突然、後ろから懐かしい声が聞こえた。反射的に振り返ると、そこにはやつれた様子の百合子が立っていた。以前の美しい髪は乱れており、派手な柄の着物に着せられているような状態だった。
「お、おね――っ!?」
お姉様、と喉から出かけたところで慌てて両手で口をふさぐ。今の椿は、「幸運の異能を持つ百合子」だと偽っているのだ。隣にいるテマリに知られるわけにはいかない。
しかし、百合子は隠すことなく、椿に掴みかかった。
「あなた、なんでそんな上等な着物を着ているの? その肌艶は? どうして、どうして殺されていないのよ!?」
「や、やめてくださいっ!」
「ちょっと! 奥様に何を――」
「うるさいわね! 召使いごときが、私にたてつくなんて無礼よ!」
興奮状態の百合子は、間に入って止めようとするテマリを突き飛ばすと、さらに椿に詰め寄って胸倉を掴んだ。彼女の瞳は真っ黒で、異常だった。
「まさか……今まで文を寄越さなかったのは、自分が今一番いい思いをしているからだったの? 藤堂家の未来など捨てて、自分だけが裕福な暮らしができればいい? なんて醜い子なのかしら!」
「お、落ち着いてください、冷静に――」
「私に逆らう気!? あなたが家を出て、藤堂家が没落の危機なのに、どうしてあなたは他人でいられるの!?」
「……没落? 待ってください、没落ってどういうことですか!?」
藤堂家は言わずも知れた名家である。簡単に没落するようなことは絶対にありえない。それに当主である慧山は策士で、幸運を招く異能と彼の知識があればある程度の困難は乗り越えられると思っていた。
屋敷に閉じこもっていたからとはいえ、実家が没落したとなれば少しは情報が入ってきてもいいはずなのに、初めて現状を知った椿は顔を真っ青にした。それを見た百合子が呆れたように大きな溜息をついて、胸倉を掴む手に再び力がこもった。
「……ああ、そういうこと。随分お気楽ね。実家のことなんてもうどうでもいいのね、私が藤堂家に尽くしてきたのに、あなたはいつも他人事のようにしていたものね」
「お姉様……」
「いつもそう! 落ちこぼれのあなたはいつも楽して、私に全部押し付けて!」
まっすぐ百合子の目を見ると、うっすらと涙が浮かんでいることに気付いた。もしかしたら、椿の知らないところで父親や親族にプレッシャーをかけられていたのだろう。『幸運の異能』を持つからこそ、周囲のエゴに巻き込まれてしまった。
椿は周囲の目を気にしている余裕などなく、掴みかかってくる百合子の頬を両手で包むとすっと息を吸って大きな声で百合子を呼ぶ。
「お姉様っ! しっかりしてください!」
「っ……!? な、なによ……」
実家にいた頃では考えられないほど大きな声を出した椿に、荒れていた百合子が一瞬で大人しくなった。その声は周囲の人々にももちろん聞こえており、野次馬が集まり始めていた。その中の一人がふと「同じ顔?」と呟くと、火がついたように周囲がざわついた。
「二人ともそっくりね……」
「なんだなんだ、喧嘩か?」
空気ががらりと変わったのがすぐに分かった。ずっと優秀な異能者を輩出してきた名家が、こんな街のど真ん中で喧嘩になっているのだから、面白くないわけがない。
「……何てことしてくれたのよ!」
周囲からの疑いの目が向けられ、百合子は椿の手を強引に振り払う。先程よりも殺気に満ちた目で椿を睨みつけると、途端に黒い靄のようなものが百合子にまとわりついた。それ椿だけでなく、その場にいた大勢の目にも見えた。蛇のように絡み付くそれは、まるで呪いのようだった。
「う、うわあああ!! 化け物だ!」
誰かの叫びに、一斉にその場から逃げ出そうとする。椿だけはその場にしゃがみ込んだま動けなくなってしまった。突き飛ばされたテマリが椿のもとに近寄ろうとするも、途端に苦しみだし、狐の姿に戻ってしまった。他にも、近くにいたあやかしたちが苦しそうに胸を押さえている。
(あやかしにしか効いていない……? あの黒い靄が、妖力を吸い取っているの?)
ならば尚更、テマリを遠くに連れて行かなければ。椿は震える足に鞭を打って、テマリのほうへ向かおうとする。しかし、それを遮るように百合子が椿の腕を掴んで離さない。
「お姉様、離してください!」
「うるさい! 私は、私は『幸運の異能』を持つ女なの、無能なあなたが幸せになっていいわけがないのよ!」
百合子の身体にまとっていた黒い靄がゆっくりと椿に向かっていく。禍々しいそれから逃れようとしても、百合子が離そうとしない。もはや逃げる術はない。
ふと、椿の頭に浮かんだのは柊羽の姿だった。片手で数える程度の対面でしかないが、素っ気ない態度も、耳に残る低い声も、不思議と覚えている。
(最後でもいい、一目でもいいから――)
「旦那様……っ!」
もう駄目だとぎゅっと目を閉じたその瞬間、突然百合子の悲鳴が上がった。悲鳴なのか、叫び声なのか、金属音にも近い金切り声が周囲に響き渡る。
「――その言動、誰のものに手を出しているのか、わかっているのか?」
低く、苛立った声がすぐ近くで聞こえた。そっと目を開くと、目の前には見慣れた広く大きな背中が、椿を隠すようにして立っていた。
その声の主――紫月柊羽は普段からつけている奇妙な仮面を外して百合子を見下すと、さらに続けた。
「この女は紫月家の嫁だ。危害を加えるようなら容赦はしない」