これからの生活に心躍らせたのも束の間、婚儀を終えたその日から柊羽は椿と顔を合わせることはなかった。
 屋敷の中にいても食事は別に取り、外に出ることも少なく――妖力で移動することが可能なため、いちいち玄関から外に出ることはしないらしい――、せめて朝と夜だけ挨拶ができればと椿から申し出たものの、すぐに却下されてしまう。
 何度か声をかけたことがあるが、反応が返ってきた試しはない。唯一柊羽の部屋に入ることが許されているのはテマリだけで、椿はそのたびに柊羽の様子を聞くが、「普段と変わりありません」と決まり文句が返ってくるばかりだった。

(……謎だわ。旦那様の意図が読めない)

 空の終わりのある日、縁側から見える小さな庭を掃き掃除をしながら椿は考え込んでいた。
 いくら『幸運の異能』を持つ女を嫁にもらったからといって、ここまで放置するものだろうか。慧山の話によれば、『幸運の異能』を確実に利用するには子を身ごもることが早いのだという。あやかしの『座敷童』のように、ただその家にいるだけでも十分その異能を発揮するらしい。しかし、婚儀を終えたその日の初夜はおろか、顔を合わせることもなかった。
 屋敷にはいるものの、そもそも異能を持たない椿が『幸運の異能』を発揮することはまずありえないし、もし百合子ではないと気付かれてしまっていたとしても、噂通りの冷酷な鬼神であれば、すぐにでも殺されているだろう。

(テマリちゃんが以前、旦那様は「人付き合いが悪い」と言っていたけれど、それが関係しているとは思えないのよね……)

 となれば、恥ずかしがり屋? ……などと、いくつか浮かぶが、どれも当てはまらない。

(そもそも、冷酷な鬼神の噂は本当なのかしら)

 口数は少ないし意図は読めないが、欲しいものはすべて買い与え、不自由ない暮らしをさせてくれる、不器用で優しい旦那様。放置しすぎではあるが、放任主義と考えたらそれも良く捉えられるだろう。
 何か別の目的があるのだとしたら――。

「……なんて、ね」

 考えているうちに、ふと別のことが浮かんだ。この屋敷に来てから、食事はテマリととるようになった椿は、知らずのうちに柊羽が来ないかそわそわしていた。

(一緒に食事がしたいなんて、寂しいなんて)
「……言えないなぁ」

 思わず声に出てしまって、口元を抑える。今までずっと一人だったからこそ、今の生活に欲が出てきてしまっている。だからこそ、同じ空間にいて欲しいと思ってしまう。初めての感情に、椿は戸惑いを隠せなかった。

(私、欲張りだったんだなぁ)

 すると、ちょうど廊下の曲がり角から柊羽とテマリがやってくるところだった。

「だ、旦那様!?」

 珍しい。自室から出ないことが多い彼が、廊下を歩いていることを見たのはいつぶりだろうか。確か今日は外で会合に出席すると聞いていたが、帰ってくるのは遅いと言われていたこともあって、椿は思わず声を出して驚いてしまった。相変わらず艶やかな黒髪をなびかせ、優雅に歩く柊羽の姿は美しい。奇妙な面のせいで、顔は完全に隠れてしまっていたが。
 柊羽も庭で竹ぼうきを持っている椿の姿をみて、大きな溜息をついた。

「……君は、そんなところで何をしているんだ?」
「え、えっと……お、お掃除を……」
「使用人にさせておけばよいものを」
「な、何かしていないと落ち着かなくて……出過ぎた真似をしました。申し訳ございません」

 勢いよく頭を下げた椿を見て、また一つ溜息をつく柊羽。すると、手に持っていた包みをテマリに渡すと、踵を返した。

「後は任せる」
「え? ちょっと主様!?」

 慌てるテマリに、状況が読めない。もしかして、怒らせてしまっただろうか。

「て、テマリちゃん、あの……」
「あー……大丈夫です。あの人いつもこうですから。怒っていません。……いや、怒っているのかも」
「ええっ⁉」
「ああ、奥様にではないと思いますよ? 面と向かって話せない自分が、ってところだと思います。それより奥様、休憩にしませんか?」

 テマリが縁側に座って包みを開いて椿に見せる。中には四角い形で二種類のきんつばが入っていた。一つは小豆餡、もう一つは芋餡のようだ。

「とても美味しそうですね。でもこれはどうされたのですか?」
「会合の帰りに主様が購入されました。このためだけに会合を早く切り上げたようなものです。面倒ごとが嫌いなあの人が、仕事を早々に片付け、お土産を買って帰ってくることなんて滅多にありません。……主様ではなくて申し訳ございませんが、私と一緒に食べてくれませんか?」
「……ええ、もちろん! 私なんかでよければ喜んで。少しだけ待っていてください」

 椿が竹ぼうきを小屋にしまい、手を洗って戻ってくる頃には、すでに縁側には小皿に載せられた二種のきんつばと煎茶が用意されていた。

「お茶までご用意していただいて……ありがとうございます。でも、いつもの会合であればもっと遅くなるのだろうと思っておりました」
「そうですね、私もそう思っていました。……ただ、今日の議題は主様へのものだけでしたし、主様が余計な事を話さなかったからこそ、早々に終わったんだと思います。私は詳しくは知らないのですが、奥様がこの屋敷に来てからというもの、衰えていた紫月家の力が増してきているんです。やはり『幸運の異能』は本当でしたね」
(……どういうこと?)

 椿は眉をひそめた。『幸運の異能』どころか、異能すら持っていない椿によって何かが起こるわけがない。するとテマリが「奥様」と真剣な表情で声をかける。

「先代の当主は何十年も前に幼い主様を残して旅立たれました。それからずっと孤独に生きてきたんです。あなたがきてから、少なからず楽しそうにしている様子が見ることができてテマリは幸せです。……だから、どうか主様を見捨てないであげてくださいね」

 冗談交じりに言うテマリに、椿は小さく笑うことしかできなかった。
 置かれた状況からしても、椿は今、柊羽を裏切っている立場にある。今この瞬間にもばれて、殺されてもおかしくないのだ。

「奥様?」
「……いいえ。なんでもありません」
(見捨てないでと言いたいのは、私のほう。もっと会う時間を作って欲しいなんて願うこともおこがましいのに)

 椿は小皿に乗ったきんつばを楊枝で丁寧に切り分けて口へ運ぶ。程よい甘さでどっしりとした餡が口の中いっぱいに広がると、思わず頬が緩んだ。

 ふと、頭に浮かんだのは、新作を作るたびに持ってきてくれた幸文だった。最後に持ってきてくれたのは結局食べずじまいだったが、きっと素敵な菓子だったことだろう。
 椿が藤堂家を出た秋からもうすぐ冬がやってくる。しかし藤堂家について情報は一切入ってきてこなかった。藤堂家からの文はもちろん届いたことはないが、ろくに柊羽と会話をしていないこともあって、椿から送ったこともない。
 幸文だけではない。一緒に過ごしてきた使用人たちの様子も気がかりだった。特に百合子の我儘にいつも対応していたのは椿だ。

(何もなければいいけど……)

 そんな心配をしながら、うっすらと月が見え始めた空を見上げた。