――場所は、学校から徒歩7分の場所にある、風上派出所。
ここは二階建ての古くて白い建物で、入口左手前には掲示板がある。
今は小学生の下校時刻で派出所前には見守り警護中の警察官が立っている。
私はしゃがんだまま、その横で寝転んでいる猫を触りながら警察官に呟いた。
「好きな人がフラれて落ち込んでいるから何かしてあげたいのに、自分は何を言ってあげるのが正解かわからないし、何もしてあげられなくて……」
この派出所に通い始めてから2ヶ月。きっかけは”迷い猫”の一枚の張り紙を貼らせてもらったこと。
ここに棲みついている番犬ならぬ番猫を触るのが日課になっている。名前はチロル。人懐っこい黒猫だ。
通学路の一角にある派出所なので3〜4日に一度は遊びに来ている。そのせいか、白髪交じりで中肉中背の50代半ばの警察官の彼の鈴木さんと友達になった。
唯一本音を話せる人が両親よりも年上の警察官だなんて自分でも驚いている。
「粋ちゃんは優しいんだね。彼の為に何かしてあげたいなんて」
「そんなことないです。思ってるだけで何も出来てませんから」
「相手を思いやる気持ちも大事なんじゃない?」
「でも、それだけじゃ物足りなくて……。心の中でブレーキがかかるんです。余計なことを言ったら更に傷つけちゃうんじゃないかなって。だから、何もしない人と一緒です」
「いや、力になってあげようと思ってるなら、何もしない人と一緒じゃないよ。それなら、あと一歩の勇気を出して粋ちゃんの思いを伝えてみるのはどうかな」
「えっ」
「そっと見守ることが正解な場合もあるけど、元気づけてあげることが正解の時もある。人それぞれ受け取り方が違うから、粋ちゃんがそれを見極めて力になってあげればいいと思う」
言われてみれば、まだ彼に心の内を伝えていない。
ただ、赤城さん達の関係がバレないように。加茂井くんが傷つかないようにと差し支えのないことばかりをしていた。
今この瞬間だって、同じところで足踏みしているだけで前に進もうとしていない。
もしかしたら突っぱねられてしまうかもしれないけど、何もしなければ同じ悩みから抜け出せない。それに、私が寄り添うことで力になれることがあるなら、試してみる価値はある。
だから、私は……。
――翌日。
終礼が終わってクラスメイトが扉の外へ流れていく中、私は左肩に学生カバンをかけて両手で持ち手を握りしめたまま、教室を出ていこうとしている加茂井くんの前に駆け寄った。すると、彼は目線を向けてきたので、私は息を飲んで言った。
「あっ、あのっ……少し話しがしたいんですけど……」
「……それは、俺にとっていい話? それとも嫌な話?」
「それはわかりませんが……。とっ、とにかく……私について来てくれませんか?」
必死さが伝わったのか、彼は後ろについてきてくれた。
無言のまま向かった先は屋上。
私はいつもの定位置に向かっていると、彼は後ろから言った。
「どうして屋上に?」
「ここは、私のお気に入りの場所なんです」
「ふぅん。……で、なんの話があるの?」
「そっ、それなんですけど……。先日、『どうして矢島が気にかけるの?』って聞いてきましたよね」
「うん」
「……実は、知ってたんです。少し前から赤城さんと木原くんの関係を」
心臓の音が耳から飛び出しそうになるくらい爆音を放っている。ここまで彼のプライベートに入り込むのは初めてだから、正直反応が怖い。
でも、一度心を決めたからには最後まで向き合おうと思った。
「だから、俺を惨めに思ったの?」
「それは誤解です!!」
「じゃあ、なに?」
失恋のショックが大きいのか少し攻撃的な口調が届く。でも、昨日鈴木さんが言ってた通り、私にいま必要なのは”あと一歩の勇気”だ。
「私、以前から加茂井くんが気になってたんです!! だから、ずっと心配してました!」
「えっ?」
「1年以上前の大雨の日、加茂井くんが段ボールの中に入っていた子猫を助けていたところを見たんです。うちには先住猫がいるから少し離れた場所で母親に飼えるかどうかの電話してる時に加茂井くんがやって来ました。その時の眼差しが優しくて、猫の気持ちに寄り添っていて、愛おしそうに頭や身体を撫でていて。その様子を見ているうちにステキな人なんだろうなって思いました」
「……でも、それとこれは関係ないし」
「一目惚れしたんです!!」
「えっ……」
「信じてもらえないかもしれませんが、あの一瞬で好きになってしまいました」
私は勢いに任せてそう言うと、彼は圧に負けたのか再び目を丸くした。
「ずっと声をかける勇気がなかったんです。同じクラスになってもあと一歩の勇気が出ませんでした。だから、加茂井くんには彼女ができた時はショックだったけど、好きな人が幸せでいてくれるならそれでいいかなって。そう思っていた分、赤城さんが木原くんといい雰囲気になってるところを見ていられなくて」
「俺のことを想っててくれたんだ……。全然気づかなかったよ」
「いいんですっ!! 私の気持ちなんて……」
「ごめん。好きになってくれたのはありがたいけど、矢島の気持ちに応えられない」
「わかってます。私はただ元気になってもらいたいだけですから。だから、これを食べて元気出して下さい」
私はブレザーのポケットに手を突っ込んで、ミルク味の飴を彼の手中に握らせた。もちろん、元気を出してもらうために。
でも、彼の手に触れただけでも全身の血が暴れて爆発しそうになっている。
言いたいことはまだ沢山あった。
でも、告白しただけでもいっぱいいっぱいだったから、これ以上の言葉は伝えられなかった。
「ふあぁぁ……。眠い……」
――今朝からあくびの連発が止まらない。
何故なら、昨日は加茂井くんに告白して脳も身体も興奮していたせいか全く寝付けなかったから。
しかも、時間と共に失恋が現実味帯びてくると、心の中は再び灰色の空に染まっていった。
もちろん、上手くいくなんて思ってない。
ただ、フラれるとなると次はメンタルの問題が発生してくる。
しかし、そう考えてたのも束の間。
「矢島、うっす!」
加茂井くんは後ろから明るい声でポンッと肩を叩いてきた。その表情は、昨日とは打って変わって晴れ晴れしい。
これが彼からの初コミュニケーションだったから、嬉しくて先ほどの眠気が一気に吹っ飛んだ。
「おっ、おはようございます!!」
「昨日は飴をありがとう。久しぶりにミルク飴の味を食べたせいか懐かしい味がした」
「美味しいですよね。実は昔から好きな飴なんです」
「そうなんだ。……あのさ、矢島っていつも一人でいるけど友達作んないの?」
加茂井くんが私を気にしてくれるのは願ったり叶ったりだけど、気にするところはやっぱりそこかと思い知らされる。
「……苦手なんです。雑音が」
「雑音って?」
「わっ、私のことは別にいいです。……それより、少し元気になりましたか?」
「矢島が気にすることじゃないよ」
と、少し元気のない声のまま曖昧な返事が届く。
どうしたら加茂井くんの気が晴れるのかな。失恋した時にだいぶショックを受けていたから立ち直るのに時間がかかるかもしれない。
……でも、こうやって加茂井くんと肩を並べて登校できるなんて夢みたい。失恋が確定しても、1年5ヶ月間こういう姿を何度も夢見描いてきたから。
赤城さんは隣でこの光景を見続けてきたんだよね。羨ましいな……。
しかし、うっとりとしていた目線を前方に向けると、3メートルほど先で赤城さんと木原くんが肩を並べて歩いている。
それを見た途端、加茂井くんのカバンを引いた。すると、彼は「何?」と言って振り返るが、とっさに返事が出てこない。気まずく目線を外していたうちに彼は異変に気づき、前方を見て私が隠し通したかった事実を悟った。
「もしかして、沙理達が一緒に歩いてるところを見て……」
「だって、見たくないですよね。先日まで彼女だった人が別の男性と一緒に歩いてるところなんて」
彼の心境を考えてシュンとしたままそう言ったけど、彼は顔色一つ変えずに言った。
「確かに二人が一緒にいる所を見るのは嫌だけど、俺もいま矢島と一緒に歩いてるし」
「はっ!! そうでした……」
「プッ……、変なやつ」
「すっ、すみません……」
心配し過ぎちゃったかな。それとも、少し時間が経ったから落ち着いたのかな。
私はまだ何もしてあげれてないけど、いつか本物の笑顔を取り戻してあげたいと思っている。
ーー加茂井くん達が別れてから4日が経過した。
彼は授業中に外を眺める回数が増した。時より大きなため息をつく。その度に、美術室で浮気現場を目撃していた彼の表情を思い出す。
私が彼の為にしてきたことと言えば告白くらいしかない。……いや、そんなの力になるわけない。
ここ4日間は大きな波風もなく過ごしていたけど、嵐は前触れもなく訪れた。
――放課後、昇降口に降りていくと、複数人の女子ただならぬ噂話が耳に入ってきた。
4組の下駄箱に軽い人だかりが出来ていたので人の頭の隙間から顔をひょいと覗かせると、そこには木原くんを壁に追いやってワイシャツの襟元を掴み上げて睨みつけている加茂井くんの姿があった。
しかも、他の生徒が距離をとるくらい緊迫状態に包まれている。
私は冷や汗を滲ませたまま人だかりをかき分けて一番先頭に立った。
「てめえぇぇぇっ!! いまなんっつった!! もう一度言ってみろよ」
「まぁまぁ、そう熱くなるなって。ここにいるみ〜んながお前が暴力ふるってると思ってるよ?」
「はぁぁぁあああ?!?! 先に挑発してきたのはお前だろ?」
「そんなに拳を高く上げて俺を殴ろうとでもしてんの? それで何かの解決に?」
「お前っっ……。俺の心境を知ってて煽ってんだろ? どれだけ苦しめれば済むんだよ!」
ここに、私が知ってる彼はいない。
まるで槍の雨が降り注がせているかのように攻撃的になっている。
敢えて言葉にしなくてもわかる。赤城さんへの気持ちの大きさが。その度に私の心臓は握りつぶされていく。
なんだろう。この窮屈な気持ちは……。
「別に。決着はついてるから軽く挨拶しただけ」
「っっ、てめぇええっ!! なんだとぉぉお!!」
逆上している加茂井くんとは対照的に、木原くんは冷静な姿勢を崩さない。見下した目で淡々と語るだけ。
場の空気は悪化の一途を辿るばかり。加茂井くんが声を荒げてるせいか、野次馬は吸い寄せられて来る。傍から見ても明らかに木原くんの挑発行為だとわかっているけど止めに入る者はいない。
だから、その役を買うのは私だと思って二人の目の前に立った。
「ケンカは……ダメですっっ!! 加茂井くん、いますぐ木原くんから手を離して下さい」
仲裁に入った瞬間二人の目線が向けられたけど、加茂井くんの意識は再び木原くんに行き、襟元を更にキツくねじり上げた。
「嫌だ! 俺の邪魔すんな!!」
「おいおい……。心配してくれてる矢島に失礼だよ」
「っるっせ!! そんなの知るか!!」
「加茂井くん! 何があったかわかりませんが一旦落ち着いてください」
この学校に入学してから初めて腹の底から声を上げて加茂井くんの腕を引っ張った。しかし、彼の手は木原くんから離すつもりはない。
「そんなの無理に決まってんだろ! 矢島は引っ込んでろ!!」
「加茂井くんっ……、一旦落ち着いて下さい。お願いだから……」
「だってよ? 襟がくしゃくしゃになるから離してくんない?」
「知るかっっ!! お前は俺になんの恨みがあるんだよ」
「そんなの、お前自身がよくわかってるだろ」
「てんめぇぇぇっっ!!!!」
「加茂井くんっっ!!」
私が加茂井くんの腕を掴むと、彼は木原くんを振り払うように手を離した。すると、木原くんは「やってらんねぇ」と吐き捨ててから外へ出ていき、加茂井くんは不機嫌な足取りで廊下方面にずんずんと歩き出した。私は焦ってその背中を追う。
「待って下さい、加茂井くん……」
「……」
「待って下さいっっ! 私と話をしましょう」
彼が足を止めた場所は、赤城さん達の浮気現場だった美術室前。彼は扉の前にストンと腰を落とすと、頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。
「あいつ……、俺の耳元で『今まで沙理がお世話になりました。もう二度と近づかないでね』だってさ。ただですら傷ついてんのにどうして気持ちを煽ってくんのか意味不明。それに、あいつが俺から奪ったのは沙理だけじゃなく……」
「えっ……」
「……いや。何でもない。言いたいことを言わなきゃ消化しきれない。ただですら失恋して精神的に参ってんのにさ」
「ごめんなさい。でも、あのまま木原くんとケンカしてたら加茂井くんが壊れちゃうような気がして……」
あのまま感情任せでぶつかったらお互い失うものしかないと思っていた。いつかはぶつかる日が来るかもしれないけど、それがまさかこんな早くにやって来るなんて。
「矢島……さ。どうして俺の為にそこまですんの? 何のメリットもないのに」
「それは……、加茂井くんを守りたいからです……。それに、加茂井くんの幸せが私の幸せでもあるので」
「ははっ。なんだよ、それ。……神様かよ」
「いえ、ただの片想いです。…………ダメ、ですかね」
「はぁ~っ……。お前には参ったわ」
「ごめんなさい」
「そこまでしてくれても見ての通り失恋したばかりだから、いまは自分のことで頭がいっぱいというか……」
「いいんです。期待はしてません。だから、困ったことがあったら遠慮なく言って下さいね」
私はニコリとそう言うと、彼は大きなため息を漏らした。
言いたいことはだいたいわかっている。”相当変わってる女”だと。
でも、二人のケンカを止めたことに後悔してない。
私は私のやり方で彼の心を救っていきたいから。
――翌日の昼休み。
私はいつもどおり屋上でヘッドホンを装着したままフェンスの向こうの景色を眺めていると、誰かがポンッと肩を叩いた。
びっくりして振り向くと、そこには加茂井くんが。
ヘッドホンを外して身体を向けると、彼は言った。
「昨日さ、俺に『困ったことがあったら遠慮なく言って』って言ってたよね」
「あっ、はい。私に出来ることでしたら」
「じゃあ、沙理に復讐したいから手伝ってくんない?」
「えっ、復讐?? 復讐ってあの仕返し的な……」
「そ、復讐。……色々考えてたんだ。沙理や木原のこと。それに、沙理と付き合っていたころの自分のことまで。そしたら虚しくなってきてさ。別れる理由が自分じゃないからなおさら」
「加茂井くん……」
「あいつは木原にぞっこんだからもしかしたら復讐なんて無意味かもしれないけど、少しでも沙理に俺の心境を知って欲しいから」
「それはわかりますけど、復讐なんてしたら加茂井くんの方が傷つくんじゃないかと思います」
加茂井くんは、人一倍繊細な人。子猫を拾ったあの日から毎日見てきたからわかる。昨日木原くんに殴りかかりそうになってた時だって、加茂井くんの心は土砂降りになってるように見えていたから。
それなのに、また傷つこうとしている。
復讐なんてしたら幸せなんて訪れないし、赤城さんから離れた方がきっと楽になる。
加茂井くんの心は赤城さんから離れきれていない。だから、復讐には反対だった。
「やってみないとわかんないよ。矢島が嫌なら別の人に頼むけど」
「他の人は……嫌です。加茂井くんが他の人と手を組んで欲しくないです」
でも、加茂井くんに恋をしている分、自分の意見を突き通せない。
それに、その役割を別の人に頼むなんて嫌だ。
「じゃあ、矢島が手伝ってくれる?」
「……はい。わかりました」
私は頭を頷かせると、彼は隣に移動した。
そこで、二人揃って同じ空を見つめる。
「加茂井くんは、いまどんな復讐を考えてますか?」
「ん〜っ……。まだ考えてないけど、直接的なものは避けたいかな。出来ればヤキモチ的なことがいいかも」
「なるほど。じゃあ、加茂井くんはどんな時にヤキモチを妬きますか?」
「好きな人が他の男を見ている所かな。彼女には自分だけを見てて欲しいタイプだから」
彼がそういった瞬間、名案が降り注いだ。
直接的なものを避けてヤキモチ的なこと。その二つを足して二で割ったら、最善の答えに辿りついた。
「それなら、偽恋人はどうでしょうか」
「偽恋人?」
「はい。私達が恋人を演じていれば、赤城さんは加茂井くんに新しい恋が始まったと勘違いするかもしれません。そこで、自身の浮気を振り返るきっかけになるかもしれませんし」
「つまり、同じような手口で俺の心境を考えさせる作戦か」
「あっ、でも……相手が私なんて嫌ですよね。……ってか、忘れて下さい。キレイな人ならまだしも、ぼっちの私と恋人役なんて……」
よくよく考えたら、彼女役が私なんて嫌だよね。
友達いないし、喋ることは苦手だし、要領悪いし。それに、今まで恋人を作ったことがないから、彼女を演じるなんて難しすぎる。しかも、好きな人の。
その上、自ら偽恋人の提案をするなんて図々しいにも程がある。
しかし、彼は……。
「それはいいアイデアかも」
「えっ!!」
「もしかしたら、木原とは単なる浮気かもしれないし、俺と矢島が仲良くしてたら沙理はヤキモチを妬いてくれるかもしれない」
「赤城さんは今までライバルがいなかった分、現実味帯びなかったのかもしれません」
「そうだな。じゃあ、その作戦を決行してもいいかな。矢島さえよければ」
「はい!! もちろん喜んで!!」
「ぷっ……。偽恋人に喜ぶなんて変な奴」
偽でも加茂井くんと恋人になれるなんて幸せ。
もしこれが夢だとしたら、一生覚めない夢であって欲しい。
でも、私に偽恋人なんて務まるのかな……。ちょっと自信がない。
「すっ……すみません。興奮したら、つい……。私、加茂井くんの彼女になれるだけでも幸せです」
「もう一度言っとくけど、偽だからね。偽」
「二度も言わなくてもわかってますよ〜」
この展開が幸せだから、湧き上がる笑いが堪えきれなくなった。
偽恋人でも好きな人の近くにいられるだけで嬉しいから。
「そういえば、矢島んちも猫飼ってるの? この前、先住猫がどうのって言ってなかった?」
「あっ、そうなんです! 飼ってるんですけど……、実は2ヶ月前に窓を開けたら逃げちゃって」
「えっ! 2ヶ月も帰ってきてないの?」
「……はい。恋の季節だったせいでしょうか。近所中探したんだけど、全然見つからなくて……」
「それはショックだね。矢島んちって学校から近いの?」
「隣駅です」
「猫の名前や性別。それに、どんな猫種? 模様とか特徴的なものはある?」
「名前はフクちゃんでオスです。両耳にハートの黒い模様がある三毛猫です」
「そっかぁ。そんなに珍しい模様なら見かければすぐにわかるかも。見つけたら教えるね」
「ありがとうございます!!」
勇気を出して告白してから彼との距離がグングン縮まった。
最初は声をかけるだけでもいっぱいいっぱいだったのにね。
もっと早く勇気を出していれば、これが赤城さんと付き合う前だったら、いまこの瞬間が違う未来になっていたかもしれない。
昼休みの終わりの時間が迫ってきたので、私と加茂井くんは教室に戻ることにした。
しかし、普段は誰もいないはずの四階階段の踊り場で赤城さんはスマホを耳に当てながら誰かと電話をしていた。
「大地〜、早く会いたいの〜っ!! ……うん、…………うん。じゃあ、いま『沙理が好きだよ』って言って。…………うん、うん、それでもいいからぁ!」
彼女が名前を言った瞬間、電話相手がはっきりした。
赤城さんは加茂井くんと別れたことを公にしていないせいか、校内で木原くんと一緒にいる回数は少ない。だから、こうやってこっそりと連絡を取ってるのではないかと思った。
本音を言うならこの場を通りたくない。
しかし、いま私達がいる本棟は二階の渡り廊下以外繋がっていないので、ここを通らなければ教室には戻れない。
一方の加茂井くんは、不意打ちを食らったせいか私の手をギュッと握りしめて階段を下るペースを早めた。私もそれに合わせて駆け下りた。
彼がいきなり手を繋いできたことに驚いたけど、頭の中に私がいないことはわかっている。
キーンコーンカーンコーン……。
三階の踊り場に差し掛かった時にチャイムが鳴った。まるで、彼の気持ちに区切りをつけさせるかのように。
私はそのタイミングで聞いた。
「いま辛いですよね……」
「……」
「何でも言って下さいね。私に出来ることだったら何でも力になります。だって私は、加茂井くんの……っっ!!」
そう言ってる最中、彼は突然両手で私の頬を抑えて顔を近づけた。
その瞬間、心臓がドキンと跳ねた。
一瞬、キスをされるかと思った。
でも、実際はおよそ2センチのところで寸止めしている。
お互いの唇は届かなくても、触れてるようなむず痒い気配が届く。それだけでくらくらとめまいもしてきた。
しかし、その隙間から聞こえてきたのは、上履きの音を鳴らしながら私達の横を通り過ぎていく音だった。
――そこでようやく気付いた。
恋人のふりはもう始まっているのだと……。
それが5~6秒ほど続いた後、彼は頬から手を下ろして階段の奥に消えていく彼女の背中を見て言った。
「あいつ、俺らのことを見てたよな。チャイムが鳴るとすぐ教室に戻るタイプだから見せつけるチャンスだと思ったよ」
「……」
「矢島?」
「……は、……ひっ」
「お前っ……、顔真っ赤っ赤!!」
しまりのない顔に、頼りない返事。その上、興奮を通り越して今にも魂が抜けそうになっている。
それもそのはず。偽恋人になることは了承したけど、キスのフリをするなんて聞いてないから。
しかも、それがあまりにも唐突だったから、先ほどの屋上に気持ちが置きっぱなしになっている。
「あっ、あのっ……。急にこーゆーことをされても……心の準備が整わなくて……」
「……もしかして、キスの経験がない?」
疑惑の目でそう聞かれたけど、素直に首を縦に振りたくなかった。
「キスの経験くらいありますよ。フクちゃんと何度も……」
「……あのさ、フクちゃんって猫だったよね?」
「そう、ですけど……」
そう答えると、彼は右手で頭を抱えて「はぁ」と深い溜め息をついた。
「あのさ……。やっぱり矢島に偽恋人は努まらなそうだからやめよ」
「えっ! 嫌です。赤城さんにヤキモチを妬かせるには恋人を演じるのが一番です」
寄り添う姿勢とは対照的に、だらしない口元からはよだれが溢れそうになっている。
そりゃ好きな人からフリでもキスされそうになったら嬉しくない人なんていない。大げさに言えば、明日の幸せさえ約束されているようなもの。
「この程度で顔を真っ赤にするやつに提案するレベルじゃないと思う」
「わっ、私はっっ!! 加茂井くんの力になりたいので偽恋人になりたいです」
「……そんな顔してんのに?」
「でっ、出来ますよ! 恋人を演じるくらい。絶対、絶対、目標が達成するまで偽恋人を辞めませんから!!」
「じゃあ、少しずつ慣らしていこうか」
彼はそう言いながら再び顔を接近させると、少し落ち着いてきたはずの顔色は再び点火した。
頭の中が先ほどのキス色に染まると、心臓が口から逃げ出しそうになった。
「はっ、はい……。もしかしたら、途中で心臓が止まるかもしれませんが」
「ばーか。お前の心臓止まったら沙理に復讐できなくなるよ」
「その時はもう一回心臓を動かします!!」
「お前、すげぇな……」
私達の関係は出だしから不調だ。
でも、加茂井くんと少しずつ心の距離を縮めているうちに、毎日が楽しくなって嫌だと思っていた高校生活がバラ色に染まっていった。
人間とは実に単純なものだ。
正直、復讐は乗り気じゃない。万が一、赤城さんの気持ちが加茂井くんに残っていたとしたら、偽恋人を演じることによって傷つけてしまう可能性があるから。
それに、復讐しても赤城さんの感情が揺れ動かない可能性もあるから、逆に彼が傷つかないかと心配している。
――下校後、派出所に寄り道をした。
私は2か月前から掲示板に貼らせてもらっている自作の迷い猫のポスターに触れながら、登下校の見守り警護をしている警察官の鈴木さんに先日のお礼を伝えた。
「先日は相談に乗ってくれてありがとうございました。実は、例の好きな人と付き合うことになりました」
「えっ、もう?? 先日、好きな人がフラれて落ち込んでるって言ってなかったっけ?」
「そうなんです。だから、励まそうと思って気持ちを伝えたらフラれちゃいました。でも、それから彼が元カノに復讐したいということになって、私が偽恋人を演じることになりました」
「恋人じゃなくて、偽恋人?? あはは……。若い子は色んな悩みがあるんだね」
「……それだけでも嬉しいんです。好きな人の傍にいられれば。だから、一歩前に進めなくてもいいんです」
そう言いつつも、やっぱり本物の恋人には憧れる。でも、いまの自分には贅沢だ。
私は赤城さんのように魅力的な女性じゃないし、友達がいるわけでもない。性格だって明るい方じゃないし、ぼっちだし……。
加茂井くんが偽恋人に選んでくれただけでも奇跡的だと思う。
すると、鈴木さんは私の隣に立って言った。
「粋ちゃんはもう一歩前に進んでると思うけど?」
「えっ」
「彼が粋ちゃんを偽恋人に選んでくれたと言うことは、好意的に思ってくれてる証拠なんじゃないかな。何とも思ってないなら、そんな大胆な提案はしないと思うよ?」
「そう……ですかね……。だとしたら嬉しいですけど……」
「粋ちゃんはもっと自信を持ったらいいよ。彼の気持ちは少なからず次のステップへ進んでいるからね」
彼はそう言うと、ニコリと微笑んだ。
正直、嬉しかった。彼の気持ちが不透明な分、こうやって背中を押してくれると前向きな気持ちになるから。
「あっ!! そう言えば、さっき男子高校生がここに来て『両耳にハート模様がついている猫を見かけませんでしたか?』って聞いてきたよ」
「えっ!!」
「きっと、フクちゃんを一緒に探してくれてる子だろうね。もしかして、粋ちゃんのお友達かな?」
「加茂井くんがフクちゃんを……」
「名前がすぐ出てくるということは、やっぱり知り合いだったの?」
「あっ、はい!」
「いいお友達を持って幸せだね」
昨日ちらっと話題にあげた程度だったから、本当に探してくれるなんて思わなかった。
こんな小さなことでも加茂井くんが気にかけてくれるなんて嬉しい。
――朝、制服姿で家を出たら、つい先日まで灰色の空だったはずが今日は晴天でとても太陽が眩しかった。
今日は加茂井くんと話がしたくて少し早い時間に家を出て下駄箱で待った。
人を待つのはいつぶりだろう。簡単に思い出せないほど待ち合わせや待ち伏せをしてないと気づく。
加茂井くんが下駄箱に到着すると、私は小走りで彼の目の前に立った。
「加茂井くん、おはようございます」
「うっす」
「昨日、近所の派出所で聞いたんです。加茂井くんがフクちゃんを探してくれてるって。だから、お礼を言いたくて……」
「派出所で名前を言わなかったけど、それがどうして俺だとわかったの?」
「だって、フクちゃんが行方不明になった話は加茂井くんにしか言ってませんから」
「そっか。せっかくだから、クラスの奴にもフクちゃんを見かけたことがあるかどうか聞いてみようか?」
「……いいんですか?」
「困ってる時はお互い様だろ」
彼はそう言うと、私の頭をポンっと叩いて校舎へ上がった。
一方の私は、まるで赤面スイッチを押されてしまったかのように頬が赤く染まっていく。
教室方面へ進めている背中を追っていくと、彼は話を続けた。
「矢島のことをよく知らないから少しずつ教えて。恋人になるなら少しは知っとかなきゃなぁと思って」
「何が知りたいですか? 私なら何でも答えますよ。身長? 体重? それともスリーサイズ?」
「あははっ。……お前って、ほんっと面白いな。それ、本当に聞きたいと思う?」
「……冗談ですよ。加茂井くんに少しでも笑って欲しかっただけです」
「そ? じゃあ、質問。どうして矢島はいつもヘッドホンをしてるの?」
この質問を受けた瞬間、夢見心地な気分は一旦引き止められる。
「……雑音を聞きたくないからです」
「雑音って何? 先日も同じことを言ってたけど」
「私は人から陰口を言われることが多いんです。人と喋らないし、声が小さいし、自分の意見を言わないから陰キャだって言われてて。人に嫌なことをしたり、不快な思いをさせた記憶がないのに、どうしてですかね……。それが嫌でヘッドホンをして耳を塞いでるんです。ヘッドホンを装着すれば、余計なことを聞かずに済むから」
私は暗い顔をしたまま首にぶら下げているヘッドホンを指先で触りながらそう呟いた。
すると、彼は足を止めて言った。
「俺は別に陰キャだとは思ってないけど?」
「えっ……」
「矢島はヘッドホンをしたまま机に寝ているから、最初は一人が好きなのかなぁ〜って思ってた。確かに耳を塞いだままじゃ、他の人は近寄りがたいよね。でも、一度喋ってみたら意外に話しやすいし」
「そっ、それは……加茂井くんがこうやって喋ってくれるから」
「別に俺は普通だよ。矢島が俺のことを美化しすぎてるんじゃない?」
「そうですか? 加茂井くんは私からしたら王子様です。いつもキラキラ輝いていて、優しくて、めちゃくちゃかっこいいです!!」
「あははっ、なにそれ……」
「冗談じゃありませんよ。加茂井くんは世界で一番ステキです。だから、好きになりました」
「ばーか。推し強すぎ。でもさ、耳を塞いでてもメリットはないよ。聞く耳を持って人に意見していけば、小さな輪でも段々広がっていくし」
「でも、私には輪がないから広がらないです」
私には友達がいないから小さな輪すらできない。
だから、ネガティブになったままそう言い切ると、彼は正面に周って私の両手をすくい上げた。
「輪ならあるじゃん。ほら、ここに一つね」
彼と手を繋ぎあったことによって目の前に出来た一つの輪。
今まで輪に無縁だった私に小さな喜びが生まれた瞬間でもあった。
「あっ、ほんとだ! 輪っかが一つ出来てる」
「矢島が俺に話しかけてくれたから輪になったんだよ。そうやって他の奴とも少しずつ喋っていけば、もっと大きな輪になっていくんじゃないかな」
加茂井くんは優しい。一人で超えられなかった悩みを簡単に解決してくれる。
接点がない頃から優しい面は沢山見てきたけど、こうやって直接的に力になってくれる分、余計好きになる。
「そっ、そうだ! 私も加茂井くんに質問が二つほどあります」
私は恥ずかしさをかき消すために、手を下ろしてから話題を変えた。
このまま勢いにまかせてたら、また『好き』だと言ってしまいそうだし。
一度『好き』のハードルが下がったら、タガが外れたように何度でも伝えたくなってしまうのは何故だろう。
「なに?」
「4ヶ月前に教室で筆箱がなくなったんですけど、見かけませんでしたか? デニム素材のものなんですけど」
「えっ、教室で? そんなのすぐ見つかりそうだけど」
「教室の隅々まで探したのに見つからないんです。実は、その筆箱の中には人に見られたくないものが入っていて……」
「なに? その人に見られたくないものって」
「……っ、ややややっぱり……なんでもありません!! 忘れて下さい」
「なんだよ。自分で言い出しといて」
「すみません……。あともう一つ。雨の日に保護した猫ちゃんはあの後どうなったんですか?」
「家で飼ってるよ。元気な子だから家中走り回ってる」
「うわぁ〜、良かった。会いたいです! 今度遊びに行ってもいいですか?」
「……そうやって俺の気を引く作戦だろ」
「そんなことありませんよ。加茂井くんって結構曲がってますね」
「矢島ほどじゃないけど? 廊下でビーズばら撒かれたときは拾うのが辛かったよ」
「ですよね。200粒くらいありました。でも、あの時はいい足止めになりました」
「次やったら怒るからな……」
「加茂井くんは怒った顔もステキです!!」
「……お前には本当に参るよ」
私達が話に夢中になりながら教室に入ると、同じクラスの女子が噂話を始めた。
最初はポツリポツリとした程度だったけど、次第にそれは人づてで浅く広がっていくことになる。
「加茂井くんってさ、赤城さんと付き合ってなかったっけ? この前一緒にいるところを見たばかりだけど」
「もしかして、矢島さんが横取りしようとしてるんじゃない?」
「うわぁ〜っ! 大人しい顔してやるぅ〜っ!! さっすが、ヘッドホン矢島」
――私が考えていたより世間は甘くなかった。
そう思い知らされたのは、再び湧き出した雑音だった。
今朝加茂井くんと喋りながら登校したせいか、私達の噂はあっという間に広まった。
加茂井くんと赤城さんの交際は誰もが知っていた。しかも、二人は自分達が別れたことを誰にも伝えていない様子だし、赤城さんと木原くんは行動を共にしている訳でもない。
つまり、私と一緒に歩いていたことによって加茂井くんのイメージだけが悪くなっている。
2〜3時間目の間の休憩時間、私は赤城さんの友達に体育館前に呼び出された。
3人は私の正面に立って、腕を組んで問い詰めてくる。
「矢島さんってさぁ〜、加茂井くんのことが好きなの? 最近よく一緒にいるみたいだけど」
「一方的に想いを寄せるのは勝手だけど、沙理がいるから少しは遠慮したら?」
「浮気するなら隠れてしなよ〜」
「あはは、言える〜!!」
「きゃはははは!! のどか、それまずいって〜」
「……」
私は彼女達に何と答えたらいいかわからずに黙り続けた。
それが半分正解で半分不正解だと伝えても、誰が理解してくれるだろうか。
もし赤城さんが彼女達に加茂井くんと別れたと伝えていれば、また違う展開が訪れていたのかな。これで私が余計なことを言ったら、赤城さんにも火の粉が降りかかってしまう。
だから、このまま黙り続けることにした。
それから3分くらい口を閉ざしていると、彼女達は無言を貫く私に再び詰め寄ってきた。
「黙ってないで何か言いなよ」
「人の男を横取りしていいと思ってんの?」
「沙理になんの恨みがあるか知らないけど、黙って身を引きな」
無反応だったことが気に食わなかったのだろうか。口調は段々強くなっていく。
しかし、休み時間が終わるまでこの状態を耐え抜こうと思って歯をぐっと食いしばっていると……。
「そこで何してんの?」
背後から男子の声が聞こえてきたので振り返ると、そこには渦中の加茂井くんの姿が。
彼はポケットに手を入れたままひょこひょこと歩いて私の横で足を止めると、3人組のうちの1人が彼に詰め寄った。
「加茂井くん、矢島さんにそそのかされてない?」
「……そそのかされてるってなに?」
「沙理がいるのに、矢島さんと仲良くするなんてまずいよ」
「どうして?」
「『どうして?』って……。付き合ってる彼女がいるのに別の女と仲良くするのはまずいでしょ。もしかして、本当に矢島さんと浮気してるの?」
「浮気なんてしてないよ。だって、俺いまコイツと付き合ってるから」
彼はそう言うと、左手で私の肩を抱いた。
すると、3人組はまん丸い目で互いの顔を見つめ合う。
横で聞いていた私自身も恋人関係を公にしていいものかと戸惑っている。
「だって、加茂井くんは沙理と付き合ってるんじゃ……」
「もうとっくに別れたよ」
「私達は聞いてない!」
「あいつが言いたくないんじゃないの?」
「もしそうだとしても、こんなに早く矢島さんと付き合うなんておかしくない?」
「どうして? 恋愛なんて急に燃え上がるときもあれば、急に冷めるときだってあるでしょ? それと同じ原理。まだなにか聞きたいことある?」
加茂井くんは淡々とした表情で対応をしていると、彼女達は再びお互いの顔を見合った。
「市花……、何か聞きたいことある?」
「ないよ。のどかは?」
「ない。……もう、行こ」
彼女達は不確かな情報に終止符を打つかのように退散していくと、私は緊張がほぐれたせいか身体の力が抜けて膝からストンと座り込んだ。
すると、彼は反応して私の腕を引いて立たせた。
「大丈夫?」
「……いいんですか? 赤城さんの友達に私と付き合ってるなんて言って」
「今さらビビってんの?」
「いえ。私が心配しているのは、加茂井くんが他の人から責められることです」
「俺、何も悪いことしてないよ。だから責められる必要がない。沙理とはちゃんと別れてるし、原因も俺じゃない。それに、堂々としていた方が沙理への復讐にもなるから」
「加茂井くん……」
「だから、お前も誰から何を言われても堂々としてて」
加茂井くんが一点張りの姿勢を崩さないから、私の気持ちだけが置いてけぼりになっている。
私に気がないことがわかっていても、赤城さんのことが念頭にあるとわかっていても、走り出した恋はもう止まらない。