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「旦那様がお呼びでございます」

 ある日、家財の掃除をしていた椿のもとに、父の付き人がやってきた。すらっとしたフレームの眼鏡が光る、いかにも仕事のできる相貌の彼は、最近父に見初められて付き人になったばかりだ。言われるがまま連れていかれた先は、普段掃除以外では立ち入らない父親の仕事部屋だった。
 壁一面の本棚が並ぶなか、中央に置かれたソファには、父親であり藤堂家当主の慧山と、対面に百合子が座っていた。珍しく優しい笑みを浮かべる百合子に、椿は嫌な予感がした。

「旦那様、椿お嬢様を連れてまいりました」
「おいおい、そやつはお嬢でもなんでもない。相変わらず硬い奴だな」

 ケラケラと笑うと、慧山の視線は付き人から椿に移る。今となっては見向きもされなくなったが、物心つく以前から慧山の軽蔑する冷たい視線を向けられてきた椿には、心なしか懐かしささえ感じた。

「お父……いえ、旦那様。私になにか御用でしょうか」
「ああ、そうだ。実はな、我が家に縁談話が来た」

 そう言って話を聞けば、相手はこの国の中でも権力の高い鬼のあやかしだという。しかし、慧山が顔をしかめたのはその後だった。

「実は、その鬼は冷酷な鬼神――紫月家なのだ。無知なお前でも名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「存じております」

 鬼神――荒々しく恐ろしい神のこと。紫月家は一般的に、酒呑童子ではあるものの、若くして当主となった柊羽はその冷徹で残酷な戦い方と昔から無敗ということからいつしか『鬼神』の名を轟かせた。普段は奇妙な面をつけているため、多くの者が顔を知らないが、紫月家の分家が陥れられた際には面を外し、赤く鋭い瞳で相手を見下して本来の能力を発揮し、一掃したのは有名な話だ。
 慧山はさらに続けた。

「どうやら百合子の持つ『幸運の異能』が目当てらしい。紫月家は今、妖力も落ちてきているという噂だからな。百合子を娶ることで異能を発揮させ、立て直しを図っているのだろう。……が、しかし。我が家の大切な娘を鬼神などと物騒な輩に渡すつもりは毛頭ない」
「だから、私の代わりにあなたに行って欲しいのよ」

 慧山の話を遮って百合子が言う。ゆっくりと立ち上がり、椿の前に来ると、その優しく微笑む表情がさらに柔らかくなる。

「紫月は『藤堂家の娘を嫁にくれ』と言っていたの。なら、藤堂家の娘であればよいのでしょう? 私じゃなくてもいいじゃない」

 途端、椿は目を見開いて驚いた。百合子と椿とは容姿も知識も雲泥の差だ。そして紫月家も『幸運の異能』を持つのが百合子であることは少なくとも調べているはず。

「本気で、おっしゃっているのですか……? 私がお姉様の代わりになれと?」
「最初からそう言っているじゃない。野蛮で人殺しの鬼の元に嫁ぐなんて恐ろしいでしょう? それに私は藤堂家の血筋を残す宿命を背負う身……だから、私は紫月の家には行けない。それを伯父様たちに相談したら、佐伯家のご子息である幸文様からの縁談を利用することにしたの」
(幸文様?)
「ええ。実は、幸文様はあなたに縁談を持ちかけていたのよ」

 つい最近顔をあわせたばかりの幸文の顔が浮かぶ。あの日は確か、新作の和菓子を持ってきたと言っていた。実際にその日の夕方に見慣れない和菓子を百合子の部屋に運んだから、実際に用事はそれだけだったのだろうが、椿と話している際に寂しそうな顔をしていたのは、縁談話が話題にでも上がったからだったのだろうか。

「幸文様が……私に?」
「縁談が無理なら養子にしたいとも言ってたわ。……あの人、きっと無能なあなたを可哀想に思ったのね。でも、そうなるとあなたが安全な場所でひっそり暮らすことになる……それは私としては面白くないのよね。だから、私があなたに代わって佐伯家に縁談をうけてあげることにしたの。正確にいえば、幸文様は藤堂家の婿養子になるわ」
「ま、待ってください! それは私に来た縁談でしょう? お姉様が受けるのは筋違いではありませんか?」
「何? 私にたてつく気? 私は、藤堂家の今後を考えて仕方なく好きでもない男と一緒になることにしたのよ。無能でのろまなあなたが藤堂家のために何ができるの?」
「それは……」
「ほら、すぐに出てこないじゃない。紫月家は嫁にもらう代わりに、結納金はしっかり払ってくださるそうよ。身を売るくらいでちょうど良いのではないかしら?」

 椿はそっと百合子の奥で座っている慧山を見やる。厳格な姿勢は崩れることなく、遠くを見つめているその様子から、百合子の提案に異論はないのだと察する。

「……私は無能です。異能を持たないどころか、何の役にも立ちません。紫月の家に嫁いだところですぐにばれてしまいます」
「そんなことを心配していたの? 安心なさい、私が異能の力を込められた物を用意して持たせるわ。鬼神とはいえ、私の『幸運の異能』があれば気付かれないもの。それに、あなたは決して役立たずではないわ」
「……どういうことですか?」
「紫月家の妖力が落ちてきているのであれば、人間の中でも高い異能を持つ藤堂家が配下に付けられるような隙が生まれる。つまり、あなたは紫月家に嫁いで、内情を探ってほしいのよ」
「簡単に言わないでください、身代わりなんて、すぐにばれるに決まっています!」
「大丈夫よ。だって――」

 言葉を一度切ったと思ったら、突然椿のひっつめ髪に手をかけ、強引に解いた。腰まで伸びた黒髪が広がると、百合子はとても嬉しそうな笑みを浮かべて、椿の顔を両手で包み込むと、壁にかけてある鏡のほうへ顔を向けた。
 困惑する者と、楽しそうに頬を緩める者――表情は違えど、同じ顔が並んでいた。

「だって私たち、双子じゃない。顔や体型がそっくりな姉妹で、生き写したかのようなもう一人の自分。身代わりには最適の人材だと思わない?」
「――っ!?」
「大丈夫、欠点を見つけてきたらちゃんと迎えにいって、また私の使用人として雇ってあげる。正体がばれて紫月家に殺されたなら、骨くらいは拾ってもいいわ。だからそれまで、しっかり『百合子』を演じなさい。いい? これは、無能なあなたが藤堂家のために身を捧ぐことができる、唯一の方法よ」

 細い三日月のように笑う百合子に、椿は背筋が凍るような殺気を感じて、その場に座り込んでしまった。

(ああ、私は一生、お姉様から逃げられないんだ)

 姉に殺されるが先か、それとも鬼神に殺されるかが先か。
 椿は目の前が真っ暗になった。