚く。
「どうしてここに……」
「早く、離してください」
 古澤柊斗は大きく目を瞠るあたしの言葉を遮ると、さらに眦を尖らせた。
 あたしを間に挟んで向かい合う古澤柊斗とコージ先輩。
 古澤柊斗があまりに険悪な雰囲気でコージ先輩を睨んでいるものだから、周囲を歩く人達があたし達のことを不審げにちらちらと見てくる。
 それに気付いたコージ先輩は、気まずそうに辺りを見渡してからあたしの手をすっと離した。
 コージ先輩からようやく解放されると、今度は古澤柊斗が痛いくらいの強い力であたしの手首を引っ張る。
「行くよ、まおちゃん」
 古澤柊斗は相変わらず怒気を含んだ声でそう言うと、改札を抜けて駅のホームへとあたしを引っ張っていった。
 そのままあたしの手をグイグイと引っ張って、ホームに入ってきた電車に乗り込む。
「何であそこにいたの?」
 電車に乗り込んだあとも不機嫌そうな様子で立っている古澤柊斗におずおずと訊ねると、
「部活が終わって、たまたま通りかかったから」
彼が怒ったように低い声で答えた。
「べつに、ほっといてくれてよかったのに……」
「何で? まおちゃん、あの男につかまって嫌がってたんじゃないの?」
 古澤柊斗が横目であたしを睨むようにしながら、低い声で訊ねてくる。
「うん、まぁ」
 いつもと違う古澤柊斗の雰囲気に戸惑い気味に頷くと、彼が不機嫌そうにあたしから顔をそらす。
 古澤柊斗は駅に着くまで口を真横に引き結んだまま一言も話さず、あたしに向かってへらりとも笑いかけてこなかった。

 電車を降りても、古澤柊斗はずっと黙りこんだままでいた。
「じゃあ、また……」
 どうすればいいのかわからず、あたしはとりあえず軽く声をかけて、彼から距離をとる。
 だけど古澤柊斗は不機嫌な顔のまま近づいてきて、乱暴にあたしの手をつかんだ。
「まおちゃん、ちょっと来て」
 戸惑うあたしに、彼が低い声を投げかける。
 あたしの手をつかんで引っ張っていく古澤柊斗の力は想像以上に強かった。
 普段へらへら笑っている彼の、まだ少年っぽさの残る細い腕。そのどこにそんな力が隠されていたんだと思って驚く。
 無言のまま歩く古澤柊斗に連れて行かれたのは、近所の川原だった。
 川原に着くと、彼があたしの手を引っ張ったまま河川敷のなだらかな土手を滑るように下る。
 そのまま川岸まで行くと、古澤柊斗はようやく立ち止まって、あたしの手を離した。
「まおちゃん、勝負しよう」
 向かい合って立つ古澤柊斗が、強い眼差しで真っ直ぐにあたしを見つめてくる。
「は?」
「いいから!」
 戸惑い気味に首を傾げると、彼が怒ったような声を出した。
「いいからって……」
 戸惑っているあたしの横で、古澤柊斗が鞄を地面に放り投げて足元の土を均す。
 そうして勝手にスタートの位置を決めると、あたしの準備ができているかどうかなんて構わずに一人で前へと飛び出した。
 いつものスウェット姿ではなく、制服のシャツと紺色のズボン。それから学校指定の黒のローファーで、荒っぽく駆けていく古澤柊斗。彼のシャツの背中が風で膨らむ。
 黒い髪を風に揺らしながら駆けていくその後ろ姿を唖然と見ていると、十メートルほど進んだところで彼が急にぴたりと足を止めた。
 脱力したように背中を丸めて膝に手をついた彼が、肩で呼吸を整えてから、くるりとあたしを振り返る。
「勝負だって言ったじゃん」
 古澤柊斗がきゅっと眉に力を入れてあたしを睨む。その目がものすごく責めてくるから、あたしは困って苦笑いした。
「どうかしたの? なんか変だよ、今日の古澤柊斗」
 苦笑いのまま古澤柊斗に歩み寄っていくと、彼のほうも広い歩幅であたしに近づいてくる。
 腕を伸ばせばぎりぎり届くくらいの距離を保って、あたし達はどちらからともなく互いに足を止めた。
「変なのは、出会ったときからずっとまおちゃんだよ」
 向かい合って立つあたしを睨みながら、古澤柊斗がゆっくりと口を開く。
「まおちゃんは――」
「ん?」
「まおちゃんは、俺のことが好きなんじゃないの?」
 何を言われるのかと思って首を傾げると、古澤柊斗があたしを睨みながら、突然大きな声を出した。
 怒ったような彼の声が、辺りに響き渡る。
 近くを歩いていた人達までもが、彼の声にちらほらとこっちを振り返っていた。
「い、いきなり何? 自惚れちゃって、バカじゃないの?」
 古澤柊斗の言葉にめちゃくちゃ動揺して、心臓がバクバクと激しく音をたてる。
 彼の言葉と、他人の好奇の視線が恥ずかしい。
 だけど彼は周りの目なんて少しも気にしていない様子で、顔を赤くするあたしを不服そうな目でじっと見てきた。
「だけど、こないだ好きって言った」
「何言ってんの。あんなの真に受けないでよ。ただの冗談だから」
 だって、あたしは古澤柊斗にフラれた。
 それなのにあたしは、未だに不毛な想いを抱えたままで。だからこの前の告白のことを蒸し返されたら、どうしていいかわからない。
 フラれたくせに、未だに諦めきれずに古澤柊斗のことが好きでいるなんて。そんなあたしの気持ちを悟られても、ただ惨めになるだけだ。
「まおちゃんは、冗談で人に『好き』って言えるの?」
「知、らないけど……。古澤柊斗になら、言うかもしれない」
 わざとふざけて笑ったら、彼の深い黒の瞳が小さく揺れた。その僅かな動きが、あたしの胸をぎゅっと締め付ける。
 あたしのことをフッたのは古澤柊斗のほうなのに。どうして彼があたしの言葉に傷付いたような目をするのかわからない。
「フラれてちゃんとわかったよ。やっぱりあたしは、年下なんて興味ない」
 古澤柊斗から顔をそらしながら素っ気無く言うと、彼が歩み寄ってきてあたしの両肩を強めにつかんだ。
「何……!?」
 ちらっと顔を上げると、切なさを孕んだ古澤柊斗の深い黒の瞳と視線がぶつかる。
 複雑そうな表情の彼に何か言葉をかけようとしたら、急に両肩を引っ張られて身体が前のめりになった。
 揺れたあたしの身体を抱きとめた古澤柊斗の手のひらが、あたしの両頬を不器用に包み込む。
 頬に触れた彼の温度に、ドキリと胸を高鳴らせたのも束の間。上を向かされたあたしの唇に、まるでぶつかるみたいに彼の唇が触れてきた。
 柔らかな感触が数秒、あたしの唇にぎゅっときつく押し付けられる。
 そんな古澤柊斗のキスは、あたしが今まで交わした中で一番不器用で、一番へたくそなキスだった。
 それなのに、今までで一番。どうしようもないくらいにあたしの心を震わせた。
 あっというまに離れていった古澤柊斗の顔を熱のこもった目で見上げていると、あたしの頬を手の平で包んだままで、彼が小さく呟いた。
「まおちゃんの嘘つき」
 古澤柊斗の深い黒の瞳が、あたしをじっと見つめる。
「俺のこと好きじゃないなら、どうしてそんな表情(かお)すんの?」
 そんな表情(かお)――?
 古澤柊斗に言われて、かっと頬が熱くなる。
 不意打ちだったとはいえ、彼のへたくそなキスに、どれだけ惚けてしまったか。
 そのことを自覚すると、急に恥ずかしくなった。
「う、うるさい。あんたが好きなのはお姉ちゃんでしょ? それなのに、どうしてあたしを試すみたいなことすんのよ。年下のくせに……、っていうか、古澤柊斗のくせに、生意気!」
 古澤柊斗の胸を、両手で押しやるようにして撥ねつける。
 そのまま肩を突き飛ばして駆け出そうとしたけど、すぐに腕をつかまえられて、彼の前から逃げることができなくなった。
「そうだけど……」
 あたしの腕をつかまえた古澤柊斗が、眉を下げて、困ったような、心中複雑そうな表情を浮かべる。
「そうだけど。まおちゃん、全然わかんねーんだもん。俺のことが好きって言ったくせに駅前で変なやつに言い寄られてるし、こないだはここで恭介とキスしてたし……」
 古澤柊斗がそう言って、目を伏せる。
「見てた、の?」
 ドキリとしながら問い返すと、彼が目を伏せたまま小さく頷いた。
「あの日、恭介が部活サボってまおちゃんのこと追いかけて行くのが見えたから気になって。俺も部活サボってあとを追ってきたら、恭介とまおちゃん……」
 古澤柊斗の声が、最後はぼそぼそと小さくなっていく。少しずつ消えていく声とともに、眉間をぎゅっと寄せる古澤柊斗の顔が苦しげに歪んでいく。
 その理由が、やっぱりあたしにはわからなかった。
 古澤柊斗が好きなのは、詩音さん(あたしのあね)
 それなのに、あたしのことで彼が複雑そうな表情(かお)をするのはどうして――?
「あんたはお姉ちゃんが好きなんだから、あたしが誰とキスしてたって関係ないじゃない」
 冷たく言うと、俯いていた古澤柊斗がばっと勢いよく顔をあげた。
「そうだけど。でも、そういうのはなんかやだっ!」
 どこか不服そうな目であたしを睨みながら、古澤柊斗が駄々を捏ねる子どもみたいに、大きな声で言い放つ。
「なんかやだ、って。何よ、それ」
 めちゃくちゃなことを言う古澤柊斗を苦笑いで見つめたあと、あたしはふと真顔になった。
「だったら聞くけど、あんたはあたしのこと好きになるの?」
 古澤柊斗は、静かにそう訊ねたあたしから目をそらさなかった。
「それは、まだわかんないけど……」
 真剣なあたしの目。それを真っ直ぐに見つめ返してくる古澤柊斗の眉尻が、困ったように垂れ下がる。
 古澤柊斗は、曖昧なことしか言えない自分に困って口籠ったのだと思う。
 だけどあたしのほうは意外にも、彼のその言葉に希望的観測を抱いてしまっていた。
 古澤柊斗があたしのこと好きになるかどうかは、まだわからない(、、、、、、、)
 それってつまり、絶対に報われることなどないと思っていたこの恋が、不毛のままでは終わらない可能性が出てきたってことで……。
 万に一つくらいの確率で、古澤柊斗の心が姉からあたしに動くかもしれないってことだ。
「わかんないって、どういう意味? 少しくらいは期待して待っててもいいってこと?」
 自分の希望的観測に激しく期待しながら、古澤柊斗に意地悪く訊ねる。
「だから、わかんないけど……。でも、まおちゃんのこと、恭介にとられるのは嫌だ。恭介だけじゃなくて、他の誰にも……」
 あたしから視線をそらした古澤柊斗が、ふて腐れた子どもみたいにぽつりと溢す。
 古澤柊斗の口から溢れた言葉に秘かに心をときめかせたあたしの口端が、浮かれてうっすらと引き上がった。
 意識して気を付けておかないと、ニヤけが止まらなくなってしまいそうで。そっぽ向いている彼には気付かれないように、何度もきゅっと口角を引き下げる。
「人のことフッといて、勝手なやつ。このままあんたに振り回されてたら、この先いつまで経っても彼氏作れないじゃん」
 古澤柊斗がいつまでも顔を背けて黙っているから、あたしのほうからふっかけて、つかまれたままの腕を振り払う。
 そのまま土手のほうに歩いて、なだらかな坂道をゆっくりと上り始めていたら、地面に放り出していた鞄をつかんだ彼が、慌てて後を追ってきた。
「まおちゃんっ! ちょっと待ってよ」
 立ち止まって振り返ると、必死な様子で土手を駆け上ってきた古澤柊斗が、しがみつくようにあたしの手をきゅっとつかまえる。
「まおちゃん、もう彼氏作ろうとか思ってんの?」
 眉を下げた古澤柊斗が、ものすごく不安そうに、切羽詰まった声でそう訊ねてくる。
 強くつかまれた手の感触と、見捨てられた子犬みたいに哀しげに揺れる彼の瞳にあたしの胸がときめいた。
 もしあたしが「そんなわけないじゃん」と、ひとこと否定すれば、古澤柊斗は嬉しそうにへらりと笑うんだろう。
 だけどここで甘やかすのは、あたしが負けたみたいで悔しい。それに、古澤柊斗のことだから、あたしとの関係だってこのまま曖昧にし続ける気がする。
「関係ないでしょ。手、離して」
 本当は隠しきるのも難しいくらい、ドクドクと鼓動が鳴っている。それを必死で抑えながら、あたしは古澤柊斗にできるだけ素っ気無く接するように努力する。
 冷たくあしらわれた彼は、シュンと頭を垂れると、ゆっくりとあたしの手を離した。
 それから、上目遣いにあたしをじぃーっと見つめてくる。
「だけど、彼氏作るとしても、恭介はダメだから。あと、さっき駅前で話しかけてきたやつも。ていうか、あのひと誰? もしかして、あれが元カレ?」
 あたしはその目をしばらく見つめ返してから、黙って彼に背を向けた。
 古澤柊斗が好きなのは、たぶんまだあたしの姉なんだと思う。
 だけど、その想いはもしかしたらほんとうに移り変わるかもしれない――。
 だからあたしは、やたらと感情表現が素直で、能天気で、バカ正直で、子どもっぽくて。
 いつもへらへら笑ってるくせに、たまに真剣な表情(かお)をする。
 そんなひとつ年下の彼のことを、諦められそうもない。
 少なくとも、まだしばらくは――。
「まおちゃん!」
 古澤柊斗が、後ろからまた呼びかけてくる。
「まおちゃん、ちょっと待って!」
 土手の草を蹴って必死に追いかけてくる足音に、あたしはさらに強く希望的観測を抱く。
 古澤柊斗だって、少しくらいはあたしみたいに思い悩めばいいんだ。
 そうしていつかその頭の中が、詩音さん(お姉ちゃん)じゃなくて、あたしだけで埋め尽くされてしまえばいい。
 徐々に近付いてくる古澤柊斗の気配を感じながら、次に振り向いたときに彼がどんな表情を浮かべるだろうかと想像してみる。
 きっと、あたしを見つめて眉尻を下げて、困った顔で笑うんだ。
 その顔があまりにリアルに思い浮かんで、ひとりでそっと微笑みながら肩を揺らした。
「まおちゃん」
 不意にすぐそばで、古澤柊斗の声がする。
 振り向こうとしたその間際、川原からの追い風があたしの髪とスカートの裾を翻して、爽やかに吹き抜けていった。

***

 自宅の玄関の前に立つと、閉ざされたドアの向こうから明るく透きとおるようなピアノの音色が漏れ聞こえてきた。
 ゆったりとした優しい旋律で始まるその曲は、多くの人がどこかで一度は耳にしたことがあるだろう、ベートーヴェンの有名曲だ。
 小学生のときの嫌な思い出以来、ベートーヴェンは好きじゃない。だけど、姉が弾くこの曲は嫌いじゃない。
 鍵盤の上で流れるように指を滑らせながら、この曲を弾いている姉の綺麗な横顔を想像したら、ひさしぶりに優しく穏やかな気持ちになった。
 面と向かって「嫌い」だと言って以来、姉とはまともに口をきいていない。
 姉のほうも、あたしと目が合っても気まずそうに目を逸らすだけで何も言わない。
 うまくいっていると思っていたはずのあたしとの関係が、実は脆くてとても歪なものだった。そのことに気付いた姉は、あたしへの接し方に迷っているのだろう。
 この頃はあたしが家にいると、姉はひどく居心地が悪そうだ。
 だからといって、感情的になって姉にぶつけた言葉を訂正するつもりはない。
 仮に古澤柊斗とあたしの関係にこれから変化が起きたとしても、幼い頃から溜め続けてきた姉に対する負の感情はそう簡単に消えたりしないだろう。
 でも、ずっとこのまま姉と仲違いし続けたままでいるのが正解だとも思わない。
 姉に対してぶつけた真っ黒な負の感情。それが完全に消えないとしても、一生引きずっていくには重すぎる。姉に対する嫌悪と憧れは、幼い頃から常に紙一重でもあったから。
 ベートーヴェンの曲が、そろそろ中盤に差しかかる。
 姉の奏でる旋律は、彼女のように透明感があってとても綺麗だ。
 姉のピアノを聴きながら、今少しだけ素直で優しい気持ちになれているのは、きっと古澤柊斗のせいだ。
 古澤柊斗が、あたしの恋心に小さな希望をくれたから。
 今なら、この曲が鳴り終わるまでに姉の部屋のドアを開けることができそうな気がする。
 姉を傷付ける言葉じゃなくて、ちゃんと未来へ進める言葉をかけられる。
 あたしは決意を固めると、玄関のドアノブに手をかけた。
 勢いよくドアを引き開けると、投げ出すように靴を散らして、階段を駆け上がる。
 曲が終盤へと差しかかるにつれて、鼓動がドクドクと速くなる。
 疾走したあとみたいに、肺に酸素を取り込むだけで息苦しい。
 姉の部屋の前に立ったあたしは、今までにないほどひどく緊張していた。
 あと少しで曲が終わる。最後の一音が鳴り響いたら、それを合図にドアを開けよう。
 そして、あたしができる精一杯の、称賛と謝罪の拍手を贈ろう。
 目を閉じて姉のピアノの音に耳を傾けながら、あたしは静かに深呼吸した。