鋭くぎらついた眼光が百合子を捉える。美しくも恐ろしい鬼の姿に、百合子は怯えきっており、黒い靄はすっと消えていった。
 柊羽は百合子をにらみながら、座り込んだまま立てなくなっていた椿を抱き寄せる。

「すまない、遅くなった」
「旦那、さま……どうしてここが?」
「テマリの妖力が急に弱ったからな。奴に何かあれば、きっと君も危険な目に遭っていると思った」

 淡々と説明する柊羽の顔色は平然としていたが、つう、と頬から首にかけて汗が流れたのが見えた。もしかしたら急いで駆けつけてくれたのかもしれない。
 すると向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。見れば、見知った顔がいくつか見受けられる。藤堂家の当主と、伯父夫婦だ。
 柊羽は狐の姿のまま気を失っているテマリを椿に抱えさせると、そのまま担ぎ上げた。

「だ、旦那様!?」
「屋敷に戻るにはこのほうが早い」
「そ、そうかもしれませんが……っ!?」

 椿が言い終わる前に柊羽が地面を蹴り上げる。音速の領域に近しいその移動は、あっという間に百合子の姿は見えなくなってしまった。
 取り残された百合子は、駆けつけた慧山たちによって保護された。うっとりと見つめる先は、柊羽が消えていった方向だ。いつもと様子がおかしい百合子を見て、伯父夫婦は慧山にこそっと話しかける。

「おい、百合子に一体なにがあった?」
「わかりません。直前まで一緒にいた者によれば、あの出来損ないと再会したとしか……」

 慧山たちは途中までこの近辺で商談しており、百合子は暇つぶしに散策に出ていた。すぐにこの場に駆けつけられたのは、一緒にいた使用人が百合子の異常さに気付き、急いで慧山たちを呼んできたからだ。

(とはいえ、ここに来るまでに見えたあの妖気は一体……?)

 慧山の頭によぎったのはもう一人の娘――椿だった。紫月家に嫁いだまま、文を一つも送ってこない、藤堂家の裏切り者。そう断定した矢先、今まで衰えていた紫月家の士気が高まりつつあることを風の噂で耳にした。それも、椿が紫月家に嫁いだ翌日に。

「……まさか」

 ふと浮かんだ推測に、思わず首を振る。もしそうだとしたら、自分はなんて過ちを犯してしまったのだろう。
 頭を抱えたそのとき、百合子がうっとりとした表情で呟いた。

「あ、あの方が……紫月家当主……」

 なんて美しい。
 恍惚な笑みを浮かべる百合子を見て、慧山はとある妙案を思いついたのだった。


 柊羽に抱えられたまま屋敷に着くと、テマリはすぐに目を覚ました。
 妖力が急激に減ってしまったことで人型の姿では耐え切れなかったようだ。回復するまではしばらく狐の姿のままらしい。それでも会話はできるようで、起きてすぐの第一声は、椿の無事に安堵する声だった。

『申し訳ございません。私が不甲斐ないばかりに……』
「そ、それは違います、テマリちゃんは何も悪くありません。悪いのは……」

 途端、顔色を変えた百合子が思い浮かぶ。やり取りを見られてしまった今、テマリを巻き込んだのは自分であると思うと、言葉を詰まらせる。このまますべてを話してしまえば楽になることもわかっているが、それは最初から柊羽とテマリを裏切っていたことを暴露するのと同じだ。

(でもこれ以上、旦那様とテマリちゃんを巻き込むわけには……)
「おい」

 すると、いつもの面を被った柊羽が椿の前にやってきた。面越しからでも伝わってくる圧力に、椿は体を強張らせる。

「正直に答えろ。――君は、『藤堂百合子』か?」

 核心を突かれ、椿は言葉を詰まらせる。柊羽から殺気に近しい気迫が肌を刺すように感じとると途端に呼吸が苦しくなった。
 もう隠しきれないと悟ってしまった。殺されて当然のことをしているのに、死ぬのが怖いだなんて、なんておこがましいんだろう。――そんな都合のいいことを思い浮かべては自分に呆れた。
 椿が答えに戸惑っていると、柊羽が大きく溜息をついた。

「……もういい」
「え……」
「もういい。もう聞かない。テマリが動けない以上、当分部屋から出るな」

 そう言って部屋に戻っていく柊羽は冷たくて、心底呆れた声をしていた。『主様、お待ちください!』と、その後を追うテマリも、まだうまく動かせない体に鞭打って懸命に追いかけていく。その場には椿だけが残った。

(……答えられなかった。私はお姉様じゃないって、『幸運の異能』なんて持っていないって、怖くて言えなかった)

 本当のことを言ってしまったら、もうこの家にはいられないと思った。
 一切顔を合わすことのない夫に愛はないはずなのに、椿の好みに合わせたものを選んでくれたことも、実家で奴隷同然だった自分に不器用ながらも繋がりを作ってくれようとしたことも、全部、全部なかったことにしたくない。
 いつしかその感情を、知りたいと思ってしまった。

(それなのに私は、テマリちゃんを危ない目に遭わせただけでなく、旦那様にあんな顔をさせてしまった)

 去り際に見えた赤い瞳が揺らいでいたのを、椿は気付いてしまった。眉間に皺をよせ、泣きそうに睨みつける柊羽の表情は、怒りさえも込められているように思えてならない。

「……もう、ここにはいられない」

 椿は何かを決意すると、急ぎ足で自室へ戻り、箪笥に大事にしまってあった小さな椿の花がついた簪を取り出した。亡くなった母親の唯一の形見だ。大事なときまで大切に仕舞っておくつもりでいたが、今がそのときだ。

「お母様……どうか見守っていてください」

 椿は祈るように、簪を胸元にぎゅっと押し当てた。