*****
「私の荷物はこれで全部、だよね」
たくさんの物で溢れていた玲奈の部屋が、一年前と同じように元に戻った。
玲奈としてお母さんと二人で過ごしてきたこのアパートとも、もうすぐお別れだ。私はお父さんと一緒にすごしてきた家に戻ることにした。
とはいえこのアパートで一年という月日を過ごしてきたのだから、それなりに自分の荷物だってあるだろうと思って用意しておいた段ボールは、結局一つしか使わなかった。
ここにあった『仁花』としての物は、Mサイズの段ボール一つにまとめられてしまうほど本当に何もなかったのだと改めて思い知らされた。
「仁花、これ、どうする?」
そして、あの日から毎日のように、楓くんは学校が終わるとそのまま私の元へ来てくれるようになった。
お母さんが入院して一人で暮らしている今、実は少しだけ彼の存在が心強かったりしている。
「うん?なに、それ」
今日も一緒に引っ越しの準備をしてくれていた楓くんが手渡してきたのは、玲奈と私が映った写真だった。写真の中に映し出されている私たちはまだどこか幼くて、写真立てもすっかり色褪せている。
この写真は確か、昔家族四人で行ったテーマパークで撮ってもらったもの、のような気がする。
今ではもう細かいことを思い出すことができないくらいに、遠い思い出の一つだった。
「これ、どこにあったの?」
「リビングのテレビ台の裏に落ちてた。どうせなら仁花が持っておいたらいいのになって思って」
生前、玲奈がここへ引っ越してきたときに飾っていたのだろうか。
私は小さいころから写真を撮られるのが苦手だったから、自分の手元にはそういった思い出の写真が一枚もない。
「そうだね、私がもらうよ」
テレビ台の裏側に落ちていたのなら、きっと私がもらっても問題はないだろう。ずっと、玲奈の写真を持ち歩くことはおろか、お父さんが保管しているアルバムも私は見返すことができなかった。
玲奈は私のことを恨んでいると思っていたから、見るのが怖かった。だけど、あの日楓くんが言ってくれた言葉のおかげで、心の底から救われた気がしたんだ。
“『玲奈』として過ごしてきた時間は、玲奈からのプレゼントなんだよ”
“ あの仁花大好き人間の玲奈が、仁花のことを恨むわけがないでしょ”
“ 仁花がしなくちゃいけないことは、玲奈やその周りに謝り続けることなんかじゃない。玲奈として生きてきた時間も、全部『仁花』のものにして、仁花が玲奈の分まで幸せに生きることなんだよ”
「……ありがとう、楓くん」
「うん、どういたしまして」
「それから、楓くんにもずっと嘘をついていてごめんね」
楓くんと再会していなければ、多分私はこんなふうに『仁花』に戻ることを決心することも、それを誰かに伝えることもできていなかったと思う。
カフェのバイト先で再会したあのとき、彼が私の名前を呼んでくれなければ……きっと私は、今も苦しみながら『玲奈』として生きいたに違いない。
楓くんには助けてもらいっぱなしだ。
いつか、私もどこかで彼を助けてあげられたらいいんだけど。
「……許してほしい?」
「え?あ、う、うん。できることなら」
悪戯っぽい表情を浮かべながら、片方の口角をクッと上げて笑う楓くん。
『許してほしい?』と尋ねられたあとに出てくる言葉が気になって、グッと身構えた。
「じゃあ告白の返事、聞かせてもらおっかなぁ」
「!?」
「ねぇ、仁花絶対忘れてたでしょ?俺、めちゃくちゃ勇気振り絞って仁花のこと好きだって伝えたのに」
「ち、違うよ忘れてなんかないよ!?ほ、本当に……」
ただ、あのときはとにかく自分のことで精一杯だった。
玲奈のフリをしていることが知られないように、周りの人に気を遣う余裕がなかった。それに、中学のときに諦めていた初恋相手の楓くんから気持ちを伝えられるなんて思ってもいなかったから。
「あ、あの、返事……だよね。えっと」
「え、聞かせてくれんの?」
「えっと、だから、その」
「ぷっ!アッハハ!冗談だよ、そんなに焦んないでいいよ」
私が挙動不審になって焦っている様子をお腹を抱えながら笑う楓くんを見て、気張っていた力が少しずつ抜けていく。
『なんだ、やめてよもう』と安堵する私とは正反対に、彼は未だにケラケラと笑い続けた。
「いやいや、本当は今すぐにだって仁花から返事をもらいたいに決まってるよ。でもさ、仁花はもう『自由』だもんね」
「え?私が、自由?」
「そうだよ。だから今はまだ、俺に縛られてちゃダメなんだよ」
楓くんのその言葉に、私はまた一つ気付かされた。
そうか、今の私はもう『自由』なんだ。誰のフリをしなくてもいい、本来の自分の名前で、好きなことができる。
でも、いったい何をすればいいんだろう。
『仁花』に戻ったらやりたいことリストを作っていた。
たくさんの美術館に行ってみたい、うんと絵を描いてみたい。勉強もやり直したいし、陶芸にチャレンジもしてみたい。そんないろんなことを思い描いていたはずなのに、今は何をすればいいのかまったく思いつかない。
「俺ね、今の日本の高校を卒業したら、また海外に戻ってあっちの大学に行くことになってるんだけど」
それは突然の知らせだった。
予想もしていなかった、再び楓くんとのお別れを告げられるものだった。
「え?楓くん、またカナダに戻っちゃうの?」
「……うん」
「そんなっ」
やっと再会できたばかりなのに?五年間も離れ離れだったのに?
楓くんとはこれからもずっと、こうして隣にいられるものだとばかり思っていた。
「いつ、向こうに行っちゃうの?」
「親の仕事の都合もあって、卒業式が終わったらすぐ……かな」
「そう、なんだ」
卒業式を終えてすぐということは、一緒にいられる時間はあと半年くらいのものだろうか。頭の中でそういう計算はすぐにできてしまうのに、私にはこの心の奥底から込み上げてくる寂しさというものにどう対応していいのか分からない。
行ってほしくない。でも、そんなこと言えない。私にはそんなことをいう資格なんてない。
「でね、ずっと仁花に言いたかったんだけど。仁花も一緒に来ない?」
「え?私も、一緒に?……海外に?」
「仁花、昔からいろんな国に行っていろんな風景を描いてみたいって言ってたの覚えてる?あと海外の美術館にも行ってみたいって」
「うん。いつか行けたらいいなぁとは思ってた、けど」
「だからさ、仁花もおいでよ」
「で、でも」
「今までずっと『仁花』を押し殺してきたんだから。もう思う存分自由でいいんだよ」
「……っ」
「海外の風景って日本とは全然違うから、そこで好きな絵を描いてもいいし、英語の勉強をしながらバイトして、仁花が食べたいものを買って、描きたい絵を描いて、行きたい美術館にいけばいいんだよ。高卒認定を取って、どこかの国の大学で学び直すのだってありだと思う」
『俺より何倍も頭がいい仁花なら余裕だよね』と付け加えながら楓くんが話してくれる、私のたくさんの未来の道に、これまでで一番心が躍った。ワクワクした。
『仁花』でいる、と決心はしたけれど、今後のことで私はずっと悩んでいた。
私は高校も中退したことになっていて、これから編入するなんて希望がないに等しかった。ましてや器用な人間でもないから、きっとこんな私を受け入れてくれる会社も少ないはずだと思っていた。
玲奈としてじゃない、これからの『私』の人生はどうなってしまうのだろうと不安のほうが大きかった。
「とにかく仁花はもう自由なんだよ。どこへだって行ける」
「……っ!」
「言ったでしょ?仁花はこれからどんどん幸せにならなくちゃいけないって。だから今は仁花がしたいことを、全部やっていこうよ。俺は仁花のその幸せの、一部になれたら嬉しい」
「楓、くん」
「その手始めに、まずは俺と一緒に“幸せ”に触れてみない?」
「……っ」
そう言って、楓くんは私の頭を二度撫でてくれた。
ずっと心の中にあった霧が、一気に晴れていくのが分かった。
「──行きたい。私、いろんなこと……やってみたい」
そうか、私は自由なんだ。
必ずしも日本にいなくちゃいけないわけじゃない。やりたかったこと、頑張ってみたいこと、全部、叶えていってもいいんだ。
「うん、じゃあ約束ね」
「うん、約束!」
その日の夜は、夏の暑さが少しだけ和らいでいて、きれいに星が光る夜空を一人で見上げた。
「星ってこんなにきれいだったっけ」
少し前までの私には、こんなふうにベランダに出て空を見上げるだけの心の余裕はなかった。
そんな星たちを見ながら、楓くんがくれたたくさんの私の未来の話を思い出していた。頭の中で想像するだけで楽しくてたまらない。
これまで海を渡ったことは一度もなかった。だからお父さんが各地を回ってきた土産話を聞くのが昔から好きだった。
「(……そうだ、あのとき)」
そのとき、ふとお父さんとのとある会話を思い出した。
“これは提案なんだけどな、仁花。高校を卒業したらお父さんと一緒に海外に行ってみないか?”
この時期に玲奈でいることをやめた今、高校を卒業することはできないけれど、お父さんと一緒に海を渡ることはできるかもしれない。
私は勢いよくスマホをスマホを取りに部屋へ戻って、そしてお父さんに電話をかけようとしたところで……その手に待ったをかけた。
ふと頭をよぎったのは、お母さんの顔だった。
もしもお父さんと一緒に海外へ行ってしまったら、お母さんはどうなってしまうんだろう。今も精神的に不安定で入院を余儀なくされているお母さんを、一人日本に残してはおけない。
それに加えて、未だに玲奈の私を受け入れられていないお母さんが、例え退院したとしても、このアパートに玲奈がいないと知ったら、きっとまたおかしくなってしまうに違いない。
明日はお母さんがいる病院に荷物を届けに行くことになっている。そのときは仁花として生きていくことを伝えようと思っていたけれど、そのせいでまた不安定になってしまったらどうしよう。
「……っ」
やっぱり不安はどこまでも底なしだ。
私はそっとベランダの扉をしめて、誰もいない家で一人眠りについた。
*****
「お母さん、頼まれてた荷物持ってきたよ」
「あぁ、ありがとう。『玲奈』ちゃん」
「……」
弾むような明るい挨拶を返してくれたお母さんに、『玲奈』と呼ばれて思わず俯いていた顔を上げた。一般病棟に移ったお母さんは、顔色もよくて、順調に回復しているかのように思えた。
お医者さんもこの調子であればもうすぐ退院できると教えてくれた。
……もしかしたら、この勢いでお母さんに打ち明けられるかもしれない。
「あのね、お母さん」
そんなことを思ったのが、間違いだった。
「……あなたは『玲奈』ちゃん、よね?」
「え?」
「私の目の前にいるのは、『玲奈』ちゃんだよね?」
もう玲奈のフリをしていないことを悟られたのだろうか。お母さんはこれまで『玲奈』に見せていた表情とは打って変わって、まるで先手を打つかのようにそう言って鋭い視線をこちらに向けた。
その目を見た瞬間、怒りと悲しみ、これまでの不満やわだかまりが一気に込み上げた。
「なん、で?」
玲奈を失って、悲しいのは分かるよ?寂しい気持ちだってもちろん理解できる。だけど、みんないつかはそれらを乗り越えていかなくちゃいけないんだよ?
私だって悲しかったよ。今だって、ふと玲奈の笑顔やこれまでの玲奈の言葉や表情が蘇ってきては泣きそうになるときだってある。それはきっとお父さんだって同じ気持ちだと思う。
だけど、それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。
玲奈の分まで幸せにならなくちゃって、楓くんが教えてくれたんだ。
なのに、どうしてお母さんはいつまで経ってもあの日から抜け出せずにいるの?いったいいつまでそうやって泣いていれば乗り越えられるの?
「……お母さん、私、『玲奈』じゃないよ」
玲奈を失って、お母さんもつらかったよね。家族がバラバラになったとき、一番に玲奈の手を取るくらいに好きだったもんね。
でもそれは私だって同じなんだよ?だけどお母さんはそんな私になにをした?
私を『玲奈』だと言い張って、現実逃避をしたよね。事故で亡くなったのは『仁花』のほうだって、みんなに言って回ったよね。
『仁花』の人生をめちゃくちゃにした、だなんて言わない。それまでの私の人生は、取るに足らないような変わり映えのしないものだったから。
むしろ『玲奈』としての人生を経験したこの一年間は、本当にいろんな経験をすることができたから、今はそれを心から玲奈に感謝することだってできている。
だけどお母さんは、少しずつでも前に進もうとしている『私』に向かって、まだそんなふうに私のことを『玲奈』って呼んで、引き留め続けるつもりなの?
いったい何をすれば、いつになればお母さんは玲奈の死を乗り越えて前を向いてくれるようになるの?
私、そのために頑張ったんだよ?一生懸命、お母さんが少しでも安定するよう玲奈になりすました。たった一年のことだったけれど、慣れない家事も、料理も、お母さんの体調のこともぜんぶやってきたんだよ。
それなのに、どうして……っ!?
「何言ってるの?あなたは『玲奈』でしょう?」
「──ちがう!私は玲奈じゃない!私はずっと、仁花なの!」
「……っ!!」
「私はもう、玲奈のフリはしない!私は仁花!事故に遭ったのは私じゃない!玲奈なんだから!」
これまでずっと押さえてきた言葉たちが、次々と喉を通って溢れ出てきてしまう。
ダメだ、これ以上言っちゃダメだ。そう思っていても、もう押さえることができなかった。
「お母さんは玲奈が事故に遭ったあの日、私を殺したんだよ!?私は生きているのに!お母さんの目の前にいたのに!お母さんは私を玲奈だと言って、仁花を殺したの!!」
「や、めてっ」
「自分の母親にそんなこと言われて、私がどんな気持ちだったか想像したことはあるの!?」
「聞きたく、ない」
「ずっと私を否定されているみたいで、どれだけ苦しかったのか、私の気持ちを考えてくれたことはある!?」
「──もう聞きたくない!!」
ベッドの布団を頭まで被って、お母さんは涙を流しながら耳を塞いで隠れた。
私も無意識のうちに、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていく。ポタリ、ポタリと病室の床を弾く涙は、これまでの私のありったけの思いの丈だった。
「片瀬さん!?いったいなにをしているの!?」
病室から私の大きな声が聞こえたのか、看護師さん二人が急いでこの場へ駆けつけた。私はすぐにお母さんの元から離されて、お母さんは状況を尋ねている看護師さんを無視して、頑なに布団の中から出てこようとしない。
「ほら、仁花ちゃん。とりあえず病室か出て落ち着こっか」
「……はい」
こんなふうにお母さんに伝えるつもりじゃなかった。でも、もうこれ以我慢ができなかった。
これでもしもまたお母さんの体調が悪くなってしまったら、どうしよう。怒りに任せて吐き出したあとに生まれてきた感情は『後悔』そのものだった。
せっかくお母さんの体調が回復していたのに。私の、せいだ──。激しい後悔に襲われながら、看護師さんに付き添われて病室をあとにしようとしたとき。
「──ごめんね、『仁花』」
「……!?」
お母さんのくぐもった声が、私の耳元に届いた。
慌てて振り向くと、お母さんは布団を被ったまま微かに体を震わせている。でも、今ちゃんと私のことを『仁花』と呼んでくれた。いつぶりに私の本当の名前を呼ばれたんだろう。
両親が離婚して離れ離れになったときから、私は一度もお母さんに会えずにいた。
お母さんは何度も『今日こそ会いにきてね』とメッセージを送ってきてくれていたけれど、それでもどうしても、玲奈の手を取って出ていってしまったあの光景が忘れられなかった私には、二人で会うことが怖くてたまらなかった。
『あなたは要らない子』って面と向かって言われたらどうしようって、そんな不安が拭えずにいた。例えお母さんに会いに行ったとしても、玲奈のことを可愛がる姿なんて見たくなかった。
「大丈夫?仁花ちゃん?」
「今、お母さんが私のことを『仁花』って……っ」
「うん、呼んでたね。多分だけどさ、仁花ちゃんのお母さんも本当は分かってるんじゃないかな。いなくなっちゃったのは玲奈ちゃんのほうだって。でもきっとまだ心が追いついていないだけ。だから、大丈夫だよ仁花ちゃん」
となりにいた看護師さんにそう言われて、余計に涙は止まらなくなってしまった。
でも、それはもう悲しいだけの涙じゃなくなっていた。
*****
「──じゃあ、一緒に行こうか。海外」
「え、いいの?」
「もちろんだ、仁花。仁花が本当に望むこと、もうなんでもやっていいんだ」
見慣れたカフェの店内で、テーブルの上には同じく見慣れたアイスカフェラテと、向かい側にはホットコーヒーが置かれている。
今日はお父さんと会う日ではなかったけれど、どうしても話したいことがあると連絡を入れると、お父さんは仕事を差し置いてすぐに会う日を設けてくれた。
そして一緒に海外へ行ってみたいと伝えると、お父さんは快くそれを応諾してくれた。
「でも、お母さんを一人残してはいけない、よ」
それが一番の懸念点だった。昨日の私との面会のせいで、お母さんはまた病院のベッドから出られなくなってしまったのだと、一緒にいてくれた看護師さんから連絡があった。
お母さんが落ち着くまで面会もできなくなってしまったから、きっとまた相当不安定になってしまったのだと思う。
「それなら大丈夫だ。お父さんも日本と海外を行ったり来たりするから、そのときは母さんの様子を見に行くし、それに普段は母さんの妹家族が面倒を見てくれることになったから」
「そう、なの?」
「あぁ、だから心配はいらないよ。仁花」
それなら少しだけ、安心できるかもしれない。どのみち『仁花』に戻った私がお母さんのそばにいたところで、きっともう以前のように支えてあげることはできない。
むしろ玲奈と瓜二つの私の姿を見て、余計に悲しませてしまうだけのような気さえするから。
「だから、仁花。仁花はもう、自分のことだけを考えていたらいいんだよ」
「え?」
「玲奈がいなくなってから今まで、本当にお父さんたち大人が不甲斐ないせいで、仁花にはたくさん迷惑をかけてしまったと反省しているんだ。だからお父さんは、これから仁花がやりたいこと、叶えたい夢、その全部を応援させてほしい」
「別に、そんな……っ」
「本当にごめんな、仁花」
俯きながらそう言ったお父さんを見て、思わず泣きそうになるのをどうにかグッと堪えた。最近の私はよく涙を流してしまう。
お父さんのことを許すだとか、許さないだとか、そんな感情はもうどこにもなかったただ、お父さんがちゃんと『仁花』と向き合ってくれていることが、何よりも嬉しかった。
「──仁花ちゃん」
「え?」
「はいこれ」
そんな嬉し涙を堪えていると、横からスッと私たちのテーブルに置かれたのは、このお店の一番人気を誇っているキャロットケーキだった。それを差し出してくれたのは、他でもない……ここ、カフェ『LinLin』の店長と奥さんの志織さんだった。
玲奈が生前、アルバイトをしていたこのお店。私が玲奈として生きていたときも、週に三回のペースで働きにきていたお世話になったカフェだった。今日はそんな二人に本当のことを話して改めて謝罪をしようと、お店が落ち着く時間帯になるまでお父さんと待っているところだった。
「あの、今私のことを『仁花』って……」
「ふふっ、なんとなくだけど分かってたのよ?玲奈ちゃんからよく仁花ちゃんの話は聞いていたしね」
「!?」
「何か事情があるのかなって思ってたから、話を切り出してくれるまでは待っていようって二人で話し合っていたんだよ」
「そう、だったんですか」
「いろいろ苦労したんだね、仁花ちゃん」
店長も志織さんも、最後まで『仁花』にもいい人だった。和佳やみのりに話したことと同じように、玲奈と私のこれまでの経緯を伝えると、二人は玲奈の死をとても悲しんだ。
そして私にも『これ以上謝らなくていい』『これからは仁花ちゃんの思いのまま楽しく生きてね』と言葉をかけてくれた。
私はこれまでずっと、自分に優しくしてくれる人なんていないと本気で思っていた。『玲奈』じゃない私には誰も用はない、和佳やみのりのような友達もいなければ、知り合いすらも滅多にいないような狭い世界で生きていた私には、手を差し伸べてくれる人も、優しい声をかけてくれる人もいなかった。
だけど、今は『玲奈』を通して優しい笑顔と言葉を向けられている。それがこんなにも嬉しいことだと初めて知った。
「またいつでもきてね、仁花ちゃん」
「仁花ちゃんの大好きなカフェラテ、用意するからね!」
ずっと『玲奈』として働きにきていたお店を、今は『仁花』として帰っている。
なんだか少しずつ私が認められているみたいで、心が満たされていくのを染み染みと感じていた。
「送ってくれてありがとう、お父さん」
「明後日、お父さんの家に戻ってくるんだったよな?荷物はまた取りに来るから、玄関の近くに寄せておいてくれるか?」
「うん、分かった」
「じゃあ、また明後日な」
「うん、またね」
すっかりと日も暮れて、蝉の鳴き声も落ち着いていた夕方。
私はお父さんの車でアパートまで送ってもらって、今日も誰もいない部屋へ入っていく。今ではすっかり聞き慣れた玄関のギギギと鳴る嫌な音を耳で捉えたとき。
「──仁花ちゃん!」
「……!?」
突然ひょいっと現れたのは、私服姿のみのりだった。
そして、そのとなりには和佳もいる。
「え?あの、どうしてここに……?」
予想もしていなかった状況に、思わず手に持っていたアパートの鍵を落とした。だって、もう二人には二度と会えないと思っていたから。
要件はいったいなんだろう。また何か言われるだろうか。玲奈のこと?それとも私のこと?頭の中はそんな疑問で一気に埋め尽くされていく。
「仁花ちゃんに質問です!明日はなんの日でしょーか!」
けれど、そんな私の元へ届いたみのりの声はとびきり明るく跳ね上がっていた。
「え?あ、明日?えっと、明日、明日はなにか……」
久しぶりに聞いたみのりの声に、込み上げてくる感情を抑えながらも、彼女の質問に頭をフル回転させて考える。
けれど、明日がなんの日かさっぱり分からない。和佳とみのりの誕生日はまだ先だし、誰かの記念日でもないはずだ。
と、なると──。
そこで思いついたのは、ただ一つ。
「──あんた、あれだけ練習してきた文化祭の演劇まで放り投げる気?」
腕を組んで、チラリと横目に私を見ながらそう言ったのは和佳だった。
「あ、ちょっと和佳!仁花ちゃんに答えてもらう質問横取りしないでくれない!?」
「きっと忘れてたんだよ、文化祭のことなんて」
「わ、忘れてないよ。ちゃんと覚えてたよ……」
「さぁ、どうだか?」
「ちょっと、もう!和佳ってばやめてよね!」
和佳とみのりのそんな些細なやり取りでさえ、ずいぶんと懐かしく感じてしまう。でも、私の元へ来てくれた理由が文化祭のことだなんて、学校で何かあったのだろうか。
私はもう、夏休みが終わってからずっと玲奈の学校には行っていない。お父さんに玲奈のフリをしていたことがバレて学校に通えなくなったと話すと、『お父さんが学校側に説明するから、あとは任せなさい』とだけ言って、そのあとのことは何も聞いていない。
きっと校長先生にこれまでの経緯を話した上で、きちんと玲奈の名前で除籍してもらったのだと思う。
「クラスのみんなはまだ何も事情を知らないから、ずっと玲奈のこと心配してるんだよね」
「え?誰にも言ってないの?」
「うん。和佳と二人で相談してね?玲奈と仁花ちゃんのことはしばらくの間、黙っておこうって決めたの」
みのりも和佳も、すでに私がこれまで玲奈のフリをしていたことを説明しているものとばかり思っていた。
そういえば、私が仁花として生きていくと決めた日から、玲奈のスマホはもうずっと電源を入れていない。あのスマホの中を見てしまうと、きっとまた未練が残ってしまうと思ったから。
和佳やみのりとのグループトーク、クラスメイトたちとの何気ない会話。どれも私が『仁花』に戻るためには捨てなくてはならないものだった。
「言うわけないでしょ、混乱させるだけだし。クラスメイト全員が全員、今回のことをすぐに受け入れられるわけじゃないし」
「和佳ってば、言葉がきついよ!」
「だから、あの学校ではまだあんたは『玲奈』なの。これまで一年以上も玲奈のフリを続けてきたんだから、最後はきれいに玲奈としてケジメをつけるべきじゃないの?」
「……!」
和佳のその声は、私に対する怒りでも、嫌悪でもなかった。
それは彼女が最後まで『玲奈』のことを思って言っている言葉なのだとすぐに理解できた。
「あのね!前も言ったと思うんだけど、玲奈ってこの文化祭に本気でかけてたの!一年のときからずっと『三年の文化祭の大舞台は絶対主役を勝ち取って成功させてみせる』って言ってて。だからせめて、この演劇に『玲奈』として出てもらえないかなっていうお願いをね、今日は仁花ちゃんにしに来たの」
少し気まずそうにキュッとくちびるを締めながら私の様子を伺うみのり。
それは和佳とみのりがはじめて『私』に何かを打ったえかけるものだった。『玲奈』のために、『仁花』自身にお願いをしに来たんだ。
「で、でも私、もう学校にはいけないかもしれない。お父さんがきっとこれまでのことを学校に説明してるはずだから」
「あ、それなら大丈夫!私たち、校長先生にちゃんと事情は説明して納得してもらえたから!」
「え?」
「でも説得するのに時間がかかっちゃってね!だから仁花ちゃんに言いにくるのも、文化祭の前日になっちゃったの!」
「そう、なんだ」
「最後は和佳がゴリ押しでさ!外部から一人演劇の助手を手配するっていう形でオッケーを出してもらえたの!」
「別にあんたのためじゃないんだからね」
「(私がもう一度、『玲奈』として……あの学校に?)」
二人がこうしてわざわざ私にお願いをしに来てくれたのだから、できることなら引き受けてあげたい。なにより玲奈が一番楽しみにしていたという文化祭の舞台を完成させてあげたいとも強く思う。
けれど、私はもう何日も役の練習をしてきていない。セリフは頭の中に入ってはいるけれど、大きな舞台に立って主役を張れるほどの準備ができていない。
「……役を演じられない、なんて言わないでよね」
どうしよう、どうしたらいいだろうと悶々と考えていたとき、まるで私の心の中を見透かしたように和佳の声が飛んだ。
「あれだけ完璧に玲奈を演じてきておいて、演劇の役を演じることができないとは言わせないから」
「……っ」
「どうかな、仁花ちゃん。もう一度だけ、『玲奈』として舞台に上がってくれないかな?」
「──っ」
玲奈がずっと、楽しみにしていたという舞台。
……ねぇ、玲奈。
私、最後にもう一度だけ玲奈になってみてもいいかな?
きっと玲奈のように、うまく役に入り込んで演じることはできないと思うけど。でも、『玲奈』としての最後をきれいに締めくくってくることくらいはできると思うから。
玲奈は今までいろんな話をしてくれたよね。
いったいどこからそんなにもネタが出てくるんだと不思議に思っていたけど、実際に私が『玲奈』になってみて、その理由が分かったような気がするよ。
私は今まで、ほとんど人に話せるような面白い話題も、楽しいネタもなかったけど、もしもまた、玲奈と再会することができたら、そのときはうんと盛り上がれるような話ができるように準備しておくね。
だから──。
「分かった、出るよ。演劇」
どうか、私のことを見守っていてね。玲奈。
*****
久しぶりに袖を通した、玲奈の制服。淡いブルーのワイシャツに、濃いネイビーブルーの制服。襟に巻く真っ赤なリボンが特徴的な制服は、今日は少しだけ私に馴染んでくれているような気がする。
「──玲奈ぁ!今まで何やってたの!?」
「ウチらがどれだけ心配したと思ってんの!?」
「来てくれて本当によかった!本番、いけそう!?」
文化祭当日。
久しぶりの、クラスメイトの顔ぶれを見ただけで涙がこぼれ落ちそうになった。
みんなはすでに崩壊寸前の多忙を極めていて、忙しなくバタバタしている中でも、決して止むことのない『玲奈』を心配する声に、私は大きく頷いた。
「よっし!演劇部隊、体育館に行くよ!みんな準備してね!」
今回三年二組の演劇総監督になっている笹原さんの掛け声で、演者や照明担当、道具係になっている人たちが一斉に教室をあとにする。
その掛け声に、私の緊張や不安はより一層濃くなっていく。
「うわぁ、私は出演しないのにドキドキしてきた!頑張ってね、仁花ちゃん!」
「ちょっとみのり?名前、『玲奈』でしょ?」
「あ、そうだった!ごめん!」
三年の劇が一組から順番にはじまっている頃。舞台裏では次の出番を待つ私たちのクラスが忙しく準備に努めている。
いつの間にか用意されていた衣装を着終えて、ファッション科の人たちにヘアメイクもしてもらった私は、あとは本番を待つのみ。舞台袖から観客席をこっそり覗くと、予想以上にたくさんの人たちで賑わっていた。
「す、すごい人。演劇ってこんなに人気なんだ」
「うちの学校の文化祭は昔から有名だし、特に三年の演目はすごく注目されちゃうんだよね。文化祭ウィーク期間はいろんな人が取材にもくるよ」
「そんなことよりあんた、セリフはちゃんと覚えているんでしょうね」
「うん、大丈夫だよ」
和佳の問いかけに、小さく息を吐いて目を瞑った。本当は緊張と不安に襲われ続けている私は全然大丈夫ではないけれど、みのりと和佳がずっとそばにいてくれているおかげで、なんとか持ち堪えられそうだ。
夏休み、毎日のように和佳とみのりの三人で練習していたあの頃を思い出した。『玲奈』として生きることに不安を抱えながらも、それに勝るほど楽しかった……あの日々。密かに思い出して、小さく微笑んだ。
いつか、私と玲奈の入れ替わりのことはクラスメイトにも伝わるだろう。時期を見て和佳とみのりが話せるタイミングで話すと言っていたから。
だから、これは私が吐く最後の嘘──。『玲奈』として生きる、最後の日。
「もうすぐ一組の劇終わるよ!そろそろあたしたちの出番だからね!」
笹原さんの呼びかけに、みんなは一斉にざわつき始めた。私も同じようについて行こうとしたとき、ポケットに入れたままだったスマホがバイブした。画面を確認すると、そこには楓くんから一件のメッセージが入っていた。
「(楓くん?どうしたんだろう)」
集団から抜けてひっそりとメッセージを確認する。
《楓:今日、文化祭の演劇頑張ってね。俺も実はどこかで見てるカモ…?》
「え!?」
「うん?片瀬さん、どうかした?」
「あ、いや、なにも……」
楓くんがきている……?だけど今日は平日で、他の学校の人たちは普通に授業があるはずだ。それに文化祭が一般公開されるのは文化祭ウィークの後半だけだと聞いていた。この演劇は卒業生や関係者、それから保護者だけが見られると先生が言っていたのに。
「(いったいどうやって来たんだろう)」
「片瀬さん!早くこっち来て!最終確認するから!」
「あ、うん!」
慌ててスマホをカバンの中にしまって、劇に集中する。
玲奈、見ててね。
玲奈のために、私、頑張るから──。
真っ暗な舞台に立って、幕が上がるのを待った。不思議と緊張や不安はもうなくて、頭の中はこれまで『玲奈』として過ごして来た一年間の思い出だった。
最初はまったく分からなかった、玲奈が取っていた専門科目の勉強。
和佳とみのりに対する接し方にも戸惑って、手探りの毎日だった。
玲奈はみんなと仲が良かったから、クラスメイトの名前を全員覚えて、喋り方や動作の一つ一つに気が抜けなかった。玲奈が使っていたメイク道具で、それまでやったことのなかった化粧というものに、何度戸惑って家で練習し続けただろう。
自分がいたころの学校とは正反対で、親睦会に球技大会、マラソン大会に百人一首大会、ことあるごとに『大会』と名をつけて学校全体で盛り上がる行事の多さに戸惑いながらも、それでも少しずつ時間が経つにつれて楽しいと思えるようになっていた。
きっと、私の人生で一生忘れることのできない一年になることは間違いない。
ありがとう、玲奈。
私にこんな時間を与えてくれて。
玲奈、聞こえてるかな。
私、幸せになってみせるよ。
玲奈の分まで、ちゃんと幸せになるからね。
これまでの思い出を一つずつ思い出し終えたときには、大きな拍手に包まれながらゆっくりと幕が下ろされていた。
他の演者たちと手を繋いで、この大きな舞台の真ん中で深々とお辞儀をしながら、私は一つでは意味付けできない涙を流していた。
*****
「──お疲れ、仁花。めちゃくちゃ良かったよ!俺ちょっと感動したんだけど」
「楓くん!いったいどうやって来たの!?」
どうにか最後まで舞台をやり切った私は、クラスメイトたちとその喜びと達成感を存分に味わった。そして着替えや準備を終わらせて、今は他のクラスの演劇を鑑賞している。
けれどそのあと再び楓くんから『ちょっとだけ会えない?』とメッセージが届いていたから、私は誰もいない昇降口の付近で彼と待ち合わせをすることにした。
「実は仁花のお父さんにお願いして、同伴させてもらったんだよね。保護者の同伴なら入場を認めてもらえるらしくて」
「そ、そうだったんだ。確かお父さんは今日観に来るって言ってたから……って、楓くんって私のお父さんと結構仲良いよね。よく話してるみたいだし」
「まぁね。こっちは好きな子の晴れ舞台を見ようと必死ですから」
「……っ!」
堂々と私に向けてそう言った楓くんに、ドキッとせずにはいられない。赤くなっているであろう顔を隠すように、グッと下を向いて視線を逸らした。
楓くんから告白されて、驚いたけれどすごく嬉しかった。返事はまだいらないと言われているけれど、本当にそれでいいのだろうかとずっと考えていた。こんな状態のまま、それでも変わらず私に優しく接してくれる彼に申し訳ないとさえ思っている。
「……いいんだよ、仁花。このままで」
「え?」
ときどき、彼はエスパーか何かじゃないだろうかと疑ってしまうときがある。それくらい楓くんはいつも私が欲していた言葉やずっと探していた言葉を差し出してくれる。
そんな彼に、いったいどれだけ救われてきただろう。
「告白の返事、したほうがいいんじゃないかって思ってるでしょ?」
「ど、どうして分かるの?」
「ふっ、仁花は思ったことが全部顔に出ちゃうんだよ。かわいいね」
「なっ、ちょっ、やめてよ!かわいくないから……っ」
突拍子もないことを突然言い出す楓くんに、慌てて止めに入った。そんな私を見て彼はまたお腹を抱えながら笑う。
私と接する時間が増えるにつれて、楓くんはどんどん私に甘くなっているような気がする。こんなふうに真っ直ぐすぎるくらいの言葉を向けてくるのは、海外生活が長かったせいなのかな。
「中学のときさ、海外行きが決まって仁花と離れるとき、好きだって言えなかったことをずっと後悔してたんだよね」
「え?」
「あのときは恥ずかしさとか、もしも振られたら嫌われたまま一生会えなくなるんじゃないか、とか、そんなことばっかり頭をよぎらせていて、それならいっそ友達として離れたほうが無難でいいやって思っちゃってて」
私が楓くんのことを嫌うなんてありえないよ。
でも、当時の私は今より何倍も人見知りを拗らせていて、友達がいないことや玲奈に対しての嫉妬心で心が埋め尽くされていたから、きっと楓くんの告白にも素直に頷けなかったかもしれない。
玲奈のほうが仲がいいのに?って。他にもたくさん女の子がいるのに、もしかして私のことを揶揄っているの?って。そんなふうに卑屈な捉え方しかできなかったかもしれない。
「それからはずっと俺の中に後悔だけが残ってた。もしもあのとき仁花にちゃんと気持ちを伝えていたら、そのあとに起こる玲奈の一件のことも、もしかしたら俺に相談することだってできてたんじゃないのか、とかね」
「……」
「俺はもうそんな後悔はしたくない。だから思ったことはなんでも伝えるようにしてんの」
「そう、なんだ」
どんなことでも器用でそつなくこなしていく楓くんにも、そんな後悔があるなんて知らなかった。きっとどんな人にだって、後悔や、つらいことや、不安なこと、誰にも言えないことはあって、それを乗り越えるために日々努力している。
私が演じたヒナコという役も、記憶を失ってどうすることもできない境遇の中で、過去に囚われず上を向いて生きていくことを決意した。そう決意するまでにはたくさんの困難や苦しい出来事があって、心が折れてしまいそうなシーンもあった。
それでもヒナコは、周りの人たちに支えられながらどうにか立ち直ったんだ。
「(だから私、ずっとこの役に魅せられてたんだ)」
共感、というよりは羨ましかったのかもしれない。
ヒナコがちゃんと未来に向かって走り出せたことが、羨ましかったんだ。
「だから仁花も、ここから先の人生はなるべく後悔しないように、自分の心に素直に従ってほしい」
「……うん」
「もう、仁花の人生はきみだけのものなんだからね」
まるで私に言い聞かせるようにそう言いながら、楓くんはまた私の頭をポンポンと二度撫でた。
「おーい、そこにいるのは誰だぁ?今日は他校の生徒は入場禁止だぞ?」
そのとき、タイミング悪くこの場を通りかかった先生の注意が飛んでくる。
私と楓くんは同じように肩をビクつかせて、慌てて階段を降りてその場をあとにした。
「やっば!俺帰るね、仁花!」
「あ、う、うん!観に来てくれてありがとう、楓くん!」
下駄箱まで猛ダッシュで降りて来た私たちは、そのまま嵐のようにお別れを告げる。
なんだかその姿が妙におかしくて、私たちは気が抜けたように笑い合った。
「もうこれで、『玲奈』を演じるのも終わりだね。仁花」
「……うん」
「寂しい?」
「うん、少しね。でも、もう大丈夫」
私は私でいることにしたから。
玲奈のように器用には生きられなくても、後悔のない人生を送ると決めたから。
「──今までお疲れ、仁花」
楓くんは最後にそう言葉を残して、手を振りながら走って校舎を去っていった。
「……お疲れ、私」
*****
「もう帰っちゃうの、仁花ちゃん?」
「あ、うん。私、明後日にはお父さんと一緒に海外に行くことになってるから、その準備をしなくちゃいけなくて」
三年生のすべての演劇を鑑賞し終えたクラスメイトは、それから各自、明日の日程に向けて準備をしていた。
私は楓くんと別れてすぐ、誰もいない教室へ戻って帰り支度をはじめていると、あとから和佳とみのりがやって来て声をかけてくれた。
「そっかぁ。じゃあ演劇の順位発表のときはもういないんだね」
「そうだね。順位は少し気になるけど、でも無事にやり切れたから私はそれで満足だよ」
演劇の順位発表は文化祭ウィークの最終日に行われることになっている。だから結果を知ることはできないけれど、私の中で順位はあまり関係なかった。
クラスメイトが、和佳とみのりが、そして玲奈が喜んでくれたらそれだけでもう十分だった。
「海外かぁ!いいなぁ、どこの国に行くの?」
「えっと、まずはオーストラリア、だったかな。そのあとヨーロッパのほうにも行くって言ってたような」
「え、すごいね!羨ましい!!私も行ってみたいんだよねー!また三人でどこかの国でご飯食べようね!」
「……っ」
みのりの何気ない発言に、心臓が大きく跳ね上がった。
また、三人で……?玲奈じゃない、私と?例えそれがみのりの気遣いの言葉だったとしても、私にとってはまた泣いてしまいそうになるくらい嬉しい言葉だった。
「うん、そう……だね」
「ところでさ。『仁花』ってパスポート取れんの?」
「え?あの、今名前……」
「そんなところ反応しないでよ、恥ずかしいヤツ。ただみのりに言われただけだから、あんた呼びは可哀想だって」
和佳がはじめて私の名前を呼んでくれた。
どうやら二人は確実に私を泣かせにきているらしい。
「だって仁花って世間から死んだことになってるんでしょ?」
「ちょっと和佳!?言い方ってものがあるでしょ!?」
「だ、大丈夫だよ。えっとね、お父さんがあの報道をみたあとに警察とかお医者さんに申告してくれてたみたいで……。でもニュースや新聞はいちいち訂正の記事を書いてはくれなかったらしいんだけど」
和佳は私のことを絶対に許さないと言っていた。私もそう言われて当然のことをしたから、和佳とこうして普通に会話ができている今が、なんだか奇跡のように思えて仕方ない。
みのりと一緒に今もそばにいてくれるということは、少しは喜んでもいいのだろうか。
「……じゃあ、私もう行くね」
「あ、もう行っちゃうの!?また絶対会おうね!連絡もするからね!」
「うん、ありがとう。みのり」
大袈裟に大きく手を振ってくれるみのりと、それを呆れたように見る和佳。彼女たちにまた会えることがあったとしても、それはきっと何年も先のことになるだろう。
胸が張り裂けそうなくらい、寂しくて仕方ない。私たちは決して普通の友達ではないけれど、それでも私は、和佳とみのりのことを何よりも大切な存在だと思っている。離れていても、それはずっと変わらない。
だから最後にこうして一緒に話せて本当によかった。最後のお別れも言えないまま縁が切れなくて、本当によかった。
私は荷物を持って、教室をあとにする。
この学校とも、本当に今日でお別れだ。
ここを卒業するとき、私はどんな未来を歩んでいるんだろうといつも思っていた。あのときは明るい未来なんて一つも想像できなくて、自分の将来さえお父さんに尋ねなければならないほどだった。
けれど、卒業はできなかったけれどこうしてこんなにも明るい気持ちでこの学校を離れることができるだなんて、いったい誰が想像できただろう。
「──仁花ぁ!」
「え?……和佳?」
「仁花が教えてくれた塾、あたし今通ってるから!」
「!?」
突然うしろから聞こえた、和佳の大きな声。
振り向くと、和佳もみのりはなぜか涙を流していた。
「あんたが教えてくれた勉強法も、全部実践してるから!」
「……和佳っ」
「あたし、大学に入ったらオーストラリアに留学するつもりだから、そのときは案内してよね!」
「う、うん!もちろん!」
「じゃあ、またね!!」
こんなに嬉しいことがあっていいのだろうか。今、私は心から幸せだと断言できる。
『玲奈』じゃない『私』とは友達になれないとばかり思っていた。実際にまだ、友達と呼べるには烏滸がましいかもしれない。でも、こうして『またね』と言って次に繋げてくれるその言葉は、私の未来を輝かせてくれる。
二人に釣られて、私も同じように手を振った。その分だけ、ここを去るのが名残惜しくてたまらなかった。
この学校を出たら、私は『仁花』に戻る。
そしてもう二度と、『玲奈』と名前を呼ばれることはないだろう。
でも、それでいい。それが正解だから。
ローファーに履き替えて、学校を出た。
それと同時に、私は『玲奈』としての人生を終えた──。
*****
「お疲れさま、仁花」
「ただいま、お父さんと……え?お母さん?」
学校を出てすぐ、お父さんが車で待ってくれている場所まで向かうと、そこにはお父さんの他に、車椅子に乗っているお母さんがいた。状況がまったく分からない私に、お父さんは説明を続ける。
「母さんがな、仁花の舞台を見たいって連絡をくれて一緒にみようってなったんだ」
「どうして、舞台のことを?」
「お父さんが誘ったんだ。玲奈が楽しみにしていた舞台を、代わりに仁花が出てくれるぞって。そしたら見に行きたいっていうから、病院の許可をとって一緒にきたんだ」
あの舞台の観客席にお母さんもいただなんて知らなかった。たまにアパートで一人小声でセリフの練習をしたり演劇の勉強をしたりしていたけれど、お母さんがそれに興味を示すことは一度もなかった。
「上手だったね、仁花」
「……!」
「それから、ずっと玲奈のフリをさせてしまって……ごめんなさい」
「お母さん……」
「お母さんね、すごく心が弱いから……玲奈がいなくなったことを、受け入れられなかったの」
お母さんが『私』と二人で会話をするのは、もう何年ぶりだろう。
もう平気なのだろうか。お母さんが抱えていた心の病は、もう治ったの?
「(そんなわけ、ないよね。今だってお母さんの顔、真っ青だし)」
お父さんは何かを察したように、そっとその場から去っていく。
お母さんと二人きりなるのは、なんだか少し緊張した。
「玲奈ちゃんがいなくなって、一人になるのが耐えられなかった。寂しさとか、喪失感とか、どうやって気持ちを整理すればいいのか分からなくなっちゃったの」
「……うん」
「するとだんだんね、仁花が玲奈ちゃんに見えてきたの。仁花を見るたびに、玲奈ちゃんがいるんだって安心できて、そのときだけは苦しまずに済んだの。でも、そのせいで仁花を傷つけてしまったよね」
車椅子に乗ったお母さんは、どんどん俯いていく。これ以上無理をさせるわけにはいかないと、『もう何も言わなくていいよ』と声をかけたけれど、お母さんは首を振って言葉を続けた。
「ごめんね、仁花。本当に、ごめんなさいっ」
「私のほうこそ、ごめんね。ちゃんと玲奈の真似ができなくて。玲奈になりきれなくて」
「違うのよ、仁花」
「あの日事故に遭ったのが私じゃなくて、ごめん。あの日はたまたま玲奈と“入れ替えっこ”っていう遊びをしちゃったせいで、お母さんの大好きな玲奈を失うことになって、本当にごめんなさい」
「──違うのよ、仁花!」
「何も違わないよ!お母さんは私より玲奈のほうが好きだった。それだけのことだよ。別に隠さなくても私は平気。だから嘘はつかないでよ」
私のことも同じように好きだというなら、どうして家を出ていくことが決まったあの日、一番に玲奈の手を取ったの?
私だって一緒に行こうと言ってくれたらよかったじゃない。
「違うの、仁花。お父さんと離婚するときに、子供は一人ずつ面倒を見ましょうって協議したの。お母さんが玲奈ちゃんをつれていくことにしたのは……あの子がお母さんにそっくりだったから」
「え?」
「玲奈はわたしの性格とそっくりだったでしょ?感情の起伏が激しくて、思ったことはなんでもやってみなくちゃ気が済まなくて、ケラケラ笑うときもあれば、怒ると手がつけられなくなるときもある。昔のお母さんとそっくりだったの」
そうだ。確かに玲奈は一度怒ると徹底的に相手を問い詰めるところがあった。
私が小学三年のとき、私のことを「玲奈のそっくりさん」と言って揶揄ってきた男子のことを思い切り蹴飛ばして大問題になったことがあった。そのほかにも玲奈は負けず嫌いで、楓くんともいつも勝負をし合っていた。
「だから、あの子のことはお母さんが守ってあげなくちゃって思っていたの。その点、仁花はお父さんに似ていつも冷静で、お勉強ができて、芸術性のある頭のいい子だったから、お父さんと一緒にいたほうが絶対にいいって、思ったの」
「……」
「絶対に仁花を嫌いだったからつれて行かなかったんじゃないの」
「……っ」
「ごめんね、ずっと言えなくて」
「……!」
「ごめんね、こんな弱い母親で」
「おかあ、さんっ」
心の中にあったもうひとつの大きなわだかまりが、少しずつ溶けていくのが分かった。もしかしたら私は、もっとお母さんとの時間を作るべきだったのかもしれない。
ずっと、お母さんには愛されていないと思っていた。お母さんには玲奈さえいればいいんだって、ずっとそう思っていた。
でも、違ったんだ───。
私、ちゃんとお母さんに認められていたんだ。
「お母さんはもう一人で大丈夫だから。これからは仁花のやりたいことを思う存分やってね」
「──お母さんは一人じゃないよっ。私だって、お母さんの子供だよ?私がいるじゃん」
「仁花……っ」
「お母さんは一人じゃない!私がいる!だから、だから……っ」
もう泣かないでよ、お母さん。
玲奈はいなくなってしまったかもしれないけれど、私はまだこうしてお母さんの目の前にいる。私がこれからどこにいても、私のお母さんはこの世でたった一人しかいないんだから。
正直、お母さんのことなんて大嫌いだと思うこともたくさんあった。私のことを『玲奈』と呼ばれるたびに、小さな『嫌い』がたくさん積み重なっていた。
でも、不思議だ。
時間にすればたった数分のこの会話で、すべて許せてしまった。きっとそれは、私とお母さんが『家族』だからだよ。
だからこれからは、もっとお母さんとの絆を深めていきたい。別に直接話すだけじゃない。どこにいても手紙を書こう。行った先々で、お母さんが喜びそうなお土産を送るよ。私たちにはそういう時間が必要だと思った。
「ありがとう、仁花」
「……ううん」
「体には、気をつけてね」
お母さんを病院へ送って、そのままお父さんと家に帰った。一年ぶりの本当の私の部屋は、なんだかとても殺風景に思えた。
きっと玲奈の部屋を見て来たせいだろう。ベッドと勉強机とたくさんの教材と絵を描く画材。クローゼットの中には必要最低限の服だけが七着かけられているだけだった。
「(そうだ、パッキングしないと)」
自分の部屋に荷物を置いてベッドの脇に座ると、あらためて私が『仁花』なのだと思い知った。
玲奈としてお母さんたちが済んでいたアパートに住み始めたころ、予想以上に古びたその建物に嫌悪感を隠せずにはいられなかった。けれど、今はあのアパートが懐かしく思えてしまう。
「私はもう、仁花だもんね。私は、仁花……」
太陽が落ちて薄暗くなった部屋で一人、何度も自分の名前を呼び続けた。
明日、私は日本を離れる。海外では『私』を知る人なんてきっと一人もいないし、玲奈のことを知る人もいない。
もちろん和佳やみのりもいなければ、楓くんもいない。頼れる人はお父さんだけになる。ゼロからはじまる、新しい生活。いくらお父さんが一緒にいてくれるとはいえ、それでも怖くないと言えば嘘になる。
私の新たな人生のはじまりなのに、今はまだ実感が湧かないのか、それとも何も知らない土地に行くのが怖いのか。気持ちがなかなか上を向いてくれない。
明日は早起きして空港に行かなければならない。私は無心になって大きな旅行バッグの中に必要なものを詰めていった。
大丈夫だよね、私──。