――そこは、薄紅色の桜が舞い散る御堂の前だった。
 巨大な岩があり、そこには黒い溝が刻まれている。よく目をこらせば、それは文字のように見えた。丁度、それは今刻まれた……書かれたところのようで、すぐそばには白髪を後ろで髷にした老人と、隣で見ている小さな少年がいるのが分かる。髪の色と緋色の瞳に覚えがあり、それが青眞だというのはすぐに分かった。

『青眞、ここも一つ。青隠しの筆で封印をしたと覚えておくように』
『お祖父(じい)様……母上は、どこへ行ってしまったのですか?』
『――高藤家の嫁になるというのは、危険がつきまとう事なんじゃよ。青隠しの筆に害されたと逆恨みをする ()()は多い。だから青眞も、将来は雫ちゃんをよく守ってあげるんじゃよ』

 老人はそう言うと、不意に雫を見た。目が合った瞬間、夢の中であるから雫は驚いた。皺を深くし笑った――青眞の祖父らしき老人は、小さく頷いている。もし本物だとするならば、彼は、雫の祖父と約束した……雫と青眞の結婚を取り決めた人物のはずだ。

『きっと雫ちゃんもまた、青眞を守ってくれるじゃろうて。なぁ? 儂はそう願っておるよ』

 目を見つめられ、そう言われた直後――ハッとして雫は目を覚ました。
 既に少し開けてあった障子からは、朝の光が差し込んでいる。

「朝食の用意っ……は、私の分だけで、今日は昼食も遅いとして……青眞は帰ってきているのかしら?」

 慌てて上半身を起こしてそう呟きながら、瞬きをすればまだ夢の風景が脳裏に焼き付いていた。

「……本当に、夢だったのかな?」

 小首を傾げてみるが、答えは出なかった。
 その後身支度を士、階下へ降りて顔を洗ってから、雫は玄関へと向かった。
 朝野掃き掃除をしようと考えたのもあるが、靴や鍵を見れば青眞が帰宅したかどうか分かると思ったからだ。

「あ、よかった。帰ってるみたい」

 鍵が内側からかけられた状態になっている事を見て、ほっと雫は息を吐く。
 それから着物をたすき掛けにし、扉の外を箒で掃いた。
 朝食の準備はゆっくりでいいからと、先に一階と――静かに二階の窓を開けて、換気をする。春の風が心地いい。本日は青い空に雲が浮かんでいる。

 食事を済ませてから、雫は縫い物をしながら台所にいた。
 小鬼やろくろ首の女性が、興味深そうにしているが、本日は縫い物に集中していた。
 ――お守りの布を作ろうと考えて、生家の高堂家に伝わる破魔の模様を縫っている。

 階段が軋む音がして、青眞が起きてきたのは、十四時を少し過ぎた頃だった。

「おはよう、雫。腹減ったんだけど」
「はいはい、用意は出来ておりますよ」

 縫い物の道具を近くの棚に置き、雫は流し台の前に立つ。己の席についた青眞は欠伸をしていた。

「昨日は何時頃帰ってきたの?」
「朝の四時頃だよ」
「そうなの。結構お仕事は時間がかかるのね」
「ものによるかな。筆でちょっと書くだけのこともあれば――……まぁ、大体は書くだけだよ。特に危険は無い」
「ふぅん」

 頷きつつ、雫は夢の事が気になっていた。
 青眞の両親のことなどは、まだ一度も聞いた事が無い。
 手際よく食事の用意をしつつ、チラリと青眞に振り返る。聞いていいのか悪いのかも判断がつかない。

「はい、どうぞ」

 用意していたコロッケと、つけあわせのキャベツ、それから油揚げの味噌汁と白米を、雫は青眞の前へと並べていく。明日には、買い物にいかないと、そろそろ食材が切れそうだ。特にお米は買ってこなければならないが、一人では大変そうだから、青眞を誘ってみようかと考えている。

「あ、美味しそう。いただきます」

 手を合わせた青眞が、早速箸を手に取った。
 その様子を見ていると、青眞が昨日軍服を身に纏っていた事すら嘘のように思える。なんだかんだで、あやかし対策部隊というのは、危険がつきものだという知識は、雫にもある。普段へらへらとしている、今もゆるっとした空気の青眞が討伐などに臨むというのは、正直心配すぎる。

「うん。味もいいね。雫は料理が上手で本当によかった」
「どうしてそんなに料理にこだわるの?」
「……別に」

 言い淀んでから、青眞が顔を背けた。なにやら理由がありそうだ。

「ねぇ、どうして?」
「俺の母親が……その、料理が下手だったんだよ」
「え?」
「まぁ、この話はいつかするよ」

 折角先程気になった青眞の家族について聞けそうだったのだが、嫌そうな顔をされたので、これ以上は追求できないと雫は考えた。青眞は話したくない事は決して教えてくれないと、なんとなくここ数日で理解した。

「そう。じゃあ教えてくれる日、待っているからね」
「……期待はせずにね」

 そんな風にして、この日の一食目のひと時は流れていった。