この風の向こうまで


「どうして古澤 柊斗だけじゃなくて恭介までついてくんのよ」
 電車を降りてからもずっと後ろからついてくる二人の男を振り返って睨む。
「足ならもうとっくに治ってるし、とっとと自分の家に帰れば?」
「だって、俺もまおちゃんの美人な姉ちゃん見たいし」
 あたしがどれだけ嫌そうな目で睨もうが文句を言おうが、へらへらと笑いながらあとをついてくる古澤柊斗の横で、恭介がしれっとした顔でそう言った。
「見たいって……。見世物じゃないんだけど。それにお姉ちゃんがいつも家にいるってわけじゃないからね。ていうか、古澤柊斗! あたしは『頑張れば?』とは言ったけど、こうもしょっちゅううちに来ることまでは許可してない」
 不機嫌な声で言って、古澤柊斗を睨む。だけど彼はそんなことはちっとも気にならないらしく、あたしの言葉を無視して恭介を見た。
「あ、詩音さんは俺の兄貴の彼女だから。もし恭介が惚れても、絶対に見込みないよ?」
 自分のことを棚にあげて恭介に釘を刺す古澤柊斗に、呆れてため息が漏れる。
「それ、あんたが言うことじゃないでしょ」
 すかさず突っ込むと、古澤柊斗が「そっか」と笑う。
 バカじゃないの。
 そんなやりとりをしているうちに、あとからついてくる彼らを追い払うことに疲れてくる。そのうちあたしは、彼らに何か言うことを諦めた。
 家に着くと、買い物に出かける母と玄関でちょうど入れ違いになった。
 母はあたしが連れてきた二人の男の子をじっと見ると、
「お姉ちゃん、もうすぐピアノの試験があるみたいだから。練習が始まったら邪魔はしないようにね」
 と、ひとこと釘を刺して出かけていった。
「詩音さん、いるんだ」
 出かけていく母を見送ったあと、古澤柊斗が二階へと続く階段を見上げながら嬉しそうに笑う。
「練習始まったら邪魔すんなって」
「うん、わかってる」
 あたしが母の言葉を繰り返すと、彼が二階を見上げながら頷く。その顔を見る限り、本当にわかっているのかどうかかなり疑わしい。
「一応ジュースくらいは出してあげるから、あんた達は先にあたしの部屋にでも上がっといて。階段上がって、二つ目の部屋。ドア、開いてると思う」
 嬉しそうに口元を緩めて階段を見上げている古澤柊斗を軽く睨みながらそう言うと、彼は早速頷いて、遠慮なく階段を上り始めた。その姿を呆れ顔で睨んでからキッチンへ向かおうとすると、恭介があたしを呼び止める。
「まおちゃん、トイレ借りていい?」
「あぁ、だったらあっち」
「まおちゃん、俺は上がっといていいんだよね?」
 廊下の奥を指差して恭介にトイレの場所を教えていると、古澤柊斗が階段の真ん中辺りから手摺越しにあたしを見下ろしてきた。
「どうぞ、勝手にして」
 あたしが答えると、彼はにかっと笑ってまた階段を上がっていく。
 二階へと消えていく彼の背中を見上げてため息をつくと、あたしはキッチンへ入った。
 冷蔵庫を開けるとオレンジジュースがあったから、とりあえずそれを三人分コップに注ぐ。それだけじゃ淋しいから、余っていたクッキーやスナック菓子をお皿に出した。
 それからお盆を探すためにキッチンの戸棚を開ける。普段あまりキッチンに出入りしないから、こういうときに必要なものがどこにあるのかわからない。
 あちこち棚を開けてお盆を探し回っていると、トイレを済ませた恭介が廊下からこっちを覗き込んできた。
「まおちゃん、俺も部屋行ってていいの?」
「あぁ、どうぞ。階段上がって二つ目の部屋ね」
「柊斗がいるからわかると思う」
 恭介は小さく頷くと、すぐに顔を引っ込めた。
 恭介を見送ってしばらくしてから、ようやくキッチンの端っこの戸棚でお盆を見つけた。
 ジュースとお菓子の皿を載せると、それを持って二階に上がる。
 階段を上がってすぐの姉の部屋のドアはぴたりと閉じられていて、その隣のあたしの部屋はドアが開け放たれていた。
 そろそろ、姉のピアノの練習が始まるのだろうか。
 あたしはできるだけ足音を立てないように姉の部屋の前を通り過ぎると、自分の部屋に入った。
 けれど自分の部屋に一歩足を踏み入れたところで、立ち止まって小さく首を傾げる。
「あれ、古澤柊斗は?」
「さぁ? 俺が上がってきたときからいないけど」
 あたしの部屋の床に胡坐をかいて座っていた恭介が、首を捻る。
 恭介よりも先に二階に上がったはずなのに、なぜかあたしの部屋に古澤柊斗の姿は見あたらない。
「あいつ、どこ行ったんだろう」
 持って上がってきたお盆を机に置きながら呟いたとき、不意に隣の部屋のドアが小さく軋む音がした。
「じゃぁ詩音さん、練習頑張ってくださいね」
「ありがとう、柊くん」
 聞こえてきたのは、古澤柊斗と姉が話す声。まさかと思って廊下に出てみると、古澤柊斗が姉の部屋のドアを丁寧に閉めているところだった。
「あんた、勝手に何やってんのよ」
 声をかけると、ちょうど完全にドアを閉め終わった古澤柊斗があたしを振り返ってにこっと笑う。
 嬉しそうに口元を緩ませながらこっちに歩いてきた彼は、廊下に立っているあたしを部屋の中に引きずり込むとドアを閉めた。
 そして、床に胡坐をかいている恭介とあたしを交互に見ながら、気持ち悪いくらいにやにやとする。
「何?」
「俺、詩音さんとデートの約束しちゃった」
 怪訝な顔のあたしと恭介を前に随分と勿体ぶってから、古澤柊斗が幸せそうに笑う。
「は? デート?」
「いつ?」
 あたしと恭介が同時に驚嘆の声を上げると、古澤柊斗は口元に人差し指をあてて、少しだけ眉をしかめた。
「ふたりとも、声大きい! 詩音さんに聞こえる」
「なんで? デートの約束したんでしょ?」
「いちおうね」
 古澤柊斗は隣室の姉を気にしながらそう言うと、上機嫌で恭介の隣に腰をおろした。
「どこ行ったのかと思ったら、まおちゃんの姉ちゃんの部屋にいたのかよ」
「二階上がったら、詩音さんが気付いて部屋から出てきてくれたんだよ」
「ずるいな、俺もまおちゃんの姉ちゃん見たかった」
 表面上は悔しがる恭介に、古澤柊斗がへらりと笑い返す。
 古澤柊斗と姉がどういう経緯でデートする約束にまでこぎつけたのか。彼は詳しいことを何も話さなかったけど、おやつを食べながら終始嬉しそうだった。
「お姉ちゃんは、あんたの兄貴の彼女だよ? デートとか、何考えてんの? 瑛大さんから本気でお姉ちゃんのこと奪うつもり?」
「そこまで考えてはいないけど」
「じゃぁ、どういうつもりよ。お姉ちゃんに二股でもかけさせる気?」
 すっかり浮かれている古澤柊斗を見ていると、次第に苛立ってくる。
 身の程を思い知らせてやろうと意地悪な言葉をかけても、彼は呑気にへらりと笑うばかりだ。
「だって、まおちゃんが頑張ればって言ったんじゃん」
 古澤柊斗に言われて、あたしは言葉に詰まる。
 確かに「頑張れば」とは言った。言ったけど……。それは、好きな気持ちを諦める必要はないっていう、心情的な問題で。デートの約束をしろ、ってことじゃない。
 あたしの言い方が言葉足らずだったってこと……?
 下手な励ましの言葉をかけたのは自分なのに、姉との仲が進展しかけて嬉しそうな古澤柊斗のことを、手放しでは喜べない。
 一時間程経つと姉の部屋からピアノの音が聴こえ始め、それを合図に古澤柊斗と恭介は帰っていった。
 だけど彼らが帰ってからも、あたしは古澤柊斗にイラついていて、それは夜になっても完全に解消されることがなかった。

***

 夕飯を食べたあと、ピアノの練習のために部屋にこもった姉を追いかけてドアをノックする。
 部屋から出てきた姉は、真横に唇を引き結んで立っているあたしを見て戸惑ったように眉尻をさげた。困った顔をしても整った姉の顔立ちが崩れることは決してない。
 綺麗なその顔をしばらくじっと見ていると、姉はますます戸惑った様子で、眉尻をさげたまま今度は首を横に傾けた。
「真音、どうかしたの?」
 姉のナチュラルブラウンの髪が、彼女の肩で軽く揺れる。
「お姉ちゃん、デートするの?」
 姉の動きのひとつひとつを凝視しつつ訊ねると、彼女が訝しげに眉をひそめた。
「古澤柊斗」
 あたしがその名前を口にすると、姉がようやく何かを理解したように小さく頷く。
「あぁ、柊くん。真音、それが気になって怖い顔してたの?」
「そうじゃないけど……」
「心配しないで。日曜日に一緒に出かける約束はしたけど、デートなんてたいそうなものじゃないから」
 姉が片手をひらひらと軽く振りながら、くすっと笑う。
「別に、心配なんて――」
「真音。心配するなら私じゃなくて、柊くんのクラスメートだよ」
「え?」
 誰かが見ているわけでもないのに、姉が口の横に右手をあてて声を潜めながら、可愛く目配せする。
「実はね、柊くんのクラスメートにクラッシックの好きな女の子がいるんだって。その子の誕生日にピアノのCDをプレゼントしたいけど、どんなのがいいかわからないから一緒に探してほしいって頼まれたの」
「ピアノのCD?」
「うん、そう。柊くんは弟みたいなものだし、そんなお願いされたら断れないでしょ?」
 姉はくすっと笑うと、「可愛いよね」と独り言みたいに呟いた。
「もしかしたら柊くん、そのクラスメートの子のことが気になってるのかも。でも、話を聞く限りまだ柊くんの片想いみたいだから、真音も諦めちゃダメだよ」
 その口ぶりからして、姉はあたしが古澤柊斗を好きだと勘違いしているらしい。
 どうして気付かないんだろう。あいつが好きなのは、お姉ちゃんなのに。
 クラッシックが好きなクラスメートの話なんて、あたしは一度も聞いたことがない。そんなの、お姉ちゃんとデートするための口実に決まってる。
 そんなのにころっと騙されるなんて。オメデタイにもほどがある。
 何も気付かずに二人で出かける約束を簡単に了承している姉に対して腹が立つと同時に、古澤柊斗への苛立ちも込み上げきた。
 あいつだってバカだ。
 姉は古澤柊斗のことを瑛大くんの“弟”としか思ってない。それどころか、二人で出かけることに対して、“デート”という認識すら抱いてない。
 それなのに「詩音さんとデートの約束しちゃった」とか。一人で浮かれてバカみたい。
 あたしは手の平をぎゅっと握り締めると、姉に背を向けた。
「真音?」
 姉が、無言で部屋を立ち去ろうとするあたしを呼び止める。
 だけど、あたしは姉を振り返らずに彼女の部屋を出て階段を降りた。

「真音、どこ行くの?」
 玄関で靴を履いていると、物音に気付いた母がリビングから顔を出す。
「ちょっと、コンビニ行く」
「こんな時間に? 明日じゃダメなの?」
「すぐ帰るから」
 あたしは眉をしかめている母に冷たい言葉をぶつけて家を出た。
 家を出たあたしは、近くの川原まで一気に走った。
 よく来慣れた場所とはいえ、人気のない夜の川原は薄ら寂しい。
 けれど川の水面が遠くの街灯の光に反射して時折輝いていて、それがとても綺麗だった。
 あたしは滑り降りるように土手を下ると、僅かに湿気を孕んだ空気を思いきり吸い込んだ。
 走って、気分を晴らしたい。
 胸を巣食う、姉と古澤柊斗に対するどうしようもない苛立ち。それを今すぐに取り去ってしまいたかった。
 吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出すと、強く地面を蹴って真っ直ぐに駆け出す。
 暗くて足元の視界が悪いけれど、感覚だけを頼りに息が切れるまで一直線に全力で走った。
 数十メートル走ったところで呼吸が持たなくなって、足を止めて脱力する。
 膝に手をついて息を整えていると、川から吹いてくる涼しい夜風が、あたしの耳を、頬を、髪を掠めて抜けていった。
 いつもなら全力で走ったあとに風に吹かれると気分がスカッとするはずなのに。
 なぜか今は、全く気分が晴れない。
 苛立ちやもやもやとした濁った感情は、取り除かれるどころか、胸の奥深くに塵のように降り積もっていく。
 深く重苦しいため息を吐くと、その場に膝を抱えてしゃがみ込む。
 暗闇と夜風に包まれ、あたしはしばらく動き出すことができなかった。
 姉と古澤柊斗がデートした翌日。学校に向かって歩いている途中で、恭介と並んで歩く古澤柊斗を見つけた。
 早足で近づいていってその背中を鞄で軽く小突くと、「いてっ」と呻きながら、彼が背中に腕を回す。
 不審げに振り返った古澤柊斗だったけれど、その視界にあたしの姿を捉えると、途端に人懐っこい笑顔を向けてきた。
「あ、まおちゃん。おはよう」
「あぁ、まおちゃん」
 古澤柊斗よりワンテンポ遅れて、気だるそうな顔の恭介も振り返る。
「おはよ」
 あたしは振り返った二人に素っ気無い挨拶を返すと、古澤柊斗の顔をじろっと見た。朝っぱらに出会って早々あたしに睨まれた彼が、きょとんとした表情で首を傾げる。
「で? デートはどうだったわけ?」
 あたしが訊ねると、きょとんとしていた彼の顔が、徐々にだらしなく緩み始めた。
 蕩けてなくなりそうなその顔を見れば、感想なんて聞かなくても姉とのデートがどうだったのか想像できる。デレデレしてにやけている古澤柊斗を見て眉を寄せていると、恭介が呆れたように笑った。
「俺もデートの感想聞いてみたんだけど、ただにやにやしてるだけで何も言わねぇの」
「ふぅん。そんな楽しかったんだ?」
「うん、楽しかった」
 嫌味っぽい口調で訊ねてみたつもりなのに、古澤柊斗が笑いながら少しの躊躇なく頷く。
「それに詩音さん、すげー綺麗でめちゃくちゃ優しかった。俺、昨日のデートの思い出があれば、あと一週間くらいは何も食わなくても生きていけそう」
「あっそ」
 古澤柊斗があんまり素直に人前で惚気るから、苛立ちを通り越して呆れてしまう。
「で、お姉ちゃんに選んでもらったCDは一体誰にプレゼントするわけ?」
「え? 何でまおちゃんがそれ知ってんの?」
 それまで顔全体で惚気ていた古澤柊斗が、急にちょっと慌て出す。
「お姉ちゃんに聞いたから」
 やっぱり、クラッシックが好きなクラスメートの話は古澤柊斗の嘘だったんだ。
 小さく鼻で笑うと、恭介が興味深そうに口角をきゅっと引き上げた。
「ねー、まおちゃん。それ、何の話?」
「クラッシックが好きなクラスメートの女子にピアノのCDプレゼントしたいから一緒に選んでほしい。そう言って、お姉ちゃんのこと騙してデートしたらしいよ。やり方が汚いよね」
 あたしが皮肉っぽく言うと、恭介がけらけらと笑った。
「何だよ、それ。デートの約束したなんていうから、どうなってんだと思った。もしかしたらまおちゃんの姉ちゃんは、柊斗と二人で出かけたことをデートとすら思ってないんじゃない?」
「思ってないだろうね。お姉ちゃん、古澤柊斗のこと弟みたいだって言ってたし」
 あたしが恭介の言葉にわざと冷たい口調で同意すると、古澤柊斗が不貞腐れてそっぽ向いた。
「うるせーな。そんなの、二人に指摘されなくたってわかってるし」
 低い声でぼやいた古澤柊斗が、足元に落ちていた小石をやけくそ気味に蹴飛ばす。
「ねー、まおちゃん」
 遠くに弾けていった小石をしばらく見つめて黙り込んでいた古澤柊斗が、突然はっとしたように顔を上げた。
「クラッシックが好きなクラスメートの女子の話が嘘だってこと、詩音さんには絶対言わないでね」
 古澤柊斗が急に、真剣な顔付きであたしを見てくる。その顔を見つめ返しながら、あたしは少し意地悪をしてやりたくなった。
「さぁ、どうしよう」
「まおちゃん!」
 肩を竦めながら口元を歪めたあたしを、古澤柊斗が懇願するような目でじっと見てくる。その目をじっと見つめ返して充分な間を置いてから、「言わないよ」と答えると、彼がほっとしたように笑った。
 古澤柊斗の笑顔を見た瞬間、あたしの鼓動がトクンと大きく高鳴る。あたしはそれ以上彼の笑顔が見えないように視線をそらすと、唇を真横にきつく引き結んだ。

***

 その日の夜。夕飯を食べ終わって部屋でくつろいでいると、姉の部屋からヒステリックな声が聞こえてきた。
 いつも穏やかで微笑んでいる印象が強い姉が、声を荒げているなんて珍しい。
 一人で怒っているなんてことはないだろうから、誰かと電話で話しているんだろう。
 しばらく姉の部屋の様子に耳を澄ませていたけれど、ヒステリックな姉の声は治まらない。
 何が起こっているのか気になったあたしは、そっと姉の部屋を覗き込んでみた。
 姉の部屋のドアは半分ほど開いていて、その隙間から彼女の様子が見える。
 姉はベッドに座ってスマホを握りながら、強い口調で何か言っていた。
「だってそれは瑛大くんが――!」
 電話の相手は、瑛大くん?
 姉が彼と電話で言い争っているなんて、珍しい。
 強い口調で電話口に向かって話し続けていた姉が、突然涙声になる。
「もういい!」
 姉は最後に吐き捨てるようにそう言うと、通話ボタンを押してスマホをベッドに放り投げる。
 こんなに取り乱して怒鳴る姉を見たのは、記憶の限り初めてだ。
 姉の姿に驚いて呆然としていると、あたしの気配に気付いた彼女と目が合った。
「真音?」
 姉があたしの名前を呼びながら、指先で目元を擦る。
「ごめん、うるさかった?」
「そうじゃないけど、何かあったの?」
「何でもないの。うるさくしてごめんね」
 姉はうっすらと目に溜まっていた涙を完全に拭ぬぐいとると、いつも通り優しく綺麗に微笑んだ。
「瑛大くんと、ケンカでもした?」
「大丈夫。心配かけてごめんね」
 あたしの問いかけに、姉が哀しそうな目をして静かに首を横に振る。
 その日から数日の間、姉はどことなく元気がなかった。
 両親と話しているときも、ご飯を食べているときも、ぼーっとしてときどき上の空になる。
 ピアノの練習をするからと部屋にこもっていても、姉の部屋からピアノの音が聴こえてくることはほとんどなくて。珍しく母が、姉のピアノのことで父に愚痴を溢していた。
 やっぱり、姉は瑛大くんとケンカしたんだ。
 そしてたぶん、あの電話のあとから仲直りができていない。
 これまで週に一回はうちに遊びにきていた瑛大くんも、しばらく遊びに来ていない。
 いつも仲がいいのに、何があったんだろう。
 元気がない姉の様子が気にはなったけれど、あたしは珍しい二人のケンカを比較的楽観視していた。
 瑛大くんは大人で優しいから。きっと、しばらく経てば二人は仲直りする。そう思って、あたしは元気がない姉のことを静かに見守っていた。

***

 日曜日。あたしはエリナと買い物に行く約束をしていた。
 待ち合わせに間に合うように、昼過ぎに玄関で履いていく靴を選んでいると、姉がすごい勢いで階段を駆け下りてきた。
「お母さん、ちょっと出かけてくるね」
「どこ行くの?」
「ちょっとそこまで」
 玄関に出してあったつま先の丸いローヒールの靴に足を通した姉が、余裕なさげにあたしの横をすり抜ける。
「どうしたの、そんな急いで」
 あたしが声をかけると、姉は「ちょっとね」と言って慌てた様子で出て行った。
 ずいぶんと軽装で出て行ったけど、そんなに急いで何の用事だろう。
 あたしは姉が出て行った玄関のドアを見つめて首を傾げると、長い時間をかけて選んだ靴を玄関の床に置いた。
 ヒール十五センチ程の、まだ二回しか履いていない白色の靴。一目惚れして買ったような気がするけど、その割にほとんど履いていない。その白い靴に足を通すと、あたしも姉に続いて家を出た。
 待ち合わせの場所に着くと、先に来ていたエリナがあたしを見つけて手を振ってきた。
「ごめん、待った?」
 あたしが謝ると、エリナは笑顔で首を横に振った。それからすぐに申し訳なさそうに片眉を下げる。
「いいよ、全然。それよりあたしも真音に謝らないといけないことがあって」
「何?」
「今日一日空いてるって言ったのに、急遽夕方から彼氏とごはん食べに行くことになっちゃった。だから、五時くらいには帰ってもいい?」
 スマホで時間を確かめると、現在昼の二時少し前。ゆっくり買い物するにはあまり時間がないような気もするけど。エリナの彼氏は今年受験生で、会える時間に制約もあるのだろうから仕方ない。
「いいよ、気にしなくて」
 あたしがそう言うと、エリナは顔の前で両手を付き合わせて「ごめんねー」と眉尻を下げて笑った。
 時間が限られていることもあって、あたしとエリナはお互いがよく行くお気に入りの店をあらかじめ決めてから買い物をした。
 あまり時間がないかと思ったけれど、事前に行きたい店を決めていたおかげで、ムダなく効率的に買い物ができた気がする。
 買い物を終えたあと、エリナが「まだ時間がある」と言うので、駅前のコーヒーショップに入って時間を潰すことにした。二人掛けの席に座って今日買ったものをエリナと見せ合ったあと、注文したカフェ・ラテを飲む。
「結構歩いたから、足痛い」
「真音が普段よく履いてるのよりヒール高いもんね。それって、元彼の誕生日デートのためにって買ったやつじゃなかった?」
 テーブルの下でこっそりヒールの高い白い靴を脱ぎ、足のつま先を握ったり開いたりしていると、エリナがあたしの足元を指差してきた。
「そうだっけ?」
「そうだよ。あたし、買い物付き合ったもん」
 十五センチヒールの、まだ新しい白の靴を見ながら少し考える。
 家で靴を選んでいるときには気付かなかったけど、言われてみればそうだった。
 音信不通にされたのちに、ラインであたしに別れを告げてきた元彼の誕生日。デートの場所は結局彼の家だったけれど、年上の彼に見合うようにちょっとでも大人っぽく見せたくて。試着の段階で足が痛くなるのを充分承知の上で、見栄を張ってヒールの高い靴を買ったんだっけ。
 買ってからあまり履いていないという単純な理由で今日はこの靴をチョイスしたけど……。すっかり忘れていた。
「その靴をどういう理由で買ったか忘れてたってことは、元彼のことはもう完全にふっきれたんだ?」
 エリナがテーブルに両肘をついてあたしのほうに身を乗り出してくる。
「うーん、そうだね」
 ふっきれたというか、もう全く思い出すこともなかったかも。
 白い靴にもう一度足を通しながら苦笑いを浮かべていると、エリナが「そっか、そっか」と頷きながら微笑んだ。
「だったら、こないだ言ってたあたしの彼氏の友達。正式に紹介しようか?」
 エリナの申し出に即答できずにいると、彼女が少し不満そうに眉根を寄せた。
「どうしたの、真音。この前からずっとノリ悪くない?これまでなら、年上って聞いただけで『紹介して』ってすぐスマホ出してたじゃん」
「すぐって。そんなノリ軽くないってば……」
 エリナの言うとおり、フリーのときに年上の男の紹介の話がきたら、わりとすぐに飛びついてたってことはあながち間違ってはいないけど……。
 苦笑いを浮かべながら言葉を濁していると、エリナがさらに身を乗り出して、あたしの顔をじっと覗き込んできた。
「真音さー、もしかして、好きな人できた?」
「はぁっ!?」
 唐突なエリナの発言に、反射的に椅子から腰が浮く。同時に、店中に響き渡るくらいの大きな声を出してしまった。
 店内に響き渡る声を聞いた周りの客達が、迷惑そうに、あるいは驚いたようにあたしを振り返る。たくさんの人にじろじろと見られた恥ずかしさで顔を赤くしながら、あたしは軽く浮いてしまった腰をもう一度椅子に落ち着けた。
「真音、過剰反応しすぎ。恥ずかしいんだけど」
 真っ赤な顔で椅子に座りなおしたあたしを見ながら、エリナが眉をしかめる。
「ごめん……」
 俯きがちに謝ると、迷惑そうに眉を寄せていたエリナが、口角をあげて意味ありげに笑った。
「でもそんなに過剰反応するってことは、やっぱりできたんだ? 好きな人」
 脳裏にほんの一瞬だけ、へらりと笑う古澤柊斗の顔が思い浮かぶ。
 どうして今、古澤柊斗――!?
『好きな人』と言われてなぜか勝手に思い浮かんできたその顔に、頬がかあーっと熱くなる。
「まさか! そんなのできるわけないじゃん」
 頭を大きく横に振ると同時に、思い浮かんできた古澤柊斗の薄ら笑いを遠くへ振り払う。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「嘘だ、絶対いるでしょ?」
「いないってば!」
 何度も全否定しているのに、エリナはしつこくあたしを問い詰めてくる。
「エリナ、彼氏との待ち合わせ場所に行かなくていいの?」
 しつこいエリナにうんざりしてため息をつくと、彼女は「まだ少し大丈夫」と言ってにこっと笑った。
「真音が言わないならこっちから聞くけど、最近後輩の男の子で仲がいい子いるでしょ?」
「は!?」
 エリナの言葉に、また古澤柊斗の顔を思い出してドキリとする。
 エリナはそんなあたしの心を見透かすように笑うと、右手の人差し指と中指をそれぞれ同時に立てて、あたしの目の前に突き出してきた。
「しかも、一人じゃなくて二人」
「二人?」
「あたし、この前見ちゃったんだ。真音が後輩の男の子二人と登校してるとこ。一人はなんか可愛い感じで、もう一人はちょっとクールな雰囲気の子。真音、年上に拘るのやめたの?」
 二人っていうから誰かと思ったら……古澤柊斗と恭介のことか。この前校門の近くで出会った二人に話しかけてたところを、エリナに見られてたんだ。
「あれは、仲がいいとかそういうんじゃないから!」
 反論するあたしを見て、エリナがにやにやと笑う。
「嘘だ。楽しそうに話してたじゃん」
「別に、楽しい話はしてなかったよ」
 姉とデートした翌日の古澤柊斗に嫌味を言ってただけだ。楽しいどころか寧むしろ、デレデレしている古澤柊斗にムカムカしていた。
「で、真音はどっちが好きなの?」
 エリナが興味深々といった様子で目を輝かせる。
 エリナに問われて、またほんの一瞬だけ古澤柊斗の顔が浮かぶ。
 どうして……。あいつはお姉ちゃんが好きなんだから。
 一瞬でも彼の顔を思い浮かべてしまった自分が腹立たしい。
「どっちも好きじゃないし、年下には興味ないって」
 顔をしかめながらきっぱり否定すると、エリナが面白くなさそうな顔をした。
「真音、絶対嘘ついてる」
 不服そうに唇を尖らせたエリナは、彼氏との待ち合わせ時間ギリギリまであたしを問い詰めてきて。本当に、かなりしつこかった。

 エリナと別れたあと、あたしは真っ直ぐに自宅の最寄り駅まで戻った。
 ヒールの高い靴で急ぐと疲れるから、駅から家に向かってゆっくりとのんびり歩く。しばらく歩いていると、川原が見えてきた。
 土手の傍の道を歩いていると、涼しい風がふっと首筋を吹きぬけていく。その風の温度が心地よくて、あたしは何気なく足を止めた。
 土手の上から川原を見下ろす夕暮れの川原は、落ちていく太陽の橙色の光に照らされてとても綺麗だった。まだ完全に日が落ちきっていないから、川岸には犬の散歩をする人やウォーキングをしている人がまばらに行き来している。
 その風景を見ながら和んでいると、あたしが立っている位置から数メートル離れた土手の中ほどに、肩を寄せ合って座っているカップルの後ろ姿が見えた。
 黒髪の男の人と、ナチュラルブラウンの髪の長いの女の人。二人の後ろ姿は華奢で、まだあたしと同じくらい若そうだ。
 夕暮れの川原でデートなんて、気持ちよさそう。
 しばらく二人の後ろ姿を微笑ましく見つめてから再び歩き出そうとしたとき、ナチュラルブラウンの長い髪の女の人が動いた。
 そのすぐあと、彼女の動きを追うように男の人が動く。
 少し遠目だったけど、あたしの立っている場所から二人の横顔がはっきりと見えた。その瞬間、あたしの身体が凍り付く。
「どうして……」
 川原の土手に向かい合うようにして座っている男女は、姉と古澤柊斗だった。
 姉は今日の午後、あたしが出かけるのとほぼ同じタイミングで家を出たはずだ。それなのにどうして今、古澤柊斗とこんなところにいるんだろう。
 立ち尽くしたまま動かなくなったあたしの心臓が、ドクドクと早鐘を打つ。
 古澤柊斗はいつになく真剣な目で向かい合う姉のことを見つめていて、姉は彼の前で静かに泣いているようだった。
 姉をじっと見つめていた古澤柊斗が、不意にすっと腕を伸ばしてその手の平で彼女の左頬に触れる。
 姉が戸惑うように肩を揺らして顔を伏せると、古澤柊斗は姉の顎に親指を押し当てて、彼女の顔を上に向かせた。
 姉の頬に触れていないほうの彼の手が、彼女の涙を優しく拭う。
 スローモーションのようなその映像を遠くから見つめていたあたしの鼓動が、ドドドッと急に激しくなった。
 これ以上見ないほうがいい。
 心臓がそんな警告が出しているのに、あたしは二人から目をそらせなかった。
 姉の涙を拭ってやった古澤柊斗が、彼女の肩に手を載せる。
 姉はその手を避けることも拒むこともしなくて……。あたしの目の前で、古澤柊斗が姉のことを壊れ物でも扱うみたいに、優しくそっと抱きしめた。
 ドドドッと、激しい音をたてるあたしの鼓動。
 ズキンと胸を鋭い痛みが突き抜けて、窒息しそうなくらい息苦しくなる。
 今、あたしが目にしている光景は何――?
 どれだけ長い間、古澤柊斗と姉が抱き合っていたのかはわからない。
 彼がゆっくりと姉の身体を離すのと同時に、あたしも川原から離れた。
 歩き出したあたしの足は、勝手にふらふらと駅のほうへと引き返していく。
 激しい動悸はまだ治まらなくて、息苦しくて。とてもじゃないけど、このまま家に帰れそうにない。帰ったとしても、姉と普段どおりに顔を突き合わすことなんてできない。
 あたしは駅前まで戻ると、その付近をあてもなく歩き回った。
 日が完全に落ちると辺りは次第に暗くなってきて、人通りも少なくなる。
 履きなれない高いヒールで歩いているせいで、足が痛くて仕方なかった。ついに足の痛みに耐え切れなくなって、駅の傍のコンビにの前でしゃがみ込む。
 片方だけ靴を脱いでみると、靴擦れで踵の皮がひどく擦りむけていた。
「痛い……」
 擦りむけた踵に指先で触れながら呟いたとき、目尻から涙の粒がぽたりと地面に落ちる。
 あたし、なんで靴擦れくらいで泣いてるんだろう。
 慌てて目尻を拭ったけれど、すぐにまた目に溜まった涙が零れ落ちてくる。
 痛いのは、足だけじゃない。
 それに気付いたあたしは、右手を握り締めてそれを強く左胸に押し当てた。
「頑張れば」と。古澤柊斗に向かって無責任な励ましの言葉を投げかけたのはあたし。
 だけど……。泣いている兄貴の彼女を抱きしめちゃうなんて。
 あたしの言葉を本気で受け止めて、素直に真面目に頑張りすぎでしょうが。
 そんなふうに本気で頑張られたら、あたしは……。
 川原で見た光景が再び脳裏に甦ってきて、唇を強く噛み締める。
 同時にあたしの目尻からは、また涙の粒が零れて落ちた。
「まおちゃん?」
 しばらくの間、靴擦れと胸の痛みとそれから涙のせいでコンビニの前にしゃがみ込んでいると、不意に頭上から声が聞こえた。
 手の甲で目元を拭って顔を上げると、恭介がすぐ傍に立っていた。
 最初は眉を寄せて首を傾げていた恭介だったけど、あたしの顔を確認すると驚いたように半歩後ろに後ずさる。
 きっと、涙でひどい顔をしているあたしにびっくりしたんだろう。泣きすぎたせいで、アイメイクが完全に落ちていつもと違う顔になっているはずだ。
 慌てて顔を伏せると、一度は後ずさった恭介がまた近づいてきてあたしの隣にしゃがんだ。
「まおちゃん、どうかしたの?」
 優しく声をかけてくる恭介に、あたしは顔を伏せたまま小さく首を横に振る。何も言わずに伏せているあたしの隣で、恭介が困っているのがわかった。
「別に、何でもないから」
 できるだけ平然を装ったつもりだったけど、掠れた涙声は隠せない。
「まおちゃん。もしかして、靴擦れ?」
 踵の靴擦れに気付いた恭介が、あたしの足元を指差す。
「これが痛くて動けなかったとか?」
 靴擦れのせいもあるけど、それだけじゃない。
 だけどコンビニの前で蹲って泣いていた本当の理由なんて言えるはずないから、恭介の問いかけに無言で頷いた。
「だったら絆創膏買ってきてやるよ」
 恭介は立ち上がると、あたしをその場に残してコンビニの中に入っていった。
 それから数分もたたないうちに戻ってくる。
「はい。これ貼ったらちょっとはマシじゃない?」
 あたしは無言で小さく頷くと、恭介に差し出された絆創膏の箱を受け取った。
 箱の中から絆創膏を二枚取り出して、右と左の踵に丁寧に貼る。
 絆創膏を貼り終えたあともその場にしゃがみ込んでいると、恭介に手首をつかまれた。想像よりも大きな恭介の手の平に驚いていると、彼があたしを引っ張って立ち上がらせる。
「家まで送ってく」
「え、平気だけど」
「でも、もう遅いし。なんか、心配だから。まおちゃん、泣いてたし」
 恭介の言葉に、つい恥ずかしさで目を伏せると、彼があたしの足元にぽとんと何か落とした。
「あと、これ使って。サンダルでもあればいいなーと思ったんだけど、これくらいしかマシなのなかった」
 恭介が落としたのは、コンビニで買ったばかりの室内用の白いスリッパだった。
「痛いの我慢してそれ履いて帰るよりいいと思う。ちょっとダサいかもだけど、こんだけ暗ければ足元なんてわかんないし」
「ありがと……」
 恭介の優しさが、弱っていた心に沁みた。
 結局あたしは、そのまま恭介に家まで送ってもらうことになった。
 暗くても慣れた道なら平気だと思っていたけれど、川原の近くに差し掛かったときに、そこで抱き合っていた古澤柊斗と姉の姿を思い出した。
 もうあれからだいぶ時間が経っているというのに、古澤柊斗が姉を優しく抱きしめた瞬間の映像がはっきりとリアルに思い出されて、胸がズキンと痛む。
 恭介は終始無言のままだったけど、もし彼が隣にいなかったらあたしはまた泣いていただろう。土手の傍の道を歩きながら、やっぱり恭介に送ってもらってよかったと思った。
「ありがとう、助かった。絆創膏とそれからスリッパも」
「いいよ、別に。それよりまおちゃん、さっき泣いてたのって本当に足が痛かっただけ?」
 家の前で恭介にお礼を言うと、彼があたしの顔をじっと見つめながら訊ねてきた。
 動揺して視線を泳がせると、恭介が小さく首を横に振る。
「ごめん、何でもない」
 恭介はそう言うと、あたしに軽く手を振って帰っていった。

「ただいま」
 玄関のドアを開けると、あたしの声を聞いた母がリビングから飛び出してきた。
「真音。連絡もしないで遅くまでどこ行ってたのよ! 夕飯、とっくにできてるわよ」
 眉間に皺を寄せて怒る母の前で、あたしは小さく肩を竦める。
「ごめん……」
 母が怒っているときに反論するとその怒りを助長させるだけだと知っているから、小さな声で謝って彼女の傍をすり抜けた。
「荷物置いたら早く降りてきなさいよ!」
 階段を上がって部屋へと向かうあたしに、母が階下から怒鳴りつけてくる。
 あたしは鞄と買い物した店の袋をドアの外から部屋に投げ込むと、それ以上母の怒りが増幅しないように急いで階段を駆け下りた。
 リビングに行くと、夕飯の用意はほぼ完璧に整えられていて、既にダイニングテーブルについている父がテレビのリモコンを操作していた。あたしが席につくと、母がお盆に茶碗を三つ載せてキッチンから出てくる。
「お姉ちゃんは?」
 テーブルの上に夕飯の用意は整えられているのに、姉の姿がどこにも見えない。運ばれてきた三つしかない茶碗を見ながら訊ねると、母が「さぁ」と言いながら首を傾げた。
「ちょっと遅くなるって連絡があったけど。そのうち帰ってくるんじゃない?」
「遅くなる……?」
 それって、まだ古澤柊斗と一緒にいるってこと……?
「お母さん、すぐにお姉ちゃんに連絡しなよ。帰ってこいって……!」
 あたしが食い気味に迫ると、母が驚いたような顔をした。
「なによ、急に。詩音はもう大学生なんだから、そこまで厳しくしなくても大丈夫よ」
「でも……、外で何してるかわからないじゃん!」
「何言ってるのよ。詩音と真音は違うのよ」
 母が呆れ顔でそう言う。
 いつもいい子の姉は、母からの信頼度もあたしとは違うのだ。
 日頃の行いって言われたら仕方ないけど……、姉は今、瑛大くんっていう彼氏を差し置いて、年下の高校生と浮気してるのに……!
 そのことを言いつけてやりたいけど、言ったところで母はあたしの言葉なんて信じないだろう。
 それ以上は母に何も言えずに、手のひらをギュッと握りしめる。
「真音が気ままなのは昔からだけど、この頃詩音もおかしいのよね」
 母が父の前に茶碗を置きながら、顔をしかめてぶつぶつ言っている。
 母の不満げな声を聞き流しながら、あたしは姉と一緒にいる古澤柊斗の姿を想像していた。
 彼は今頃姉の前で、いつもみたいに人懐っく明るく笑っているんだろうか。
 ときどき空気の読めないことを言って、姉のことを困らせて。それから……。
 そんな考えを巡らせている間も、姉を抱きしめる古澤柊斗の姿が脳内に映像となって浮かび上がって、リフレインする。
 古澤柊斗と姉のことを考えるとどうしようもなく息苦しくて、夕飯はほどんど味を感じなかった。

 姉が家に帰ってきたのは、あたし達が夕飯を食べ終わって二時間ほど過ぎた頃だった。
 お風呂から出て部屋に上がろうとしていたあたしは、廊下で姉とすれ違う。
「あ、真音」
 すれ違いざまにあたしを見た姉は、何か言いたげな顔をしていた。
 だから、怖かった。
 今立ち止まれば、姉の口から古澤柊斗に関することを聞かされるかもしれない。呼び止める姉の声が聞こえなかったふりをして、あたしは彼女から逃げてしまった。
 放課後。あたしは真っ直ぐ家へは帰らずに、制服のまま近所の川原に行った。土手を半分ほど下ったところで足を前に投げ出すようにして地面に腰をおろす。
 無性に走りたい気分になったわけでもないし、夕暮れの川原の風景を見たかったわけでもない。
 自分でもよくわからないままに、あたしはこの川原にやってきていた。
 目の前を流れていく川の水面を見つめながら、背中の後ろに両手をついて小さくため息をつく。
 このままここにいたら、部活を終えた古澤柊斗が自主トレのためにやってくるかもしれない。
 あいつの顔は見たくない。
 そう思うのに、土手に座り込んだあたしはなかなかそこから腰を上げることができなかった。
 顔は見たくない。だけど、会いたい。
 矛盾する二つの願望が、あたしの中で葛藤してせめぎ合う。
 古澤柊斗の顔を見たらきっと、ここで彼が姉と抱き合っていたのを思い出す。思い出せばまた息苦しくなって、自分が傷つくだけだとわかっているのに。
 矛盾する二つの想いが夕暮れの川原にあたしを留まらせていた。
「あれ、まおちゃん。今日も来てたんだ?」
 結局立ち上がることができないまま土手の中腹に座っていると、背後から草を踏みつけるサクサクという足音が近づいてきた。
 聞きたいようで聞きたくなかった声に話しかけられて、心臓がドクンとやけに大きな音をたてる。
 足音と声を聞いただけでこんなにも動揺するなんて、バカみたいだ。
 あたしは古澤柊斗の顔が見たいわけじゃない。それに、待ってたわけでもない。
 絶対に自分から振り返ったりしないように、背中の後ろについた手をぎゅっと強く握り締める。
「まおちゃん?」
 だけど後ろから近づいてきた彼は能天気な声であたしを呼ぶと、あたしの左隣に腰を落とした。
 気安く隣に座ってきた古澤柊斗の右肩が、あたしの左肩に軽く触れる。
 男の子とちょっと触れるくらい普段は何ともないはずなのに、彼と触れた側の肩が、自分でも驚くくらい過剰に揺れた。
 でも、鈍感な彼は普段とは違うあたしの肩の震えになんて気付かない。
「何してんの?」
 古澤柊斗はあたしの横顔を覗き込むように小首を傾げると、いつもと同じ調子でへらりと笑った。
「別に何も」
「そっか。俺、これから川沿いをジョギングするけど、まおちゃんも一緒に走る?」
「あたし、制服なんだけど……」
「何をいまさら。まおちゃん、ここで走ってるときいっつも制服じゃん」
 あたしがどんな想いで、今隣に座っているか。そんなことも知らないで、古澤柊斗が肩を揺らしながら暢気に笑う。
 いつも笑っていることが多い彼だったけど、なんだか今日は特別に機嫌が良さそうだ。
「今日はやけに浮かれてない?」
 嫌味っぽい声で訊ねると、古澤柊斗は「そうかな」と、へらへら笑った。
 そんなに機嫌がいいのは昨日姉と――。
 ご機嫌な古澤柊斗の笑顔と、昨日この場所で見た光景がリンクする。
 思い出したくなんかないのに、姉を抱きしめている彼の横顔は、今もあたしの頭に鮮明にこびりついたままだ。
 窒息しそうな息苦しさに襲われて、右手で作った拳を胸にぎゅっと押しつける。
 泣いていた姉を抱きしめた古澤柊斗は、あのあとどうしたのだろう。あのあとも、遅くまでずっと姉の傍にいたんだろうか。
 そうして、姉に想いを伝えた? それに対して姉はどう答えてくれた?
 姉は電話でケンカをしていた瑛大くんと未だに仲直りしている気配がない。
 まさか、瑛大くんと別れて古澤柊斗と……。
 そんなの、嫌だ――!!
 一人で勝手に膨らまし続けた想像が、あたしの中で爆発しそうになる。
 ばっと顔を上げると、古澤柊斗が不思議そうな目であたしをじっと見つめた。
「まおちゃん、どうしたの? なんか今日は変だけど……。悩みごと?」
「悩みごと?」なんて。そんな能天気な声で訊いてこないでよ。
 あたしが今苦しいのは、全部あんたのせい。
 古澤柊斗の目を、強く見つめる。
 けれどどんなにきつく睨んでも、彼はいつものようにへらりと笑うだけで、あたしの心の内には少しも気付かない。それどころか、へらへらとした笑みを浮かべたまま、信じられないくらい無神経なことを口にした。
「あ、もしかして恋の悩み? だったら俺が聞いてあげてもいいよ。まおちゃんも詩音さんのこと励ましてくれたし」
「は?」
「まおちゃん。今、好きな人とかいるの?」
 好きな人。そんなの――。
「さぁ、どうだろ。年上の彼氏には着信拒否されて、そのまま会えずに振られたし。昔何度か遊んだ先輩には騙されたし。それからよくわかんない」
 あたしは一度きゅっと下唇を噛むと、どこまでも無神経な古澤柊斗のことをさらに強く見つめた。
「振られて騙されたって……。まおちゃん、それで悩んでたの?」
 古澤柊斗が同情するようにあたしを見ながら、片眉を下げる。
「違う」
 年上の元彼のことも、コージ先輩に騙されたことも。ムカつくことには変わりないけど、あたしの中ではとっくに吹っ切れてる。
 それは、古澤柊斗がここで走っているあたしを偶然見つけてくれたからで。古澤柊斗がいつも、何も考えてないみたいな顔で、バカみたいに無邪気にあたしに笑いかけてくるからだ。
 だけどあんたは……。
 あたしは土手に生えていた草を衝動的にむしりとると、それを古澤柊斗に向かって投げつけた。
「……っぷ。まおちゃん!」
 渋い表情を浮かべて、彼が顔にかかった草を手で振り払う。
「いきなり何?」
「悩みなら聞いてあげてもいいとか……。年下のくせに、ほんとムカつく」
 低い声でそう言うと、彼がわけがわからないとでも言いたげに眉を顰めた。
「さっきから何浮かれてんの? バカみたい」
 続けて低く呟くと、彼が怪訝そうに首を傾げた。
「まおちゃん、今日はやけに機嫌悪くない?」
「だとしたら、バカみたいに浮かれてるあんたのことがムカつくからだよ。浮かれてるのは、昨日ここでお姉ちゃんとふたりで会ってたから?」
「え?」
 あたしの言葉を聞いた古澤柊斗が、驚いたように大きく目を見開く。それからすぐに動揺したように、黒い瞳を左右にうろうろと動かした。
「どうしてまおちゃんがそれ……」
「夕方ここを通りかかったとき、偶然見ちゃった。憧れのお姉ちゃんのこと、抱きしめてみた感想は? コーフンした?」
 嫌味のこもった声で訊ねるあたしの前で、古澤柊斗が困ったように首筋を掻く。
「あれはちょっと、成り行きっていうか……。昨日俺んちに来た詩音さんが、兄貴とケンカみたいになって帰って行っちゃって。兄貴も『ほっとけ』って、珍しくキレてるし。追いかけて話聞いてあげてたら、つい……」
「瑛大くんとケンカして弱ってるお姉ちゃんの心につけ込んだんだ?」
 ピクリと眉を痙攣らせるあたしの前で、古澤柊斗が弁解するように顔の前で横に手を振る。
「もちろん、あとで詩音さんには謝ったよ。そのあと、ちゃんと兄貴のところにだって連れ戻したし」
「ふーん。思いきった行動に出たくせに、お姉ちゃんのこと、あっさり瑛大くんに返しちゃったんだ? せっかく奪い取るチャンスだったかもしれないのに」
「そもそも、兄貴から奪えるなんて思ってないし。俺は、詩音さんが笑顔になってくれたらそれで充分だから」
 照れくさそうに首筋を掻きながら、たらたらと言い訳を述べる古澤柊斗にだんだん苛立ってくる。
「綺麗事言っちゃって、バッカみたい。ほんとはフラれるのが怖かったんじゃないの?」
 あたしに罵られた古澤柊斗の瞳が、傷ついたように小さく揺れる。
 だけど彼は、あたしに何の反論もしてこなかった。
「図星だから、何も言えない?」
 口を開けば、古澤柊斗を傷付けるような言葉ばかりが溢れ出す。
 でも本当は、彼を傷付けたいわけでも悲しい顔をさせたいわけでもない。伝えたいのは、こんなことじゃない。
 胸の中が苛立ちと切なさが入り混じった奇妙な気持ちで支配されて、古澤柊斗の前で頭が正常に働かない。
 あたしは古澤柊斗が着ているスウェットの胸元を両手でぐいっとつかむと、彼のことを下からじっと見上げた。
「前にあんた、言ってたよね。あたしにも、お姉ちゃんに負けないものがひとつくらいはあるんじゃないか、って」
「まおちゃん?」
 胸ぐらをつかまれた彼が、戸惑ったようにあたしを見下ろす。その表情が、苛立ちと切なさが綯交ぜになったあたしの胸を、一層強く締め付けた。
「あるよ、走る以外にも負けないもの。たとえば付き合った彼氏の数。瑛大くんしか知らないお姉ちゃんには、絶対負けない」
 古澤柊斗の目が僅かに見開かれるのがわかる。
「言っとくけど、お姉ちゃんよりあたしの方が経験豊富だよ?」
 挑戦的な目で古澤柊斗を見上げると、ふっと微笑む。
 スウェットをつかむ手に力を入れて引き寄せると、よろけた古澤柊斗があたしのほうに前のめりに近づいてきた。
 あたしも身体を前に少し突き出すと、古澤柊斗の唇に噛み付くように、自分の唇を重ね合わせる。
 あたしに唇を塞がれた古澤柊斗が、痙攣するみたいに小さく肩を震わせた。
 抵抗するように後ろに身を引こうとする古澤柊斗を逃さないように、つかんだままの彼のスウェットを強く引っ張る。
 一度触れた唇をあっさりと離すのはもったいなくて、あたしは古澤柊斗の唇に、角度を変えて何度もキスをした。
 それからゆっくりと唇を離すまで、彼は硬直したままあたしのされるがままになっていた。
「へたくそ」
 あたしが唇を離してもまだ呆然としている古澤柊斗に向かって呟く。
 すると彼はようやく我に返ったようで、手の甲で口元を押さえながら顔中耳まで真っ赤になった。
「まおちゃ…、今っ――!?」
 古澤柊斗があたしを前にしてものすごく動揺しているのがわかる。
 これくらいのキスで動揺するくせに、お姉ちゃんと抱き合ったくらいで浮かれるなんて……。ほんとにバカだ。
 ねぇ。今のあたしのキスを、あんたはどんなふうに受け止めた――?
 睨むみたいに、真っ直ぐじっと古澤柊斗を見つめると、彼が顔を赤くしたまま困惑した様子であたしから目をそらす。
 その瞬間、胸の奥が鈍い音をたてて疼いた。
 あぁ。違う。そうじゃない。
 こんなの、ただ、古澤柊斗を困らせただけ。
 古澤柊斗は、自分からキスをしたあたしの気持ちになんて少しも気付かない。
「バカ! 無神経!」
 少しも伝わりそうにない想いと胸の痛みを乱暴な言葉に代えて、古澤柊斗に向かって吐き捨てる。
 下唇をきつく噛み閉めると、まだつかんだままでいた彼のスウェットから手を離した。
「まおちゃん?」
 古澤柊斗が戸惑ったような声であたしを呼ぶ。
 あたしは唇を噛み締めながら俯くと、彼の肩を突き飛ばすように向こうへ押しやった。
 鞄をつかんで立ち上がると、無言で土手を駆け上がる。
「まおちゃん!」
 古澤柊斗の声が、走って立ち去ろうとするあたしを呼び止める。その声にトクンと胸が震えた。
 だけど、かなり捨て身の行動に出てしまったあたしには、振り返って古澤柊斗の顔を確かめることなどできなくて。呼び止める彼の声を無視して、そのまま全速力で走った。
 自宅の近くまできたとき、あたしはようやく走るのをやめた。
 立ち止まって深い息をつくと、それに合わせたかのように両目から零れ出た涙が頬を滑った。
 下を向いて涙を拭い、顔を上げる。
 そのとき、自宅から姉と瑛大くんが出てきた。
 肩を寄せ合うようにしながら出てきた二人は、少し離れた場所に立っているあたしの存在には気付いていない。
 家の前で、二人はしばらく向かい合って何か話していた。
 最初は穏やかに見えた二人だったけど、そのうち姉の表情が強張っていく。
 やがて姉が泣きそうな顔で俯くと、その頭のてっぺんをじっと見つめていた瑛大くんが、ため息をつきながら姉の肩に手を載せた。
 それに反応するように姉が少し顔を上げると、瑛大くんが彼女の顎をつかんで引き上げ、そのままキスをする。
 瑛大くんの黒い髪とその横顔が、さっき川原で別れたばかりの古澤柊斗の姿とダブって見える。
 一瞬、姉と彼のキスの場面を見せられているような気がして、息が詰まった。
 喉の奥で擦り切れてしまいそうな呼吸をしたとき、姉と瑛大くんの唇が離れた。
 瑛大くんにキスされた姉が、恥ずかしそうにはにかむ。
 瑛大くんはそんな姉を優しい目で見つめると、その手の平で彼女の頭をそっと撫でた。
 仲直りしたんだ……。
 姉と瑛大くんのキスに、昨日川原で見た光景を思い出したけれど、柔らかな眼差しでお互いを見つめ合う二人の姿にあたしはものすごくほっとしていた。
 家の前で向かい合って立っている二人にゆっくりと近づく。
「ただいま」
 声をかけると、姉が驚いたように振り返った。
「真音、帰ってたんだ?」
 姉が瑛大くんを気にしながら、恥ずかしそうに目を伏せる。
 さっきのキスを見られてないか、気にしてるんだと思う。
 恥ずかしそうに俯いている姉は、やっぱりとても綺麗だった。そんな彼女を、無感情にじっと見つめる。
 昨日川原で古澤柊斗に抱きしめられたときも、こんなふうに綺麗な表情を浮かべていたのかな。
 きっと姉は、その泣き顔さえも完璧に美しかっただろう。
 あたしの胸の中で、どす黒い嫌な感情がぐるぐると渦を巻く。
 これ以上姉を見ていると、醜い感情を二人の前にぶち撒けてしまいそうで。
 あたしは瑛大くんに軽く会釈して、姉の横をすり抜けて家に入った。

 無言で靴を脱ぎ捨てて、二階に上がろうと階段の手摺りに手をかけたところで、姉も家の中に入ってきた。
「真音、ちょっと待って」
 姉に切羽詰まったような声で呼び止められて、無視しきれずに足を止める。
 振り向くと、姉が何か言いたげにあたしのことを見上げていた。上目遣いにこちらを見つめる不安そうな瞳に、ただ嫌な予感しかしない。
「真音、あの……」
「瑛大くんは? 帰ったの?」
「あ、うん。たった今。真音、あの、私……」
「よかったね。仲直りできたみたいで」
 あたしに言葉を遮られた姉は、あからさまに困った顔をしていた。
「用ないなら、行っていい?」
 まだ何か言いたそうにしながらも黙り込んでしまった姉に、冷たい言葉をかける。
 しばらく待ってみても返答がなかったから、あたしは姉に背を向けた。
「真音、ごめんね」
 不意に、喉から絞り出したような苦しげな姉の声が聞こえてきて、階段を上りかけていたあたしの肩がビクリと震えた。
「ごめん、って?」
 平静を装った声で聞き返したけれど、姉の顔を見られない。
 姉の言う「ごめん」の意味を、あたしは既に薄々感じ取っていたから。
「柊くんに……」
 姉が震える声で、その名前を口にする。それだけで、胸がズキンと痛かった。握りしめた右手をぐっと心臓の辺りに押し付ける。
「柊くんにいろいろ助けてもらったの。瑛大くんと仲直りするために」
「ふーん」
「でも、私は柊くんとは何もないから。だから、ごめん……」
 今にも泣き出しそうなほど震えている姉の声を聞きながら、この人は無自覚に、なんて残酷なんだろうと思った。
 古澤柊斗は姉に気持ちを伝えていないと言ったけど、姉はたぶん、川原で抱きしめられた時点で彼の気持ちに気付いてる。
 それから、彼に揺さぶられているあたしの気持ちにも。
 姉は穏やかで優しいけれど、頭が良いし、鈍くはない。
「どうしてお姉ちゃんが謝るの? あたしと仲が良いと思っていた古澤柊斗が、ほんとはお姉ちゃんのことが好きだったから?」
 胸に押し当てた右手が、小刻みに震える。
「お姉ちゃんは、何にもわかってない。何でも持ってるお姉ちゃんに……。瑛大くんがいるのに、あいつにまで好かれちゃうお姉ちゃんに『ごめん』なんて言われたら、あたしがどれだけ惨めになるか……」
 眉間に力を入れて振り向くと、姉が呆然とした顔であたしを見ていた。
 姉はいつも綺麗で優しくて、音楽の才能があって、何をやらせてもほとんどの場合が優秀で。あたしは小さな頃から、そんな姉に憧れていた。どこに行っても褒められる、自慢の姉だった。
 だけどいつだって、あたしがどうしようもなく欲しいものを。努力したって手に入らないものを。目の前で全部、攫ってく。
 両親の賞賛も、古澤柊斗も……。
 姉のことを強い眼差しで見つめながら、あたしは産まれて初めて、彼女のことを嫌いだと思った。
 いや、表には出せなかっただけで、本当は昔からずっと疎ましく思ってたのかもしれない。
 綺麗で、華やかで、優しくて、憧れで……、そして、誰よりも――。
「嫌い。お姉ちゃんなんて、大っ嫌い」
「真音……」
 子どもみたいに叫ぶあたしを見つめる姉の顔が曇る。
 明らかに傷付いたように姉の瞳が潤むのを見て僅かな罪悪感が芽生えたけれど、突き付けた言葉を翻そうとは思わなかった。
「二人とも、どうしたの? ケンカ? 真音も、こんなところで大声出して……」
 リビングから顔を出した母が、怪訝に眉をしかめる。
「何でもない」
 あたしは母に不機嫌な声をぶつけると、階段を駆け上がって部屋にこもった。
 ベッドにうつ向けに倒れて目を閉じると、傷付いた目をした姉の顔が何度も消えては浮かぶ。
 その夜。夕飯の席で一緒になった姉は、私の顔を少しも見ようとしなかった。

「まおちゃん」
 昇降口で上履きからローファーに履きかえていると、恭介が下駄箱の陰から突然姿を現した。
「びっくりした。何?」
 薄く笑いながら訊ねると、恭介もあたしにちょっとだけ笑い返してきた。
「柊斗から伝言。何だかよくわかんないけど、『怒らせたならごめん』だって」
 恭介はあたしにそれだけ伝えると、くるりと踵を返した。
 何だそれ。怒らせたなら、って……。
 昨日、川原から立ち去るあたしを呼び止めてきた古澤柊斗は、何もわかってなかったんだ。
 あたしが姉のことで彼を非難した理由も、あたしがキスした理由も。それから、あたしの想いも。
「ほんとに悪いと思ってるんなら、自分で謝りに来い!」
 大きな声で叫ぶと、昇降口を出て行こうとしていた恭介が怪訝そうに振り向いた。
「古澤柊斗にそう言っといて」
 振り返った恭介にそう言うと、彼は数回瞬きをしてから「了解」と苦笑いした。
 恭介が去ったあと、校門に向かって歩いていると、誰かが後ろから駆け寄ってきて、あたしの手首をつかんだ。
 怪訝に思って振り返ると、そこには部活用のユニフォームを着た古澤柊斗が立っていた。
「何か用?」
 なるべく顔を見ないようにしながら冷たい声で言うと、彼が困ったように眉尻を下げて瞳を揺らす。
「えっと……、まおちゃん、昨日急に帰っちゃったから。あとでよく考えてみたら、まおちゃん、会ったときからすごく怒ってたみたいだったし。気に障るようなことしたんだったら、ごめん」
 悪いと思ってるなら、自分で謝りに来い。あたしは確かにそう伝えるよう、恭介に頼んだけれど。
 今あたしの目の前で頭を垂れている古澤柊斗は、自分が謝っている理由をよくわかっていないみたいだった。
 あたしが怒ったように帰って行ったから、なんとなく謝ったほうがよさそうだ、とか。
 能天気な頭で、たぶんそんなふうにしか思っていない。
「昨日、あたしがどうして黙って帰ったか。その理由をちゃんとわかってる?」
「えっと……。俺が詩音さんのことで浮かれてた、から?」
 古澤柊斗が自信なさげな目であたしの顔をじっと見つめる。
「それで?」
「それで……、それ以外に何かあるの?」
「ほんとに何も気付かないの?」
 あたしが苛立った声を出すと、彼は不安そうに小さく頷いた。
 バカだな。どうしてあたしは――。
 何も気付かない古澤柊斗と、そんな彼に抱いている自分の想いに腹が立つ。
 これまでは、傍にいてくれる誰かが現れると、そこから後付けで自分の想いを付け足してきた。
 今まで彼氏を作るときは『年上』という条件さえ充たしていればよかった。だからいい人が見つかれば、付き合い出してから好きになれるように気持ちを調整してきた。
 だけど、今あたしが古澤柊斗に抱いている想いは今までのものとは明らかに種類が違う。
 こんな気持ちは初めてで、どうしていいかわからない。
 あたしは古澤柊斗をぎりっと睨みつけると、苛立ちと共に胸の奥から湧き上がってくる言葉を、勢いに任せて一気に吐き出した。
「どうして気付かないの? あたしは、あんたのことが好きなんだよ……」
 あたりに響いたあたしの声は、校庭で練習を始めている運動部員たちの掛け声にすぐに掻き消されてしまう。
 だけど古澤柊斗に届きさえすれば、あたしはそれでよかった。
 それに吐き出してしまうと、何だか気分がすっきりとした。
 あたしの想いを聞いた古澤柊斗は、予想外のことに心底驚いたようで、あたしを見つめて呆然としている。それからしばらくしてようやく口を開いたと思うと、
「え、でもまおちゃん。年下には興味ないって……」
 なんて。相変わらず無神経なことを言ってきた。
 真剣に想いを伝えたつもりだったのに、彼から返ってきた第一声がそれで。
 苛立ちを通り越して呆れてしまう。
 普通、真剣な告白のあとにそんな言葉を返す――?
 でもそういうところが古澤柊斗っぽい。そう思って、あたしは小さく苦笑いした。
 バカだな、あたし。
 あたしの理想は、年上で優しくて知的で包容力がある、そういう大人な男の人。
 古澤柊斗みたいな、子どもっぽくて、能天気で、いつもへらへら笑ってて。ちっとも空気が読めない、無神経なバカは全然好みじゃないのに。
 どうして、好きになって、自分から告白してる相手がこんなやつなんだろう。
「年下なんて、興味ないよ。自分でもよくわからないけど、あんたが好きみたいなんだから仕方ないじゃない」
 あたしの言葉に、古澤柊斗が耳朶をかっと朱に染めてうつむいた。
「まおちゃん。俺、急でびっくりしてて……。まおちゃんがそんなふうに思ってたとか全然気付かなくて。だけど俺は――」
お姉ちゃん(詩音さん)が好き?」
 しどろもどろになりながら一生懸命何かを言おうとしている古澤柊斗の言葉を遮る。
 彼は顔を俯けたまま少しだけ視線を上げると、申し訳なさそうにしながら、バカ正直に頷いた。
「ごめん、まおちゃん」
「わかってるよ、バカ」
 だから昨日、あたしは怒ってたんだよ。古澤柊斗。
 あんたが明るく笑いかけてくれたら嬉しくて。一緒に走るのだって、ほんとはすごく楽しくて。肩が少し触れ合うだけでバカみたいにドキドキして。
 何も考えてないように見えて、ときどき的確に、あたしがほんとうに欲しい言葉をくれる。
 あんただけが、あたしのことを、ちゃんと『杉本真音』として見てくれているように錯覚させられる。
 それなのに、あんたの一番はやっぱりどうしたってお姉ちゃんで……。
 どれだけ想ってもどうにもならないってことを、あたしが誰よりもよく知っている。
 だけど、想いを伝えたことに後悔はなかった。
 申し訳なさそうに俯いている古澤柊斗を見つめながら、引き止められたときからつかまれたままになっていた彼の手をほどく。
「じゃぁ、部活頑張れ」
 右手で拳を作って、彼の肩を軽く小突く。
 顔を上げた古澤柊斗に少し笑いかけると、彼が片眉を下げながら戸惑ったようにあたしに笑い返した。
 その笑顔に、あたしの胸が切なく痛む。
 ちょっとでも気を緩めると泣くかもしれない。
 あたしは急いで彼に背を向けると、泣き出さないように唇を固く引き結んで、早足で校門をくぐり抜けた。

***

 川原の土手に座り込んでぼんやりとしていると、背後から足音が聞こえてきた。
 サクサクと土手の草を踏み鳴らす音にはっとして振り返ると、なぜかそこに恭介が立っていた。
「恭介、部活は?」
 辺りはまだ明るくて、運動部が活動を終えて帰宅する時間にしては早すぎる。
 制服姿の恭介を見上げて首を傾げると、彼が「サボった」と気だるそうに言った。
「いいの?」
「さぁ、どうだろ」
「どうだろ、って」
 苦笑いを浮かべていると、恭介があたしの傍に歩み寄ってくる。
「来たのが柊斗じゃなくて俺で、がっかりしてる?」
「まさか」
 からかうような口調で訊ねてきた恭介にすぐさま反論すると、彼が笑いながらあたしの隣に腰をおろした。
「嘘つき。まおちゃんて柊斗が好きなんでしょ?」
「は!?」
 まさか恭介にバレていたとは思わなくて、その場で硬直する。
「気付かれてないと思ってた?」
 小さく頷くと、恭介がクッと笑った。
「そうなんだ。俺、結構前から気付いてたんだけど」
「どうして? あたしそんなに……」
 わかりやすかった――?
 恥ずかしいなと思いながらため息をついていると、恭介が「それよりまおちゃん」と言いながらあたしの横顔をじっと見てきた。
「柊斗と何かあった? 校門のところでまおちゃんと話して戻ってきてから、あいつ、ずっと上の空だったから」
「あぁ、別に……」
 校門での告白を思い出して口ごもったあたしに、恭介が続けて問いかけてくる。
「この前、コンビニの前で泣いてたよね。あれももしかして、柊斗が原因?」
「え……」
「やっぱり、何となくそんな気がした」
 表情を強張らせるあたしを見て、恭介がぼそりと呟く。
「あんた、あたしの想像以上に鋭いじゃん」
 苦笑いを浮かべながら俯くと、横顔に恭介の視線を感じた。
「そんな顔すんなよ」
 顔を上げると、なぜか怒ったような目をした恭介に睨まれる。
「そんな顔って、別に普通……」
 笑いながらそう言いかけたとき、恭介が急にあたしの頭を後ろに手を伸ばしてきた。
 後頭部からぐっとあたしの顔を引き寄せた恭介が、自分の唇をあたしの唇に柔らかく押し付けてくる。恭介の唇があたしに触れていたのは、瞬きをひとつするくらい。
 本当に一瞬のことだった。
 恭介の唇が離れていったあと、急なできごとに対応しきれず、あたしは何度も目を瞬かせる。
「俺、まおちゃんのこと好きだよ」
 パチパチと瞬きを繰り返すあたしに、恭介が真剣な目をして言った。
「え?」
 突然の恭介の告白に、あたしは瞬きをやめて今度は大きく目を瞠る。
 だけど、あたしを真っ直ぐに見つめる恭介の目は真剣そのものだった。
 驚いているあたしを見つめながら、彼が言葉を続ける。
「ちょっとそっけないとことか、あんまり笑わないとことか、素直じゃないとことか。あと、走ってるときの睨んでるみたいな横顔も」
 何よ、それ。恭介が並べたてたそれらの言葉は、あたしの長所でもなんでもない。
 そのどれをとっても、可愛くない捻くれ女としか思えない。
「なんか、あんまり褒められてる気がしない」
「だってまおちゃん、綺麗とか可愛いなんて言葉じゃ靡かないでしょ?」
「よくわかるね」
「俺、柊斗みたいに鈍くないし。まおちゃんのこと、結構よく見てるから」
「恭介、変わってる……」
 軽く眉を顰めてそう言いながらも、恭介が真剣な目をして伝えてくれた言葉は何だか妙にくすぐったくて。最終的に、クスリと笑ってしまう。
「だけど、好き」
 恭介は笑っているあたしを見て柔らかく微笑むと、優しい声でもう一度そう言った。
 恭介の言葉に、あたしの心がほんの少し揺れ動く。
 恭介がそんなことを思っていたなんて夢にも思わなかったけど、彼が伝えてくれた想いを素直にとても嬉しいと思った。
 だけど……。
「ごめん……」
 そう呟いたとき、恭介が哀しそうな目をしてほんの少し口元を歪めた。その表情がふと、自分に重なる。
 今の恭介の表情(かお)は、まるで古澤柊斗に振られたときのあたし。
「柊斗が好きなんだよね」と、無言で訴えかけてくる恭介の目を見つめ返しながら、あたしは胸が苦しくなった。
 恭介の気持ちはすごく嬉しい。
 あたしは誰かに本気で「好き」だなんて言われたことがあまりないから。
 だけど今のあたしは、恭介の気持ちにどうしても応えられない。
 もし応えたら、あたしは恭介と、それから自分自身に同情することになる。
 古澤柊斗は姉を想ってて、あたしは古澤柊斗を想ってて、恭介はあたしを想ってくれてて。
 一方通行で苦しいけど、あたしは古澤柊斗に抱いているこの想いをやっぱりどうしても曲げられない。
 恭介から顔をそらして俯いたとき、川原から流れてきた湿気を孕む風があたしと彼の間を吹き抜けた。
「大丈夫。わかってるから」
 俯くあたしの耳に、恭介の切なげな声が届く。
 それに似たセリフを、少し前にあたしも言ったばかりだ。
「柊斗がいなかったら、俺はたぶんまおちゃんのこと知らなかったし。それに、理屈じゃないよね。人を好きって思う気持ちって」
 隣で静かに言葉を紡ぐ恭介の声に、泣きそうになる。
 隣に並んで座ったまま、あたしは恭介に何の言葉も返せなかった。


 学校の近くのカラオケで二時間ほど歌ったあと、駅前でエリナと別れる。
 改札を抜けようとパスケースを出したところで、ふと今日が毎月買っている雑誌の発売日だったことを思い出した。
 駅から五分ほど歩いたところに、小さな本屋さんがあったはず。
 あたしは一度取り出したパスケースを鞄の中に入れると、本屋に向かって歩き始めた。
 あたしの目当ての雑誌は店頭のわかりやすいところに置かれていたから、迷わずそれを手にとって会計を済ませる。
 雑誌が入ったビニール袋を持って本屋を出たとき、ちょうどその向い側のコーヒーショップから出てきた背の高い茶髪の男の人が、あたしを見つけて手を振ってきた。
 コージ先輩……?
 どうして先輩がこんなところにいるんだろう。
 こっちに向かって手を振る彼の顔を見た瞬間、あたしの頬が引き攣った。
 コージ先輩と顔を合わすのは、以前彼の家に誘われたとき以来だ。
 騙されたと思ったあの日から、コージ先輩の電話番号は消去したし、ラインだってブロックしている。
 絶対にもう二度と会いたくないと思っていたのに、また顔を合わせることになるなんて最悪だ。
 あたしは雑誌の入ったビニール袋を胸の前で抱えて半分顔を隠すと、手を振るコージ先輩に気付かないふりをして駅のほうに足早に歩を進めた。
「真音ちゃん!」
 口もききたくないし、目も合わせたくない。
 そう思っているから逃げているのに、コージ先輩はあたしの名前を呼んで後ろから追いかけてくる。
 駅が見えてきたから、そのまま急いで電車に乗ってしまおうと小走りで改札に向かって駆ける。
 パスケースを取り出して改札を通りぬけようとしたとき、ぎりぎりのところで追いついたコージ先輩があたしの肩をつかんで後ろに引っ張った。
「真音ちゃん、ひさしぶり」
 コージ先輩にがっちりと肩をつかまれて、あたしはその場から逃げられなくなってしまった。
「おひさしぶりです。ここで、何されてるんですか?」
「あぁ。高校の部活のやつらとメシ食うために待ち合わせ中。何か真音ちゃん、反応悪いね」
 低い声で迷惑そうに挨拶を返す私に、コージ先輩が苦笑いした。
 あたりまえです。
 そう言い返したかったけど、ムダに口をきくのも嫌だったからぐっと言葉を飲み込む。
「そんなことより、会えてよかった。あれから全然連絡繋がらないから、どうしてんのかなーと思って」
 あのときのことをどう思ってるのか、コージ先輩がポケットからスマホを取り出しながら、気安く微笑みかけてくる。
 以前彼に会ったときはときめいたその笑顔に、今は嫌悪しか感じなかった。
 唇をきゅっと引き結んで睨むと、コージ先輩が笑いながら首を傾げる。
「真音ちゃん、どうかした?」
「コージ先輩、彼女いるんですよね」
 あたしの言葉に、コージ先輩がふっと口元を歪めた。
「あぁ、一応いるけど。前話したとおり、相変わらずうまくいってないし。なんかカタチだけ?」
 コージ先輩が自嘲気味に笑う。
「それより真音ちゃん。前も誘ったけど、今度どっか一緒に遊びに行かない? あ、またうちに来てくれてもいいけど」
 意味ありげに微笑んだコージ先輩が、あたしに顔を近づけてきた。
 元彼の香水とよく似た、爽やかで甘い香りがふわりと鼻先に漂ってくる。
 この前会ったときは頭がくらくらするほど魅惑的に思えたその香りが、今はものすごく不快だ。
 この人は、自分があたしにしたことをなんとも思っていない。
 溜まった鬱憤の捌け口としてあたしを利用できたらそれでよくて、あたしの気持ちを理解するつもりもない。
 こんな人のために、少なからず傷付いてしまったことが悔しかった。
 肩に置かれたままになっているコージ先輩の手を乱暴に払い落として、爪が食い込むくらいに手の平をぎゅっと握り締める。
「先輩と遊びになんて行きません。あたしはあのとき、軽い気持ちじゃなかったんです。ちょっと優しく誘えばとか、そんなふうに思ってるんだったら違いますから!」
 コージ先輩を睨んで、くるりと彼に背中を向ける。
「あ、ちょっと真音ちゃん」
 けれどコージ先輩は、立ち去ろうとするあたしの手首をしつこくつかんできた。
「離してください」
 振り返って彼を睨みながら、つかまれた手首を力いっぱい上下に振る。
「そんな怒らなくたっていいだろ。なんか勘違いさせてたなら謝るから」
「勘違いなんてしてません。ただ利用しただけじゃなくて、あたしのこと、おもしろおかしく人に話したでしょ?」
 あたしを体育館裏に呼び出してきた河野とその仲間たちのニヤけた顔を思い出したら、コージ先輩への嫌悪がさらに強くなる。
「だから、勘違いさせたなら謝るって。俺、真音ちゃんのこと利用したつもりはないんだけど」
 コージ先輩が困ったように、片眉を下げる。
 だけど、その顔は本気で悪いと思っているようにはとても見えなかった。
 優しく諭すフリをして、煩く騒ぐあたしをとりあえず黙らせたいのが本音だろう。
「謝罪なんてどうでもいいから、もう二度とあたしに関わらないでください。会っても絶対に話しかけてこないで!」
 苛立った声で喚きながらコージ先輩を睨んだとき、彼につかまれているのと反対側の手首が誰かに強く引っ張られた。
「すみませんけど、その手、離してください」
 怒気を含んだ低い声。
 後ろを振り向くと、あたしの手首をつかんだ古澤柊斗がコージ先輩のことを鋭い眼差しで睨んでいた。
 突然現れた彼にも驚いたけど、それ以上に、いつもへらへらと笑ってばかりいる彼の目が、誰かを鋭く睨んでいることに驚く。
「どうしてここに……」
「早く、離してください」
 古澤柊斗は大きく目を瞠るあたしの言葉を遮ると、さらに眦を尖らせた。
 あたしを間に挟んで向かい合う古澤柊斗とコージ先輩。
 古澤柊斗があまりに険悪な雰囲気でコージ先輩を睨んでいるものだから、周囲を歩く人達があたし達のことを不審げにちらちらと見てくる。
 それに気付いたコージ先輩は、気まずそうに辺りを見渡してからあたしの手をすっと離した。
 コージ先輩からようやく解放されると、今度は古澤柊斗が痛いくらいの強い力であたしの手首を引っ張る。
「行くよ、まおちゃん」
 古澤柊斗は相変わらず怒気を含んだ声でそう言うと、改札を抜けて駅のホームへとあたしを引っ張っていった。
 そのままあたしの手をグイグイと引っ張って、ホームに入ってきた電車に乗り込む。
「何であそこにいたの?」
 電車に乗り込んだあとも不機嫌そうな様子で立っている古澤柊斗におずおずと訊ねると、
「部活が終わって、たまたま通りかかったから」
彼が怒ったように低い声で答えた。
「べつに、ほっといてくれてよかったのに……」
「何で? まおちゃん、あの男につかまって嫌がってたんじゃないの?」
 古澤柊斗が横目であたしを睨むようにしながら、低い声で訊ねてくる。
「うん、まぁ」
 いつもと違う古澤柊斗の雰囲気に戸惑い気味に頷くと、彼が不機嫌そうにあたしから顔をそらす。
 古澤柊斗は駅に着くまで口を真横に引き結んだまま一言も話さず、あたしに向かってへらりとも笑いかけてこなかった。

 電車を降りても、古澤柊斗はずっと黙りこんだままでいた。
「じゃあ、また……」
 どうすればいいのかわからず、あたしはとりあえず軽く声をかけて、彼から距離をとる。
 だけど古澤柊斗は不機嫌な顔のまま近づいてきて、乱暴にあたしの手をつかんだ。
「まおちゃん、ちょっと来て」
 戸惑うあたしに、彼が低い声を投げかける。
 あたしの手をつかんで引っ張っていく古澤柊斗の力は想像以上に強かった。
 普段へらへら笑っている彼の、まだ少年っぽさの残る細い腕。そのどこにそんな力が隠されていたんだと思って驚く。
 無言のまま歩く古澤柊斗に連れて行かれたのは、近所の川原だった。
 川原に着くと、彼があたしの手を引っ張ったまま河川敷のなだらかな土手を滑るように下る。
 そのまま川岸まで行くと、古澤柊斗はようやく立ち止まって、あたしの手を離した。
「まおちゃん、勝負しよう」
 向かい合って立つ古澤柊斗が、強い眼差しで真っ直ぐにあたしを見つめてくる。
「は?」
「いいから!」
 戸惑い気味に首を傾げると、彼が怒ったような声を出した。
「いいからって……」
 戸惑っているあたしの横で、古澤柊斗が鞄を地面に放り投げて足元の土を均す。
 そうして勝手にスタートの位置を決めると、あたしの準備ができているかどうかなんて構わずに一人で前へと飛び出した。
 いつものスウェット姿ではなく、制服のシャツと紺色のズボン。それから学校指定の黒のローファーで、荒っぽく駆けていく古澤柊斗。彼のシャツの背中が風で膨らむ。
 黒い髪を風に揺らしながら駆けていくその後ろ姿を唖然と見ていると、十メートルほど進んだところで彼が急にぴたりと足を止めた。
 脱力したように背中を丸めて膝に手をついた彼が、肩で呼吸を整えてから、くるりとあたしを振り返る。
「勝負だって言ったじゃん」
 古澤柊斗がきゅっと眉に力を入れてあたしを睨む。その目がものすごく責めてくるから、あたしは困って苦笑いした。
「どうかしたの? なんか変だよ、今日の古澤柊斗」
 苦笑いのまま古澤柊斗に歩み寄っていくと、彼のほうも広い歩幅であたしに近づいてくる。
 腕を伸ばせばぎりぎり届くくらいの距離を保って、あたし達はどちらからともなく互いに足を止めた。
「変なのは、出会ったときからずっとまおちゃんだよ」
 向かい合って立つあたしを睨みながら、古澤柊斗がゆっくりと口を開く。
「まおちゃんは――」
「ん?」
「まおちゃんは、俺のことが好きなんじゃないの?」
 何を言われるのかと思って首を傾げると、古澤柊斗があたしを睨みながら、突然大きな声を出した。
 怒ったような彼の声が、辺りに響き渡る。
 近くを歩いていた人達までもが、彼の声にちらほらとこっちを振り返っていた。
「い、いきなり何? 自惚れちゃって、バカじゃないの?」
 古澤柊斗の言葉にめちゃくちゃ動揺して、心臓がバクバクと激しく音をたてる。
 彼の言葉と、他人の好奇の視線が恥ずかしい。
 だけど彼は周りの目なんて少しも気にしていない様子で、顔を赤くするあたしを不服そうな目でじっと見てきた。
「だけど、こないだ好きって言った」
「何言ってんの。あんなの真に受けないでよ。ただの冗談だから」
 だって、あたしは古澤柊斗にフラれた。
 それなのにあたしは、未だに不毛な想いを抱えたままで。だからこの前の告白のことを蒸し返されたら、どうしていいかわからない。
 フラれたくせに、未だに諦めきれずに古澤柊斗のことが好きでいるなんて。そんなあたしの気持ちを悟られても、ただ惨めになるだけだ。
「まおちゃんは、冗談で人に『好き』って言えるの?」
「知、らないけど……。古澤柊斗になら、言うかもしれない」
 わざとふざけて笑ったら、彼の深い黒の瞳が小さく揺れた。その僅かな動きが、あたしの胸をぎゅっと締め付ける。
 あたしのことをフッたのは古澤柊斗のほうなのに。どうして彼があたしの言葉に傷付いたような目をするのかわからない。
「フラれてちゃんとわかったよ。やっぱりあたしは、年下なんて興味ない」
 古澤柊斗から顔をそらしながら素っ気無く言うと、彼が歩み寄ってきてあたしの両肩を強めにつかんだ。
「何……!?」
 ちらっと顔を上げると、切なさを孕んだ古澤柊斗の深い黒の瞳と視線がぶつかる。
 複雑そうな表情の彼に何か言葉をかけようとしたら、急に両肩を引っ張られて身体が前のめりになった。
 揺れたあたしの身体を抱きとめた古澤柊斗の手のひらが、あたしの両頬を不器用に包み込む。
 頬に触れた彼の温度に、ドキリと胸を高鳴らせたのも束の間。上を向かされたあたしの唇に、まるでぶつかるみたいに彼の唇が触れてきた。
 柔らかな感触が数秒、あたしの唇にぎゅっときつく押し付けられる。
 そんな古澤柊斗のキスは、あたしが今まで交わした中で一番不器用で、一番へたくそなキスだった。
 それなのに、今までで一番。どうしようもないくらいにあたしの心を震わせた。
 あっというまに離れていった古澤柊斗の顔を熱のこもった目で見上げていると、あたしの頬を手の平で包んだままで、彼が小さく呟いた。
「まおちゃんの嘘つき」
 古澤柊斗の深い黒の瞳が、あたしをじっと見つめる。
「俺のこと好きじゃないなら、どうしてそんな表情(かお)すんの?」
 そんな表情(かお)――?
 古澤柊斗に言われて、かっと頬が熱くなる。
 不意打ちだったとはいえ、彼のへたくそなキスに、どれだけ惚けてしまったか。
 そのことを自覚すると、急に恥ずかしくなった。
「う、うるさい。あんたが好きなのはお姉ちゃんでしょ? それなのに、どうしてあたしを試すみたいなことすんのよ。年下のくせに……、っていうか、古澤柊斗のくせに、生意気!」
 古澤柊斗の胸を、両手で押しやるようにして撥ねつける。
 そのまま肩を突き飛ばして駆け出そうとしたけど、すぐに腕をつかまえられて、彼の前から逃げることができなくなった。
「そうだけど……」
 あたしの腕をつかまえた古澤柊斗が、眉を下げて、困ったような、心中複雑そうな表情を浮かべる。
「そうだけど。まおちゃん、全然わかんねーんだもん。俺のことが好きって言ったくせに駅前で変なやつに言い寄られてるし、こないだはここで恭介とキスしてたし……」
 古澤柊斗がそう言って、目を伏せる。
「見てた、の?」
 ドキリとしながら問い返すと、彼が目を伏せたまま小さく頷いた。
「あの日、恭介が部活サボってまおちゃんのこと追いかけて行くのが見えたから気になって。俺も部活サボってあとを追ってきたら、恭介とまおちゃん……」
 古澤柊斗の声が、最後はぼそぼそと小さくなっていく。少しずつ消えていく声とともに、眉間をぎゅっと寄せる古澤柊斗の顔が苦しげに歪んでいく。
 その理由が、やっぱりあたしにはわからなかった。
 古澤柊斗が好きなのは、詩音さん(あたしのあね)
 それなのに、あたしのことで彼が複雑そうな表情(かお)をするのはどうして――?
「あんたはお姉ちゃんが好きなんだから、あたしが誰とキスしてたって関係ないじゃない」
 冷たく言うと、俯いていた古澤柊斗がばっと勢いよく顔をあげた。
「そうだけど。でも、そういうのはなんかやだっ!」
 どこか不服そうな目であたしを睨みながら、古澤柊斗が駄々を捏ねる子どもみたいに、大きな声で言い放つ。
「なんかやだ、って。何よ、それ」
 めちゃくちゃなことを言う古澤柊斗を苦笑いで見つめたあと、あたしはふと真顔になった。
「だったら聞くけど、あんたはあたしのこと好きになるの?」
 古澤柊斗は、静かにそう訊ねたあたしから目をそらさなかった。
「それは、まだわかんないけど……」
 真剣なあたしの目。それを真っ直ぐに見つめ返してくる古澤柊斗の眉尻が、困ったように垂れ下がる。
 古澤柊斗は、曖昧なことしか言えない自分に困って口籠ったのだと思う。
 だけどあたしのほうは意外にも、彼のその言葉に希望的観測を抱いてしまっていた。
 古澤柊斗があたしのこと好きになるかどうかは、まだわからない(、、、、、、、)
 それってつまり、絶対に報われることなどないと思っていたこの恋が、不毛のままでは終わらない可能性が出てきたってことで……。
 万に一つくらいの確率で、古澤柊斗の心が姉からあたしに動くかもしれないってことだ。
「わかんないって、どういう意味? 少しくらいは期待して待っててもいいってこと?」
 自分の希望的観測に激しく期待しながら、古澤柊斗に意地悪く訊ねる。
「だから、わかんないけど……。でも、まおちゃんのこと、恭介にとられるのは嫌だ。恭介だけじゃなくて、他の誰にも……」
 あたしから視線をそらした古澤柊斗が、ふて腐れた子どもみたいにぽつりと溢す。
 古澤柊斗の口から溢れた言葉に秘かに心をときめかせたあたしの口端が、浮かれてうっすらと引き上がった。
 意識して気を付けておかないと、ニヤけが止まらなくなってしまいそうで。そっぽ向いている彼には気付かれないように、何度もきゅっと口角を引き下げる。
「人のことフッといて、勝手なやつ。このままあんたに振り回されてたら、この先いつまで経っても彼氏作れないじゃん」
 古澤柊斗がいつまでも顔を背けて黙っているから、あたしのほうからふっかけて、つかまれたままの腕を振り払う。
 そのまま土手のほうに歩いて、なだらかな坂道をゆっくりと上り始めていたら、地面に放り出していた鞄をつかんだ彼が、慌てて後を追ってきた。
「まおちゃんっ! ちょっと待ってよ」
 立ち止まって振り返ると、必死な様子で土手を駆け上ってきた古澤柊斗が、しがみつくようにあたしの手をきゅっとつかまえる。
「まおちゃん、もう彼氏作ろうとか思ってんの?」
 眉を下げた古澤柊斗が、ものすごく不安そうに、切羽詰まった声でそう訊ねてくる。
 強くつかまれた手の感触と、見捨てられた子犬みたいに哀しげに揺れる彼の瞳にあたしの胸がときめいた。
 もしあたしが「そんなわけないじゃん」と、ひとこと否定すれば、古澤柊斗は嬉しそうにへらりと笑うんだろう。
 だけどここで甘やかすのは、あたしが負けたみたいで悔しい。それに、古澤柊斗のことだから、あたしとの関係だってこのまま曖昧にし続ける気がする。
「関係ないでしょ。手、離して」
 本当は隠しきるのも難しいくらい、ドクドクと鼓動が鳴っている。それを必死で抑えながら、あたしは古澤柊斗にできるだけ素っ気無く接するように努力する。
 冷たくあしらわれた彼は、シュンと頭を垂れると、ゆっくりとあたしの手を離した。
 それから、上目遣いにあたしをじぃーっと見つめてくる。
「だけど、彼氏作るとしても、恭介はダメだから。あと、さっき駅前で話しかけてきたやつも。ていうか、あのひと誰? もしかして、あれが元カレ?」
 あたしはその目をしばらく見つめ返してから、黙って彼に背を向けた。
 古澤柊斗が好きなのは、たぶんまだあたしの姉なんだと思う。
 だけど、その想いはもしかしたらほんとうに移り変わるかもしれない――。
 だからあたしは、やたらと感情表現が素直で、能天気で、バカ正直で、子どもっぽくて。
 いつもへらへら笑ってるくせに、たまに真剣な表情(かお)をする。
 そんなひとつ年下の彼のことを、諦められそうもない。
 少なくとも、まだしばらくは――。
「まおちゃん!」
 古澤柊斗が、後ろからまた呼びかけてくる。
「まおちゃん、ちょっと待って!」
 土手の草を蹴って必死に追いかけてくる足音に、あたしはさらに強く希望的観測を抱く。
 古澤柊斗だって、少しくらいはあたしみたいに思い悩めばいいんだ。
 そうしていつかその頭の中が、詩音さん(お姉ちゃん)じゃなくて、あたしだけで埋め尽くされてしまえばいい。
 徐々に近付いてくる古澤柊斗の気配を感じながら、次に振り向いたときに彼がどんな表情を浮かべるだろうかと想像してみる。
 きっと、あたしを見つめて眉尻を下げて、困った顔で笑うんだ。
 その顔があまりにリアルに思い浮かんで、ひとりでそっと微笑みながら肩を揺らした。
「まおちゃん」
 不意にすぐそばで、古澤柊斗の声がする。
 振り向こうとしたその間際、川原からの追い風があたしの髪とスカートの裾を翻して、爽やかに吹き抜けていった。

***

 自宅の玄関の前に立つと、閉ざされたドアの向こうから明るく透きとおるようなピアノの音色が漏れ聞こえてきた。
 ゆったりとした優しい旋律で始まるその曲は、多くの人がどこかで一度は耳にしたことがあるだろう、ベートーヴェンの有名曲だ。
 小学生のときの嫌な思い出以来、ベートーヴェンは好きじゃない。だけど、姉が弾くこの曲は嫌いじゃない。
 鍵盤の上で流れるように指を滑らせながら、この曲を弾いている姉の綺麗な横顔を想像したら、ひさしぶりに優しく穏やかな気持ちになった。
 面と向かって「嫌い」だと言って以来、姉とはまともに口をきいていない。
 姉のほうも、あたしと目が合っても気まずそうに目を逸らすだけで何も言わない。
 うまくいっていると思っていたはずのあたしとの関係が、実は脆くてとても歪なものだった。そのことに気付いた姉は、あたしへの接し方に迷っているのだろう。
 この頃はあたしが家にいると、姉はひどく居心地が悪そうだ。
 だからといって、感情的になって姉にぶつけた言葉を訂正するつもりはない。
 仮に古澤柊斗とあたしの関係にこれから変化が起きたとしても、幼い頃から溜め続けてきた姉に対する負の感情はそう簡単に消えたりしないだろう。
 でも、ずっとこのまま姉と仲違いし続けたままでいるのが正解だとも思わない。
 姉に対してぶつけた真っ黒な負の感情。それが完全に消えないとしても、一生引きずっていくには重すぎる。姉に対する嫌悪と憧れは、幼い頃から常に紙一重でもあったから。
 ベートーヴェンの曲が、そろそろ中盤に差しかかる。
 姉の奏でる旋律は、彼女のように透明感があってとても綺麗だ。
 姉のピアノを聴きながら、今少しだけ素直で優しい気持ちになれているのは、きっと古澤柊斗のせいだ。
 古澤柊斗が、あたしの恋心に小さな希望をくれたから。
 今なら、この曲が鳴り終わるまでに姉の部屋のドアを開けることができそうな気がする。
 姉を傷付ける言葉じゃなくて、ちゃんと未来へ進める言葉をかけられる。
 あたしは決意を固めると、玄関のドアノブに手をかけた。
 勢いよくドアを引き開けると、投げ出すように靴を散らして、階段を駆け上がる。
 曲が終盤へと差しかかるにつれて、鼓動がドクドクと速くなる。
 疾走したあとみたいに、肺に酸素を取り込むだけで息苦しい。
 姉の部屋の前に立ったあたしは、今までにないほどひどく緊張していた。
 あと少しで曲が終わる。最後の一音が鳴り響いたら、それを合図にドアを開けよう。
 そして、あたしができる精一杯の、称賛と謝罪の拍手を贈ろう。
 目を閉じて姉のピアノの音に耳を傾けながら、あたしは静かに深呼吸した。

 夕暮れの川原。家からここまで走ってきた俺は、川岸に下る土手の中腹に寝転がっている、同じ高校の制服の女の子の姿を見つけて足を止めた。
 またあんなとこで寝てる。
 走るのをやめてなだらかな土手を下ると、眠っている彼女のそばにしゃがむ。
 右腕を瞼の上に載せて、膝丈より短いスカートから伸びたすらりとした脚を川岸に向かって投げ出すように寝転がっている彼女は、気持ちよさそうだけどかなり無防備だ。
「まおちゃん、まおちゃーん」
 眠っているまおちゃんの耳元に顔を近づけながらその肩を揺さぶると、彼女が瞼の上に載せた手を退けて眩しそうに僅かに目を開けた。
「こんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
 川原に吹く風は、夕方になると肌に冷たい。
 それにいつも思うんだけど、こんなとこで女の子が暗くなるまで一人で寝てたら絶対危ない。
「あー、古澤柊斗」
 眠たそうに手の甲で目を擦ったまおちゃんが、完全に寝起きの声で俺の名前を呼んだ。
 寝転んだままぼんやりと無防備に俺を見上げてくるから、目のやり場に困る。
 戸惑ってぎこちなく視線を泳がせていると、まおちゃんがそばにしゃがむ俺の腕をつかんでゆっくりと身体を起こした。
「もうそんな時間か」
 俺のことなんてどうでもよさそうに、まおちゃんがぽつりと呟く。
「まおちゃん。いつもこんなとこで夕方まで暢気に寝てたら、そのうち変な人に声かけられるよ」
 両腕を上げて伸びをするまおちゃんの横顔を眺めながら、ちょっとだけ眉を顰める。すると伸ばした腕を頭の上で留めた彼女が、怪訝そうに振り向いた。
「変な人って?」
「うーん。あるじゃん、いろいろ。女の子が遅くまでこんなとこで寝てたら危ないって」
 心配して言っているのに、まおちゃんは口元を緩めて他人事みたいにクスッと笑うだけだ。
「平気だよ。あたし、お姉ちゃんみたいな美人じゃないもん」
「そういう問題じゃないって。女の子なら誰でも……、みたいなやつだっているし」
「それさ、なにげにあたしのことディスってるよね?」
「違うって」
 ただ、普通に心配してるだけなのに。
 意地悪な目をして俺を見たまおちゃんが、傍に放り出していた鞄を拾って立ち上がった。
「まおちゃん、帰るの?」
「うん、帰る。よく寝たし」
 小さく頷いたまおちゃんが、ゆったりとした足取りで土手を上り始める。
 いつもどこかつかみどころのない彼女は、気まぐれな猫みたいだ。
 なかなか簡単には近付けなくて、手が届くところで近付いたと思ったらやっぱり遠い。
 そんなまおちゃんに、俺はだいぶ前に告白された。
 少し目尻の上がった気の強そうな瞳で俺のことを睨んで。まるで怒っているみたいに好きだ、と伝えられて。その瞬間はものすごくびっくりした。
 何も知らなかった俺は、まおちゃんに好きな人のことを相談していたし。年下なんて興味がないと言っていたまおちゃんが俺を好きになる可能性なんて想像したこともなかった。
 それにまおちゃんは、出会ってからいつも一方的に声をかけ続けている俺のことを、内心では迷惑がってるんじゃないかと思ってたから。
 だけど時間が経つにつれて、気持ちを伝えてくれたときの怒っているみたいなまおちゃんの顔が、ふとした瞬間に頭にちらつくようになった。
 まおちゃんにされた告白の言葉も、川原で衝動的に交わしたキスの記憶も。日を追うごとに、不思議なくらいに俺の中で鮮明になっていく。
 それなのに当のまおちゃんはといえば、あれから以前にも増して素っ気なくて。いつ顔を合わせても、何事もなかったみたいな態度で俺に接してくる。
 あの告白は、まおちゃんが起こした気まぐれだったんだろうか。
 こっちはまおちゃんと顔を合わすたびに、告白やキスの感触を思い出して落ち着かない気持ちになってるっていうのに。

 しゃがんでまおちゃんの背中を見上げている間に、彼女との距離がどんどん離れていく。
 息を吐いて立ち上がると、俺もその背中を追いかけた。
 腕を伸ばせば肩に手が届く距離まで追いついたとき、まおちゃんが俺を振り返る。
「これからまだ走んの?」
「うん、今来たとこだから」
「ふぅん」
 素っ気無い声で相槌を打ちながら、まおちゃんが後ろ向きに土手を一歩上がる。
 彼女が踵から足を下ろそうとしているその場所には、土が掘れたような小さな窪みがあった。
「あ!」
 先に気付いた俺が声を上げたけれど、それに気付いていないまおちゃんは、不思議そうに小首を傾げながら踵から地面を踏み込んでしまう。
 次の瞬間、彼女のローファーの踵は、俺が予測したとおりに土手の小さな窪みにすっぽりとはまってしまって。足をとられた彼女の身体が、バランスを失ってぐらりと後ろによろけた。 
「まおちゃん?」
 急いで前に進み出ると、後ろに倒れそうになるまおちゃんの手をつかまえて強く引っ張る。
 それから今度は俺のほうに倒れこんできた彼女の細い肩を、両腕でしっかりと抱きとめた。
 その反動で、彼女の額がこつんと俺の胸にぶつかってくる。
「大丈夫?」
 腕の中のまおちゃんが心配で耳元で声をかけると、彼女がビクリと大きく肩を揺らして、慌てたように身体を後ろにのけぞらせた。
 怒ってるみたいに眉を顰めたまおちゃんの頬が、よく見ないと気づかないくらいに赤く染まっているのがわかる。
 その顔を見たら、なぜか急に胸がざわざわと変な音をたて始めて。俺は衝動的に、彼女の肩に回していた腕をぎゅっと自分の胸に引き寄せてしまった。
「ちょっ……! 何すんの!?」
 俺の腕の中でしばらくもがいたまおちゃんが、結構容赦のない力で俺の胸を突き飛ばす。
「まおちゃん、力強っ……」
 そんなに思いきり突き飛ばすことないのに。
 俺、いちおうまおちゃんのこと助けたつもりなんだけどな。
 でも、つい抱きしめちゃったからプラマイゼロか。
 眉を下げながら、ちょっと傷ついた目でまおちゃんを見る。
 彼女はそんな俺の目をほんの少しの間見つめ返したあと、怒ったようにふいっと顔をそらした。
「年下のくせに、生意気!」
 足元に視線を落としながら、まおちゃんがこれまでに何度も聞かされてきたセリフを小さな声で呟く。

 そのとき、川から吹いてきた風が俺たちの傍をすーっと通り抜けた。
 微かに音をたてて耳元を通り過ぎた風が、俯く彼女の髪を揺らす。
 風に乱された彼女の髪の間から、少し赤くなった耳朶が覗いている。
 それに気付いた俺の胸は、またざわざわと変な音をたてて鳴り始めた。
 まおちゃんに触れたい――。
 不意にそんな衝動に駆られたけれど、下手に手を伸ばしたらきっとまた怒られる。
 だから身体の横でぎゅっと拳を握り締めて、彼女に触れたいその衝動を、必死に頑張って押し留めた。
「あたし、帰るから」
 顔を上げたまおちゃんが、不機嫌そうにちらっと俺を見た。
「うん」
 ざわつく気持ちを誤魔化すようにへらりと笑うと、まおちゃんが呆れ顔で俺を見つめてくる。
 そんなまおちゃんに首を傾けてにこりと笑ってみせると、不意に優しい目をした彼女がほんの少しだけ口元を緩めた。
 二人で並んで一緒に土手を上りきると、彼女が何も言わずに俺に背を向ける。
 ほんとに行っちゃうんだ。
「まおちゃん!」
 黙って家の方向に歩き出したまおちゃんの態度はあまりに素っ気なくて。淋しくなって声をかけると、立ち止まった彼女が俺を振り返った。
 不思議そうに首を傾げるまおちゃんをじっと見つめ返したあと、少し迷ってから腕を上げて大きく手を振る。
「バイバイ、まおちゃん」
 そこら中に響き渡るくらい大きな声でそう言うと、まおちゃんが綺麗に笑って、俺に軽く手を振り返してくれた。
 滅多に見られないまおちゃんの笑顔に、俺の胸がやっぱりざわざわと変な音をたてる。
 この変な音の正体はなんだろう。
 眉を寄せながら、去って行く彼女の背中をじっと見つめる。
 まおちゃんがもう一度、振り向いて笑いかけてくれたらいいのに。
 少しずつ遠くなっている彼女の背中を見つめながら、俺は心の中でそんなことを強く願っていた。

《完・この風の向こうまで》

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