*****


 「……お待たせ、仁花。ごめんな、ちょっと仕事でバタバタしちゃって」

 「ううん、大丈夫だよ。でもお腹空いてたから先に注文しちゃったけど」

 「もちろん、どんどん食べなさい」

 狭いカフェの店内を小走りでやってきたのは、息を切らせたお父さんだった。ハンカチで汗を拭いながら、店員さんが持ってきてくれたお冷をグイッと飲み干す。

 本格的に夏のはじまりを伝えているかのように蝉は鳴き続け、気温は毎日上昇の一途を辿っている。特に七月は茹だるような暑さで、今日も平気で三十五度を超えると今朝のニュースで言っていたことをふと思い出した。



 「外は暑いな。体調とか平気か?」

 「うん、まぁそこそこ頑張ってるよ」

 今日はお父さんと会う土曜日。

 私は夏休みに入ってはいるけれど、文化祭の準備や演劇の練習、それから進路相談のせいで結局毎日のように学校へ登校している。




 「ところで、相談したいことがあるって言ってたけど……なにかあったのか?」

 「あぁ、えっと……進路のことで」

 三年生になって、毎月のように『進路希望調査』というものが行われるようになった。

 調査票には提出期限があって、何かしらを書いて出さなければ進路指導の先生から永遠と問い詰められるため、『玲奈』らしく調理師の資格が取れる専門学校と書いて逃れているけれど、いよいよこの時期になると誤魔化しがきかなくなってしまっていた。

 オープンキャンパスには行ったのか、受験対策はできているのか、将来は何を目指しているのか。目が合えば毎日のように、いろんな先生たちからそんなことを言われるようになった。




 「ねぇ、お父さん。私、高校を卒業したら……どうしたらいい?」

 「……っ!」

 自分のことが、まるで分からない。

 私が『仁花』だったときも、玲奈のように的確な夢は持っていなかったけれど、文系の大学に進んで語学の勉強をして、本にまつわる職に就くのもいいかもしれないと思っていた。

 けれど、三葉学園は和佳が専攻している『進学科』以外は、あまり受験対策に力を入れていない。どちらかといえば専門的な分野を突き詰めるためのカリキュラムになっていた。

 それに、もしも仮に『仁花()』が行きたい分野の大学に進んだとしても、まだ『玲奈』として生きていかなければならないのかどうかも分からない。

 お母さんの心の病はすぐに治るものではないと主治医の先生は言っていたし、私が『仁花』に戻ったせいでまた以前のようにおかしくなってしまったら……と考えると、怖くて何も考えられなくなる。

 こうなると、もう自分一人では将来のことを決めることができない。だから今日、お父さんを呼んで相談しようと思っていた。お父さんの意見を、聞いてみたかった。

 けれど、お父さんの意見は私が予想していたものとは全く違っていた。




 「これは提案なんだけどな、仁花。高校を卒業したら、お父さんと一緒に海外に行ってみないか?」

 「海外?」

 「仁花が昔、言ってただろ?いろんな国に言って、いろんな風景を見ながら絵を描きたいって」

 「それは……小さかったころの話だよ」

 まだ将来の夢も毎日コロコロ変わるような、そんな小さいときの話だ。家にはいろんな絵が飾られていて、はじめてお父さんの仕事に興味を持ったときに思ったことだった。

 あのときは家族にだけならなんでも言いたいことを言えていた。

 ケーキ屋さんになるんだ、獣医さんになるんだ、絵描きさんになるんだ。幼稚園で友達が作れなかったことも、玲奈と間違えられて悲しかったことも、なんでもお父さんとお母さんに打ち明けていた。

 小さかったころは思ったことをそのまま口に出せていたのに、歳を重ねるに連れて言いたいことが言えなくなっていた。

 私はそれが大人になるということなのだと信じていた。けれど今の私は、自分の気持ちさえ分からなくなってきていて、将来のことでさえお父さんに『どうしたらいい?』と聞く有様だ。



 「ごめんな、仁花」

 「え?」

 そんな私を見て、お父さんは唐突に謝罪の言葉を口にした。

 いったい何に対しての謝罪なのかと首を傾げると、お父さんは徐に口を開いた。





 「お前に『玲奈』として生きていくことを選択させてしまって、本当に申し訳ないと思っている」

 「急に、どうしたの?」

 「あのとき、玲奈を失って母さんまで失ってしまいそうで、正しい判断ができなかったんだと思う」

 「なに、言って……っ」

 「いくらどうしようもない状況だったからといって、仁花を『玲奈』として母さんの側に居させるなんて、本当にどうかしていたと思う」

 やめて、いきなりどうしちゃったの?

 今さらそんな謝罪が聞きたくてお父さんを呼んだわけじゃない。




 「母さんのことは、お父さんたち大人が解決しないといけないことだった」

 「……っ!?」

 「それを仁花に押し付けた。本当にすまないことをしたと後悔している」

 やめて、やめてよ。

 今さらそんなふうに言われたって、『仁花()』が失われた一年はもう戻ってこない。


 元居た学校に戻れるわけでもない。
 世間に私が事故死として扱われた事実は変わらない。

 お母さんは当時、事故の取調べにやってきた警察の人に何度も『亡くなったのは仁花です』と証言していた。私の制服、私の私物、私の名札を付けていた玲奈を、『仁花』と呼んでも全く違和感はなかったのだろう。

 事故の次の日、いつも見ていたニュース番組で私の名前がテレビに載ったとき、どんな気持ちだったか想像できる?

 私はちゃんと生きているのに、お母さんの手によって死んだことにされた気持ちなんて……っ、ごめんなさいの一言で片付けられるようなものじゃないんだよ!




 「……っ」

 でも、そんなこと言ったって無駄だ。ここでお父さんを問い詰めたところで、その事実は一ミリも変わってはくれない。

 だから言わない。いつもみたいに溢れ出てきそうになる言葉を飲み込んで、飲み込んで、飲み込みまくれば解決できる。

 ──はずだった。




 「なに、今さら?」

 「……仁花?」

 「私を『玲奈』として生かして、仁花を殺したくせに……っ」

 「……」

 「お母さんのこと、玲奈のこと、苦しいこと全部私に押し付けたくせにっ」

 「そのとおりだ、本当にすまない」

 ずっと、まるで両親から『死んだのが仁花だったらよかったのに』と言われているような気持ちだった。

 こんな意味不明な人生から逃げ出したかったけれど、お母さんがまた自殺するようなことになったらどうしようって、逃げることすら許されなかった。

 このことを誰か一人でもいいから相談したかったけれど、玲奈に入れ替わっていることがバレるわけにもいかなかったから、誰にも相談できずにずっと一人で抱え込んできたんだ。


 許せるわけないよ。
 絶対に許してなんてあげない。

 だけど、『玲奈』として生きてきたことで得られたことがあったのもまた事実だ。

 学校という場所がはじめて楽しいところなんだって思えた。『友情』というものが、どれだけあたたかいのか初めて知れた。

 どれもこれも『玲奈』としてのものだけれど、『玲奈』として生きていかなければ絶対に『仁花』では味わえなかったような濃い時間を味わうことができている。

 だから、揺らいでしまう。仁花に戻りたい気持ちと、いっそ完全に玲奈のまま生きていたほうがこれから先の人生は楽しんじゃないかって。

 そんな馬鹿みたいなことを本気で思ってしまう自分にも、腹が立って、悔しくて、惨めでたまらない。




 「ごめん、お父さん。今日は私、もう帰るね」

 「あぁ、そうだな。仁花、本当にごめんな」

 「……別に謝ってほしいなんて言ってないよ」

 「卒業したら、仁花の好きなことをしていいんだ。お父さん、仁花のために何でもするから」

 私を引き止めるように言葉を投げるお父さんに、それ以上何も言わずにカフェをあとにした。


 あぁ、お腹が痛い。キリキリと痛みがひどくなっている。
 大好きなカフェラテも、もう少し控えたほうがいいかもしれない。

 夏の暑さに辟易しながら、それでも私はお母さんが待っているアパートへ『玲奈』として帰宅する。

 昨日からお母さんの調子が良くなくて、ここ数日ずっと寝室から出られずにいる。料理はあまり得意ではないけれど、今日は私が夜ご飯を作ってあげよう。





 「ただいま、お母さん」

 「うぅっ、玲奈、玲奈ちゃんがいないっ」

 「お母さん?」

 「玲奈ちゃんが、いなくなっちゃったっ」

 「……っ」

 「玲奈ちゃんに会いたい……っ、うぅっ」

 襖で仕切られたお母さんの寝室から、啜り泣く声が止まらない。

 その言葉を聞いて、私は目の前が真っ暗になっていく。




 「(私は……っ、『玲奈』じゃないの?)」

 お母さんが望んだとおり、私は『玲奈』としてここにいるよ?

 それなのに、玲奈がいないなんて言われたら……私はなんのために今ここにいるの?



 これ以上お母さんの声を聞きたくなくて、私はキッチンに戻って夜ご飯の準備に取り掛かった。

 お米を三合入れて、わざと水音を立てるようにバシャバシャと研いでいく。何度も何度もお米を洗いながら、私もお母さんと同じように涙が止まらなかった。







*****



 「和佳の家っていつ来ても最高だね!豪邸だし、何より廊下まで涼しいし!」

 「ちょっとみのり、あんまり騒がないで。今玲奈の演劇練習してるんだから」

 夏休みも中盤に差し掛かったころ。今日は学校の全校舎で消防点検が入る日で、珍しく一日休みが取れる日だった。

 必須科目と専門科目の二つの宿題も終えて、今日はお昼まで眠ってしまおうと思っていたとき、みのりと和佳からのお誘いで、私のアパートから四駅跨いだ先にある和佳の家に集まることになった。




 「主役、どんな感じ?できそう?」

 「そうだね。やっぱり久しぶりに演じるから緊張しちゃうなぁ。私、うまくできてる?」

 文化祭の演劇で主役をすることになって以来、毎日毎日、私はお腹を壊しながら家で猛練習を積んでいる。

 今ではすっかり使い慣れた姿鏡の前で、台詞と一緒に身振り手振りを付けながら必死に研究しているけれど、他の人から見て『仁花()』の演技がどう映っているのか気になっていた。




 「できてるできてる!自信持ちなって、玲奈!」

 「大丈夫だよ、玲奈は上手いから」
 
「そうそう!主人公のこと、ちゃんと分かってるなぁって見てて思うし、笹原さんに言われてた『もう少し感情を込めて!』ってところも、もうバッチリだと思うよ!」

 「……そっか。なら安心だね」

 演劇部のシナリオを担当しているという大島さんから受け取った今回の台本を読んで、まずは台詞を全部暗記した。

 あとは玲奈が高校一年のときに演じた舞台の録画を何十回も見漁って、とにかく玲奈が演じている姿を徹底的に真似したあと、プロの舞台役者が解説している動画配信を見て勉強している。




 「(それに、この舞台の物語ってすごく共感できるんだよなぁ)」

 大島さんからもらった台本は、私が演じる主人公のヒナコという女の子が、ある日病の治療の際に副作用を起こし、病気が治るのと引き換えにこれまでの記憶のすべてを失ってしまうところからはじまる。

 自分が誰なのか、かつてどんなふうに生きていたのかさえ分からないヒナコは、それまで関わりの深かった友人や家族、恋人から支えられ、ときに衝突しながら必死に自分を探し求めていくという物語だった。

 結局最後までヒナコが記憶を取り戻すことはないのだけれど、過去に固執することをやめて、新しく生きていこうとする前向きなこのシナリオは、どこか私にも響くところがあるように思えた。




 「あー!もう宿題が終わんないよー!一生かかっても終わらない気がしてきた!」

 「そんなわけないでしょ。ウダウダ言ってないで早く手を動かして」

 「和佳は私に愛ってものがないわけ!?ちょっとは手伝ってくれたっていいじゃん!」

 「そんなことしたって、みのりのためにならないでしょ」

 「和佳のマジメ。大マジメちゃんめ」

 「……怒られたい?」

 和佳の部屋で、彼女はとうの昔に学校から出された宿題を終えて、今は受験対策の勉強をしていた。みのりは文化祭に出す衣装をひたすら縫いながら、合間に宿題を終わらせるというハードなことをやっている。

 私は劇の練習をして、三人とも各々のやりたいことをしながら、それでも楽しいと思えることが不思議だった。

 この二人といるといつも楽しくて、人と話すということに苦手意識を持っていた私でも、それを知らず知らずのうちに克服できるほどくだらない話題で盛り上がって、笑えて、思えば三人が揃えば常に笑顔でいられた。

 去年、高校二年の春に初めて『玲奈』として二人の前に立ったときから今日まで、みのりと和佳が軽い言い合いをすることは多々あっても、一度だって大きく拗れるような喧嘩をしたことはない。


 真面目で、曲がったことが大嫌いな頭のいい和佳と、お茶目で可愛いくて、思ったことを何でも口に出してしまうみのり。

 最初は玲奈のフリをしていることがバレないように、極力距離を置いて必要最低限近づかないでおこうと思っていたあのころとは打って変わって、私は今、彼女たちと離れたくないとさえ思ってしまっている。





 「あ、そうだ。おやつがあるんだった。ちょっと待ってて、取りに行ってくるから」

 「わーい!和佳の家のおやつって豪華だから好き!早く取ってきて!」

 「みのりは遠慮って言葉を覚えるべきよね」

 和佳はみのりを見てグルリと目を回しながら呆れたような表情を浮かべて、この日当たりのいい大きな部屋をあとにする。

 学校も徒歩圏内で、近くには大きな商業施設もあるこの最高な立地にこんな豪華な家を建てられる和佳の家族って、やっぱりすごいんだと思い知らされる。

 今、私がお母さんと住んでいる古めかしいアパートがなんだか恥ずかしくなった。




 「あ、てかさ!玲奈があんなに絵が上手だったなんて知らなかったんだけど!」

 「え?あ、あぁ、いうほど上手くないよ……!普通だよ、普通!」

 「いやいや、クラスのみんなが驚いてたからね!?未だに衝撃だよー!」

 和佳がいなくなって、みのりと二人きりになったとき、彼女は突然思い出したかのようにそう声を張った。

 昨日はお昼から学校へ登校して、教室の入り口に飾る看板を作る手伝いをしていたとき、つい無意識に『仁花()』の癖のまま絵を描いてしまったせいで、みのりをはじめとする数人のクラスメイトから褒められて目立ってしまった。

 確か玲奈は絵がまったく描けなくて、中学のときの美術の成績は三年間ずっと低評価だったはずだ。気をつけなくちゃと思っていたけれど、みのりの中ではまだ忘れられていなかったらしく、その話題を出されて私は苦笑いで誤魔化した。




 「お待たせ……って、何?なんの話してるの?」

 「あ、おかえり和佳!あれだよ、昨日玲奈が描いた看板の絵がプロ級だったって話」

 「あぁ、すごかったらしいね。あたしは昨日学校行ってないから知らなかったけど、みのりが写メ送ってくれたの見たよ」

 「なっ!みのり、写真なんて撮らなくていいよ!消してよ!」

 「なんで、いいじゃん!玲奈ってばもう調理師やめて絵を描いて生きていきなよ!」

 「そ、そんなことできるわけないよ!」

 おやつを持って戻ってきた和佳は、スマホの電源を入れてみのりから送られてきたという看板の絵を開いた。

 改めて見入っている和佳に、みのりが『ね!?すごいでしょ?』と乗っかっていく。




 「本当にすごいね、これ……。一から玲奈が描いたの?」

 「うん、描いてた!だからクラスが騒然としちゃってさ!?」
 
 「これはみんな驚くだろうね。高校生のレベルじゃないし」

 「でしょー!?それなのに玲奈ってば、あんな感じで恥ずかしがんの。もっと堂々と自慢していいのにさぁ?」

 「そ、そんな大袈裟だよ。スマホで参考になりそうな画像見つけて真似しただけだから」

 私たちのクラスが文化祭初日にオープンする出店は、『この暑さの厳しい夏に癒しを』をいうコンセプトのもと、貝殻の形をしたアイスサンドと、色付きのシロップでグラデーションにしたレモンスカッシュを販売することになっている。

 だから看板もそれらしいモノでお願いと言われていたけれど、クラスメイトは自分たちの作業に追われていて誰も看板制作まで手が回っていなかったから、代わりに私がやってしまったのが悪かった。

 絵を褒められることは嬉しいけれど、それは『玲奈』には必要のないものだ。

 最近の私は、そういうヘマばかりしてしまう。




 「(変に疑われていないといいけど……)」

 「あ、そうだ。みんな一旦休憩して、コレ食べない?」

 一人で悶々と不安に駆られていると、和佳がその空気を切り替えるようにそう言って見せたたのは、少し前に持ってきてくれたものだった。




 「うわぁ!すごっ、フルーツの盛り合わせじゃん!」

 「昨日お母さんの友人が手土産に持ってきてくれたんだって。食べきれないからみんなでどうぞ、だってさ」

 大きなガラス食器には、夏みかんやスイカ、メロンに林檎にパイナップルと、たくさんのフルーツがきれいにカットされて所せましと乗っていた。

 和佳はそれを部屋の中央にあるローテーブルに置いて、私とみのりを呼んだ。




 「いっただっきまぁす!」

 「こんな豪華なフルーツの盛り合わせ、見たことないや。和佳のお母さんにあとでお礼言わなくちゃ」

 「言わなくていいよ。……あの人はあたしが勉強してるときだけ優しい人だから」

 和佳は家族のことが嫌いだと公言している。

 医者である和佳のお父さんは、数年前に独立して開業医となってからは家に帰ってこないことが増えて、ちゃんと会話をしたのはいつだったか覚えてないと言っていた。



 「それなのに毎日のように勉強しろ、受験対策しろって連絡がくるの。笑えるよね」

 「……そっか」
 
 「浪人してもいいから医学部以外は認めないんだってさ。いったいあたしがいつ医者になりたいって言ったんだろうね」

 そのあとも、和佳は『上の兄二人が弁護士になったから、医者になるのはお前だって言うの。呆れるでしょ?』『お母さんはお父さんには何も逆らわないし、自分には関係ないみたいな顔するの』と次々と愚痴をこぼしていた。




 「家族って、なんなんだろうね」

 「……本当だね。家族って、なんなんだろう」

 私も和佳と同じようなことを、何度も考えてきた。

 それまでの私は、家族というものは私の唯一の帰る場所であり、何かあったときは一番に守ってくれる安心できる存在だと思っていた。

 だけど、両親が離婚したとき、その考えが間違っていたことに気づいた。そしてお母さんが私のことを『玲奈』だと言ったあの瞬間、家族というものが決して安心できる場所ではないのだと悟った。

 結局、頼れるのは自分だけ。苦しくても、つらくても、痛くても、『家族』だからと言ってそれを共有することも、軽減することもできない。

 それでも、どうしてか、家族を見捨てることができないのはなんでだろう。

 私を『仁花』だと認めてくれないお母さんのことなんて見放して、自分のことだけを考えて生きようと思ったことなんて本当は何度もある。

 だけど、どうしてもそれを実行するには至らなかった。どれだけ酷い仕打ちを受けようと、自分という存在をかき消されようと、見捨てることはできない。

 私はあとどれだけ、家族に縛られながら『玲奈』として生きていけばいいんだろう。

 幾度となく考えては、一度も答えは出なかった。

 きっとこれからも、正しい答えなんて見つからないような気がする。




 「それより、玲奈も食べなよ。はい、林檎」

 「うん、ありがとう」

 和佳から手渡された、林檎が一欠片刺さっているフルーツピックを受け取る。

 そしてそのままそれを口に放りこんだ。


 

 「ちょっ、玲奈!?」

 その瞬間、みのりが心配そうな顔をしてこちらへやってくる。


 「大丈夫なの!?」

 「大丈夫って、何が?」

 「何がって……」

 未だにみのりがそんなふうに言う意味が理解できないまま、和佳と二人で顔を見合わせている様子を見て首を傾げた。



 「いや、ううん。なんともないならいいよ」

 「……?」

 それから私たちは、夕方ごろまで和佳の家で過ごして解散した。

 文化祭まで、残り一ヶ月──。







*****


 「この飾りってどこにあるんだっけ!?」

 「それ第二準備室に置いてあった気がする!」



 「演劇で使う体育館、照明のチェックがまだできてなくない?」

 「それが他のクラスがまだ使っててウチらの番はまだ先らしいよ」

 夏休みも終盤に差し掛かると、クラスメイトたちの慌てっぷりも顕著に現れるようになった。みんなはクラスの優勝のために、自分の専門科目のために一生懸命に活動している。

 私がかつて通っていた高校は、一応文化祭というものはあったけれど、ここまで真剣にやっている人は一人もいなかったと思う。

 三葉学園の自由な校風がそうさせているのか、ここの生徒たちはみんなが一致団結して取り組んでいて、私もその一員になれているのか思うと、少しだけ心が躍ってしまう。




 「ねぇ、玲奈ごめん!申し訳ないんだけど、教室のこの飾り、あと十個くらい倉庫に取りに行ってくれない?」

 「うん、全然いいよ!任せて!」

 「助かる、ありがとう!確かこれはグラウンドの倉庫にあるはずだから」

 「分かった、取ってくるから待ってて!」

 私はクラスメイトからのお願いに、駆け足で教室を出た。

 ここ数日ずっと猛暑が続いていて、廊下に出た瞬間汗ばんでしまうほど熱で蒸されていた。




 「玲奈ー!私も一緒に行くー!」

 「あたしも。暑くて死にそうだけど」

 「あ、二人ともありがとう!今日は和佳も学校来てるんだ」

 「……まぁね。みのりに毎日うるさいくらい電話で催促されるの。本当迷惑なんだけど」

 「和佳だけサボろうったって、そうはさせないんだからね!」

 「サボってないし。受験勉強してるだけ」

 和佳は文化祭の準備がはじまる当初から今年はあまり参加しないと宣言していたとおり、夏休みはあまり登校せず、ひたすら家と塾の往復を繰り返しているそうだ。

 きっと受験勉強に集中したいのだろう。どうか大学は無事に志望校に受かって、自分の進みたい道に行けるといいんだけど。





 「ってかグラウンド出るの!?あっつー!」

 「自分でついて行くって言っておいて何言ってんだか」

 「外だとは思わなかったんだもん」

 「アハハ!みのりは暑さに弱いもんね。ここで待ってていいよ?私一人で取ってくるから」

 「いや、甘やかしたらダメだよ玲奈。みのりも引っ張って連れてくから」

 なんだかんだ言いながら二人とも私と一緒に来てくれる、その気持ちがとても嬉しかった。下駄箱で靴を履き替えて、グラウンドの一番端っこにあるコンクリートでできた倉庫へ向かう。

 そして重たい扉を開けて、薄暗いそこへ一歩足を踏み入れた──……そのとき。







「──ねぇ、あんた……誰なの?」

 今まで聞いたことのないような、和佳の冷たい言葉が私の耳を劈いた。



 「……え?」

 慌てて振り返って、和佳とみのりの姿を見たとき。

 私は瞬時に悟った。





 「あんた、『玲奈』じゃないでしょ」

 この関係が、今日で終わりを迎えるということを。


 茹だるような暑さの中にいるのに、一気に体が冷めていく。

 一定の距離を保ちながら私を疑いの目で睨みつけてくる和佳と、俯いて何も言わないみのりの姿に、指先の感覚がなくなっていくのが分かった。




 「和佳、何言って……っ」

 「玲奈は暗いところが苦手だったはずだよね?」

 「え?い、いや、別に苦手っていうほどでは……」

 和佳の突き抜けるような鋭い言葉と声のトーンに、出てくる声が震えてしまう。そんな中でも必死に頭をフル回転させて、これまでの玲奈の記憶を手繰り寄せた。

 玲奈が暗闇で怖がっていたことなんてあった?

 ……いいや、ないはず。むしろ小学生のときに家族四人で行った遊園地のお化け屋敷には、玲奈が率先して入っていったくらいだ。




 「一年のとき、体育の教師に間違えてここに閉じ込められたときから、二度と倉庫には近づかないって散々言ってたじゃん。だからあたし、一緒についてきたんだけど」

 「……っ!」

 知らなかった。

 そんなことがあったなんて、玲奈は一度も言わなかった。




 「……」

 それも、そうだよね。

 学校であったことを全部知るには、私と玲奈の距離は離れすぎていたから。



 「それに、玲奈は林檎を食べると喉が痒くなってしまうから食べないって言ってたはずだけど?なのになんであんたはあたしの家にきたとき、平気な顔して食べてたわけ?」

 「……っ」

 「あとさ、あんなに『勉強なんてやっても無駄。!好きなことして生きてくのが一番じゃん?』って豪語してた玲奈が、なんで突然あたしの勉強のことに興味を持って、わざわざご丁寧に塾や夏期講習のことまでアドバイスしてくれんの?」

 「それはっ」

 「しかもまるで自分が通っていたみたいに詳しく説明してたじゃん?ずっとおかしいと思ってたんだよね」

 和佳が挙げていく一つ一つの疑問は、私がこれまでに犯してきた罪のすべて。いつか、私が『玲奈』のフリをしているということがバレるときが来るのだろうとは思っていた。


 だけど、それが今だとは予想もしていなかった。

 今じゃない、今はまだ、心の準備ができていない。





 「もう一度聞く。あんた、誰なのよ」

 「……っ」
 
 「それで、本物の玲奈はどこ?」

 「……和佳、もうやめなよ」

 「玲奈はどこだって聞いてんの!」

 倉庫中に響くほどの和佳の声に、心拍数が上がっていく。

 視界は一気に狭まって、少しずつ目の前が真っ暗になった。




 逃げなくちゃ。今、この場にいてはダメだ。

 でも、体に力が入らない──。

 ふらつく足で、どうにか倉庫から出ようとした。




 「……どこ行く気?」

 けれど、それを和佳が許してくれるはずもない。彼女の真っ直ぐに伸びた腕が、私の行く手を阻んだ。

 極度の緊張と焦りのせいで、呼吸が浅くなってきてうまく息ができなくなった。

 お腹も急激に痛みを増していく。今、こうして立っているのがやっとの状態だ。




 「ごめん、なさい……っ」

 「質問の答えになってない。あんたは誰だって聞いてんの」

 「私は──……」

 ついに、この日が来てしまったみたいだ。

 だけど私は、心のどこかで早くこんな日が来ればいいと思っていた。

 正体を騙し続けることに日々罪悪感を感じながら、それでも和佳やみのりと友達で居続けたいだなんてありえないことを本気で思っていたりもした。



 早く私が『仁花』であることを言いたかった。

 だけど、『玲奈』でいるときは私の見る世界がキラキラして見えていたから、ずっとこのままでもいいかもしれないだなんて思っていたりもした。



 『仁花』でいたいのか、『玲奈』でいたいのか。

 自分でも分からなくなっていたんだ。







「私は──……玲奈じゃ、ない、です」

 絞り出すようにそう白状した途端、バチンッという弾く音とともに左側の頬に鈍い痛みが走った。

 これが私の、罰だった。








*****



 「あら、おかえり玲奈ちゃん。今日は早かったんだね」

 「……」

 「玲奈ちゃん?」

 「あぁ、うん。ちょっと体調悪いから部屋にいるね」

 あれから、どうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。

 ただ、和佳に叩かれた頬の痛みだけが染み渡って、そのたびに少し前のあの出来事が脳裏をよぎる。



 『玲奈のフリって、どういう意味よ!』

 『……ごめん、なさい』

 『謝ってばかりいないでちゃんと説明したらどうなの!?』

 『和佳!もうやめなってば!そんなふうに問い詰めたって意味ないでしょ!?』

 『みのりは許せるわけ?コイツは玲奈じゃないのに、ずっと玲奈のフリをしたてんだよ?』

 『そうだけど、今は話せる状況じゃないじゃん!見てよ、具合悪そうじゃん!』

 『……体調がなによっ』

 『それに、なんの理由もないのに玲奈のフリなんてすると思う?きっと何かあるからなんだよ』


 怒りに任せて怒鳴る和佳とは違って、みのりが間に入ってくれたおかげで、私はまだ何も説明しないまま家に帰ることができた。

 だけど、私以上に和佳は傷ついた顔をしていた。私が、傷つけてしまったんだ。




 和佳は特に玲奈のことを好いてくれていた。

 演劇の主役を断ろうとしていたときも、みのりと意見が食い違ってしまったときも、和佳はいつだって『玲奈』の味方をしてくれるほど親友だと思ってくれていた。

 体調が良くないと言えば、背中をさすってくれて、薬を手渡してくれたのも和佳だった。


 そんな彼女の大切な『親友(玲奈)』のフリを、私は一年以上してきたんだ。ずっと和佳とみのりを騙し続けてきたんだから。

 怒って当たり前だ。叩かれても当然の報いだと思っている。

 二人に対する罪悪感で、心が押し潰れてしまいそうだ。





「(もう、学校にはいけない……よね)」

 演劇の主役、自分なりに頑張って練習していたんだけどな。文化祭、柄にもなく楽しみにしていたのにな。

 何一つ、『仁花()』では得られなかったことばかり。

 全部『玲奈』だったからこそできたことなのに、それをさも自分のものかのように振る舞っていたバチが当たったんだ。



 もう、終わりなんだ。

 全部、全部、終わってしまうんだ──。




 「うぅ……っ、つっ」

 何に対しての涙なのか分からない。

 だけど、悲しくてたまらなかった。心が痛くてしかたない。



 「ごめん、なさい……っ」

 次の日から、私は学校へ行かなくなった。

 夏休みが終わるまで、残り五日となった日の出来事だった。








*****



 「久しぶりだね」

 「楓、くん?どうしてこの家が分かったの?」

 三日間一歩も外へ出ず、ずっと家に引きこもっていると、アパートのインターフォンが鳴り響いた。

 お母さんに対応してもらおうと思ったけれど、今日もお母さんはベッドから出られそうにないらしく、仕方なく玄関を開けると、そこにいたのは楓くんだった。




 「ちょっと行きたいところがあるんだけど、一緒に来ない?」

 「え?」

 「ほら、行くよ!」

 「ちょっ、待って!ど、どこに行くのか知らないけど私まだ何も準備が……っ」

 「じゃあ仁花の準備ができるまでここで待ってる」

 楓くんは私が以前お父さんと一緒に住んでいた家は知っているはずだけれど、お母さんと玲奈が住みはじめたこのアパートの場所は知らないはずだ。いったいどうやって知ったんだろう。

 それに、行きたい場所ってどこ?

 頭の中でグルグルとそんなことを考えるけれど、どれも上手くまとまらずに、『どうでもいっか』とすぐに諦めた。

 行きたくないと抵抗するのも、外へ出るための準備をするのも億劫でたまらない。

 このままずっと家にいたい。




 「(あぁ、そっか。このアパートも、この部屋も、このベッドも、私のものじゃないんだっけ)」

 そうは思いながらも、ここには私のものは一切ないから、いつものようにクローゼットを開けて玲奈の服を取り出した。


 楓くんが待っているから急がなくちゃと思うのに、体がいうことを聞かない。

 まるで心と体がチグハグになっているようだ。




 「ごめん、お待たせ」

 「ううん、全然。じゃあ出発……の、前に。お前、ほらこれ飲んで」

 楓くんから手渡されたのは、コンビニの袋に入っていた冷たいゆず茶だった。『どうして?』と問う代わりに彼の顔を見上げると、心配そうな表情で私を見ていた。


 「どっか具合悪いの?今日体調悪い?」

 自分でも分かるくらいに、今の私は窶れている。それを楓くんに見られたくなくて、グッと下を向いた。




 「体調が悪いとかじゃないから、平気……」

 「本当に?」

 「本当、だよ」

 私は楓くんにも嘘をついている。

 きっと彼は私が『玲奈』じゃないことはもう分かっている。だけど自分から本当のことはまだどうやっても言い出せない。



 だって、誰にも知られたくないんだ。

 お母さんから『玲奈』として生きることを強要されてしまったことなんて。

 いやいやそれに従ったくせに、『玲奈』としての人生を少なからず楽しんでしまった自分のことも、『玲奈』として生きるに比例して、『仁花()』は友情も、夢も、何も持っていなかったのだと思い知らされて絶望したことも、そんなこと誰にも知られたくない。

 情けなくて、惨めで、消えてしまいたい。

 でも、本当は言いたいんだ。



 『私は仁花です』と。

 あの日からずっと、言い出せずにいるんだ。




 「分かった。でも今日は暑いから、これ、貸しておくね」

 「え?」

 そう言ってスポッと頭に乗せられたのは、それまで楓くんが被っていた帽子だった。

 ブリムの長いそれが、私の顔を隠すように覆ってくれる。




 「いいの?でも楓くんが暑いんじゃ……」

 「大丈夫、俺は海外の暑さで鍛えられてるからね……ってのは嘘。日本のほうが断然暑い。本気でこの暑さ無理。本当は今にもぶっ倒れそうだからもう行くよ、今すぐ出発します。突っ立ってるとマジで危ない」

 楓くんはそう言って笑いながら、私の手を掴みながら一歩先を歩いていく。

 どこへ行くんだろう。……まぁ、ついてみれば分かるか。

 あと少しで夏休みが終わる。

 夏休みが終わったら、文化祭本番までわずかだ。




 「(って、もう私には関係ないじゃん)」

 小さく首を振って、これ以上考えることを放棄した。

 それでも演劇の主演の代わりは見つかるかな、だとか、準備はできているのかな、だとか、そんなことをすぐに考えてしまう自分がすごく情けなくてしかたなかった。






 「ここって、絵画教室?」

 「そう。昔、俺が週二で通ってた教室。……あぁ、あと『仁花』もね」

 「……っ」

 楓くんに連れてこられた場所は、『仁花()』が幼稚園のころから通っていた小さな絵画教室だった。

 年代を感じる古民家のような作りの家で、当時、絵の先生をしてくれていた佐々木おばあちゃんはまだ元気だろうか。




 「俺、こっちに帰ってきてたまにここへ遊びに来てるんだよね」

 「そ、そう……なんだ」

 「ま、月謝はもう払ってないけど、いつでも遊びに来ていいって佐々木のおばあちゃんが言ってくれたからね」

 何も変わっていなかった絵画教室を見て、懐かしさが込み上げてくる。


 お父さんが海外から取り寄せた絵を初めて見て、興味を持った。

 最初は書き方や色の作り方をお父さんから教わっていたけれど、『自分が教えるのは限界だ』と言って代わりに連れてこられた場所がここだった。まだ幼稚園のころの話だ。

 当時、玲奈も一緒に行かないかと誘ってみたけれど、絵を描くことよりもお人形遊びや友達とお化粧ごっこをするほうが楽しいからと言って断られてしまった。

 けれど、代わりに一緒に通うようになったのが楓くんだった。

 それから小学校六年生までの六年間、週に二度、火曜日と木曜日は決まって彼と一緒に放課後ここへ通うのが習慣となっていた。





 「(懐かしいな)」
 決して言葉には出してはいけない感想だ。

 玲奈にはここにきたという記憶はないのだから。




 「──あら、仁花ちゃん?」

 「……っ!」

 グッと口を噤んで、心の中でそう囁いたとき。

 うんと懐かしい声が『私』の名前を呼んだ。

 あのときと変わらず元気そうな佐々木のおばあちゃんだった。



 「まぁ、大きくなったねぇ!楓くんが連れてきてくれたのかい?」

 「そうだよ。おばあちゃん、ずっと『仁花』に会いたがってたでしょ?」

 「あぁ、会いたかったとも。もちろんさ。ささ、暑いだろう?中へお入り?」
 
 「今日は教室の日じゃないけど入って大丈夫?」

 「当たり前だよ、せっかく仁花ちゃんが来てくれたんだからねぇ。そうだ、赤紫蘇のジュースを作ったんだよ。二人に用意しないとねぇ」

 佐々木のおばあちゃんはそう言って、丸まった腰を上げて台所へ向かっていく。

 それにならって楓くんも同じように中へ入ろうとしていたところを、私は思わず呼び止めてしまった。




 「楓くん、どういうつもり?」

 「うん?」

 「どうして私のことを『仁花』だって言うの?」

 以前会ったときは、たまに間違えながらも最後は『玲奈』と訂正してくれていた。

 なのに今は、堂々と私のことを『仁花』と呼ぶ。



 「だってお前は『仁花』だから」

 「……っ!」

 「この際、はっきりさせておこうと思って」

 「やめてよ!」

 私が『玲奈』であろと『仁花』であろうと、それを決めるのは私自身だ。

 今はまだ、誰にも本当のことを言いたくない。




 「私は『玲奈』なの!私は、まだ……」

 「──お前は玲奈じゃない。『仁花』だ」

 「いい加減にして!」

 どうして分かってくれないの!?どうして今までどおり、騙されたフリもしてくれなくなったわけ!?

 いつか、ちゃんと自分の口から言うから。『玲奈』としての人生を終わらせるから。

 もう少し、もう少しだけ時間をちょうだいよ──。





 「ごめん、帰る」

 楓くんの言葉を待たずに、少し前に通った道を戻ろうと背を向けたとき。




 「──ずっと、好きだったんだよ。『仁花』のことが」

 彼のその一言に、私の体はその場でピタリと動きを止めた。








 「(……楓くん、今、なんて?)」

 「お前がどんなに上手に『玲奈』のフリして周りを騙せたとしても、俺には通用しないよ」

 「……っ」

 「だって幼稚園のときからずっと片想いしてた女の子の姿、間違えるわけがないでしょ」


 私のことが、好きだった?幼稚園のときから?

 『玲奈』じゃなくて、『私』のことを?


 そんなのあり得ない。小さいときから男の子にも女の子にも大人気で、玲奈と同じように楓くんの周りには常にたくさんの友達がいた。

 それなのに、友達作りが下手でいつも一人ぼっちだった私なんかを……好きになるはずがない。

 むしろ楓くんに片想いをしていたのは私のほうだ。

 でも、この想いが表に出ることは一生ないと思っていた。

 私とはまるで正反対で、いつも明るくて、歳を重ねるごとにどんどん格好良くなっていって、友達が多くて、勉強も運動も両立できてしまう楓くんと釣り合うわけがなかったから。


 それに、玲奈と楓くんが二人で一緒にいるところ見たとき、とてもお似合いだと思った。

 中学生になったばかりで、途端に男子と女子がお互いに意識し合いはじめたころ、玲奈と楓くんは付き合っているんじゃないかという噂が絶えず流れ続けていたくらいに、誰が見ても私と同じようなことを思う人ばかりだった。



 「(それなのに、どうやったら私のことなんて好きになるわけ?)」


 信じられない。そんなの嘘に決まっている。
 
 心の中で何度もそうやって否定し続けた。




 「玲奈は知ってたよ。俺が仁花のことを好きだってこと」

 「え?」

 「だから玲奈は俺に仁花を取られないように独り占めしはじめたものだから、ある時を境に仁花の取り合いが始まって、俺たちはライバルになっていったんだよ」

 「……っ」

 どこか懐かしそうに遠くのほうを見ながら、楓くんはかすかに微笑んでいた。

 玲奈と楓くんの間に、そんなことがあったなんて知りもしなかった。二人はずっと、私よりも仲がいいとばかり思っていた。





 「去年、仁花と玲奈に何があったのか……、少し前に仁花のお父さんからある程度のことは聞いたんだ。今、仁花が住んでいる場所も、きみのお父さんから全部聞いたんだよ」

 「なんで、お父さんが……っ?」

 「いくら俺と玲奈が毎日のように喧嘩をしていた仲だったとはいえ、トラックに撥ねられてこの世からいなくなったって聞いたときは……っ、悔しくてたまらなかった」

 「……」

 「でもね、最後に仁花のお父さんに言われたんだよ。あの子(仁花)が今、“どっちなのか”本人に直接聞いてくれって」

 「お父さんっ、なんでそんなことを楓くんに……っ」

 どうしてお父さんは楓くんにバラしたのだろう。

 私が一年間、一生懸命に隠してきたことを、どうして……っ。





 「ねぇ、仁花。このままだと、いつか本当に自分を見失ってしまうよ」

 「……」
 
 「仁花が玲奈のフリをする必要なんてないんだよ。仁花は仁花だ」

 「やめて」
  
 「やめない。俺はこれから何度だって仁花の名前を呼び続けるから」

 「やめてったら!だいたい、楓くんには関係ないでしょ!?もう放っておいてよ、私のことなんて!」


 やめてよ、やめて、やめて。楓くんは何も知らないくせに。お母さんのことも、今の現状も、何も知らないくせに、簡単にそんなこと言わないでよ。



 私がそれだけ苦しい思いをしてここまできたと思ってるの?

 “いつか本当の自分を見失ってしまう”?

 もう十分見失ってるよ。


 仁花に戻りたいと思いながら、玲奈としての人生を捨てきれないでいる。

 もう夏休みも終わろうとしているのに、いまだに自分の将来さえ見つけられていない。






 「何も、知らないくせに!」

 「あぁ、知らないよ」

 「だったら……っ!」

 「──だから、教えて?仁花のこと、全部」

 「……っ」

 「今までずっと仁花が一人で苦しんでたこと、言えずにいたこと、全部俺に言ってよ」


 多分、私はこの言葉をずっと待ち続けていたのだと思う。

 たった一人でいい、味方がほしかった。

 『玲奈』として生きるという危ない橋をずっと一人で歩き続けてきた。その道は細くて、長くて、いつまで経ってもゴールが見えないから余計に不安を煽られた。


 それでも誰にも相談できなかった。むしろ話せば『そんなことをしている私が悪い』と非難されるとさえ思っていて、不安も、戸惑いも、恐怖も、全部一人で抱え込んできた。

 誰か一人でいいから、支えてくれる人がほしかったんだ。

 楓くんのその言葉を聞いた途端、大粒の涙がこれでもかというほど溢れ出てきた。

 しゃくり上げる呼吸のせいでうまく息が吸えなくて苦しくなった。

 それでも涙は止まることを知らない。



 楓くんは本当にそんな私の味方でいてくれるの?

 私がこれまでずっと抱えてきたこと、誰にも言えなかったことを話してもいいの?


 非難しない?怒らない?

 私を──……軽蔑しない?



 「──大丈夫だよ、仁花」

 肩を揺らしながら泣き続ける私に向けられていた夏の日差しが、楓くんによって遮られた。

 彼はその大きな両手で私を丸ごと包み込むように、そっと抱きしめてくれた。




 「きみは『仁花』だよ。俺の大好きな女の子」

 「……っ!」

 「そんな大事なきみを、絶対に見失わせたりはしないから」



 大粒の涙の痕が、楓くんの服に染みていく。

 彼の腕の中に包まれて、私ははじめて安心感というものを知ったんだ。