純度100%の恋  ~たとえこの想いが繋がらなくても~



 ――場所は、2年1組の教室。
 先ほど矢島さんが校庭から朝陽に愛の告白したことによって、私の教室内はその話題でもちきりになっていた。
 そのド派手なパフォーマンスは、クラスのほとんどの生徒が窓から顔を出してその様子を見守っている。もちろん、私もその一員に。

 最初は冷やかしていた声も、彼女の熱意に押されてしまったのか、途中から黄色い声援に変わっていた。
 まるで、私と朝陽の1年間が一瞬で無にされてしまったかのように……。
 

「沙理、加茂井くんがヘッドホン矢島に狙われてるよ?」

「えっ……、あ、あっ、うん……。朝陽とはもう別れたからいいの……」

「えぇ〜〜っ? そうなのぉ〜?? 全然気づかなかったぁ〜」

「……」

「だから矢島さんは加茂井くんを狙ってるのかなぁ〜」

「……さ、さぁ」


 朝陽とは1年付き合っていたから、誰もが私達の交際を知っていた。
 だから、彼女が起こした騒動によって、親しい友達にしか伝えていなかった朝陽との別れの件を自ら公にしなければならなくなった。
 浮気女のレッテルを貼られたくないから、自然消滅したように見せかけて少し時間を空けたら大地との交際を公にしようと思っていたのに……。

 人前で堂々と告白をしている彼女を見ていたら、大地と校内でひっそりと会ったり、校内にいてもわざわざ電話でやりとりしている自分がバカバカしくなった。
 まるで、私が浮気されて振られたような雰囲気に納得がいかない。


 朝陽も朝陽で、見せつけてくる。
 矢島さんと階段の踊り場でキスをしていたり、いまこうやって黄色い声援に包まれながら手を繋いで校庭を歩いていたり。

 私には関係ないと割り切っていても、彼女の存在は踏んだガムのようにへばりついてくる。
 直接話したことがある訳じゃないし、接点なんて以ての外。
 なのに、どうしてこんな嫌がらせをするのかな。

 ――なんか、ムカつく。



 ――場所は、派出所。
 目の前は交通量の多い大きな道路に面しているので、時より排気ガスが舞っている。
 鈴木さんは近所を散歩している高齢者と話を終えた後に定位置についたので、私はその隣について車道を眺めたまま話を始めた。


「せっかく彼の願いを叶えてあげたのに、文句を言われました」

「どうして?」

「今日の昼休みにメガホンを使って校庭から校舎に向かって『好きだ』と大声で告白したのに、お前には羞恥心ってもんがないのかって」

「あは、あははは……。粋ちゃんって結構根性あるんだね。でも、どうしてそんなことをしたの?」

「彼の運命を変えてあげたかったんです。でも、好きな人に想いを届けるのって難しい。特に私の場合は、彼女がいるところから始まってるから……」


 勇気がなかった自分を何度も何度も後悔する。上手くいくか否かは別として、加茂井くんに恋が始まってからすぐに気持ちを伝えていればなって。
 もし、赤城さんと付き合う前に告白してたら、私が本命の彼女だったかもしれないのに。


「本気で彼のことが好きなんだね」

「はい。だから、自分に出来ることはやっていこうと思って実行したんです。でも、上手く伝わらずに……」

「じゃあ、次は粋ちゃんなりの方法でアピールしてみれば?」

「私なりのアピールとは?」

「それは自分で考えるんだよ」

「でも、私は恋愛初心者だし、恋愛ってどう進めたらいいかわからなくて」


 好きと伝えても平行線な関係。
 加茂井くんは赤城さんと別れたばかりだから当たり前なんだけど、現状からして私達の関係が好転する可能性は低い。
 いま精一杯頑張っている分どうしたらいいかわからないし、好きという言葉以上の情熱をどうやって伝えていけばいいか。


「恋愛には教科書がないし正しい答えもない。だから、自分なりの方法を見つけていかないとね」


 ――恋愛って難しい。
 私の恋愛は特殊な方だと思うけど、忘れられない人がいる人を振り向かせるのは、あと何回障害を乗り越えればいいのかな。
 加茂井くんは赤城さんを忘れられるのかな。万が一忘れることが出来ても、私に振り向いてくれるのかな。好きになってくれるのかな。
 なんか、その兆候が見られない分、自信ないや……。



 ――翌日の土曜日。
 私は母に買い物を頼まれて駅前に向かった。目的地のスーパーの向かいのドラッグストア前でボディーローションの試供品を配布をしていたのでそのまま立ち寄る。
 化粧品売り場に設置してある鏡と目があった瞬間、足が止まった。何故ならそこには冴えない表情の自分が映っていたから。


「あの……。もし良ければ、メイクをしていきませんか?」


 後ろから女性が声をかけてきたので振り返ると、そこには20代前半くらいの販売員が立っていた。
 普段からすっぴんの私はメイクに興味がないので来た道をUターンしようとすると、彼女は私の背中に向けて大きな声をかぶせてきた。


「私、新人なんです! メイクの勉強をしたくて今朝から何人も声をかけてきたけど誰も足を止めてくれなくて……」

「……」

「よりキレイになるお手伝いをしたいのにお客様は化粧品を買わされると思っているのか、なかなか話を聞いてくれなくて。どうしたら足を止めてくれるんでしょうかね……」


 強い押しに負けて振り向くと、彼女は深刻な様子を見せている。
 最初は無視して店を出ようと考えていた。でも、彼女の不器用さが自分を鏡に映してるように見えてしまった。


「その気持ち、わかります。私も良かれと思ってやってることが裏目に出てしまうこともありますから。……とりあえず、このイスに座ればいいですか?」

「……えっ。もしかして、メイクしてもいいんですか?」

「こんな顔で良ければ」

「ありがとうございます。どうぞおかけ下さい」


 気は進まないけど、買い物以外の予定はなくて時間を持て余しているし、彼女も困ってるようだったので、人助けだと思って練習につきあうことにした。
 イスに座って黒縁メガネを外すと、彼女は私の肩にケープを巻いてからピンで前髪を固定した。


「うわぁ〜。お顔が小さくてお人形さんのようですね。肌が白いし、まつ毛が濃くて長いし。肌質もいいです。こんな素敵なお顔なのに、メガネで隠しちゃうなんて勿体ない」

「褒めても化粧品は買いませんよ……」

「いいんです! その代わりたっぷり練習させて下さいね」


 彼女はそう言うと、コットンに含ませた拭き取り化粧水を顔に滑らせた。

 人にメイクをしてもらうのは初めてだった。だからドキドキしている。
 ベースメイクを終えた後、アイシャドウ、アイライン、マスカラ。軽く眉毛を整えて、チークとリップを塗って完成。
 その間じっとしたまま彼女に身を委ねていたけど、20分後の顔は鏡に目が吸い込まれるくらい別人になっていた。


「すっごっ!! 私じゃないみたい。メイクって人を変えるんですね。ここまで変わるなんて……。甘く見てました」


 右に左に、鏡に顔を映して角度を変えながらメイクの状態を確認する。
 鏡の向こうには少しだけ背伸びをした自分が映っていた。
 元々目は大きい方だけど、アイラインを引いただけでよりぱっちりしてるように見えるし、ピンクのチークがふんわりとした印象を醸し出している。 


「お客様の美しさがより一層際立ちましたね」

「ありがとうございます。自分でもこんなに変わるなんて思いもしませんでした」

「私は幸せになるお手伝いができればと思ってこの仕事に就きました」

「幸せになる……お手伝い?」

「はい! 女性はキレイになれば気分も上がりますし、自信にも繋がります。変わるということは、輝くということです。私はお客様が輝ける未来のお手伝いをしたいと思ってこの仕事に就きました」

「キレイは自信に繋がるし、輝く……か」


 今まで考えたことがなかった。輝いてる自分を想像することが。
 それに加えて、他人から見た加茂井くんの隣にいる自分を。
 赤城さんが彼女で羨ましいと思ったのは、容姿に気をつかっていて加茂井くんと釣り合う女性でいたから。
 なのに、自分は容姿に気をつかうことなく好かれようとしている。だから、きっと笑い者になってるんだよね。

 私はもう一面の自分を鏡に映している間に新たな考えが生み出された。



 ――文化祭当日。
 私は中学生の頃から愛用していた黒縁メガネを外し、ドラッグストアの販売員さんのテクニックを真似て化粧をしてから登校した。
 校門を通り抜けてから男子の目線がやけに吸い付く。黒縁メガネをかけてヘッドホンを装着していた時は見向きもしなかったクセに。

 実はドラッグストアに行ったおととい、帰宅してからメイクの練習をした。
 問題のメイク用品はというと、ドラッグストアで買わされるのが嫌で百均のプチプラで揃えた。
 漢字練習帳の枠からはみ出さないように漢字を書いていた小学生当時のように、少しずつ、丁寧に、慎重に、YouTubeで2日間学びながらメイクした。
 

「ねぇ。あんなキレイな子、学校にいたっけ?」

「全然見覚えないね」

「同じ制服を着てるから、うちの学校の生徒だよね?」


 『ヘッドホン矢島』と野次ってたくせに、メイク一つで化けた私に気づかないなんて皮肉な話だ。

 教室内はクラスの出し物のワッフル屋の装飾がされていて、作業をしている人や雑談をしている人など様々だった。
 だけど、私が教室に足を踏み入れた瞬間、クラスメイトの目線が集中した。少しざわつき、近くの人と顔を見合わせたりしている。


「矢島……さん?」

「うそぉ〜。キレイ!! ねぇねぇ、人形みたいじゃない? 自分でメイクしたの?」

「おはよぉ、矢島さん。うわっ、本当に別人みたい」

「……あっ、はい。おはよう……ございます」


 女子3人が私に駆け寄ってきて声をかけてきた。彼女達は同じクラスなのに喋ってきたのは今日が初めて。
 いままで距離を置いていたクセに、急に”矢島さん”だなんて……。
 でも、何故かちょっと嬉しかった。

 輪の中で少し喋っていると、後から教室に入ってきた加茂井くんが私の手を引いて「ちょっと来て」と言って廊下に呼び出した。
 彼は私の顔をマジマジと見ながら聞いた。


「本当に矢島……だよね? 違う人みたいだけど」

「見た目は変わっても性格は変わっていません」

「……だろうな、その口調。でも、どうして急に変わろうと思ったの?」

「無難を選択した時点でそれ以上の期待は掴めないと思ったからです」

「難しいことを言うなぁ」

「つまり、少しでもかわいくなったら運命が変わるんじゃないかなって。私も、加茂井くんも……」


 警察官の鈴木さんにアドバイスを貰ってから自分なりのアピールを考えてる途中にドラッグストアでメイクしてもらい、生まれ変わった自分を見て思った。
 100%の自分を見てもらいたいなら、性格も容姿も100%を出し切ってみようと。それが一番のアピールになるんじゃないかなと考えた。


「もしかして、本気で沙理にヤキモチを妬かせようと考えてる?」

「いえ。本音を言うと、加茂井くんに性格も見た目も100%の自分を見てもらいたいからです」


 私は自分に自信を持ってキリリとした目つきでそう言うと、彼は顔を赤くして口元を抑えた。


「相変わらずプッシュが強いな」

「えへへ……。それより、私がかわいくなって嬉しいですか?」

「は?」

「冗談ですよ〜。真に受けないで下さい」

「あはは、矢島には参るよ……」

「えっ、それって私に惚れたってことですか?」

「そんなことひとことも言ってないわっっ!!」


 
 ――文化祭は文化の日の今日1日のみ。
 午前中担当の私は、クラスの出し物のワッフルの販売をしていた。
 オレンジ色のクラスTシャツを着て白いエプロンを装着。私ともう一人の女子がお客さんから食券を受け取って、背後のワッフル作りの担当者に渡すという流れ作業をしていると、同じクラスの坂上さんが「交代するよ」と言ってきて段ボール一枚挟んだ向こうのバックヤードに連れて行った。


「あのさ。矢島さんが受付にいると……、なんか……こう……目立つと言うか…………男子の目線を独り占めしてると言うか……」

「そうなんですか? 気づきませんでした」

「だから、お願いっっ!! ワッフルを焼く担当と代わってくれない?」

「いいですよ」


 私は彼女の提案を素直に受け入れてエプロンを解こうとして背中に手を回すと、私達の間に木原くんがスッと入ってきた。


「ちょっと待って。担当をみんなで決めたんだから、自己都合で変更するなんてダメだよ」

「だって、これから別のクラスの彼氏がここに来るって言ってるし……」

「それ、自分勝手じゃない? それに、矢島が受付をしてればいい看板娘になるんじゃない? な、矢島?」

「私は別にどっちでも……」

「まぁまぁ、いいから。受付に戻って」


 木原くんはそう言うと、私は半強制的に受付に戻された。
 彼と話すのは、加茂井くんとケンカしてる時に仲裁に入った時以来だけど、どうして急に間に入ってきたんだろう。

 受付を続けていると、他の学年の男子に名前を聞かれたり、「一緒にワッフル食べてくれませんか」と誘われたり、「今度遊びに行かない?」と連絡先を渡されそうになったり、今まででは考えられないくらい男子の対応がひっくり返っていた。
 でも、それよりビックリしたのは、男子に声をかけられる度に木原くんが間に入ってきて……。


「そーゆーのやめてくれない? 彼女の仕事の邪魔になるから」


 まるで私のボディーガードのように追い払ってくれた。
 別に木原くんと仲がいい訳じゃないし、頼んでもいないのに。

 

 ――12時半になり、午後担当の人達と交代した。
 客引きで教室を出ていた加茂井くんが教室に戻ってきた際に一緒に周ろうと誘ってくれた。嬉しくて思わず顔がニヤける。
 お昼ご飯で購入した焼きそばを食べた後、室内ボーリングと、お化け屋敷と、演劇と、クレープ屋さんに行った。

 この一瞬一瞬が夢のよう。
 本物の彼女だったら、きっと何十倍も幸せなんだろうな……。


「次はどこ行きたい?」

「射的店が気になるけど……。そこは1組の赤城さんのクラスだから……」


 彼女のクラスなんて行ける訳がない。
 加茂井くんが赤城さんと顔を合わせてしまったら、浮気現場を目撃したあの日のことを思い出しちゃうんじゃないかと思って首を横に振った。
 しかし、彼は……。


「沙理が教室にいるかどうかわかんないし」

「でも、気まずいですよね」

「そんなの気にしてたら復讐なんて出来ないよ」

「そうですけど……」


 加茂井くんは赤城さんのことが常に念頭にある。
 だから、彼女の名前が口に出される度に胸がキュッと苦しくなる。

 
 ――それから1組の教室に到着。
 中に入ると、教室の後方に射的のレーンが3つ用意されていた。
 景品として、三段分のひな壇それぞれに駄菓子が用意されている。小さい子は手前から割り箸銃が打てるように、スタート位置が手前に設定されていた。
 受付でチケットと銃を交換して説明を受けた後、彼は割り箸銃を構えながら言った。


「何が欲しい?」

「私は上段の右から3番めのふ菓子がいいです」

「よっしゃ。輪ゴムは5発あるから1発で決めてやる」

「あっ、は……はい。……1発でも当たるといいですね」

「ちょっと待った! なにその期待が薄い反応。もしかして、輪ゴムが当たらないとでも思ってんの?」

「おおおおっっ……、思ってませんよ……。ごごごご……誤解です」

「それ、絶対思ってるやつだよな……」
 

 彼は割り箸銃の引き金を引くと、輪ゴムは一発でふ菓子に命中。その瞬間、彼は満面の笑みを浮かべたまま私の方に向いて片手を上げた。


「うぇ〜い!!」


 ハイタッチの合図かなと思って、手のひらを向けてパチンと叩かせた。
 彼が友達とハイタッチをしてるところを見たことはあったけど、自分が経験してこなかった分なんか嬉しい。彼女……というより友達に近い感じだけど、それでも彼との心の距離は確実に縮まっている。
 それを実感していく度に離れたくないなって思う。

 ……しかし、何気なく扉付近に目を向けたら、紫のTシャツを着ている赤城さんが腕を組んだまま私達の方を見ていた。
 その目は何かを語っているかのように真っ直ぐ向けられている。私は気まずく思ってしまい、サッと目を逸らした。
 彼の願い通り復讐を手伝ってあげたいと思う反面、彼女は史上最強のライバルでもあるから……。

 暗い顔のままうつむいていると、彼が「どうしたの?」と聞いてきたけど、首を横に振って「なんでもない」と答えた。
 二人はもう別れたから何ともないと割り切ればいいのに、彼女の瞳はまだ終わりを見せていない。



 ――文化祭の片付け&清掃は翌々日の朝から始まった。
 クラスメイトは皆ジャージに着替えて、教室内や廊下の手作りの展示物を剥がしていく。そこから出た大量のゴミは教室の隅へと寄せられた。
 私は先生に頼まれて二つのゴミ袋を両手に持って廊下を歩いていると、後ろから誰かが一つのゴミ袋を取り上げて「一つ持つよ」と言った。横目を向けると、そこには木原くんがいる。


「一人で持っていけますので」

「遠慮しなくていいよ。女の子にゴミ袋を二つ押し付けるなんて担任も酷いよな〜」

「そんなことないです。多分、私が傍にいたから任されたんです」

「無理しちゃって。困った時は男に押し付ければいいんだよ。……俺、とかね」

「……」


 木原くんの顔を見ると思い出す。屋上で赤城さんとキスしていたあの日のことを。
 私からすると、木原くんは赤城さんの彼氏。クラスメイトというより、そっちの印象が大きい。
 なのに、一昨日、今日と、どういったつもりで私に近づいて来たのだろう。

 ごみ置き場に到着して、先に積み重なっているゴミの横に二つのゴミ袋を置いて教室に戻る途中に木原くんは言った。


「今度一緒に遊びに行かない?」


 それを聞いて思わず耳を疑った。
 彼女がいるにもかかわらず、ただのクラスメイトの私を誘ってくるなんて。


「でも、木原くんは気になる人がいるんじゃ……」


 その気になる人の名前は言えない。何故なら、二人は秘密の交際をしているから。


「もしかして、深い意味で捉えてる? 全然そんなんじゃないよ。友達として誘ってるだけ」

「友達……ですか」

「そうそう。男女の関係とかそーゆーんじゃなくて、お茶したり、カラオケ行ったり、ゲーセン行ったりとか」

「でも、二人で遊んでる所を他の人に見られたら付き合ってるって誤解されるんじゃ……」

「誤解されたら、解けばいいじゃん」

「それはさすがにまずいです……。私、もう行きますね」


 ただですら一昨日の赤城さんの目線が心に突き刺さったままなのに、木原くんと二人で遊ぶなんてあり得ない。それに、加茂井くんに誤解されちゃうかもしれない。
 そんなの、無理。


「矢島っ……」

「そういった友達ならなれません。ごめんなさい」

「じゃあ、お茶。それならいい?」

「ダメです。私、もう教室に戻らなきゃ」

「矢島、待って!」


 木原くんが声を上げて私の手を引き止めると……。
 私達のすぐ横の通路にテニスボールがポーンと跳ねた。大きくバウンドをして私達の頭上よりも高く跳ね返っていく。
 私達はテニスボールの出どころの校舎を見上げると、二階廊下の窓に頬杖をついて見下ろしている加茂井くんの姿があった。


「あのさ。人の女を誘うのやめてくんない? 迷惑」

「……っ!! そこからテニスボールを投げたのはお前だな。当たったら危ないだろ」

「お前があんまりにもしつこく迫ってるから、みっともないと思って気づかせてあげただけ」

「なんだとっ!!」

「あのっ、私……。失礼します……」


 私はその隙を見てそそくさと退散した。
 校舎に入ってから下駄箱裏に周って一人になると、頬を赤面させたまま両拳を胸の前にギュッと結んで足をバタバタさせた。
 興奮が覚め止まない上に、ドキドキした心臓が私の恋レベルを押し上げていく。

 どうしよう!! 加茂井くんが『人の女誘うのやめてくんない?』だって〜〜っ!!
 私を本物の彼女のように扱ってくれるなんて、嬉しい、嬉しい、嬉しいっ!!


 ――この時の私はまだ気づいていなかった。
 彼の復讐劇が第二幕を迎えていることに。



 ――俺は、何をやってるんだろう。

 矢島が担任に頼まれてゴミ捨てに行ってからなかなか教室に戻ってこなかったせいか、無意識のうちに探していた。 
 廊下から見える一階通路はゴミ捨ての際に絶対通ることを知ってるからボーっと眺めていると、矢島が誰かと一緒にいるのがわかった。
 身を乗り出して見てみると、それは木原だとわかる。
 しかも、困惑している矢島にしつこく何かを言っていたから、じっと耳を澄ませた。次第にそれが遊びに誘われているとわかった瞬間、足元に落ちていたテニスボールを力いっぱい投げて二人の真横に叩きつけた。

 木原は俺からまた大切なものを奪おうとしている。
 それは、二度目じゃなくて、次で三度目に……。だから、この瞬間に釘を打っておこうと思った。


 矢島が教室に戻って来ると、俺は彼女の手を取って教室を出た。
 階段を上って四階の踊り場へ行き、彼女の手を離して言った。


「これからは、大地から二メートル離れてくんない?」

「えっ、どうしてですか? 座席の関係で無理な時もあります」

「……っっ! それでも避けろ。……いいか、俺があいつに沙理を奪われたのを見ただろ? あいつは俺の女を狙ってる。俺を傷つける為に意図的に女に近づいて奪っていく。あいつは女にはいい顔してるけど、それくらい卑劣な奴なんだよ」


 俺はいかり肩になっている背中を向けると、拳をワナワナと震わせた。

 ――正直、矢島は取られたくない。
 別に恋愛感情がある訳じゃないけど、俺には木原に女を取られる恐怖が襲いかかっている。
 あいつは顔がいい上に饒舌(じょうぜつ)だから、女はあいつのひとこと程度でコロッと傾いてしまう。そして、一度傾いた女は二度と戻って来ない。


「そんなことないと思います。……私は遊ぼうと言われただけだし、普通に友達として誘っただけみたいだし」

「それが無理」

「えっ、どうしてですか?」

「お前がいないと沙理にヤキモチを妬かせる計画通りにいかなくなるだろ」

「…………そう、いうことですか。さっきは加茂井くんが木原くんから引き離してくれたからぬか喜びしてました……」


 彼女は段々と語尾が小さくなっていき、シュンとうつむいた。
 俺達は偽恋人を演じてるだけなのに、そんな悲しそうな顔をされるとこっちまで気分が落ちていくのは何故だろう。


「ごめん……。深い意味で言った訳じゃない。そんなに落ち込むと思わなかった」

「いいんです。でも、木原くんから赤城さんを引き離せば復讐になりますよ」

「俺はそんなに簡単な復讐をするつもりはないから」


 矢島は何も悪くないのに、俺はさっきから何をイライラしてるんだろう。
 もしかしたら、木原に百発百中女を取られてるから気が焦ってるのかもしれない。
 矢島は俺のことを好きでいてくれるから簡単になびかないと思うけど、二度に渡って傷ついた心は簡単に修復しない。



 ――場所は派出所。
 鈴木さんは今日もいつも通り、手を後ろに組んで小学生の帰宅を見守っている。
 この時間は小学生の帰宅時間のようで、子供たちはランドセルを上下に揺らしながらかけっこをしているかのように目の前を駆け抜けていく。
 そのせいもあって、直前まで身体を撫でていたチロルはビックリして草むらに逃げ込んだ。
 取り残された私はその場に立ち上がると、鈴木さんは言った。
 

「さっき粋ちゃんに声をかけられた時は誰だかわかんなかったよ」

「私の見た目はそんなに変わりました?」

「一瞬、芸能人かと思っちゃったよ。この数日で街一番の美人さんに変身したからね」

「あははは。あっ、そうだ! 先日はアドバイスをありがとうございました」

「大したアドバイスは出来ないけどね。あれから彼にアピールできたの?」

「どうなんでしょうかね……。上手くいったと思ったら、そうでもなくて。ヤキモチを妬いてもらったと思ったら、私にじゃなくて。一歩前に進んだと思っていたのに、気づけば進んでなかったような状態ですかね」


 私は何をやっても空振りなような気がしてならない。
 偽彼女だからそーゆー運命を辿っているのはわかってるけど、私の気持ちだけが右肩上がりな分、漕いでも前に進まない自転車に乗っているかのよう。
 すると、鈴木さんは軽く首を傾げて顎を触った。


「いや、結構前に進んでるんじゃない?」

「えっ」

「粋ちゃんを見てるとわかるよ。最初に彼の話をした頃から比べて表情が活き活きしてるし」

「……そうですかね。自分じゃわかりませんが」

「あはは、そうだよね。でも、彼の話をする時はいつも楽しそうだよ。……あっ、そうだ。もう少し彼の悩みに寄り添ってみたらどう?」

「彼の悩み……ですか」

「男は親身になって話を聞いてくれる女性に気持ちが揺れ動いたりするからね」


 なるほど。私に足りなかったのは理解か。
 今日まで全力で突っ走ってきたから、理解なんて飛び越してきたかもしれない。

 私は赤城さんと同じクラスになったことがないから彼女の性格はよく知らないけど、加茂井くんから見たらどんな人だったんだろう。
 好きになるくらいだから、きっと特別な魅力があったんだろうな。



 ――下校後、加茂井くんにミーティングしようと言われて駅から徒歩5分のところにある、”ZIGGY”というアメリカンカフェに連れてきてもらった。
 場所が半地下ということもあって店内は薄暗い。カウンター席が5つに四人席のテーブルが4つ。正面にはダーツやスロットなど、赤と黒をメインとしたアメリカンチックな店内装飾で、壁面にはチェキで撮った写真が大量飾られている。
 店内BGMはポップ調の曲が流れている。

 店主はヒゲを生やしていかつくて、黒いキャップに黒いTシャツにジーパン姿。
 エプロンには無数のアメリカンチックな缶バッチをつけている。
 オーダーを取りに来た時はちょっと怖かったけど、強面な見た目とは対照的に優しい口調でチェキで写真を撮ってくれた。
 それを受け取って両手で写真を眺めていると、思わず頬が緩んだ。


「私、こーゆーお店に入るのが初めてでドキドキしちゃいます」

「独特な雰囲気だよね。昼はカフェだけど、夜はバーになるみたい。昼間は俺ら学生達のたまり場だけどね」

「それに、写真を撮ってプレゼントしてくれるなんて嬉しいです。この写真を見ると私達恋人みたいですね」

「ばーか。そんなに喜ぶもんでもないし……」


 彼は頬杖をついたまま写真をひょいと取り上げてテーブル上に置いた。
 口を尖らせながら壁に横目を向けると、白い壁紙が見えないくらい大量に貼られている写真の中から加茂井くんと赤城さんのツーショット写真を発見する。意識が吸い寄せられてじっと見つめていると、彼はそれに気付いた。


「それは、沙理と付き合ってから4ヶ月目の時に撮ったもの」

「……もしかして、赤城さんとよくこのお店に来てたんですか?」

「うん。そっちが1ヶ月目で、向こうが7ヶ月目」


 彼は私の気持ちなど考えずに赤城さんとのツーショット写真が貼られている場所に指をさしていく。
 その間、私の心は嫉妬まみれになっていることも知らずに。


「下校後に来ることが多かったから、全部制服姿だね」

「赤城さんとの写真……、こんなにいっぱい撮ったんですね……」

「この店の常連だったからね。ここでよくパフェ食ってたな」

「……」


 交際1ヶ月目の写真はニコリと微笑んでいて、4ヶ月目の写真は二人の指でハート型を作っていて、7ヶ月目の写真は肩を寄せている。
 昔の写真なのに。つい1ヶ月前はこれが当たり前の光景だったのに……。
 加茂井くんの偽彼女になったいまは見ていられないほど嫌気に満ちている。
 次第にいてもたってもいられなくなって、勢いよくイスから立ち上がった。


「ごめんなさい。私、帰ります……」

「えっ、どうして? まだ飲み物来てないよ」


 彼は私の心境に気づいていない。今日まで何度も気持ちを伝え続けてきても、一つ一つが心の中に刺さりきってないからそうやって平然とした顔で聞いてくる。
 私は断崖絶壁に打ち付けている荒波のように心がすさんでいるのに。


「どうして私をこのお店に連れてきたんですか?」

「へっ?」

「赤城さんと思い出がたっぷり詰まったお店なんですよね。だから思い出に浸る為にここに来たんですよね。こんなにラブラブな写真を見せつけられたら、さすがの私でも我慢出来なくなります」


 反抗的な態度を見せた後、荷物を鷲掴みにしてから席から離れようとすると……。
 彼はすかさず私の手を掴んだ。


「ちょっと待って! そーゆーつもりでお前を連れてきた訳じゃない」

「嫌です。加茂井くんには私だけを見ていて欲しいのに、どうしてこんなに酷い試練を与えるんですか」

「違うよ。試練を与えるなんてこれっぽっちも思ってない。過去を乗り越えたいからお前を連れてきたんだ」

「えっ……」

「沙理に復讐したいけど、同時に気持ちを整理していかなきゃいけない。だから、今日は矢島と一緒に沙理との写真を剥がしに来たんだ」


 赤城さんとの写真を一緒に剥がす為に私をここへ……。
 それを聞いた瞬間、カッとしていた自分が恥ずかしくなり、席へ戻って再び腰を落とした。


「そうならそうと最初から言って下さい……。てっきり、赤城さんとの過去を私に見せつける為かと思ってました」


 先走っていた自分が恥ずかしくて顔が上げられない。
 でも、本物の彼女じゃないのに彼女ヅラしてバカみたい。


「そんなことしないよ。だって、もう沙理とは別れてるんだし」

「……」

「それに、一人で剥がしに来ると思い出にふけっちゃうと思ったから矢島を連れて来た。剥がすところをちゃんと見届けてくれたら、少しは気持ちが整理出来るかなって」

「加茂井くん……」

「じゃあ、一緒に写真を剥がしてくれる? 俺と赤城の過去を」

「はい……」


 私と彼は、目の前の交際4ヶ月目の写真の両端を手にとって一緒に剥がした。
 彼が赤城さんと一緒に写真を貼った時の想いと、いま私と一緒に剥がす時の想いは全く別物だろう。

 店内に三枚貼ってあった写真は全て取り除いた。そしたら、凝り固まっていた肩の力がスッと降りた。
 席に戻ると、彼は先ほど撮ってもらった私達の写真を片手にして言った。


「代わりにこの写真を壁に貼る?」

「えっ……」

「さっき写真を剥がしたスペースが空いたからそこに貼ろうか」

「いいんですか?」

「いーよ」


 彼は机の端に用意されている油性ペンを取って白枠に文字を書いた。そして、その横にある両面テープを写真裏に固定して壁に貼りつける。


「嬉しいです。加茂井くんとのツーショット写真。私達の写真の周りに貼ってあるカップルに負けないくらい幸せです」

「偽恋人なのに?」

「はい、もちろん! だって、加茂井くんさえ振り向いてくれれば、私達はいますぐにでも恋人になれますから」


 赤城さんとのツーショット写真を剥がしてから気分が晴れ晴れしくなった。
 そして、彼がフレーム外に書いた文字。そこには、新たなる決意が見えたような気がしたから。


「ははっ、すんげぇポジティブ。さっきは、沙理と映ってる写真を見た途端、怒って帰ろうとしてたくせに」

「そっ、それは…………。加茂井くんが赤城さんに想いが残ってると思ったから……です」


 彼の気持ちを先読みして勝手に落ち込んでいる自分がバカバカしく思えた。
 片想いって切ない。彼がいまどう思っているかわからない分、一つ一つが悪い方向に考えてしまう。


「粋……」

「えっ!!」

「って呼び捨てしてもいい? 偽恋人中なのに、お互い名字で呼ぶのはどうかなって思ってた」

「ああああ……っ、はいっっ!! 粋って呼んで下さい!! 両親以外に呼び捨てされたことがないので、呼ばれても気づかない時が来るかもしれませんが……」

「じゃあ、俺のことも”朝陽”って呼んで」

「そっ、そんなぁ……。いっ、言えませんよ〜。いきなり呼び捨てするなんて……」

「お前ってさ、本当に不器用な性格だよな。それに、いつまで敬語使ってんの? 他人みたいじゃん」

「敬語は身体に染み付いちゃってるからなかなかやめれなくて……」
 

 加茂井くんと笑い合っているこのひとときは、私の心に眩い光を与えていた。
 恋の階段を一歩一歩上がっていく度に嫉妬深い自分と戦っている。
 こんな感情が心の奥に眠っていたなんて、いままで気づかなかったよ。


 ――ところ、幸せを噛み締めていたこの直後。
 私は再び灰色の空に包まれることになるなんて、この時は微塵たりとも考えていなかった。



 加茂井くんと一緒にカフェが入っているビルを出ると、外は小雨がパラついていた。
 そのせいもあって、通行人の歩くスピードが上がっている。
 彼は軒下で空を見上げながら手を上向きにかざした。


「粋、傘持ってる?」

「折りたたみなら」

「じゃあ、駅まで傘に入れて」

「えっ!! 加茂井くんと同じ傘に入ったら、相合い傘になっちゃいます……けど……」


 私は頬を真っ赤に染めながらカバンから折りたたみ傘を取り出すと、彼は吹き出した。


「ぷっ!! 反応がいちいち可愛すぎるだろ。相合い傘を深読みしすぎ」

「……からかってるんですか? もしそうなら、傘に入れてあげません」


 口を尖らせてそっぽを向くと、彼は私から傘を奪ってから開いた。


「”加茂井くん”じゃなくて、今日から”朝陽”だよ。ほら、もたもたしてないで早く入って」

「はっ、はいっっ!!」


 若干誤魔化された感はあったけど、小さな傘の中に入り込んだ。
 肩が触れ合わなきゃお互い雨に濡れてしまうほどの距離。心臓が胸から飛び出しそうなくらい爆音を立てているから、彼に触れた部分から緊張している様子が伝わっちゃうかな。
 つい先日までここにいたのは赤城さんだったのに、いまはどんな気持ちで私を傘の中に入れてるのだろう。

 次第に雨足は強くなり、彼の反対側の左肩が濡れていることに気づいた。


「加茂……あっ、朝陽……くん」

「あはっ、初めて名前呼んでくれた」

「もう! それ言わないで下さいよ」


 私はそう言いながらカバンの中に手を突っ込んでハンドタオルを取り出す。


「傘をもっと左側に寄せていいですよ。朝陽くんの肩が濡れちゃってるし」

「えっ、あ、ほんとだ。気づかなかった」
 
「優しいんですね。私の方に傘を傾けてくれるなんて」


 私はそう言いながら足を止めて彼のブレザーを拭き始めた。


「粋こそ肩が濡れてることによく気づいたね」

「だって、ずっと加茂井く……朝陽くんを見ているから」

「また間違えた。次に加茂井くんって言ったら罰ゲームでもしようか?」

「どっ、どんな罰ゲームですか?」

「キスのふり……とか?」


 そう言われた瞬間、私は赤面したまま肩にかけているカバンを地面にドサッと落とした。
 もちろん、そのキーワードによって初めて唇を近づけたあの日のことを思い出してしまったから。


「そそそそそ……それはなしです!! 絶対絶対!! 心臓が持ちませんっっ!!」

「あははは……。冗談だよ。なに真に受けてんの?」


 彼はケラケラと笑いながら濡れた地面から私のカバンをすくい上げていると、私の背中にドンっと人がぶつかった。
 振り返ると、そこには傘をさしていない別の学校の女子高生が雨に濡れた顔で見ていた。
 しかし、その顔に見覚えがある。


「あれ……、矢島さん?」

「……え」

「うわぁ、やっぱりそうだ! 中学ん時に3年間パシりだった矢島さんよね? 絶対そう! この顔は間違いない」

「……」

「あんなに長かった髪をばっさり切ったんだ〜。黒縁メガネもしてないし見た目が変わっちゃったから一瞬わかんなかったけど、よく見たら面影が……」
「申し訳ないけど、そーゆー話はされたくないです……」


 私はこの時間を断ち切るかのようにそう言うと、傘から飛び出して走り出した。ザーザー降りの雨に包まれながらひたすら前を突き進んでいく。

 彼女は同じ中学出身の子。中2の時に同じクラスになったけど、いじめグループの一員だった。卑劣に笑っていたあの時の顔が心の中から呼び覚まされていく。
 いまは違う高校に通っているから二度と接点はないと思っていたのに、まさか街中で偶然会うなんて。


「粋っっ!! 粋っ!!」


 30メートルほど進んだところで彼が後方から声を上げながら追いかけてきたので振り返った。
 いまや、雨か涙かわからないほど顔がびしょびしょになっていて、彼に向けることさえ辛くなっている。
 彼ははぁはぁと息を切らしながら傘をサッと差し出した。


「大丈夫? さっきの子、粋の中学生の時の同級生だったの?」

「はい。さっきの話……聞きましたよね」

「うん」

「実は私、中学の時に嫌われてたんです。何も悪いことをしてないのに、コミュ力が低いから近づきがたいって噂されていて。ぱっつん前髪だからこけしみたいだって野次られてました」

「粋……」

「あの時は目を閉じることが出来なかったからヘッドホンで耳を塞ぐしかなくて。音楽を大音量で聞いていれば、それだけでも気が楽になっていたから。いまでも雑音が嫌いなのは、あの時のいじめがあったから。私は自分を守ることが精一杯なんです」


 全身ずぶ濡れになっている私が肩を震わせながらそう言うと、彼は私の身体を両手でギュッと抱きしめてきた。そしたら、持っていた傘がコロンと落ちていく音がした。


「だったら、ヘッドホンで心を塞ぎ込む前にちゃんと言えばいいじゃん。言いたいことをさ」

「えっ」

「粋は言えるんだよ。自分の気持ちを……」

「……」

「校庭からメガホンで叫んだあの日はカッコ良かったよ。周りの目なんて一切目もくれずに堂々としててさ」

「朝陽くん……」

「人の運命を変える為にそこまでできるなんて凄いなって。あの時は雑音を浴びる覚悟で告白をしてくれたんだなと思ったら余計嬉しくなったよ」


 直前まで怒っていたのに、彼の胸の中は世界で一番平和な香りがした。
 そしたら、怒っていることさえ忘れて、心が幸せに満ち溢れていた。


「私を抱きしめてたら雨で制服が濡れちゃいますよ」

「別にいい。粋の心の雨が止むまでこうしてるよ」

「……じゃあ、一生止みませんよ。ずっとこうしていて欲しいから」

「ばーか。本当は人一倍弱いクセに強がり言ってんじゃねーよ」


 ――たとえこの想いが繋がらなくても、私はやっぱり彼が好き。
 私自身を見ていてくれる唯一無二の存在だから……。