「まおちゃん」
昇降口で上履きからローファーに履きかえていると、恭介が下駄箱の陰から突然姿を現した。
「びっくりした。何?」
薄く笑いながら訊ねると、恭介もあたしにちょっとだけ笑い返してきた。
「柊斗から伝言。何だかよくわかんないけど、『怒らせたならごめん』だって」
恭介はあたしにそれだけ伝えると、くるりと踵を返した。
何だそれ。怒らせたなら、って……。
昨日、川原から立ち去るあたしを呼び止めてきた古澤柊斗は、何もわかってなかったんだ。
あたしが姉のことで彼を非難した理由も、あたしがキスした理由も。それから、あたしの想いも。
「ほんとに悪いと思ってるんなら、自分で謝りに来い!」
大きな声で叫ぶと、昇降口を出て行こうとしていた恭介が怪訝そうに振り向いた。
「古澤柊斗にそう言っといて」
振り返った恭介にそう言うと、彼は数回瞬きをしてから「了解」と苦笑いした。
恭介が去ったあと、校門に向かって歩いていると、誰かが後ろから駆け寄ってきて、あたしの手首をつかんだ。
怪訝に思って振り返ると、そこには部活用のユニフォームを着た古澤柊斗が立っていた。
「何か用?」
なるべく顔を見ないようにしながら冷たい声で言うと、彼が困ったように眉尻を下げて瞳を揺らす。
「えっと……、まおちゃん、昨日急に帰っちゃったから。あとでよく考えてみたら、まおちゃん、会ったときからすごく怒ってたみたいだったし。気に障るようなことしたんだったら、ごめん」
悪いと思ってるなら、自分で謝りに来い。あたしは確かにそう伝えるよう、恭介に頼んだけれど。
今あたしの目の前で頭を垂れている古澤柊斗は、自分が謝っている理由をよくわかっていないみたいだった。
あたしが怒ったように帰って行ったから、なんとなく謝ったほうがよさそうだ、とか。
能天気な頭で、たぶんそんなふうにしか思っていない。
「昨日、あたしがどうして黙って帰ったか。その理由をちゃんとわかってる?」
「えっと……。俺が詩音さんのことで浮かれてた、から?」
古澤柊斗が自信なさげな目であたしの顔をじっと見つめる。
「それで?」
「それで……、それ以外に何かあるの?」
「ほんとに何も気付かないの?」
あたしが苛立った声を出すと、彼は不安そうに小さく頷いた。
バカだな。どうしてあたしは――。
何も気付かない古澤柊斗と、そんな彼に抱いている自分の想いに腹が立つ。
これまでは、傍にいてくれる誰かが現れると、そこから後付けで自分の想いを付け足してきた。
今まで彼氏を作るときは『年上』という条件さえ充たしていればよかった。だからいい人が見つかれば、付き合い出してから好きになれるように気持ちを調整してきた。
だけど、今あたしが古澤柊斗に抱いている想いは今までのものとは明らかに種類が違う。
こんな気持ちは初めてで、どうしていいかわからない。
あたしは古澤柊斗をぎりっと睨みつけると、苛立ちと共に胸の奥から湧き上がってくる言葉を、勢いに任せて一気に吐き出した。
「どうして気付かないの? あたしは、あんたのことが好きなんだよ……」
あたりに響いたあたしの声は、校庭で練習を始めている運動部員たちの掛け声にすぐに掻き消されてしまう。
だけど古澤柊斗に届きさえすれば、あたしはそれでよかった。
それに吐き出してしまうと、何だか気分がすっきりとした。
あたしの想いを聞いた古澤柊斗は、予想外のことに心底驚いたようで、あたしを見つめて呆然としている。それからしばらくしてようやく口を開いたと思うと、
「え、でもまおちゃん。年下には興味ないって……」
なんて。相変わらず無神経なことを言ってきた。
真剣に想いを伝えたつもりだったのに、彼から返ってきた第一声がそれで。
苛立ちを通り越して呆れてしまう。
普通、真剣な告白のあとにそんな言葉を返す――?
でもそういうところが古澤柊斗っぽい。そう思って、あたしは小さく苦笑いした。
バカだな、あたし。
あたしの理想は、年上で優しくて知的で包容力がある、そういう大人な男の人。
古澤柊斗みたいな、子どもっぽくて、能天気で、いつもへらへら笑ってて。ちっとも空気が読めない、無神経なバカは全然好みじゃないのに。
どうして、好きになって、自分から告白してる相手がこんなやつなんだろう。
「年下なんて、興味ないよ。自分でもよくわからないけど、あんたが好きみたいなんだから仕方ないじゃない」
あたしの言葉に、古澤柊斗が耳朶をかっと朱に染めてうつむいた。
「まおちゃん。俺、急でびっくりしてて……。まおちゃんがそんなふうに思ってたとか全然気付かなくて。だけど俺は――」
「お姉ちゃんが好き?」
しどろもどろになりながら一生懸命何かを言おうとしている古澤柊斗の言葉を遮る。
彼は顔を俯けたまま少しだけ視線を上げると、申し訳なさそうにしながら、バカ正直に頷いた。
「ごめん、まおちゃん」
「わかってるよ、バカ」
だから昨日、あたしは怒ってたんだよ。古澤柊斗。
あんたが明るく笑いかけてくれたら嬉しくて。一緒に走るのだって、ほんとはすごく楽しくて。肩が少し触れ合うだけでバカみたいにドキドキして。
何も考えてないように見えて、ときどき的確に、あたしがほんとうに欲しい言葉をくれる。
あんただけが、あたしのことを、ちゃんと『杉本真音』として見てくれているように錯覚させられる。
それなのに、あんたの一番はやっぱりどうしたってお姉ちゃんで……。
どれだけ想ってもどうにもならないってことを、あたしが誰よりもよく知っている。
だけど、想いを伝えたことに後悔はなかった。
申し訳なさそうに俯いている古澤柊斗を見つめながら、引き止められたときからつかまれたままになっていた彼の手をほどく。
「じゃぁ、部活頑張れ」
右手で拳を作って、彼の肩を軽く小突く。
顔を上げた古澤柊斗に少し笑いかけると、彼が片眉を下げながら戸惑ったようにあたしに笑い返した。
その笑顔に、あたしの胸が切なく痛む。
ちょっとでも気を緩めると泣くかもしれない。
あたしは急いで彼に背を向けると、泣き出さないように唇を固く引き結んで、早足で校門をくぐり抜けた。
***
川原の土手に座り込んでぼんやりとしていると、背後から足音が聞こえてきた。
サクサクと土手の草を踏み鳴らす音にはっとして振り返ると、なぜかそこに恭介が立っていた。
「恭介、部活は?」
辺りはまだ明るくて、運動部が活動を終えて帰宅する時間にしては早すぎる。
制服姿の恭介を見上げて首を傾げると、彼が「サボった」と気だるそうに言った。
「いいの?」
「さぁ、どうだろ」
「どうだろ、って」
苦笑いを浮かべていると、恭介があたしの傍に歩み寄ってくる。
「来たのが柊斗じゃなくて俺で、がっかりしてる?」
「まさか」
からかうような口調で訊ねてきた恭介にすぐさま反論すると、彼が笑いながらあたしの隣に腰をおろした。
「嘘つき。まおちゃんて柊斗が好きなんでしょ?」
「は!?」
まさか恭介にバレていたとは思わなくて、その場で硬直する。
「気付かれてないと思ってた?」
小さく頷くと、恭介がクッと笑った。
「そうなんだ。俺、結構前から気付いてたんだけど」
「どうして? あたしそんなに……」
わかりやすかった――?
恥ずかしいなと思いながらため息をついていると、恭介が「それよりまおちゃん」と言いながらあたしの横顔をじっと見てきた。
「柊斗と何かあった? 校門のところでまおちゃんと話して戻ってきてから、あいつ、ずっと上の空だったから」
「あぁ、別に……」
校門での告白を思い出して口ごもったあたしに、恭介が続けて問いかけてくる。
「この前、コンビニの前で泣いてたよね。あれももしかして、柊斗が原因?」
「え……」
「やっぱり、何となくそんな気がした」
表情を強張らせるあたしを見て、恭介がぼそりと呟く。
「あんた、あたしの想像以上に鋭いじゃん」
苦笑いを浮かべながら俯くと、横顔に恭介の視線を感じた。
「そんな顔すんなよ」
顔を上げると、なぜか怒ったような目をした恭介に睨まれる。
「そんな顔って、別に普通……」
笑いながらそう言いかけたとき、恭介が急にあたしの頭を後ろに手を伸ばしてきた。
後頭部からぐっとあたしの顔を引き寄せた恭介が、自分の唇をあたしの唇に柔らかく押し付けてくる。恭介の唇があたしに触れていたのは、瞬きをひとつするくらい。
本当に一瞬のことだった。
恭介の唇が離れていったあと、急なできごとに対応しきれず、あたしは何度も目を瞬かせる。
「俺、まおちゃんのこと好きだよ」
パチパチと瞬きを繰り返すあたしに、恭介が真剣な目をして言った。
「え?」
突然の恭介の告白に、あたしは瞬きをやめて今度は大きく目を瞠る。
だけど、あたしを真っ直ぐに見つめる恭介の目は真剣そのものだった。
驚いているあたしを見つめながら、彼が言葉を続ける。
「ちょっとそっけないとことか、あんまり笑わないとことか、素直じゃないとことか。あと、走ってるときの睨んでるみたいな横顔も」
何よ、それ。恭介が並べたてたそれらの言葉は、あたしの長所でもなんでもない。
そのどれをとっても、可愛くない捻くれ女としか思えない。
「なんか、あんまり褒められてる気がしない」
「だってまおちゃん、綺麗とか可愛いなんて言葉じゃ靡かないでしょ?」
「よくわかるね」
「俺、柊斗みたいに鈍くないし。まおちゃんのこと、結構よく見てるから」
「恭介、変わってる……」
軽く眉を顰めてそう言いながらも、恭介が真剣な目をして伝えてくれた言葉は何だか妙にくすぐったくて。最終的に、クスリと笑ってしまう。
「だけど、好き」
恭介は笑っているあたしを見て柔らかく微笑むと、優しい声でもう一度そう言った。
恭介の言葉に、あたしの心がほんの少し揺れ動く。
恭介がそんなことを思っていたなんて夢にも思わなかったけど、彼が伝えてくれた想いを素直にとても嬉しいと思った。
だけど……。
「ごめん……」
そう呟いたとき、恭介が哀しそうな目をしてほんの少し口元を歪めた。その表情がふと、自分に重なる。
今の恭介の表情は、まるで古澤柊斗に振られたときのあたし。
「柊斗が好きなんだよね」と、無言で訴えかけてくる恭介の目を見つめ返しながら、あたしは胸が苦しくなった。
恭介の気持ちはすごく嬉しい。
あたしは誰かに本気で「好き」だなんて言われたことがあまりないから。
だけど今のあたしは、恭介の気持ちにどうしても応えられない。
もし応えたら、あたしは恭介と、それから自分自身に同情することになる。
古澤柊斗は姉を想ってて、あたしは古澤柊斗を想ってて、恭介はあたしを想ってくれてて。
一方通行で苦しいけど、あたしは古澤柊斗に抱いているこの想いをやっぱりどうしても曲げられない。
恭介から顔をそらして俯いたとき、川原から流れてきた湿気を孕む風があたしと彼の間を吹き抜けた。
「大丈夫。わかってるから」
俯くあたしの耳に、恭介の切なげな声が届く。
それに似たセリフを、少し前にあたしも言ったばかりだ。
「柊斗がいなかったら、俺はたぶんまおちゃんのこと知らなかったし。それに、理屈じゃないよね。人を好きって思う気持ちって」
隣で静かに言葉を紡ぐ恭介の声に、泣きそうになる。
隣に並んで座ったまま、あたしは恭介に何の言葉も返せなかった。