ごくりと喉が鳴る。髪を耳にかけて、呼吸を整える。
「灰木くんは、桜……灰色に見えたりする?」
少しの間があいて、彼の細い目が丸みを作った。
「え、どうゆう意味?」
早まった。そう思うのと同時に、やっぱりわたしの仲間ではなかったと知って、ホッとしたような悲しいような複雑な心境だった。
立ち上がって、リュックを背負う。ジャリジャリとスニーカーが音を立てるなか、ぽつりと声をこぼした。
「……わたし、桜は嫌いなの。みんなみたいに、春の良さ、分からないから」
「ふーん。残念」
灰木くんの言葉へ被せるように、じゃあねと屋根から出た。これ以上あの場にいたら、もっと感じの悪い人になってしまいそうで、逃げた。
翌日もその次の日も、河原へは行かなかった。描きかけの絵を完成させたいけど、彼がいたらどうしよう。灰木くんと時間を共有できる自信がない。
昼休みになって、給食を食べ終えた青海さんが、ポーチから鏡とリップを取り出した。
「わー、すごくかわいい! 紅ちゃん、それってなんて色?」
「これはねぇ、【桜ドロップ】っていうカラーなの。春を先取りってやつだよ」
「すぐなじむね。これなら、学校でつけててもセーフかも」
二人は盛り上がっているけど、わたしには灰色にしか見えない。とても不気味としか言えないから、黙っていると。
「百瀬さんは、いつもどんなリップ使ってるの?」
ふいに話を振られて、声が出ない。適当に答えたらいいのに、真面目な性格は損をする。
困った表情が出ていたのか、青海さんが気を使って話題を変えた。
「あ、桜と言えば! 来週から春休みじゃん? うちで女子会するんだけど、百瀬さんも来る?」
「こんな感じで春ケーキ作って、みんなでワイワイ恋バナするの。女子力アップできて楽しいよね」
スマホ画面には、おそらく可愛くデコレーションされているのであろうケーキやお菓子が並んでいる。わたしにとっては、青と灰色のホラー祭りだ。
「ありがとう。予定合うか、見ておくね」
どうせ断るくせに、口先だけいい子ぶっている。みんなには申し訳ないと思いながら、わたしは教室をあとにした。
***
「うーん、精神的なものが原因かな。視力は落ちてないし、病気が悪化してるわけじゃないから」
検査を終え、医師の診断を受けて病院から帰宅する。
最近、目に映る色が狭まっている。以前まで見えていた緑や黄色までが青っぽく写り、黒と白以外はほとんど灰色だ。
色のない世界とは、こうして出来上がっていくのかと、しみじみ実感している。
「大丈夫。必ずよくなる。お母さん、桜病にいいメニューまた考案したから、きっと効果でるよ」
運転しながら、お母さんは明るい声で笑った。わたしの気が落ちないように、いつも元気に振る舞っている。
「だから、彩芽は気にしなくていい。あまり思いつめないでね」
「うん、ありがとう」
優しい横顔の飾り気のない唇が、いつもより寂しそうに見えた。
これ以上、心配をかけたくない。
春休みに入って、二週間ぶりに秘密基地へ向かった。あれから、灰木くんが使っていたかは分からないけど、さすがに今日は来ないはず。
そんな考えは甘かった。ノートを開いて、鉛筆を握った矢先に足音がした。
「あ、久しぶり」
「……どうも」
黒いパーカーを来た灰木くんが、のっそりと隣へ座る。
なんで休みなのに来るの。自分もだから、人のことは言えないけど。
学校では話さないから、妙に緊張する。少し動いたら肩が触れそうな距離とか、お互いの息づかいも全て。
「へぇー、やっぱり。百瀬さんも絵描くんだ」
のぞき込まれて、慌てた拍子にノートとペンケースをぶちまけた。最悪だ。砂利に散乱する鉛筆を拾いながら、少し声を荒げる。
「あっ、これは……みんなには内緒で」
「ああー、俺バラすような友達いないから大丈夫」
最後のひとつを拾い上げたのは、男子中学生にしては長くてキレイな指だった。
「灰木くんって、不思議。しゃべってみたら、話しやすいのに。どうして自分からみんなを遠ざけるの?」
「それは百瀬さんも一緒でしょ」
手のひらに乗せられた鉛筆は、青い。先月までは、緑だったはずだ。どんどん色が失われていく。
「わたしは、灰木くんとは違うよ」
いつか、今見ている景色ですら羨むようになるのだろう。あの頃は、まだよかったって。
モノクロの絵がむき出しになっていても、それほど気にならなかった。わたしにとって、このノートはどうでもいいものになったのだ。
「違ってあたり前だよ。俺ら別の人間なんだから。考え方も見てるものも」
するりと手からすり抜けて、ノートは灰木くんの元で止まった。
「でも、俺は好きだな。百瀬さんの絵」
長い前髪のせいで表情は分かりづらいけど、少しだけ唇が笑っている。
「……ありがとう。初めて、言われた」
この日から、雨が降らないかぎり毎日河原へ通った。昼過ぎに行くと、決まって灰木くんがいて、夕方まで一緒に絵を描く。
お互いに、一時間以上無言の時もあれば、少し言葉を交わすこともある。
春休みも残り三日。物置の整理を頼まれていたわたしは、早く済ませて出かけようとしていた。埃っぽいダンボールを開けて、懐かしい私物を物色する。小学生のときにしていた交換日記や、友達からもらったマンガノート。どれも手放したくなくて、仕舞い込んでいる。
「捨てる物なんて、なにもないよ」
もうひとつのダンボールを引っ張りだして、手が止まった。出てきたのは、小学生のときの作品。
「……これって」
握りしめたまま、わたしが河原へ行くと、灰木くんがスケッチブックを抱えていた。見慣れた風景に、色をつけている。まだ蕾をつけているはずの木に、灰色の花を咲かせて。
「あ、百瀬さん。いたの?」
数分経って、灰木くんが顔を上げた。
わたしは黙って、持ってきたものをスケッチブックの上へ置く。少しだけ、手が震えた。
「この絵、見覚えない?」
しばらくして、わたしは口を開く。胸がそわそわして、居ても立っても居られなくて。
「ああー、やっぱり。百瀬さんのだったんだ。すごいね、まだ取ってあったの?」
気付いていたような口調で、灰木くんは画用紙を手に取った。
小学一年のとき、図工の授業でわたしが描いた絵だ。白い枠の中には、大きな桜の木と小鳥やシャボン玉が飛んでいる。
ーー灰木くんの作品と同じ、灰色の桜だ。
「バレちゃったか。まあ、ここまで構成も色づかいも一緒だったら、仕方ないか」
「どうして」
疑問はたくさんあった。なぜ知っているのかとか、同じように描けたのかとか。
それからーー。
「俺の初恋の絵だから」
こめかみをトンと触って、灰木くんがフッと笑う。インプットは、俺の得意分野だと。
画用紙を裏返すと、三枚の付箋が貼り付けられていた。絵を見たみんなからのコメントだろう。『めずらしい』や『かわったいろが、おもしろい』のとなりに書かれていた文字。
『一ばんかっこいい。はいのきたいよう』
物置で見つけた瞬間、わたしは走り出していた。
小学一年のとき、わたしたちは同じ学校へ通っていたらしい。二年生になってすぐ、灰木くんは転校してしまったから、存在すら知らなかった。
「同じようなピンクの桜が並ぶなか、ひとつだけ目立ってた。それが俺にとっては光って見えて、かっこいいなってワクワクしたんだ」
ももせあやめ。その名前とグレーの桜だけは、一生忘れない。灰木くんは、そうわたしに告白した。
これまでずっと、自分を否定して生きてきた。まわりがあたり前に見ている世界を知らず、春や桜が嫌いだと言い聞かせて、遠ざけていた。
でも、灰木くんはわたしの見える景色を、かっこいいと褒めてくれた。
じわじわと目頭が熱くなって、水の玉がこぼれ落ちる。あっという間に、涙は滝のように流れて止まらない。
「……うれしい、うれしすぎるよ」
最初は、おろおろして戸惑っていた灰木くんだったけど、小さな子どもみたいに泣くわたしの背中をずっとさすってくれていた。
今年も、桜の咲く季節が訪れた。中学三年になった今日、緊張した足取りで校門をくぐる。
相変わらず、灰色に囲まれた世界は同じだけど、以前の色が少しずつ戻ってきた。緑や黄色も見えるようになって、お母さんもホッとしている。
ただやっぱり、桜はちょっとだけ好きになれない。
「はいこれ、頼まれてたやつ」
「わー、すごい! ありがとう」
三年三組の教室の前。待ち人が現れて、イラストマーカーの入った紙袋を受け取る。
灰木くんと、違うクラスになってしまった。新しい季節は、別れまで運んでくるからちょっぴり嫌い。そんな気持ちになるなんて、今までの自分では考えられなかったけれど。
河原の雨除けの下では、絵を描くだけではなく、一緒に勉強をするようになった。お互いの苦手な分野を教え合って、ご褒美に絵の交換をしたり。
わたしにとって、灰色でしかなかった桜は、まだ知らない春を教えてくれた。
三年一組の一番うしろの席で、わたしは小さく息を吐く。当てられる前から、ずっと考えていた。
ゆっくり立ち上がり、まっすぐみんなの方を向く。見守るような青海さんの眼差しを受けて、心を落ち着かせた。
大丈夫。わたしは、わたしのままでいいと気づけたから。
「わたしは春が好きです。桜を見ると、一年の初めと終わりを感じられて、いろんな気持ちを思い出させてくれるからです」
fin.