祝言の日は、生家へと戻り、荷物の最終確認をしてから、単身雫は、高藤家へと向かった。持ち物がそれほど無いのは、嫁入り道具とともに、既に先方に送ってもらったからだ。日ノ本は、正式名称は日本帝国という。最近そう呼び名が変わったのだが、皆昔のまま、日ノ本と呼んでいる。ただ帝国軍が設立されたのは存在感があり、雫の叔父である湯河創助も、帝国陸軍あやかし対策部隊で隊長職をしている。荷物を運び入れてくれたのは叔父だ。なんでも元々青眞と面識があったらしい。
「ここかぁ」
引き戸の前に立った雫は、まじまじとそれを見上げる。瓦屋根の和風邸宅だ。横を見れば、庭と軒先が見える。だが……庭は荒れ放題で、池には藻のような緑しか見えない。
「私が弄ってもいいのかしら?」
雫は花が好きだ。結婚したら、家庭菜園を作ったり、ガーデニングという、最近異国から流入してきた庭いじりをして、採れたハーブで匂い袋を作りたいとずっと考えていた。最近流行しているのである。紫色のラベンダーという花を乾燥させて、小さな巾着に入れる事が。
帯紐の位置を整えてから、雫は扉を開けた。
「こんにちは! 雫です。参りました。宜しくお願い致しまーす!」
元気よく声をかける。明るい声になるよう心がけたら、自然とほほも持ち上がった。
しかし返事が返ってこない。
雫は、思わず目を据わらせた。
「あのー? 青眞さん? おられませんかー?」
仕方が無いのでもう一度繰り返すと、一拍遅れて返答があった。
「はーい。どうぞー」
間延びした声音だった。靴を脱いで、雫は上がり框を踏む。靴は最近異国から入ってきた品だ。足袋は昔のままである。軍人さん達の間では、靴下という品が流行しているらしいとも、雫は耳にした事がある。
荷物を携え、雫は声がした部屋の方へと向かう。すると台所があった。意外にもそこは異国風で、テーブルと椅子がある。だがそちらには、青眞の姿は無い。中に入って周囲を見ると、隣の和室に、ふわふわの髪の毛が見えた。
「青眞さん?」
荷物を床に置き、雫はそちらへと向かう。そして、うっ、と、心の中で呻いた。
書物や和紙を束ねたもの、巻物、半紙、様々な紙や本が散乱している。
現在も青眞は筆に墨をつけ、なにやら雫には読めない文字を、掛け軸のようなものに記している。
「今、仕事に集中しているから、声をかけないでもらっていいですか?」
「えっ、あ、はい」
頷きつつ、雫は畳の部屋を見渡した。雑多に散らかっているから――だけではない。そこには、無数のあやかしが、うようよと浮かんでいたからだ。緑色のマリモそっくりで、一部に二つの白い目がついたあやかしの数が、一番多い。確か、青深泥というあやかしだ。
――あやかしは、ほとんどの人には視えない。
だが生まれつき、雫や雫の叔父のように、視える者もいる。雫の祖父もまた、視える者だった。なお両親は一切視えない。弟の良治も、視えないと話していた。だが雫の生まれた高堂家は、過去にも多くの視える者がいたため、特に奇異の目で見られる事もなく、雫はこれまで過ごしてきた。
けれど……これだけうようよしている中にいるのだから、きっと青眞は視えないのだろう。
雫がそう考えた時だった。
ピンっと、青眞の筆の先が上を向いた。
「できた」
そう言うと青眞が筆を置き、雫へやっと顔を向けた。天井を見ていた雫は、慌てて視線を戻す。
「へぇ、視えるんだ?」
「え?」
「あやかし」
「えっ、青眞さんも視えるの?」
「青眞でいいよ。うん、勿論」
「それなのに、こんなにいるのを放っておいてるの?」
「害はないからね」
「な、なるほど」
そういうものかと、雫は適当に相槌を打つ。あやかしに対しては、様々な価値観があるので、例えば軍のあやかし対策部隊にも賛否両論がある。邪悪な存在だから屠った方がいいと歓迎する者もいれば、八百万の神の一種だから手を出してはならないと唱える者もいる。現状、あやかし対策部隊は、叔父によると、危険なあやかしは討伐をしたり封印をしたりしているが、無害なものはそのままにしているとは聞く。だから、青眞の対応は、必ずしも間違いではない。