*****

 「いらっしゃいませ」

 カランッ、と扉が開いたことを知らせる鈴の音が店内に鳴り響く。



 「お席にご案内します、何名様ですか?」

 玲奈が高校生になってすぐに始めたという、カフェのバイト。それまでアルバイトをしたことがなかった私は、玲奈として生きるようになって一番に辞めることを店長に伝えた。

 そもそも友達もうまく作れないような私が、こんなお洒落なところで接客の仕事なんてできるはずもないと思っていたけれど、すぐに新しい人を雇えないからもう少しの間だけ働いてほしいとお願いされて、もうすぐ一年が経とうとしている。

 やっぱり今でも接客は苦手だけれど、一年も続けていればなんとか熟せるようにはなってきている……と、信じたい。休日のお昼は一番忙しい時間帯で、私は今日も忙しなくテーブルとキッチンを何度も行き来していた。



 「いつもありがとね、玲奈ちゃん。ご苦労様」

 「いえ、ちゃんとお給料いただいているので!」

 夫婦で営んでいるこのカフェ『LinLin』の店長をしている須磨さんは、顎髭が特徴の気さくな人だった。いつもは奥さんの志織さんと二人でキッチンに入っているけれど、今日はお腹の中にいる子供の検診がある日だといって休んでいる。



 「アッハハ!そういえば玲奈ちゃん、面接のときに時給を百円あげてくれるなら今すぐにでも即戦力として入れますって言ってたの、思い出しちゃったなぁ」

 「……っ!」

 「あ、そうだ。もうここで働いてくれて三年目になるし、時給もアップしてあげなくちゃね」

 「ありがとうございます!」

 「玲奈ちゃん、お金をためる目標があるって言ってたもんね。頑張ってね、僕も応援してるから」


 ……お金を貯める、目標?

 確かに玲奈は、毎日どこで何を、何円分買ったのかを詳しくノートに書いて自分の家計簿を作っていた。そんなノートの一頁目には、大きなマジックペンで『目標額は一五〇万円!』と書かれている。



 「(玲奈がお金を貯めていた理由って、なんだったんだろう)」

 中学二年のときに離れて暮らすようになって、玲奈のことは彼女自身の言葉で話してくれる内容以外のことは知り得なかった。

 昔、高校を卒業したら調理師やパティシエを目指せる専門学校に行きたいと言っていたことは微かに覚えている。その学費を貯めていたのだろうか。

だけど、そういうお金は全部お父さんが用意してくれるはずだ。いくら別々に暮らすようになったとはいえ、学校や好きな習いごとのお金はお父さんが出すから心配しなくていいと、玲奈とお父さんの三人で会ったときにそう言ってくれていたはずだから。



 「あ、玲奈ちゃんそろそろ休憩に入っても大丈夫っぽいから、賄いを持って二階でゆっくり食べておいで」

 「ありがとうございます!今日はハンバーグだ!」

 「玲奈ちゃんの好物だもんね」


 “『私』も大好きだよ、ハンバーグ。”

 “一番の大好物、ではないけれど。”

 決して表には出ることのない『私』の言葉を心の中でつぶやきながら、店長からワンプレートの賄いを受け取って、二階の休憩室へ行こうとした。そのときだった。





「──仁花?」

 程よい低音の、やけに耳に馴染む声が『私』を呼んだ。

 玲奈じゃない、本当の『私』の名前が呼ばれた。



 ──どうして?なんで?

 ガシャン、と手に持っていたハンバーグの賄いが、無残にも床に散らばった。

 急激な焦りと動揺に、うまく呼吸ができない。恐怖に満ち足りながら恐る恐る目の前にいる彼を見上げた。



 「……やっぱり仁花、だよな!」

 「楓、くん?」

 そこにいたのは、幼馴染の楓くんだった。

 彼はお父さんと一緒に住んでいた家の近所の子で、同い年ということもあってか、幼稚園のときから玲奈と楓くんの三人でいつも一緒に遊んでいた。

 けれど楓くんは中学校一年生のとき、両親の仕事の都合でカナダへ行ってしまった。それ以来、こうして会うのは五年ぶりだろうか。

 制服姿の楓くんは、私の記憶の中にある彼の姿とは打って変わっていて、背も高くなって大人っぽくなっていた。まさかこんなタイミングで再会するなんて思ってもいなかった。



 「久しぶりだね、仁花!あとで片瀬家に行こうと思ってたんだよ」

 「……違う。私は仁花じゃ、ないよ」

 「え?」

 「私、『玲奈』だから」


 目を合わせないように視線を逸らしながら、私はペーパーを手に取って落ちた賄いを拾っていく。せっかく店長が作ってくれたのに、残念でならない。

 だけど、久しぶりにお父さん以外の人から自分の名前を呼ばれて驚いてしまった。店長や『玲奈』のことを知る人たちに聞かれてないといいけど。



 「いやいや、どう見てもお前が仁花じゃん。え、なに、もしかしてそういう遊びでもやってんの?」

 「ち、違うから。本当に、私は玲奈だし」

 「えー、何それ。俺今試されてる?それとも騙してる?あ、揶揄ってんでしょ!」

 「違うって」

 私はすばやく床の掃除を終えて、その場を去ろうと立ち上がった。

 これ以上、楓くんと話していたくない。

 昔から楓くんは頭が冴える男の子だった。きっと彼に、玲奈のフリは長くは通用しない。




 「ごめん、私今バイト中だからまた今後ね」

 一切目を合わせることなく、淡々とそんな言葉だけを置いて逃げるように二階の休憩室へ上がろうとしたとき。



 「──じゃあ、仁花は? 仁花は今どこにいんの?」

 楓くんのその質問に、体がピタリと動かなくなった。

 彼は私たちの事情を何も知らないまま遠くへ行ってしまったから、それは至極真っ当な質問だと思う。


 「……っ」

 できることなら、自分の口からこんなことは言いたくなかった。

 特に楓くんだけには、知られたくなかった。




 「死んだよ」

 「……は?」

 「仁花は、もういないの」

 こんな嘘をついて、ごめんなさい。

 ごめんなさい──……私の初恋の人。




 「なんの冗談か知らないけど、あんまりふざけたこと言ってるといくら仁花だからって……」

 「だから、仁花はもういないんだって!」

 無意識に出てきた予想以上の大きな声に、自分でもハッとさせられるほど驚いた。

 けれど、勢いよく出てきた言葉はすぐに止まることを知らない。



 「高校二年のとき、事故でトラックに撥ねられて仁花はもういなくなっちゃったんだよ」

 「……」

 「気になるなら当時の新聞とかネットニュースで見てみたらどう?ちゃんと片瀬仁花って名前が出てくるはずだから」


 そうだ、あながち嘘でもないじゃない。

 世間では『片瀬 仁花』は死んだことになっているのだから。



 「……そういうことだから、私もう行くね」

 自分の口からそう言うたびに、本当の私がすり減っていくような感覚に襲われる。

 悲しいのか、つらいのか、苦しいのか。はたまたその全部が混ざり合ったかのような負の感情が沸々と湧き出てくる。


 「なんだよ、それ」

 「……」

 「でも、なんでだろうね。俺の目にはお前が仁花にしか見えない」

 「え?」

 「バイト、何時まで?久しぶりに会ったんだしちょっと話そうよ」

 「い、いや、私は別に」

 「俺、それまで待ってるから」

 楓くんはそれ以上私の返事を聞かずに、元いたカフェのテーブル席へ戻って行った。

 友達と来ていたのか、数人の男子たちの輪の中に混ざって談笑する楓くんを見て、私はゆっくりと二階の階段を登っていく。




 「(会いたく、なかったな)」

 今日のバイトのシフトは十六時までだったはず。楓くんは本当に待っているのだろうか。

 空っぽになったプレートを机の上に置いて、ため息を落としながら休憩室にある椅子に腰掛けた。きっと店長にいえばもう一度新しい賄いを作ってくれるだろうけれど、なんだか申し訳なくて言い出せない。

 それに、私のことを『仁花』と呼ぶ人が現れたせいで、ご飯を食べる気力さえなくなってしまった。





 「楓くん、大きくなってたなぁ」

 幼いころから玲奈と三人で登園して、一緒に遊んで、家に帰ってからもお母さんが迎えにくるまでずっと遊んでいた。気の強かった玲奈と、負けず嫌いだった楓くんはいつも何かしらの勝負や競い合うことばかりしていて、特に仲がよかったはず。

 それでも彼は、必ず私をその輪の中に入れてくれていた。人見知りで、引っ込み思案で、なかなか友達が作れずにいた私に、いつも一番に名前を呼んでくれて、私のことを気にかけてくれていたのが楓くんだった。


 『おいで、仁花!あっちで一緒に遊ぼうよ!』

 『仁花は玲奈より俺と遊ぶほうが楽しいよなー!』

 『つらいことがあったら俺に一番に言うこと。いい?分かった?』

 そんな楓くんのことを、物心ついたときから好きになっていた。小学校も高学年になるにつれて頻繁に一緒にいることはなくなったけれど、それでも楓くんは変わらず私との接点を持ち続けてくれていた。

 そんな私の初恋の人に、自分の口から『仁花はいなくなった』なんて言いたくなかった。再会できて嬉しいはずなのに、今はそれよりも不安のほうが大きく上回っている。



 “なんで俺の目にはお前が仁花にしか見えないんだろうね”

 楓くんのあの言葉が、私の頭から離れない。

 この上ないほど嬉しい言葉のはずなのに、素直に喜べない今の状況が余計に私の心を押し潰してくる。


 本当は言いたいよ。

 『私が仁花だよ』って。
 『もう一度会えて嬉しい』って。

 玲奈のこと、今の状況のこと、お母さんのこと、全部楓くんに言ってしまえたなら少しはラクになるだろうか。

 本当のことを伝えたとしたら、楓くんはどう思うだろう。



 「……なんて、ね」

 言えるわけないって、分かっている。

 こんなこと伝えたら、きっと楓くんは私のことを軽蔑してしまうかな。玲奈とは全く違う私なのに、それでも玲奈として生きているだなんて知られたら、恥ずかしくてたまらない。


 「バレないように、しないと」

 無意識のうちに握りしめていた拳は、手のひらに爪が食い込んで痕になっている。

 私はそんな爪痕を眺めながら、残りの休憩時間を過ごしていた。






*****


 「バイトお疲れ」

 「……楓くん」

 『LinLin』のバイトを終えて裏口から外へ出ると、そこには楓くんが一人で私を待っていた。バイト中、楓くんと友人たちは途中でお会計を済ませてカフェを出て行ったから、てっきりもういないものだとばかり思っていた。

 手に持っているトートバッグのハンドルを、ギュッと握りしめる。



 「とりあえず場所変えよっか。どこがいい?店に入る?それともその辺にある公園でも行く?」

 「……じゃあ、公園で」

 「分かった。こっちおいで」

 昔と同じように、楓くんはヒョイヒョイと手招きして私を呼ぶ。

 なんだかその仕草に照れてしまって、私は俯いたまま小走りに彼との距離を詰めた。

 空はオレンジ色のきれいな夕焼け空に染まっている。春ならではのあたたかい風が、私と楓くんの間を通り抜けた。

 「もう絵は描いてないの?」

 「え?だ、だから私は仁花じゃないって……」

 「ううん。俺、ずっと考えてたんだけど、やっぱりお前は仁花だよ」

 「……!」


 はっきりとそう言い切った楓くんの言葉に、私の心臓はドクリと不穏な音を立てはじめる。


 なんで楓くんは騙されてくれないの?

 お父さんやお母さんでさえ、すぐには見分けがつかないほどそっくりな私たちなのに。似てないところなんて、目には見えない内面や性格だけのはずなのに。




 「俺と玲奈は仲が悪かったから、玲奈はそんなふうに俺のことを『楓くん』なんて呼んだりしないはずなんだよね」

 「仲が、悪かった?そんなはずは……っ」

 「小さい頃から仁花と一緒に遊びたくて、玲奈と毎日のように取り合いになってたから、俺たちは仲が悪かったんだよ」

 「そんなっ」

 「知るわけないよね、だってきみは仁花なんだから」


 何か言わなくちゃ。違う、私は『玲奈』だって……反論しなくちゃ。

 黙っているのが一番良くないと分かっていても、これ以上なにか喋るたびに嘘がバレてしまいそうで怖くなる。



 「どんな事情があってきみが玲奈のフリをしてるのか知らないけど、俺の前では演じなくていいよ」

 「……めて」

 「あれだけ上手だった絵も描いてないんでしょ?また描きなよ、やめるのはもったいない」

 「もうやめてってば!!」

 どうして?なんで、そんなふうに容易く演じなくていいって言うの?私がこの一年、どんな思いで玲奈の人生を歩んできたのか……楓くんは何も知らないくせに。

 悔しいのか、悲しいのか、どの感情のものなのか分からない涙が次々にこぼれ落ちていく。

 こんな姿、見られたくないのに。反論もできなくて代わりに涙を流すだなんて、それを認めてしまったも同然だ。『止まれ、止まれ』と言い聞かせながら、それでも止まってくれない涙を服の袖で雑に拭いとった。





 「……ごめん。俺が悪かった」

 少しの間を空けて、楓くんはそう言いながらこちらへ歩み寄って、ゴシゴシと涙を拭う私の手を掴んでやめさせた。

 代わりにそっと彼の人差し指は私の目尻に当てがわれて、溢れる涙を優しく拭き取ってくれる。



 「もう何も言わないから、泣かないで」

 「……」

 「でもさ、俺も数年ぶりに日本に帰ってきて、お前に会いたかったってのは本当だから」

 「……」

 「だからまた、俺と会ってくれる──?」







*****


 「いよいよ始まっちゃうねぇ!高校生最後の大イベント!」

 「あたし今年は勉強に集中するつもりだから、ほとんどパスだけどね」

 「ねぇ、ちょっと!そんなしらけたこと言わないでよ和佳!」


 親睦会を終えて、ゴールデンウィークも終わった五月。朝のホームルームで担任の先生から伝えられたのは、この学校大一番のイベント『文化祭』についてだった。

 三葉高校の文化祭は全国的にとても有名で、『文化祭ウィーク』と呼ばれる一週間もの間、さまざまな学科や部活動が惜しみなく催し物を行う一大イベントだ。

 玲奈が専攻していた流通販売・経営科は、初日に行われるクラスの催し物で、仕入れから販売までを手がけて、その利益やデータを分析し、一年を通して改善策やこれらを活かして次に繋げるための勉強を行なっていくことになっている。

 みのりのファッションデザイン科は、毎年この文化祭ウィークに開催されるファッションショーに向けて制作を行うらしく、そこには有名なデザイナーや企業の人たちも見学に来るから、自分の名前を売り込む絶好のチャンスなのだとか。



 「私たち、今年は演劇やんなくちゃ、だよね!主役はもちろん……?」

 「あたしはパスで」

 「ねぇ!和佳はもうちょっと文化祭に積極的になって!」


 文化祭は毎年、一年生は学年全体でダンスを披露して、二年生はクラスごとのショートムービーを作成し、そして私たち三年生はクラスごとの演劇をすることが決まっている。

 中でも三年生は最高学年ということもあって、どの学年よりも主役として規模のでかい催しを開催することになっていた。




 「(そういえば、玲奈は演劇部に所属していたんだっけ)」

 一年生のとき、地区の演劇大会ではじめて主役を勝ち取ったことを嬉しそうに話していたのを思い出した。

 けれど、私が『玲奈』になってから演劇部はすぐにやめてしまった。元から人前に出ることが苦手だったし、そうじゃなくても目立たないように過ごす必要がある私には、演劇部は重荷でしかなかったから。

 演劇部の部長や副部長からは何度も『やめないでくれ』『次の公演だって決まっているのに』と散々言われたけれど、『姉の“仁花”を亡くしてそれどころではない』と言うと、それ以上お願いされることはなくなった。



 「ってかあたしたち、受験生だってこと忘れてないよね?」

 「うわっ、和佳って楽しい雰囲気を壊す天才だね」
 
 「現実を言ったまででしょ」

 「和佳は東京の大学志望なんだよね?玲奈は?」

 「え?」

 「そういえば、玲奈の進学希望ってまだ聞いたことない気がする。調理師の免許が取れる専門学校に行きたいんだったよね?」

 「玲奈の将来の夢って自分のカフェのお店を持つことだったもんね!一年生のときから将来が決まっててすごいって思ってたもん!」

 「あー、うん!そうそう!でもまだどこの専門にしようか決めかねてるんだよねぇ!」


 これも、全部嘘だ。

 私はこの学校を卒業したらどうすればいいのか、それすらも分からない。


 玲奈のように料理はあまり得意ではないし、調理師になりたいとは思っていない。そもそも、高校を卒業しても私はまだ『玲奈』で居続けなければならないのだろうか。

 世間から死んだことになっている『仁花』に、もう一度戻ることなんてできるのかな。



───……

 《先日未明、高校二年生の女子生徒がトラックに撥ねられ死亡しました》

 《見晴らしのいい交差点で、トラックの運転手が赤信号の交差点に突っ込み、高校二年生の片瀬仁花さんが亡くなりました》

 《警察の調べによると、トラックの運転手は脇見運転をしており、一瞬目を離した隙に起きた事故だと供述しているとのことです》


───……


 ニュースや新聞、ネット記事にはしっかりと私の名前が書かれてあった。

 当時はそんなニュースや記事を目にするたびに、『仁花』は生きている。死んだのは『私』じゃないと訴えたくてたまらなかった。私はこうして生きているのに、世の中から消されていく感覚が怖くてたまらなかった。

 けれど、あれだけ騒ぎ立てていたニュースや記事も、十日もすればすっかり忘れ去られていた。結局は他人のことなんてその程度のことで、片瀬『仁花』だろうと『玲奈』だろうと、大半の人は覚えてすらいないんだということが分かった。

 深く抉られるような傷を追うのは、今を生きている当事者たち。私と、お母さんとお父さん、それから『玲奈』のことを知る人たちだけ。

 私の心の中にできたこの傷は、きっと一生癒えることはないだろう。



 「(高校を卒業したら、『玲奈』として生きることも一緒に卒業できたらいいのに)」


 私が『仁花』に戻れたら、何がしたいだろう。

 まずは思いきり絵を描いてみたい。いろんな場所へ足を運んで、見たもの、感じたものをそのままキャンバスに閉じ込めたい。

 それから、『仁花』は高校を中退している扱いになっているはずだから、もう一度ちゃんと勉強して大学生にもなってみたい。大学生活は中学や高校とは違って、うんと自由で楽しいキャンパスライフを送れるのだと聞いたことがあるから。

 日本や外国の有名な美術館にも行ってみたいし、陶芸制作にもチャレンジしてみたい。玲奈のように華やかには生きられなくても、『私』にだってちゃんとやりたいことがあった。

 そんな『やってみたいリスト』を絵空事のように頭の中で作りあげて、小さく微笑んだ。



 「そうだ、玲奈は演劇の主役に立候補しないの?」

 「え?どうして?」

 そのとき、みのりの何気ない問いかけに一気に現実へ引き戻された。

 私が演劇の主役に?どうして?



 「だって玲奈、ずっと言ってたじゃん。この文化祭にかけてるって」

 「あぁ、言ってたね。高校最後のこの文化祭で、絶対主役張って見せるんだって」

 「い、いや私はもう別に……」

 「自分以外の誰かを演じることって素敵だってあれだけ言ってたのに、チャレンジしなくていいの?最高の思い出を作るってずっと言ってたのに」



 自分以外の誰かを演じることが、素敵なこと?

 そんなはず、ないよ。そんなわけない。少なくとも私は、『玲奈』を演じて生きること自分の今を素敵だとは微塵も思っていない。



 「……やらない。演劇なんて、もうしないよ」

 「ふぅん、そっか」

 「玲奈がまたやりたくなったら、でいいんだよ。急がなくていいし」

 「ありがとう、和佳」

 「なんか、玲奈って変わったね」

 「……え?」


 ──キーンコーンカーンコーン。

 みのりの最後の言葉と、授業がはじまるチャイムの音が重なって、その意味を聞くことができなかった。

 先生が教室に入ってきて、みんなは一斉に自分の席に戻っていく。



 「それじゃあ授業を始めるぞー。教科書はこの前の続きから……」

 一人になった私は、授業中もずっとみのりのあの言葉が頭から離れなかった。『玲奈って変わったね』って、どのあたりを見てそう思ったんだろう。

 演劇の主役をしなかったから?断ったから?そうじゃないとしたら、普段の態度や喋りかた?

 少し気を緩めすぎたかもしれない。高校を卒業してみのりや和佳たちと離れるまであと一年だからって、油断しちゃダメだ。




 「(もっと、『玲奈』にならなくちゃ……っ)」

 もっともっと、あの子に近づけるようにしないと……気付かれてしまう。


 私はギュッと目を瞑って、心の中で唱え続ける。

 私は『玲奈』だ、『仁花』じゃないんだと──。






*****


 それから私たちは、それぞれの進路対策や資格の勉強と両立して、文化祭に向けての準備で学校全体が慌ただしくなっていた。和佳やみのりたちとは同じクラスとはいえ、選択している科がみんな違うから、必須科目以外で授業が被ることはない。

 とはいえ、和佳とみのりは時間さえあればいつも私のところへやって来て、他愛もない話で盛り上がる。

 けれど、今日はお昼休みは少し雰囲気が違っていた。



 「和佳、元気ないけどお腹でも下してんの?」

 「うるさい、みのり。今あたし機嫌悪いから放っておいて」

 「あ、この前の定期テストの結果が思わしくなかったんでしょ」

 「……うるさいってば」


 私たち三人の中で一番大人っぽくて、艶のあるロングヘアが特徴の和佳は、私の机に項垂れるように顔を突っ伏した。

 「和佳、大丈夫?」

 「んー……」


 和佳の家族はお父さんが医者で、お母さんが税理士、上に二人いるお兄さんはどちらも弁護士というハイスペックな家庭なのだとみのりが言っていた。

 そのせいか、両親からの勉強に対するプレッシャーがすごくて、和佳はいつもそんな家族を嫌いながらも、期待に応えるように定期テストでは常に学年一位をキープし続けている。

 私もみのりもそんな彼女のことを褒めると、和佳は決まって『こんな学校で一位になっても仕方ないんだけど』と返すのが常だった。

 どうやら彼女は本命の高校受験に失敗していて、滑り止めで受けたこの私立三葉学園に入学せざるを得なかったのだと、自分を嘲笑うように話していた。



 「(和佳の顔、真っ青だ……)」

 二年生のころも少しの空き時間を見つけては教科書やワークを開いてひたすら問題を解いていたイメージがあったけれど、受験生と呼ばれる三年生に進級した今、和佳は切羽詰まったように勉強に齧り付いている。


 「あのさ、和佳。塾はどこに通ってるの?」

 「え?……あぁ、両親の友達が経営している家庭教師と、あとは明和塾ってところだけど……」


 私の質問に、和佳は途端に顔をあげて驚いたような表情を見せた。そんな和佳の顔を見て少し疑問に思いながらも、過去に私が通っていた塾を紹介してあげようとスマホを取り出す。


 「あのね、ここ天馬塾って言って個人でやってる小さい塾なんだけど、志望校が決まってるならここがおすすめだよ。志望校に特化した過去問とか、先生が手作りで作ってくれるから」

 「……」

 「名前のとおり、天馬先生が講師として教えてくれるから、よかったら一度……って、和佳?聞いてる?」

 「あ、あぁ、ごめん。なんか意外すぎて」

 「意外?なにが?」

 「だって玲奈があたしに勉強のことを教えてくれるなんて、初めてだったから」

 「あっ」

 目を丸くして驚いたといわんばかりの和佳を見て、ハッとした。

 そうだ、玲奈はあまり勉強が得意じゃなかったんだ。むしろいつも『数学と理科なんて滅んじゃえ』と叫ぶような子だった。




 「あ、えっと、ほら、私のお姉ちゃん……『仁花』が通ってたんだよ!すごくいいって聞いてたから、和佳にどうかなぁって思っただけ!」

 「そっか。そう、だよね。玲奈のお姉さん、県内で一番頭のいい高校に通ってたんだったね」

 ──また、失敗した。

 いくら和佳の力になりたかったとはいえ、塾のことは言うべきじゃなかった。





 「なになにー?なんの話してんの?」

 「あ、ううん?それよりみのり、文化祭に出展する洋服はもうできそう?」

 「玲奈までそれ聞いちゃう?超ギリギリどころか、一日でも風邪引いて休んだらアウトなスケジュールでやっておりまぁす!」

 「アッハハ!それかなり危ない橋渡ってない?」

 「玲奈も暇なら手伝ってよぉ」

 嫌な空気感を消したくて、お手洗いから帰ってきたみのりの話題に強引にすり替えた。

 お昼休み、早く終わってくれないかな。未だに何か腑に落ちていない様子の和佳を横目に、教室の壁にかけられてある時計を見た……そのとき。




 「ねぇ、片瀬さん!」

 「いきなりなんだけど、うちら三年二組の演劇、主演やってくれない!?」

 「……え?」

 体を前のめりにさせる勢いでそう言ってきたのは、普段は滅多に会話をすることのない同じクラスの笹原さんと大島さんだった。





 「片瀬さん、演劇部だったでしょ?うちらのクラス、あたしと大島以外に演劇部がいなくて」

 「しかも二人とも演者じゃなくて裏方とシナリオ担当だから、実質舞台に立てる人がいないの!」

 「い、いや私は……っ」

 「お願い片瀬さん!このままだとうちらのクラスは最下位になっちゃうよ!」

 「もう頼れるのは片瀬さんしかいないんです!」

 深く頭を下げる笹原さんと大島さん。

 その勢いに呑まれそうになりながらも、私は首を横に振る。





 「ごめん、私にはできない」

 「なんで!?演劇部にいたころ、あれだけ一生懸命だったじゃん!」

 「主役のオーディション、満場一致で片瀬さんになるくらい才能あるのにもったいないよ」

 それは、『玲奈』だからだよ。

 私は玲奈みたいに、大勢の人の前で何かを喋ったり、演じたりなんてできない。




 「本当にごめん。私は……」

 「部を辞めた理由って、お姉さんが事故で亡くなったから、だったよね」
 
 「そう、だけど」

 「でもそれって、もう一年も前のことだよね!?」
 
 「……っ?」

 「もうそろそろ、立ち直れない?」

 笹原さんのそんな一言に、心臓が大きく跳ねた。

 となりにいた大島さんは、肘で彼女のことを突きながら「言い過ぎだよ」と小さな声で牽制する。





 「(なんなの、この人)」

 『玲奈』を必要としてくれていることは分かっている。きっと本気で文化祭の劇のことを考えてそう言っているということも理解できる。

 だけど、笹原さんのその言葉がすごく嫌味のように突き刺さってくるのは、私の心が狭いせいだろうか。





 「ちょっと、玲奈はやらないって……」

 「──あたしは賛成だよ」


 困り果てた私に手を差し出すように止めに入ろうした和佳を遮ってそう言ったのは、みのりだった。

 どうしてみのりは、そうも私に演劇の演者を務めさせようとするの?



 「私も玲奈が演劇に出ることは賛成だよ」

 「なん、で?」

 「だって玲奈、あれだけ頑張るって言ってたじゃん。お姉さんの事故のことで演劇部を辞めちゃったのは仕方ないけど、この高校生最後の大舞台でまだ逃げ続けてると、いつか後悔するんじゃないかって思うんだよね」

 「……っ」

 「それに、玲奈ならここまで断ってる人たちのお願いを断ったりしないでしょ?玲奈って昔から困ってる人を放っておけないタチだってのは知ってるし。……これだけ玲奈を必要としてくれてるんだから、さ?」

 「!?」


 ──ダメだ、何を言われても断らなくちゃ。

 人前で何かを演じるなんて、小学生の学芸会以来やったことのない私ができるはずないんだから。

 だけど、みのりの含みのある言い方が私の判断を鈍らせていく。



 「お願い、片瀬さん!」

 「シナリオのほうも片瀬さんの意見を反映させるようにするし、文化祭の他の仕事はあたしたちがカバーするから!」

 「で、でもっ」

 「あたしも応援するよ、玲奈?」

 「和佳まで……っ」


 みんなの視線が、痛い。

 絶対に引き受けないほうがいいに決まっているのに。できないことを引き受けるわけにはいかないのに。



 《だって玲奈、ずっとこの文化祭を楽しみにしてたんでしょ?》

 《高校最後の文化祭、絶対主役の座を勝ち取るって言ってたじゃん?》



 私は、『玲奈』じゃないんだよ。
 だから、だから───。
 

───……

 『あのね、仁花!あたし演劇部の主演オーディションに合格したんだよ!』

 『今、猛特訓中なんだよね!』

 『小さいハコだけどさ、今度観に来てよ!』

───……


 けれど、心の底から嬉しそうに話していた玲奈の記憶が蘇ってきたとには……言葉が先走ってしまっていた。

「……分かった。やるよ」



 笹原さんと大島さんの顔が、パァッと明るくなっていく。

 みのりや和佳も同じような表情を浮かべながら『練習ならいくらでも付き合うからね!』と言った。





 「……っ」

 いいな、玲奈は。こういうとき、本当に妹は友達に恵まれていたのだと、改めて思い知らされる。

 いろんな人から必要とされて、玲奈自身も必要とされるだけのスキルを持っていた。

 自分でカフェを経営するという夢を持ちながら、そのために最適な学校を選んで、背中を押してくれる友達がいて、周りから懇願されるほどの才能を持っていて。

 同じ姿をしたそっくりな双子の姉妹なのに、ここまで雲泥の差を見せつけられると、こう思わずにはいられなくなるんだ。

 “あのとき、玲奈じゃなくて私が事故に遭っていればよかったのに”って。



 そうしたらもっとみんなが幸せになれたのに。

 お母さんは玲奈と離れずに済むから、今のように精神的な揺らぎをぶり返すこともなかったはず。私が突然この世を去って学校からいなくなったとしても、それすら気付かない人がほとんどだろう。

 だけど、玲奈がもうこの世からいなくなったと知ってしまったとき、いったいどれだけの人が悲しむだろうか。




 「(あぁ、私、ここにいちゃいけない気がする……)」

 『玲奈』として生きるようになって、お母さんも、友達も、楽しい学校生活も、すべて手に入った。

 だけど、私は満たされない。 それどころか、どんどん空っぽになっていって、自分の存在が透明になっていくような気がして苦しくなる。


 当たり前だ。だって私は、玲奈じゃない。

 「(私はどんなに頑張っても、『玲奈』にはなれないんだ──)」






*****


 「──仁花?」

 「……あ」

 「あ、やべっ。また名前呼んじゃったな」

 家の近くにあるカフェの店内で、向かい合って座っているのは楓くんだ。

 彼と久しぶりに再会したあの日に交換していた連絡先から、『また学校が休みの日、会わない?』とメッセージをもらって今に至る。



 「日本の学校って宿題多すぎない?頭痛くなりそうなんだけど」

 「……」

 「ってか、案外日本語ペラペラ喋れて感動してんだよね俺。どう?違和感ないでしょ?」

 「あ、うん。そうだね」

 「……何か悩みごとでもあんの?」

 だらりと姿勢を崩して肘をつきながら、上目遣いで私を覗き見る楓くん。

 机の上に広げている現社の宿題であろうプリントは、まだ一文字も埋まっていない。





 「ほら、その手に持ってるの……それなに?」

 「あ、えっと、これは夏休み明けにある文化祭の演劇でやることになったシナリオだよ」


 注文していた私のアイスカフェラテが、カランッと氷の音を立てた。楓くんが頼んだアイスブラックコーヒーは、もうほとんど飲み干されている。

 最近、この演劇を引き受けることになってしまったストレスのせいか、お腹の調子があまりよくない。昔からストレスを抱えるとお腹にくる体質のようで、久しぶりに胃がギュッと締め付けられるような痛みに襲われる。

 一番酷かった時期は、玲奈としての人生を強要されたときだった。

 不安で、怖くて、玲奈になんてなれるわけがないと思いながらも、逃げることさえ許されなかったあのとき、何度も意識が霞んでしまうほど露骨に胃が大荒れだった。

 今はあのときほどではないけれど、やっぱりかなり負担になっていることは確かなようだ。




 「演劇に出るの!?すごいじゃん!」

 「……の、予定だけどやっぱり断ろうかなって」

 「なんで?やりたいならやればいいのに」

 「や、やりたくないよ!大勢の人前で……って」


 ──私のバカ!

 それは仁花の台詞だ。玲奈はそんなこと絶対に言わない。

 楓くんはあの日以来、かなり疑いながらも私のことを『玲奈』として見てくれているようだ。たまに『仁花()』の名前を間違えて呼ぶこともあるけれど。



 「れ、練習してるの!今、猛特訓中だよ」

 「やりたくないなら、無理してやらなくていいんじゃない?」

 「……へ?」

 楓くんは淡々と、一直線に私を見ながらそう言った。

 どうして楓くんの言葉は、こんなにもダイレクトに私に突き刺さってくるんだろう。




 「今さ、お腹痛いでしょ?」

 「な、なんで?」

 「アッハハ!やっぱり昔から変わってないね、『仁花』。小学生のときさ、学芸会の発表の一週間くらい前から、いつも緊張とか不安でお腹が痛いって言ってたもんね。くちびるも真っ青になってて、あのときは玲奈と二人でかなり心配してたんだよ?『仁花』のこと」

 「だ、だから私は……」

 「あぁ、ごめん。きみは今、『玲奈』だったね」


 きっと、もう楓くんにこれ以上嘘はつけない。私が『仁花』であることを分かっている。

 だけど、無理に問い詰めようとしたり、強引に正体を暴こうとしたりしてこないのは、きっと彼なりの優しさなんだろう。今だって、カフェの店員さんにホットゆず茶を注文して、それを私に差し出した。



 「お腹を休めるにはホットがいいらしいよ、飲んで?」

 「あり、がとう」

 どうして楓くんは、私が『仁花』だということを知っていてもなお、こんなふうに優しく接してくれるんだろう。

 玲奈じゃない私になんて、何の価値もないのに。




 「劇の話に戻るけどさ、どうしてもやりたくないなら無理しなくていいんだよ?」

 「でも」
 
 「もっと自由でいいんだよ、『仁花』」

 「……!」

 「聞いて?でもさ、それを一度でも引き受けたってことは、心のどこかでイエスと応えてしまうようなキッカケがあったんじゃない?」



 そうだ、私は完璧に断るつもりだった。演技なんてできるわけがないと今でも思っているし、目立って私が玲奈じゃないとバレてしまうかもしれないというリスクしかなかったからだ。

 だけど、あのときふと脳裏に浮かんだのは、玲奈の顔だった。月に数回会うだけだった私に、とびっきりの笑顔を見せながら演劇部の主演を掴んだのだと語ってくれたあの言葉たちが蘇って、気づけば『やります』と答えてしまっていた。

 何より和佳やみのりから『玲奈はずっとこの文化祭を楽しみにしていた』と何度も聞かされていたから、あのときはあれ以上断ることができなくなってしまったんだ。


 
 「何が言いたいかっていうとね、一番大事なのは『仁花』の気持ちなんだよってこと」

 「玲奈、だってば」

 「自分を最初に守ってあげられるのは、自分なんだから」

 「……っ」

 「だからさ、頑張ってみるのも、諦めて辞退するのも、どっちもアリなんだよ。『仁花』の自由だ」