《心配だから、せめて無事かどうかだけでも教えてほしい》
 迷いに迷って、今朝送った追いラインは放課後になっても未読。
 この一週間ずっと、三つ年上の大学生の彼氏と音信不通だ。
 あいだを空けて何度か送ってみたメッセージは、未読スルー。数回かけた電話も繋がらない。
 もしかしたら、ブロックされてるのかも……。
 一週間前に最後に顔を合わせた年上の彼氏の顔を思い出して顔をしかめる。
 そんな予感がうっすらしているけれど、最後にもう一度。念のためにかけてみる。
 発信音は鳴るけれど、しばらく待っても繋がらない。
 やっぱりだめか。ため息をつくと、あたしは自分から通話を切った。
 これは、確実にブロックされてる。
 あたし、何かしたかな。今回は、どこがダメだった?
 いや、今回だけじゃない。あたしは、どうせ、いつも誰が相手だったとしてもダメなんだ。
 何も言わずに音信不通にされるくらいなら、はっきりきっぱり振ってくれたほうがマシかもしれない。そのほうが、こっちだってうじうじと思い悩まなくて済む。
 投げやりな気持ちで制服のポケットにスマホを突っ込んで、またため息を吐く。
 顔を上げると、自宅がもう目の前に見えていた。
 物心ついた頃から住んでいる一戸建ての自宅は、最近外壁を茶色から薄いベージュに塗り替えた。他人から見れば微妙な差なのだろうけど、あたしにはそれにものすごく違和感があって、未だに見慣れない。
 いつも以上に憂鬱な気分で自宅の玄関に近づくと、閉ざされたドアの向こうから明るく透きとおるようなピアノの旋律が漏れ聞こえてきた。
 音大に通う姉が、もう既に帰って来ているらしい。

 耳を澄ませば聴こえてくる姉のピアノの音色は、綺麗で優しくて穏やかだ。
 姉のピアノは、昔から周囲の評判が高い。
 あたしの両親――、とりわけ母は、そのことがとても自慢だ。
 けれどあたしは、ドアノブを握りしめたまま、すぐに玄関のドアを開けることができなかった。
 あたしはどちらかというと、音楽はあまり選り好みなく聴くほうだ。だけど昔から、クラッシックだけは好きじゃない。なかでも特に嫌いなのは、ベートーヴェンだ。
 三歳の頃からピアノを始めた姉は、その当初から音楽の勘がとても良い人だった。
 覚えが早く、リズム感も音感もある。
 打てばその倍以上になって返ってくる、そんな姉に対するピアノの講師の熱の入れようは他の生徒とは明らかに違っていて。姉の才能を知った母は、彼女の音楽教育に殊更に力を入れた。
 普段のレッスンはもちろん、コンクールにでも出ることになれば姉のことにかかりっきりで、幼い頃のあたしは、母に構ってもらった記憶がほとんどない。
 あたしが四歳を過ぎた頃、そんな姉のあとを追わすように、両親があたしにもピアノを習わせた。
 正直なところ、あたしはピアノになんて全く興味がなかった。
 家で静かにピアノを弾いているくらいなら、外に出かけていって泥だらけになって走り回っている方が好きだった。
 たった十分でも、椅子に座ってジッとするのが窮屈だった。
 だけど親に逆らうことができなくて、仕方なくピアノを習っていた。
 ただ、ピアノ自体はあまり好きではなかったけれど、姉についてピアノ教室に通うのは好きだった。
 音楽のことはよくわからないけれど、姉のピアノは素直にうまいと思ったし、姉が難しい曲を弾いて周囲に褒められているのを見ると、自分のことのように嬉しかったし誇らしかった。
 あたしはいつだって、ピアノ教室に通う姉のおまけみたいなもので。ピアノの先生も、あたしには姉の才能の欠片もないことがちゃんとわかっていたと思う。
 それなのに……。小学校三年生のとき、ピアノの先生が発表会用の曲としてあたしにあてがったのは、ベートーヴェンの『エリーゼのために』だった。
 一般的には小学校の高学年くらいで弾きこなせるようになる曲らしいのだけど、三歳からピアノを習っていた姉は、この曲を小学校一年生の発表会で見事に弾ききった。でもそれができたのは、姉だったから。
 幼稚園からピアノを習っていても譜面を読み間違えてばかりのあたしが、技術も表現力もそれなりに必要な、高度な曲を弾きこなせるはずがない。
 嫌で嫌で仕方がなかったけれど、結局あたしは発表会に向けてかなり早くから『エリーゼのために』を練習しなければならなかった。
 けれど、どれだけ早めに練習を始めたとしても、嫌々やっているからなかなか上達しない。
 結局、発表会当日までに楽譜を見ながら何とか最後まで弾ききるのが精一杯で、暗譜なんてもってのほか。発表会本番では緊張のあまり、最初の二小節しかまともに弾けないままに指がひとつも動かなくなって。しばらくじっとピアノの前に座り込んだあと、そのまま舞台をあとにした。
 発表会が終わったあと、あたしの傍にやってきた母が顔を真っ赤にさせながら「恥をかいた」と憤慨した。そして「お姉ちゃんの足を引っ張って……」と、家にたどり着くまでずっと、ぐちぐちと不平を言い続けた。
 姉は本番で失敗したあたしを優しく慰めてくれたけど、あたしには姉がその目の奥で本当は笑っているように思えて仕方なかった。不相応な挑戦なんてするからだ、と内心ではそう思ってるに違いない。
 ピアノの発表会での失敗は、ありもしない被害妄想で優しい姉の気持ちを疑うほどに、あたしの心に深い傷を負わせた。
 それを機に、ピアノは辞めた。
「ピアノを辞めたい」と言ったあたしを、母は止めたりしなかった。もう、恥をかきたくなかったんだと思う。
 だけど本当に恥ずかしかったのは、母でも姉でもない。二小節きりしか弾けなくて、どうしようもなく惨めな想いで椅子から立ち上がったあたし。
 ざわつく会場。同情から起きた、まばらな拍手。
 姉のピアノを聴くと、今でもたまに、あのときのことを思い出す。
 あたしは嫌な思い出を断ち切るように頭を左右に振ると、玄関のドアを開けた。

 ドアを開けると、父親のものよりも少し大きいサイズの男物の靴が玄関に並んでいた。それをじっと見ていると、母がリビングから顔を出す。
真音(まお)? おかえりなさい」
「ただいま」
「今、詩音(しおん)の部屋に瑛大(えいた)くんが来てるの。ピアノの練習もあるみたいだし、騒がしくしちゃダメよ」
 靴を脱いで二階の部屋に上がろうとしたあたしに、母が軽く釘を刺す。
 瑛大くんは、姉の詩音の彼氏だ。音大生の姉とは二つ違いで、医大生。すらっと背が高くて整った顔立ちをした彼は、両親からの評判もいい。
 瑛大くんが来ているとき、母はだいたい機嫌がよかった。そして彼が来ているとき、母は必ずといっていいほど、「騒がしくしないように」とあたしに注意する。
 姉の彼氏が来ているときは、玄関に並んでいる靴を見ればすぐにわかる。それにあたしはもう子どもじゃないから、意味もなく一人で騒いだりしない。
 そう思いながらも、あたしはいつもどおり無表情でこくんと母に頷いた。
 階段を上がるとまず姉の部屋があって、その隣にあたしの部屋がある。そして、その奥が両親の寝室。
 静かに廊下を歩いていたつもりだけれど、部屋のドアが全開になっていたせいで、姉があたしの気配に気がついた。
「あ、真音。おかえり」
 ピアノの椅子に座っていた姉が、あたしを振り返って微笑む。ナチュラルブラウンの長い髪が、彼女の背中で軽やかにふわりと揺れた。
 いつもばっちりメイクしなければ外に出かける気にもならないあたしと違って、化粧っ気のあまりない姉の顔は、それでも充分に綺麗だ。
 二重の黒目がちな瞳とマスカラ要らずな長い睫毛。色白な肌にどちらかというと下側がふっくらとした薄ピンクの唇。
 どこに出て行っても、姉はただそこに座っているだけで無条件に賞賛を受けていた。
 綺麗でピアノがうまくて、それから頭もいい。杉本さんちのしおんちゃん。
 おそらく、この近所で姉の評判を知らない人はいないんじゃないかと思う。
 羨むべきことに、姉は両親や親戚のいいところだけを、その外見にも中身にもしっかりと受け継いでいた。
 だから姉と並んで歩いていると、大抵の人はあたしを見てやや訝しげな顔をする。
 詩音ちゃんの隣にいるのは、お友達……?
 そしてあたしがその詩音ちゃんの妹だと知った瞬間、みんな少しだけ同情の目をあたしを向けた。
 あたしは父方の祖母に似てやや色黒だし、痩せてはいるけどそれがちょっと貧相に見える。
 しっかりメイクして誤魔化しているけど、目だって小さくて、右目は二重だけど左目は一重。それを、中学の頃からはアイプチで隠してる。
 綺麗な姉のことは自慢だけれど、自分が隣に並ぶといつもただの比較対象にしかならない。
 小学校の高学年のときにそのことにはっきりと気付いてからは、それがものすごくコンプレックス。
 まぁ、今さら嘆いてもどうにならないし、仕方がないんだけど。
「ただいま」
 姉に笑いかけると、ピアノの傍にあるベッドの端に腰掛けていた瑛大くんがあたしに笑いかけてきた。
「真音ちゃん、おかえり」
 瑛大くんの声は、高すぎず低すぎず。耳に心地よくて、あたしは彼の声のトーンが好きだった。
 綺麗な切れ長の目をした瑛大くん。黒い髪とほぼ同色の深い黒の瞳と目が合うと、そのまま吸い込まれそうな気がしていつもドキドキする。
 姉の彼氏だということはよくわかっているけれど、瑛大くんは思わずそのことを忘れそうになるくらい素敵な人だった。
 彼の声にぼーっとしていると、姉が怪訝そうに眉を寄せる。
「真音?」
 姉の声に、はっと我に返る。
「こんにちは。ゆっくりしていってください」
 あたしは瑛大くんに向かって小さく頭を下げると、姉と彼から顔をそらしてそそくさと自分の部屋に逃げ込んだ。

 部屋に入ると、鞄を床に投げ捨てて制服のままでベッドに寝転がる。
 両腕を思いきり上げて伸びをしていると、制服のポケットでスマホが鳴った。
 取り出して確認すると、ラインのメッセージが入っている。一週間音信不通にされていた大学生の彼氏からだ。
「ブロックされたんじゃなかったのか」
 ドキドキしながら、ラインを開く。
 連絡がつかなかった彼氏からメッセージが届いたことで、あたしはいくらか安心していた。
 きっと、彼にはあたしに連絡できない事情があったんだ。
 けれど彼氏からのメッセージを見た瞬間、スマホを持つ手が震えた。
《別れよう》
 今まで音信不通にしてきた理由も言い訳もない。書かれているのは、その一言だけだった。
《どうして? ちゃんと話したい》
 突然の別れに動揺したあたしは、よく考えずもせずに彼に返信する。それに対してほとんど間をおかずに返ってきた彼からのメッセージは、《こっちは話すことない》という、ひどく冷たいものだった。
 話すことない、か。
 音信不通にした上に、ラインのメッセージだけで簡単に別れようとするなんて。薄情なやつ。
 彼氏は、といっても、もうフラれたから彼氏ではないのか……。付き合っていたその男は、あたしより三つ年上の二十歳の大学生だった。
 高校のクラスメートの彼氏主催の合コンで知り合って、そろそろ付き合って二ヶ月というところ。
 二週間前が彼の誕生日だったから、あたしは貯めていた貯金をいくらか崩して、ブランド物のパスケースをプレゼントした。
 本当は財布をあげたかったけど、あたしの貯金では奮発してもパスケースが限界だった。
 彼の家に行って、下手くそなりに料理を作ってケーキを買って。そのまま彼の部屋で一晩過ごした。
 母はほとんどの関心を姉に向けているくせに、私の素行についてはそこそこ厳しく目を光らせている。
 姉の将来のために世間体を気にしているのだろうと思うけど、無断外泊なんてしたらひどく叱られるし、「彼氏とお泊まりする」など口が裂けても言えない。
 だから彼の誕生日の外泊ために、友達に協力してもらって親に嘘をついた。
 彼の誕生日の夜は、自惚れじゃなく、ほんとうに結構いい雰囲気だったと思う。
 彼となら、これからも長く付き合っていけるかも。そう思っていたのに、その二週間後にあっさり別れを切り出すなんて。あたしは尽くしたばかりで、何ひとつ得してない。
「腹立つ」
 小さな声で呟いて、ベッドにスマホを放り投げる。
 彼のことがものすごく好きだったかと言われたら、若干頭に疑問符が浮かぶけど。貯金を崩してでも豪華な誕生日プレゼントを贈りたいと思うくらいには……、嘘をついてでも一晩一緒にいたいと思うくらいには……、彼のことが好きだった。
 それなのに、あたしはだいたいいつもこうだ。ちょっと見栄を張ってみても、三ヶ月以上彼氏との付き合いが続いたことがない。
 あたしの勝手な拘りだけど、彼氏を作るならどうしても年上がいい。包容力がありそうな人に惹かれるっていうのもあるし、姉の彼氏の瑛大くんの影響もあってか、年上の男の人に対する憧れが強い。
 学校の先輩とか、友達の紹介とか、友達のつてで出向いた合コンとか。そういうところで知り合ったいくつか年上の男の人と、誘われるままに何回かデートして。この人なら信用できるかも。そんなふうに思い始めた頃、たいてい向こうから捨てられる。
 これまで付き合った相手は大学生が多くて、フラれるときに、だいたいこう言われるんだ。
「女子高生と付き合うのって、生活リズムが合わなくて難しいんだよ。それに真音って、冷めてて可愛げない」
 悪かったですね。
 言われるたびに、思う。
 結局今まで付き合ったやつらも、それから今別れたばっかりの彼氏も、あたし自身を本気で好きになってくれてたわけじゃない。きっと、現役女子高生っていう期間限定のブランド名に目が眩んで、ほんの一瞬血迷っただけなんだ。
「腹立つ」
 わかってはいても、頭と胸の中が、苛立ちと悔しさでもやもやとする。あたしはベッドから起き上がると、制服のまま部屋を出た。

 階段に向かって廊下を歩いていくと、さっきまでは全開になっていた姉の部屋のドアが閉まっていた。
 閉まっているといっても完全ではなくて、廊下を通り過ぎる時に部屋の中が覗き見えるくらいには隙間が空いている。
「瑛大くん……」
 ドアの隙間から、甘えるような姉の声が微かに漏れ聞こえてくる。
 階段に向かって歩いていたあたしは、音を立てないように息を止めた。
 姉の部屋のドアの隙間にちらっと視線を向けると、ベッドの上に瑛大くんと並んで座った姉が、彼と見つめ合っていた。
 目を伏せて首をほんの少し傾けた瑛大くんが、姉の頭の後ろに手を回す。瑛大くんの顔が姉にゆっくりと近付いて、ふたりの唇が重なり合う。
 まるで映画のワンシーンでも見ているような、甘美で綺麗な、恋人のキス。それに目を奪われてしまったあたしは、その場で立ち止まったまましばらく動けなかった。
 自分のものじゃないんじゃないかと思うくらい、心臓がドクドクと大きな音を立てていた。
 あたしがドアの隙間から覗き見ていることなんて知らない二人のキスは、少しずつ甘さが増していく。
 このまま見ていると、ドクドクと大きな音を鳴らし続けている心臓が冗談抜きで破裂しそうで。あたしは頭を左右に振ると、二人から視線をそらして、静かにその場を去った。

 階段を降りると靴を履いて、あとは大急ぎで玄関を出る。外に出ると、あたしはしばらく玄関のドアに凭れかかって、まだドクドクと鳴っている鼓動を整えた。
 どうして姉と瑛大くんはあんなにも綺麗で、そして似合っているんだろう。
 激しい動悸が通り過ぎると、今度は二人のことが羨ましくなった。
 姉と瑛大くんの付き合いは、彼女が高校一年生のときからだった。二人は同じ高校の先輩と後輩同士で、付き合っている期間はもう三年になる。
 いつも仲がよさそうで、ケンカをしているところなんて見たことないし、そんな話を聞いたこともない。
 両親も、将来が有望で見た目も完璧な瑛大くんのことを気に入っていた。
 姉が大学を卒業して瑛大くんが研修医を終えたら、きっと結婚するんだろう。
 まだ先は長いけど、それはそう遠くない未来のように思えた。
 あたしはため息をつくと、凭れかかっていた玄関のドアから背を離した。そして、ゆっくりと歩き出す。
 歩きながらふと、姉の後頭部を包んでいた瑛大くんの大きな手の平を思い出した。続けて、首を傾けて姉の唇に触れた彼の綺麗な横顔を思い出す。
 あたしにも、あんなふうに愛おしそうに優しく触れてくれる人がいればいいのに……。
 姉が「彼氏」として初めて家に連れてきたときに見た瑛大くんは、まさにあたしが思い描いていた男の人の理想像そのものだった。
 聡明で優しそうで。深い吸い込まれそうな黒の瞳をしたちょっぴり大人な男の人。
 瑛大くんがあたしに印象付けたのは、理想的な彼氏のテンプレート。
 瑛大くんはあくまで姉の彼氏だから、彼本人に対して恋愛感情は抱いていない。
 だけどあたしは瑛大くんみたい人に出会いたくて、いつも年上の男の人を彼氏に選んでいた。
 結局、何人と付き合ってみても瑛大くんみたいな人にはなかなか出会えなくて、これまで失敗ばかり。
 やっぱり瑛大くんは特別なんだろうか。
 もしかしたら、親の期待を一身に浴びている、綺麗で完璧な姉の彼氏だから、余計に魅力的に見えてしまうのかもしれない。
 あたしは一人苦笑いを浮かべると、頭の中の瑛大くんの残像を振り払った。

 家を出たあたしがたどり着いた場所は、近所の川原だった。家から歩いて十分ほどのこの場所は、静かで心地いい。
 一人になりたいとき、あたしはよくこの川原にやってくる。
 夕方は犬の散歩の人やジョギングをしている人がまばらに行きかうけれど、広い河川敷に腰掛けているとそれほど気にはならなかった。
 短い緑の草が生い茂る河川敷に、そのままぺたんと腰を落とす。身体を支えるように背中の後ろで手をつくと、しばらく下流に向かって流れていく川の水音を聞きながらぼんやりと空を眺めた。
 深呼吸をすると、苛立ちと悔しさで濁っていた胸の中に新鮮で綺麗な空気が入ってくる。あたしはそれを思いきり吸い込むと、勢いをつけてその場から立ち上がった。
 川に向かってなだらかに下っている土手を降りながら、途中でそこらへんに生えていた大きめの葉っぱを一枚ちぎる。それを持つ手をゆらゆらと振りながら、あたしは川べりを歩いてできるだけ流れが急な場所を探した。
 しばらく川に沿って歩いていくと、川の真ん中にどかんと座り込んでいる大きな岩に邪魔されて水の流れが速くなっている場所が見つかる。
 あたしはすっと背筋を伸ばして体勢を整えると、持っていた葉っぱを川の中に放り投げた。葉っぱは空気を含んでふわりふわりと舞って、それから水面に到達する。そこでくるくると回転したあと、川の水に巻き込まれてゆっくりと下流に流れ出す。それに合わせて、あたしはスタートを切った。
 葉っぱが流されていく速度に負けないように、全速力で川沿いを駆ける。
 膝上十五センチの丈の短い制服のスカートが、風を含んでめちゃくちゃに翻る。結っていない髪が、顔にあたってときどき毛先が口に入りそうになる。靴は走るのには全然適していないローファーで、地面とぶつかる度に足の裏が少し痛い。
 だけど、そんなことは何ひとつ気にせずにただ葉っぱを押し流す川の流れに負けないようにとひたすらに走り続けた。
 五十メートルくらい走ったところで、あたしはようやく走る速度を緩めて足を止める。
 前方を見ると、あたしが川に投げ込んだ葉っぱはもう数メートル先まで流されていた。
 葉っぱの行く先を見届けようと目を細めたあたしの周りを、一陣の風が吹き抜ける。それは強い風で、あたしの髪と制服のスカートをかなり乱暴に翻していった。
 この風に乗ってずっとずっと向こうまで行くことができたらいいのに。
 そうしたらあたしは、ずっと超えたくて、でもどうやったって超えられないものに、ほんの数ミリくらいは近付けるかもしれない。
 両腕を伸ばして吹いてくる風を受け止めたあと、脱力するように息をついて前かがみになり、両手を膝に押し付けた。
 今のあたしは風に乗って遠くまで行くことはできないけれど、それでもこうしてここで走ると気持ちがいい。頭と胸に渦巻いていたもやもやが、驚くほどすっきり消え去っている。
 あたしは両手に膝をついたまま一人で笑むと、ゆっくりと顔をあげた。
「はやっ!」
 そのとき、河川敷の土手の上からそんな声が聞こえてきた。驚いて土手を見上げると、白いTシャツに黒のスウェットを着た同年代くらいの男の子が立っている。
「君、すっごい走るの速いね。しかも、走り方もすごいきれー!」
 目をきらきらと輝かせてあたしを見下ろす彼が、口のそばに両手で作ったメガホンで大きな声で話しかけてくる。
「は? 誰……」
 あたしは彼に冷たく一瞥を投げると、小さな声でぼそりと呟いた。
 せっかくスカッとしたとこだったのに。爽やかな気分が消えてしまう。
 あたしはスウェット姿の男を無視すると、速足で川沿いを歩き始めた。
「あー、ちょっと待ってよ」
 あたしが完全にその存在を無視しているのにも関わらず、彼は土手を滑るように駆け下りてきて、後ろから追いかけてくる。
「……ほんとに誰?」
 あたしは顔をしかめると、さらに一層歩くスピードを速めた。
「ねぇ、よくここで走ってんの?」
 けれどあたしがどれだけ歩を速めても、スウェット姿の彼はしつこく後ろから追いかけてきて、うるさいくらいの大きな声で、いろいろと質問をぶつけてくる。
「家ってこの近く?」
「もしかして、陸上部の選手だったりする?」
 後ろから聞こえてくる好奇心いっぱいの声。次々と投げかけられる質問。
 完全無視を貫こうと思ったのに、あまりのしつこさに、歩きながらだんだん苛々してきた。
「あー、もう。うるさい!」
 大声で叫んで振り返ると、彼がぴたりと足を止めた。
「あ、やっと喋った」
 振り返ったあたしを見て、彼が嬉しそうににっこりと笑う。見ず知らずの他人に向けられた、あまりに自然で邪気のないその笑顔に、一瞬ドキリとした。
 近くで見ると、彼はわりと顔立ちの整った、かっこいいというよりは可愛いという表現が似合うような男の子だった。
 癖のない黒い髪と、それとほぼ同色の深い黒の瞳が印象的。好奇心旺盛そうなその黒の瞳が、幼い子どもみたいにくるくるとよく動く。同年代くらいだと思ったけど、もしかしたらいくつか年下かもしれない。
「ねぇ、よくここで走ってんの?」
 彼はにこにこと笑いながら、あたしの背中にぶつけてきたのと同じ質問を投げかけてきた。
「いつも、ではないけど……」
 質問に答えかけたあたしを、彼が好奇心いっぱいのきらきらとした目で見つめてくる。その瞳の光の強さに、あたしはちょっとたじろいだ。
「ていうか、どうしてそんな質問に答えないといけないのよ。あんたに関係ないでしょ」
 そもそも、立ち止まって振り返ってしまったのが間違いだった。
 背を向けて歩き出そうとすると、彼がすっと前に進み出てきてあたしの横に並ぶ。
「いつもではないけど、ときどきはここで走ってるってこと? 今まで全然会わなかったよね。タイミングが違ったのかな」
 そして、あたしの横から馴れ馴れしく話しかけてくる。
 あたしは横目でちらっと彼を見ると、またすたすたと速足で歩いた。だけど、彼もあたしの歩く速度に合わせてぴったり横をついてくる。
「俺も最近よくここで走ってるんだけど、この河川敷気持ちいいよね」
 話しかけられるのが迷惑。あたしはそういうオーラを全開に出しているつもりなのに、空気が読めないのか天然なのか。彼はあたしの隣から離れない。
「今度はいつ来る予定?」
 あぁ、もう。うるさい。そして、しつこい。
 我慢できなくなって立ち止まると、あたしは眉間に皺を寄せて彼のことを睨んだ。かなり力を入れて睨んだのに、空気の読めない彼はあたしを見てへらりと笑う。
「今度ここに来たとき、俺と勝負しない? どっちが速いか」
 へらへらと笑いながらそう言われて、彼を睨んでいたあたしの肩から力が抜けた。
 あたしがこんなにも迷惑がっているのに、どうして全く通じないのよ。
 疲れてため息を吐くと、彼が不思議そうに首を傾げた。
「あ、ダメ?」
「そういう問題じゃない」
 あたしがぼそりと呟くと、彼がますます不思議そうに首を傾げる。
 彼はしばらくあたしを見つめたあと、不意に何か思い出したように、にかっと笑った。
「あ、そういえば名前なんて言うの?」
「は?」
 スウェット姿で無邪気そうなふりをして話しかけてきて。最終的に名前を聞いてくるとか。
 結局ナンパ? こんな河川敷で?
 あたしは眉をしかめると、唇を横に引き結んだ。
  それなら、他をあたってよね。あたしはそんなに暇じゃない。
 彼からツンと顔をそらし、無言で傍を離れる。
「あー、待ってよ」
 あたしが歩き始めると、彼はまた横に並んでついてきた。
 この人、それなりに可愛い顔してるし、女には困ってなさそうなのに。ほんとしつこい。
 彼はあたしがどれほど顔をしかめていてもお構いなしで、いつまでもしつこくついてくる。
「名前、なんて言うの? 教えてくれないなら、適当に呼んでいい? タマちゃんとか。あ、ミケとかクロがいい?」
 あー、うっとうしい。たしかに、あたしはちょっと猫目だけどさ。
「あたしはペットのネコかっ!」
 あまりのうっとうしさに、心の叫びが声になって外に漏れる。それを聞いた彼が、あたしの隣でへらへらと笑っているのが横目に見えた。
「何なのよ、あんた。言っとくけど、ナンパならはっきりとお断りだから」
 苛立ちを含んだ声でそう言うと、彼がきょとんとした顔で首を傾げた。
「ナンパ? そうじゃなくて、俺はただタマちゃんのほんとの名前が知りたいだけだよ?」
「何で?」
「だって、制服姿であんなに速く走れる女の子見たの初めてだし。なんていうか、風みたいに走るなーって、尊敬の念を抱いちゃったんだもん。すげぇよ、タマちゃん」
 あたしを見つめる彼の黒い瞳が、きらきらと輝く。その目を見る限り、どうやら彼の言葉は本気らしい。
「タマじゃないし。ていうか、あたしもう帰るから」
 ため息をつきながらそう言うと、彼ががっかりしたように黒い瞳を曇らせた。
「そっか。じゃぁ、また次に会ったときに勝負しようね、タマちゃん」
「しないし! タマでもないっ……!」
「じゃあ、タマちゃん、検討だけでもしといてよ」
「だから、タマじゃないし」
 あたしは苦く笑いながらそう言うと、彼から離れて歩き始めた。
 あたしに付き纏うことをようやく諦めたのか、彼はもう後ろからついては来ない。
 その代わり、あたしの背中に大きな声で呼びかけてきた。
「バイバーイ、タマちゃん!」
 その声は川原中に響き渡るほどに大きくて、向こうのほうで犬の散歩をしていたおじいさんまでもが何事かというような顔で振り返る。
 恥ずかしくなったあたしは、眉根を寄せると彼を振り返って思いきり睨んだ。
「だからタマじゃないって。あたしの名前は、杉本(すぎもと)真音(まお)! 何だか知らないけどうっとおしいんだけど!」
 思いきり睨みながら悪態をついてやったのに、彼はへらりと笑いながらあたしに大きく手を振ってきた。
「まおちゃん? わかったー。じゃぁ、今度会ったときは絶対勝負しようね!」
 誰がするかっ! ていうか、検討しろって話がどうしてこの一瞬で「絶対」に変わるのよ。
 彼を睨みながら、思う。
 あたしに向かって手を振りながら、いつまでもへらへらと笑っているその表情が本気でウザい。
 ていうか、あいつが人のこと「タマ」呼ばわりするから、勢いに任せて名乗っちゃったし。
 そのことに対する後悔と苛立ちの波が身体中に一気に押し寄せてきた。
 せっかく走ってスカッとしたのに。全部台無し。もうしばらくここに来るのはやめよう。
 せっかく、一人になれるお気に入りの場所だったのに。
 あたしは苦々しい思いで、夕暮れの川原をあとにした。