「矢島ぁ〜。……矢島ぁ〜」
「…………はい」
「矢島粋。返事が聞こえないけど、ちゃんと起きてんのか〜」
「起きてますし、さっきから返事もしてます……」
「じゃあ、その蚊が鳴くような声はやめなさい。いつも声が小さくて返事が聞こえないんだよ」
「はーい……」
学校では存在感のその字すらない、地味子だから。
――そんないまは、二年四組の教室内で数学の授業中。
教師からの呼びかけに返事をしていたにもかかわらず、聞こえなかったせいもあって生徒からクスクスと笑いを浴びる。
私は雑音が嫌いだ。
だから、一番の友達はヘッドホン。音楽を流していなくてもこれさえあれば静かに過ごせるから。
休み時間になると、いつものようにヘッドホンを装着して机に寝そべった。
しかし、その隙間から聞こえてきたのは噂話。
「なんか、矢島さんってさ。独特な雰囲気だよね。黒縁メガネだし、いつもでっかいヘッドホンを装着しててさ」
「私に近づくなってサイン出してるのと一緒だよね。あそこまで警戒心をあらわにしてると、なぁんか近寄りがたいよね」
「なになに~? ヘッドホン矢島の話?」
「シーッ。本人に聞こえちゃうよ」
私のあだ名は、いつの間にかヘッドホン矢島に。
聞こえないと思って言ってるんだろうけど、会話は全てヘッドホンを貫通している。
静かに生活してるだけなのに、ヘッドホン一つで噂されるなんて誰とも接点を持たないせいかな。人付き合いは苦手だし、出来ることなら目立ちたくないと思っているのに。
――世の中って、どうしてこんなに窮屈なんだろう。
じわじわとしんどくなったので、教室を出てから校内のお気に入りの場所に向かった。
ドアノブに力を込めて開けると、正面には澄んだ秋空が広がっている。乾燥した向かい風に身を包み、肩までの短い髪をはためかせた。
ここは、学校で唯一開放的な気分になれる屋上。
2週間前に解錠されていることに気づいてから、雨の日以外は毎日来るようになった。
中でもお気に入りはソーラーパネルの間。太陽の光と共に元気を与えてくれるような気になるから。
腰を下ろしてヘッドホンを定位置に戻してスマホで音楽を選択していると、屋上扉の音がキィィと鳴った。
警戒心を上げながら耳をすましていると。
「誰もいない……よね?」
「ははっ、ビビってんの?」
「そりゃ、私には朝陽という彼氏がいるからね。……でも、本命は大地だよ」
聞き覚えのある女子生徒の声と男子生徒の声に反応すると、四つん這いになってソーラーパネルの端っこまで前進した。
覗き見は趣味じゃない。ただ、”朝陽”という名前が引っかかってしまっただけ。
ソーラーパネルの角からひょいと顔を覗かせると、そこには驚くべき光景が待ち受けていた。
加茂井くんと交際してる彼女の赤城沙理と、同じクラスの木原大地が白昼堂々とキスをしている。
それを見た瞬間、目を疑った。彼女は明らかに浮気行為をしているから。
バクバクと心臓に低い音を立てながらぺしゃんとその場に座り込んだ。
二人は屋上に誰もいないと思っているのか、自分達だけの世界に入り込んでいる。
私は加茂井くんの恋を応援しているだけに、彼女の裏切りが許せなくなって爪が食い込むくらい拳を握りしめた。
「じゃあ、朝陽と一緒にいるところが我慢できなくなったらどうすればいい?」
「その時は朝陽と別れるよ」
「1年も付き合ってるんでしょ? そんな簡単に別れられる?」
「付き合ってると言ってもいまは大地しか興味ないから形だけだよ、カ・タ・チだけ!!」
「お〜、言ってくれるじゃん。俺も沙理しか興味ないよ」
一組の赤城さんは、髪が肩甲骨までの長さで目力があって美人というよりかわいい雰囲気。気立てがいい印象だけど、良いイメージはいまこの瞬間に崩れた。
お相手の木原くんは、学校一のイケメンと噂されている。金髪でシャープな顎が印象的でクールな顔立ちだ。
口が達者なせいか、彼女は三人いると噂で聞いたことがあったけど、まさか赤城さんの浮気相手だなんて……。
赤城さんは木原くんの首の後ろに手を回して、木原くんは赤城さんの腰へ。ずいぶんと手馴れているキスに理性がぶち壊れそうになった。
加茂井くんが幸せそうにしているから恋を見守っていたのに、幸せを奪うなら話は別に。
「ゴホン! ゴッホン!! ゴーッホン!!」
私は身を隠したまま10メートル先の二人に聞こえるくらい大きな咳払いをした。何故なら不快な気持ちに加えて大切な場所から追い払いたかったから。
すると、「えっ、なに? 誰かいるの?」「ちょ……、ここを離れよう」と動揺する声が聞こえた後に足音が消えていった。
人声が消えて二人がいなくなったところを確認してからスクっと立ち上がる。
二人は美男美女でお似合いだと思うけど、認められないし、加茂井くんを傷つけるなんて許せない。
だから、この時点からより強く加茂井くんのことを考えるようになった。
赤城さん達の浮気現場を押さえたあの日以降、同じクラスの木原くんのマークに徹した。
その理由は、加茂井くんを浮気現場に遭遇させない為。
ところが、後をつけてるうちに気付いた。
彼はさすが学校一のモテ男。四六時中彼の元から女が尽きない。
高校入学直後からヘッドホンで耳を塞ぐ生活をしてきたせいか、彼をマークしているうちに今まで見ていなかったものが少しずつ見えるようになっていた。
次第に、そろりと教室からいなくなった時はだいたい密会しているとわかるように。
浮気現場を発覚したあの日に屋上から彼らを追い払ったせいか、密会場所はB棟二階の美術室になっていた。
別棟の芸術棟は普段人が立ち入らない上に鍵がかけられていないからだろう。
二人がいちゃいちゃしている所を見る度に気分は害されるけど、次第に赤城さんは本気で彼が好きなんだなぁと思うようになっていた。
1週間のうちの3〜4回は密会場所にいることがわかったので、次は加茂井くんのガードへ周った。
つい先日までハートまみれだった目線は、今や心配の目線に。彼女に裏切られてることも知らずに過ごしていると思うだけで胸が引き裂かれそうになる。
「ねぇ、どこかで沙理見なかった?」
加茂井くんが廊下で誰かにそう聞いていた瞬間、私まで後ろめたい気持ちになって背筋がシャキーンと伸びた。
低い体勢のまま廊下側に身を寄せると、赤城さんの友達に行方を聞いている。
探しに行かれるとまずいと思って、事前に用意したある物をカバンから取り出してから廊下へ向かうと、廊下の奥へ足を進めている彼の後ろから小瓶のコルクを引き取って中身をばら撒いた。
心の中で申し訳ないと思う気持ちと戦いながら。
ザーーーッッ……。
彼は後ろから波のように訪れた1.5ミリほどの大量のビーズが視界に入り、進めていた足を止めて振り返った。
私はそこで勇気を振り絞って言う。
「あっ……あのっ…………。そのビーズ……、私と一緒に拾ってくれませんか」
これを伝えるだけでも顔が真っ赤になった。何故なら、今回が彼へのファーストコンタクトだから。
「えっ……。いいけど」
「あああ……ありがとうございます! でっ……できれば、こここ……この小瓶に……いいいっ入れて…………くだ……さい」
緊張するあまり、唇がガクガク震えて顎が外れるかと思った。
しかも、いまから200個ほどのビーズを彼に拾わせようとしているし。
「こんな大量のビーズを何に使うの?」
「そそそそ……それは…………(加茂井くんの足止めをするために持ち歩いていたなんて言えるはずがない)」
「ん?」
「みっ……、見るだけです」
「…………」
呆れた目が届き、一瞬で罪悪感に苛まれる。
でも、見事に足止めは成功。彼は一粒残らずビーズを拾ってくれた。
この時は何とかしのげたけど、別の日も赤城さんを探す様子が見かけられたので、その度に別の作戦を決行した。
ある時は、わざと加茂井くんにぶつかって保健室に連れて行ってもらったり。
そして、ある時は職員室で先生が呼んでいたと嘘をついたり。
自分のしてることが間違えだとわかっていても、彼を傷つけまいと思って現実を隠し通した。
――しかし、限度というものもあって……。
昼休みの時間を使って文化祭のクラスの展示物を作成している最中、担任教師は彼に言った。
「加茂井くん。今日、日直だったよね」
「あ、はい?」
「美術室に行って絵の具を持ってきてくれない? 壁面の展示物で使う分が足りなくなっちゃったから」
「わかりました。どの辺に置いてあります?」
「準備室の中に入ればすぐにわかるよ」
「了解でーす!」
この会話が耳に入った瞬間、私は冷水を浴びたかのように血の気が引いた。
何故なら、木原くんが先ほど教室から出ていった所を見届けていたから。
「わわわ……私が……行きます」
教室を出ていこうとしている加茂井くんに勇気を振り絞って言ったはずが、声が小さかったせいか既に教室の外へ。私は焦って後を追い、彼の前に立ちはだかった。
これだけでも息が上がるくらい緊張するのに。
「あっ、あの……」
「どうしたの? 俺に何か用?」
「びっ……美術室には私が行くので……、加茂井くんは教室へ……」
「いーよ。ここから2分もかからないし、息抜きになるし」
「でっ、でも……教室でみんなと制作物をしていた方が楽しいだろうし……」
「矢島こそみんなと制作物を作っていた方が楽しいんじゃない?」
「やっ、矢島……って。加茂井くんは……、私の名前を知ってたんですね」
――片想いとは実に不便なものだ。
彼が名前を覚えてくれてるだけでも天に昇るような気持ちに。
一瞬ニヤ〜としてしまったけど、彼はものともせずに横をスッと通り過ぎた。
「当たり前だろ。クラスメイトなんだから」
風が肌に触れた瞬間、シャボン玉がパチンと弾けたように目が冷めた。
「あっ、加茂井くん……」
廊下に散らばっている生徒の隙間を通った背中にそう声をかけたけど届いていない。
赤城さんの秘密を握る者として加茂井くんの足を止めるのが正解だけど、恋心が邪魔をして口を塞いでくる。
それに加えて、自身もこのままでいいのかと葛藤する。
確かに加茂井くんの気持ちを守りたい。それは紛れもない事実だけど、その反面赤城さんの浮気が許せない。
こんな曖昧な気持ちのまま2週間が過ぎ、無意識のうちに赤城さんに有利な方へ加担してしまっていた。
どうしたらいいのかな。
赤城さん達の関係を隠し通せば、彼は浮気を知らなくて済む。でも、裏切られ続けている。
もう一つは、手を貸さずに浮気に気づいてもらうことを待つ。でも、それは彼の幸せを奪ってしまうことに。
一人その場に佇んだまま考えていた。
誰の幸せを一番に考えるべきかを……。
――美術室まで約2分。こうしている間にも次の結果へと突き進んでいる。
そう考えたら、今回は一旦彼の足止めをして、また時間のある時に次のことをゆっくり考えればいいやと思い、走って彼の後を追った。
……ところが、時は既に遅し。
渡り廊下を通り過ぎてB棟に足を踏み入れると、彼は既に美術室の前に立って何かを見つめていた。
その眼差しは今にも壊れてしまいそうなほど切ない。
多分そこに映っていた光景は、私が数回に渡って見続けてきた光景と同じだと思う。だから、声をかけることが出来なかった。
呆然と立ち尽くしていると、彼は美術室から目を外してこっちへ走り向かってきた。
私は頭がすっからかんになりながらも、気まずさとやるせなさに押しつぶされてしまったせいか、すれ違いざまに口を開いた。
「あっ、あの……。何と言ったらいいかわかりませんが……元気を出して下さい……」
すると、彼は反応して二、三歩先で足を止めると、背中からボソリと言った。
「どうして矢島が気にかけるの?」
「えっ」
「もしかして、沙理達の関係に気づいてたの? だから、何度も俺を引き止めたんだよな」
「そ、それは……」
「俺だってあいつらの関係に薄々気づいてたよ」
「えっ」
「惨めだと思ってんだろ。大切にしている彼女をあっさり他の男に取られるなんて」
「そっ、そんなこと思ってません……」
「悪いけど、人が信用できない」
「加茂井くん」
「いまは余裕ないから話しかけないでくれる?」
彼はギリギリ聞こえるくらいの声でそう言うと、渡り廊下を駆け抜けていった。
胸に爆弾を抱え続けていたのは彼も一緒だったけど、私は最後まで気が利いた言葉を届けることができなかった。
――場所は、2日前に赤城さんの浮気が発覚した美術室。
先ほど廊下で加茂井くんが赤城さんと一緒に歩いている背中を目撃したので、二人の後を追って既に閉ざされている前方扉のガラス窓からひょいと顔半分だけを覗かせた。
ピリピリとした雰囲気がガラス越しまで伝わるほど、加茂井くんは不機嫌な表情をしている。
「おととい、ここで大地と浮気してただろ」
話題は予想していた通り、浮気の件だった。
浮気現場が発覚したあの日から中1日とったのは、心の整理をしていたのだろうか。
彼と向き合っている赤城さんは動揺の色を隠せない。
「なっ、何の話かわからない……」
「見たんだよ! ここでお前と大地がキスしている所を」
「……っ! 他人の空似じゃないの?」
「大地が『沙理』って言ってた。お前の名前は珍しいから聞き間違えないんだよ」
「……」
「おかしいと思ったのはこの時だけじゃない。以前から友達に沙理と大地が一緒にいるとの報告を受けたり、お前のスマホの通知欄に大地の名前が表示されていたり、デート中に急用ができたと言って切り上げる日が度々あったり。自分の勘違いだと思って今まで目をつぶってきたけど、証拠を捉えたら否定し続けていたものが全て無になったよ」
「……」
「しかも、よりによってどうして大地? あいつとは中学の時から犬猿の仲だって言っただろ」
「ごめんなさい……」
それまで否定し続けていた彼女だけど、逃げどころがなくなった瞬間頭を下げた。
と同時に、2週間前に木原くんに言っていた彼女の言葉を思い出した。
でも、それは私の胸の内にしまっておかなければいけない残酷な言葉だ。
「今まで隠していたけど……。好きなの……、大地が」
「えっ……」
「だから、お願い。私と別れてくれないかな……。大地と付き合いたいから……」
それは、想像以上に素直に伝えられた。
私は二人の幸せを心から願い続けていた分、この場に居合わせてしまったことを残念に思った。2週間前に間接的に聞いた言葉が本音として吐かれてしまうなんて思いもしなかったから。
「……それ、身勝手って言うんだよ」
「わかってる。でも、好きという気持ちが止められなくなったの」
「じゃあその間、俺のことをどう思ってた訳? 最近デートの回数や電話の回数が減ったり、急にお前の都合が悪くなったり、手を繋いでもすぐに離してきたから、薄々おかしいとは思っていたけど」
「それは、ごめん……。反論する余地もない……」
「反論する余地もないくらい大地が好きだってこと?」
「うん……、好きなの」
彼女の想いが届けられると、扉一枚挟んだ向こうで聞いてる私ですら辛くなった。振られた本人はもっと苦しいはず。1年間交際していた分、思い出はたくさん重ねてきたと思うし。
私は心が疼いたまま半分涙目で様子を見守っていると、加茂井くんはそこで話を切り上げたのか、前方扉の方へ身体を向けた。
こっちへ来ると思って後方扉の方に移動して気づかれぬように背中を向けると、バーンと扉の大きな音が立ったと共に彼は美術室から出て行った。
足音が遠ざかってから後方扉から中を覗くと、赤城さんは胸に手を当ててふぅっとため息をついていた。
この位置から表情までは見えないけど、関係に区切りがついたことは確かだった。
2日前に彼が美術室へ行こうとしているのを阻止していたら、少なくとも今日はこの展開は迎えなかった。
つまり、少なからず自分にも原因があると思ってしまい、後悔の波が押し寄せることに。
――場所は、学校から徒歩7分の場所にある、風上派出所。
ここは二階建ての古くて白い建物で、入口左手前には掲示板がある。
今は小学生の下校時刻で派出所前には見守り警護中の警察官が立っている。
私はしゃがんだまま、その横で寝転んでいる猫を触りながら警察官に呟いた。
「好きな人がフラれて落ち込んでいるから何かしてあげたいのに、自分は何を言ってあげるのが正解かわからないし、何もしてあげられなくて……」
この派出所に通い始めてから2ヶ月。きっかけは”迷い猫”の一枚の張り紙を貼らせてもらったこと。
ここに棲みついている番犬ならぬ番猫を触るのが日課になっている。名前はチロル。人懐っこい黒猫だ。
通学路の一角にある派出所なので3〜4日に一度は遊びに来ている。そのせいか、白髪交じりで中肉中背の50代半ばの警察官の彼の鈴木さんと友達になった。
唯一本音を話せる人が両親よりも年上の警察官だなんて自分でも驚いている。
「粋ちゃんは優しいんだね。彼の為に何かしてあげたいなんて」
「そんなことないです。思ってるだけで何も出来てませんから」
「相手を思いやる気持ちも大事なんじゃない?」
「でも、それだけじゃ物足りなくて……。心の中でブレーキがかかるんです。余計なことを言ったら更に傷つけちゃうんじゃないかなって。だから、何もしない人と一緒です」
「いや、力になってあげようと思ってるなら、何もしない人と一緒じゃないよ。それなら、あと一歩の勇気を出して粋ちゃんの思いを伝えてみるのはどうかな」
「えっ」
「そっと見守ることが正解な場合もあるけど、元気づけてあげることが正解の時もある。人それぞれ受け取り方が違うから、粋ちゃんがそれを見極めて力になってあげればいいと思う」
言われてみれば、まだ彼に心の内を伝えていない。
ただ、赤城さん達の関係がバレないように。加茂井くんが傷つかないようにと差し支えのないことばかりをしていた。
今この瞬間だって、同じところで足踏みしているだけで前に進もうとしていない。
もしかしたら突っぱねられてしまうかもしれないけど、何もしなければ同じ悩みから抜け出せない。それに、私が寄り添うことで力になれることがあるなら、試してみる価値はある。
だから、私は……。
――翌日。
終礼が終わってクラスメイトが扉の外へ流れていく中、私は左肩に学生カバンをかけて両手で持ち手を握りしめたまま、教室を出ていこうとしている加茂井くんの前に駆け寄った。すると、彼は目線を向けてきたので、私は息を飲んで言った。
「あっ、あのっ……少し話しがしたいんですけど……」
「……それは、俺にとっていい話? それとも嫌な話?」
「それはわかりませんが……。とっ、とにかく……私について来てくれませんか?」
必死さが伝わったのか、彼は後ろについてきてくれた。
無言のまま向かった先は屋上。
私はいつもの定位置に向かっていると、彼は後ろから言った。
「どうして屋上に?」
「ここは、私のお気に入りの場所なんです」
「ふぅん。……で、なんの話があるの?」
「そっ、それなんですけど……。先日、『どうして矢島が気にかけるの?』って聞いてきましたよね」
「うん」
「……実は、知ってたんです。少し前から赤城さんと木原くんの関係を」
心臓の音が耳から飛び出しそうになるくらい爆音を放っている。ここまで彼のプライベートに入り込むのは初めてだから、正直反応が怖い。
でも、一度心を決めたからには最後まで向き合おうと思った。
「だから、俺を惨めに思ったの?」
「それは誤解です!!」
「じゃあ、なに?」
失恋のショックが大きいのか少し攻撃的な口調が届く。でも、昨日鈴木さんが言ってた通り、私にいま必要なのは”あと一歩の勇気”だ。
「私、以前から加茂井くんが気になってたんです!! だから、ずっと心配してました!」
「えっ?」
「1年以上前の大雨の日、加茂井くんが段ボールの中に入っていた子猫を助けていたところを見たんです。うちには先住猫がいるから少し離れた場所で母親に飼えるかどうかの電話してる時に加茂井くんがやって来ました。その時の眼差しが優しくて、猫の気持ちに寄り添っていて、愛おしそうに頭や身体を撫でていて。その様子を見ているうちにステキな人なんだろうなって思いました」
「……でも、それとこれは関係ないし」
「一目惚れしたんです!!」
「えっ……」
「信じてもらえないかもしれませんが、あの一瞬で好きになってしまいました」
私は勢いに任せてそう言うと、彼は圧に負けたのか再び目を丸くした。
「ずっと声をかける勇気がなかったんです。同じクラスになってもあと一歩の勇気が出ませんでした。だから、加茂井くんには彼女ができた時はショックだったけど、好きな人が幸せでいてくれるならそれでいいかなって。そう思っていた分、赤城さんが木原くんといい雰囲気になってるところを見ていられなくて」
「俺のことを想っててくれたんだ……。全然気づかなかったよ」
「いいんですっ!! 私の気持ちなんて……」
「ごめん。好きになってくれたのはありがたいけど、矢島の気持ちに応えられない」
「わかってます。私はただ元気になってもらいたいだけですから。だから、これを食べて元気出して下さい」
私はブレザーのポケットに手を突っ込んで、ミルク味の飴を彼の手中に握らせた。もちろん、元気を出してもらうために。
でも、彼の手に触れただけでも全身の血が暴れて爆発しそうになっている。
言いたいことはまだ沢山あった。
でも、告白しただけでもいっぱいいっぱいだったから、これ以上の言葉は伝えられなかった。
「ふあぁぁ……。眠い……」
――今朝からあくびの連発が止まらない。
何故なら、昨日は加茂井くんに告白して脳も身体も興奮していたせいか全く寝付けなかったから。
しかも、時間と共に失恋が現実味帯びてくると、心の中は再び灰色の空に染まっていった。
もちろん、上手くいくなんて思ってない。
ただ、フラれるとなると次はメンタルの問題が発生してくる。
しかし、そう考えてたのも束の間。
「矢島、うっす!」
加茂井くんは後ろから明るい声でポンッと肩を叩いてきた。その表情は、昨日とは打って変わって晴れ晴れしい。
これが彼からの初コミュニケーションだったから、嬉しくて先ほどの眠気が一気に吹っ飛んだ。
「おっ、おはようございます!!」
「昨日は飴をありがとう。久しぶりにミルク飴の味を食べたせいか懐かしい味がした」
「美味しいですよね。実は昔から好きな飴なんです」
「そうなんだ。……あのさ、矢島っていつも一人でいるけど友達作んないの?」
加茂井くんが私を気にしてくれるのは願ったり叶ったりだけど、気にするところはやっぱりそこかと思い知らされる。
「……苦手なんです。雑音が」
「雑音って?」
「わっ、私のことは別にいいです。……それより、少し元気になりましたか?」
「矢島が気にすることじゃないよ」
と、少し元気のない声のまま曖昧な返事が届く。
どうしたら加茂井くんの気が晴れるのかな。失恋した時にだいぶショックを受けていたから立ち直るのに時間がかかるかもしれない。
……でも、こうやって加茂井くんと肩を並べて登校できるなんて夢みたい。失恋が確定しても、1年5ヶ月間こういう姿を何度も夢見描いてきたから。
赤城さんは隣でこの光景を見続けてきたんだよね。羨ましいな……。
しかし、うっとりとしていた目線を前方に向けると、3メートルほど先で赤城さんと木原くんが肩を並べて歩いている。
それを見た途端、加茂井くんのカバンを引いた。すると、彼は「何?」と言って振り返るが、とっさに返事が出てこない。気まずく目線を外していたうちに彼は異変に気づき、前方を見て私が隠し通したかった事実を悟った。
「もしかして、沙理達が一緒に歩いてるところを見て……」
「だって、見たくないですよね。先日まで彼女だった人が別の男性と一緒に歩いてるところなんて」
彼の心境を考えてシュンとしたままそう言ったけど、彼は顔色一つ変えずに言った。
「確かに二人が一緒にいる所を見るのは嫌だけど、俺もいま矢島と一緒に歩いてるし」
「はっ!! そうでした……」
「プッ……、変なやつ」
「すっ、すみません……」
心配し過ぎちゃったかな。それとも、少し時間が経ったから落ち着いたのかな。
私はまだ何もしてあげれてないけど、いつか本物の笑顔を取り戻してあげたいと思っている。
ーー加茂井くん達が別れてから4日が経過した。
彼は授業中に外を眺める回数が増した。時より大きなため息をつく。その度に、美術室で浮気現場を目撃していた彼の表情を思い出す。
私が彼の為にしてきたことと言えば告白くらいしかない。……いや、そんなの力になるわけない。
ここ4日間は大きな波風もなく過ごしていたけど、嵐は前触れもなく訪れた。
――放課後、昇降口に降りていくと、複数人の女子ただならぬ噂話が耳に入ってきた。
4組の下駄箱に軽い人だかりが出来ていたので人の頭の隙間から顔をひょいと覗かせると、そこには木原くんを壁に追いやってワイシャツの襟元を掴み上げて睨みつけている加茂井くんの姿があった。
しかも、他の生徒が距離をとるくらい緊迫状態に包まれている。
私は冷や汗を滲ませたまま人だかりをかき分けて一番先頭に立った。
「てめえぇぇぇっ!! いまなんっつった!! もう一度言ってみろよ」
「まぁまぁ、そう熱くなるなって。ここにいるみ〜んながお前が暴力ふるってると思ってるよ?」
「はぁぁぁあああ?!?! 先に挑発してきたのはお前だろ?」
「そんなに拳を高く上げて俺を殴ろうとでもしてんの? それで何かの解決に?」
「お前っっ……。俺の心境を知ってて煽ってんだろ? どれだけ苦しめれば済むんだよ!」
ここに、私が知ってる彼はいない。
まるで槍の雨が降り注がせているかのように攻撃的になっている。
敢えて言葉にしなくてもわかる。赤城さんへの気持ちの大きさが。その度に私の心臓は握りつぶされていく。
なんだろう。この窮屈な気持ちは……。
「別に。決着はついてるから軽く挨拶しただけ」
「っっ、てめぇええっ!! なんだとぉぉお!!」
逆上している加茂井くんとは対照的に、木原くんは冷静な姿勢を崩さない。見下した目で淡々と語るだけ。
場の空気は悪化の一途を辿るばかり。加茂井くんが声を荒げてるせいか、野次馬は吸い寄せられて来る。傍から見ても明らかに木原くんの挑発行為だとわかっているけど止めに入る者はいない。
だから、その役を買うのは私だと思って二人の目の前に立った。
「ケンカは……ダメですっっ!! 加茂井くん、いますぐ木原くんから手を離して下さい」
仲裁に入った瞬間二人の目線が向けられたけど、加茂井くんの意識は再び木原くんに行き、襟元を更にキツくねじり上げた。
「嫌だ! 俺の邪魔すんな!!」
「おいおい……。心配してくれてる矢島に失礼だよ」
「っるっせ!! そんなの知るか!!」
「加茂井くん! 何があったかわかりませんが一旦落ち着いてください」
この学校に入学してから初めて腹の底から声を上げて加茂井くんの腕を引っ張った。しかし、彼の手は木原くんから離すつもりはない。
「そんなの無理に決まってんだろ! 矢島は引っ込んでろ!!」
「加茂井くんっ……、一旦落ち着いて下さい。お願いだから……」
「だってよ? 襟がくしゃくしゃになるから離してくんない?」
「知るかっっ!! お前は俺になんの恨みがあるんだよ」
「そんなの、お前自身がよくわかってるだろ」
「てんめぇぇぇっっ!!!!」
「加茂井くんっっ!!」
私が加茂井くんの腕を掴むと、彼は木原くんを振り払うように手を離した。すると、木原くんは「やってらんねぇ」と吐き捨ててから外へ出ていき、加茂井くんは不機嫌な足取りで廊下方面にずんずんと歩き出した。私は焦ってその背中を追う。
「待って下さい、加茂井くん……」
「……」
「待って下さいっっ! 私と話をしましょう」
彼が足を止めた場所は、赤城さん達の浮気現場だった美術室前。彼は扉の前にストンと腰を落とすと、頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。
「あいつ……、俺の耳元で『今まで沙理がお世話になりました。もう二度と近づかないでね』だってさ。ただですら傷ついてんのにどうして気持ちを煽ってくんのか意味不明。それに、あいつが俺から奪ったのは沙理だけじゃなく……」
「えっ……」
「……いや。何でもない。言いたいことを言わなきゃ消化しきれない。ただですら失恋して精神的に参ってんのにさ」
「ごめんなさい。でも、あのまま木原くんとケンカしてたら加茂井くんが壊れちゃうような気がして……」
あのまま感情任せでぶつかったらお互い失うものしかないと思っていた。いつかはぶつかる日が来るかもしれないけど、それがまさかこんな早くにやって来るなんて。
「矢島……さ。どうして俺の為にそこまですんの? 何のメリットもないのに」
「それは……、加茂井くんを守りたいからです……。それに、加茂井くんの幸せが私の幸せでもあるので」
「ははっ。なんだよ、それ。……神様かよ」
「いえ、ただの片想いです。…………ダメ、ですかね」
「はぁ~っ……。お前には参ったわ」
「ごめんなさい」
「そこまでしてくれても見ての通り失恋したばかりだから、いまは自分のことで頭がいっぱいというか……」
「いいんです。期待はしてません。だから、困ったことがあったら遠慮なく言って下さいね」
私はニコリとそう言うと、彼は大きなため息を漏らした。
言いたいことはだいたいわかっている。”相当変わってる女”だと。
でも、二人のケンカを止めたことに後悔してない。
私は私のやり方で彼の心を救っていきたいから。
――翌日の昼休み。
私はいつもどおり屋上でヘッドホンを装着したままフェンスの向こうの景色を眺めていると、誰かがポンッと肩を叩いた。
びっくりして振り向くと、そこには加茂井くんが。
ヘッドホンを外して身体を向けると、彼は言った。
「昨日さ、俺に『困ったことがあったら遠慮なく言って』って言ってたよね」
「あっ、はい。私に出来ることでしたら」
「じゃあ、沙理に復讐したいから手伝ってくんない?」
「えっ、復讐?? 復讐ってあの仕返し的な……」
「そ、復讐。……色々考えてたんだ。沙理や木原のこと。それに、沙理と付き合っていたころの自分のことまで。そしたら虚しくなってきてさ。別れる理由が自分じゃないからなおさら」
「加茂井くん……」
「あいつは木原にぞっこんだからもしかしたら復讐なんて無意味かもしれないけど、少しでも沙理に俺の心境を知って欲しいから」
「それはわかりますけど、復讐なんてしたら加茂井くんの方が傷つくんじゃないかと思います」
加茂井くんは、人一倍繊細な人。子猫を拾ったあの日から毎日見てきたからわかる。昨日木原くんに殴りかかりそうになってた時だって、加茂井くんの心は土砂降りになってるように見えていたから。
それなのに、また傷つこうとしている。
復讐なんてしたら幸せなんて訪れないし、赤城さんから離れた方がきっと楽になる。
加茂井くんの心は赤城さんから離れきれていない。だから、復讐には反対だった。
「やってみないとわかんないよ。矢島が嫌なら別の人に頼むけど」
「他の人は……嫌です。加茂井くんが他の人と手を組んで欲しくないです」
でも、加茂井くんに恋をしている分、自分の意見を突き通せない。
それに、その役割を別の人に頼むなんて嫌だ。
「じゃあ、矢島が手伝ってくれる?」
「……はい。わかりました」
私は頭を頷かせると、彼は隣に移動した。
そこで、二人揃って同じ空を見つめる。
「加茂井くんは、いまどんな復讐を考えてますか?」
「ん〜っ……。まだ考えてないけど、直接的なものは避けたいかな。出来ればヤキモチ的なことがいいかも」
「なるほど。じゃあ、加茂井くんはどんな時にヤキモチを妬きますか?」
「好きな人が他の男を見ている所かな。彼女には自分だけを見てて欲しいタイプだから」
彼がそういった瞬間、名案が降り注いだ。
直接的なものを避けてヤキモチ的なこと。その二つを足して二で割ったら、最善の答えに辿りついた。
「それなら、偽恋人はどうでしょうか」
「偽恋人?」
「はい。私達が恋人を演じていれば、赤城さんは加茂井くんに新しい恋が始まったと勘違いするかもしれません。そこで、自身の浮気を振り返るきっかけになるかもしれませんし」
「つまり、同じような手口で俺の心境を考えさせる作戦か」
「あっ、でも……相手が私なんて嫌ですよね。……ってか、忘れて下さい。キレイな人ならまだしも、ぼっちの私と恋人役なんて……」
よくよく考えたら、彼女役が私なんて嫌だよね。
友達いないし、喋ることは苦手だし、要領悪いし。それに、今まで恋人を作ったことがないから、彼女を演じるなんて難しすぎる。しかも、好きな人の。
その上、自ら偽恋人の提案をするなんて図々しいにも程がある。
しかし、彼は……。
「それはいいアイデアかも」
「えっ!!」
「もしかしたら、木原とは単なる浮気かもしれないし、俺と矢島が仲良くしてたら沙理はヤキモチを妬いてくれるかもしれない」
「赤城さんは今までライバルがいなかった分、現実味帯びなかったのかもしれません」
「そうだな。じゃあ、その作戦を決行してもいいかな。矢島さえよければ」
「はい!! もちろん喜んで!!」
「ぷっ……。偽恋人に喜ぶなんて変な奴」
偽でも加茂井くんと恋人になれるなんて幸せ。
もしこれが夢だとしたら、一生覚めない夢であって欲しい。
でも、私に偽恋人なんて務まるのかな……。ちょっと自信がない。
「すっ……すみません。興奮したら、つい……。私、加茂井くんの彼女になれるだけでも幸せです」
「もう一度言っとくけど、偽だからね。偽」
「二度も言わなくてもわかってますよ〜」
この展開が幸せだから、湧き上がる笑いが堪えきれなくなった。
偽恋人でも好きな人の近くにいられるだけで嬉しいから。
「そういえば、矢島んちも猫飼ってるの? この前、先住猫がどうのって言ってなかった?」
「あっ、そうなんです! 飼ってるんですけど……、実は2ヶ月前に窓を開けたら逃げちゃって」
「えっ! 2ヶ月も帰ってきてないの?」
「……はい。恋の季節だったせいでしょうか。近所中探したんだけど、全然見つからなくて……」
「それはショックだね。矢島んちって学校から近いの?」
「隣駅です」
「猫の名前や性別。それに、どんな猫種? 模様とか特徴的なものはある?」
「名前はフクちゃんでオスです。両耳にハートの黒い模様がある三毛猫です」
「そっかぁ。そんなに珍しい模様なら見かければすぐにわかるかも。見つけたら教えるね」
「ありがとうございます!!」
勇気を出して告白してから彼との距離がグングン縮まった。
最初は声をかけるだけでもいっぱいいっぱいだったのにね。
もっと早く勇気を出していれば、これが赤城さんと付き合う前だったら、いまこの瞬間が違う未来になっていたかもしれない。
昼休みの終わりの時間が迫ってきたので、私と加茂井くんは教室に戻ることにした。
しかし、普段は誰もいないはずの四階階段の踊り場で赤城さんはスマホを耳に当てながら誰かと電話をしていた。
「大地〜、早く会いたいの〜っ!! ……うん、…………うん。じゃあ、いま『沙理が好きだよ』って言って。…………うん、うん、それでもいいからぁ!」
彼女が名前を言った瞬間、電話相手がはっきりした。
赤城さんは加茂井くんと別れたことを公にしていないせいか、校内で木原くんと一緒にいる回数は少ない。だから、こうやってこっそりと連絡を取ってるのではないかと思った。
本音を言うならこの場を通りたくない。
しかし、いま私達がいる本棟は二階の渡り廊下以外繋がっていないので、ここを通らなければ教室には戻れない。
一方の加茂井くんは、不意打ちを食らったせいか私の手をギュッと握りしめて階段を下るペースを早めた。私もそれに合わせて駆け下りた。
彼がいきなり手を繋いできたことに驚いたけど、頭の中に私がいないことはわかっている。
キーンコーンカーンコーン……。
三階の踊り場に差し掛かった時にチャイムが鳴った。まるで、彼の気持ちに区切りをつけさせるかのように。
私はそのタイミングで聞いた。
「いま辛いですよね……」
「……」
「何でも言って下さいね。私に出来ることだったら何でも力になります。だって私は、加茂井くんの……っっ!!」
そう言ってる最中、彼は突然両手で私の頬を抑えて顔を近づけた。
その瞬間、心臓がドキンと跳ねた。
一瞬、キスをされるかと思った。
でも、実際はおよそ2センチのところで寸止めしている。
お互いの唇は届かなくても、触れてるようなむず痒い気配が届く。それだけでくらくらとめまいもしてきた。
しかし、その隙間から聞こえてきたのは、上履きの音を鳴らしながら私達の横を通り過ぎていく音だった。
――そこでようやく気付いた。
恋人のふりはもう始まっているのだと……。
それが5~6秒ほど続いた後、彼は頬から手を下ろして階段の奥に消えていく彼女の背中を見て言った。
「あいつ、俺らのことを見てたよな。チャイムが鳴るとすぐ教室に戻るタイプだから見せつけるチャンスだと思ったよ」
「……」
「矢島?」
「……は、……ひっ」
「お前っ……、顔真っ赤っ赤!!」
しまりのない顔に、頼りない返事。その上、興奮を通り越して今にも魂が抜けそうになっている。
それもそのはず。偽恋人になることは了承したけど、キスのフリをするなんて聞いてないから。
しかも、それがあまりにも唐突だったから、先ほどの屋上に気持ちが置きっぱなしになっている。
「あっ、あのっ……。急にこーゆーことをされても……心の準備が整わなくて……」
「……もしかして、キスの経験がない?」
疑惑の目でそう聞かれたけど、素直に首を縦に振りたくなかった。
「キスの経験くらいありますよ。フクちゃんと何度も……」
「……あのさ、フクちゃんって猫だったよね?」
「そう、ですけど……」
そう答えると、彼は右手で頭を抱えて「はぁ」と深い溜め息をついた。
「あのさ……。やっぱり矢島に偽恋人は努まらなそうだからやめよ」
「えっ! 嫌です。赤城さんにヤキモチを妬かせるには恋人を演じるのが一番です」
寄り添う姿勢とは対照的に、だらしない口元からはよだれが溢れそうになっている。
そりゃ好きな人からフリでもキスされそうになったら嬉しくない人なんていない。大げさに言えば、明日の幸せさえ約束されているようなもの。
「この程度で顔を真っ赤にするやつに提案するレベルじゃないと思う」
「わっ、私はっっ!! 加茂井くんの力になりたいので偽恋人になりたいです」
「……そんな顔してんのに?」
「でっ、出来ますよ! 恋人を演じるくらい。絶対、絶対、目標が達成するまで偽恋人を辞めませんから!!」
「じゃあ、少しずつ慣らしていこうか」
彼はそう言いながら再び顔を接近させると、少し落ち着いてきたはずの顔色は再び点火した。
頭の中が先ほどのキス色に染まると、心臓が口から逃げ出しそうになった。
「はっ、はい……。もしかしたら、途中で心臓が止まるかもしれませんが」
「ばーか。お前の心臓止まったら沙理に復讐できなくなるよ」
「その時はもう一回心臓を動かします!!」
「お前、すげぇな……」
私達の関係は出だしから不調だ。
でも、加茂井くんと少しずつ心の距離を縮めているうちに、毎日が楽しくなって嫌だと思っていた高校生活がバラ色に染まっていった。
人間とは実に単純なものだ。
正直、復讐は乗り気じゃない。万が一、赤城さんの気持ちが加茂井くんに残っていたとしたら、偽恋人を演じることによって傷つけてしまう可能性があるから。
それに、復讐しても赤城さんの感情が揺れ動かない可能性もあるから、逆に彼が傷つかないかと心配している。