しばらく他愛もない話をしていると、馬車が停まった。順に降りたところで、半年ぶりの実家を前に椿は目を疑った。どこかが壊れているわけではないが、全体の空気が重い。さらにうっすらと黒い靄がかかっているようにも見える。それを柊羽に話すと、「ああ、そうだな」と簡単に答えた。

「紫月様、お待ちしておりました」

 案内を任されたのは、椿も知っている使用人のひとりだった。疲れ切った表情に声をかけようとしたが、使用人はすぐに自分の仕事をこなそうと歩き出す。

(今までは家の中にいたからこれが当たり前だと思っていたけれど、異常だわ)

 自分が幼い頃から置かれていた状況を客観的に見られたことで、藤堂家全体が呪われているような感覚に陥っている。何が原因なのか、椿にもなんとなく分かった。
 案内されたのは慧山の仕事部屋だった。懐かしい室内は何も変わっておらず、ソファには以前よりやせ細った父親と百合子が座っていた。

「ご足労いただき感謝する、紫月殿。……お前も、よく帰ってきた」

 滅多に椿に目を向けることがなかった父親が、いつになく優しい眼差しで言う。思わず身震いした椿を隠すようにして柊羽が前に立つ。

「要件はなんだ」
「そんな警戒しなくてもいい。私は、お前たちに謝りたいんだ」
「というと?」
「薄々気付いてはいるのだろう? 百合子には、椿という無能な妹がいる。そう、そこの娘だ」

 そう切り出すと、神妙な趣で慧山は続けた。

「百合子は藤堂家が大変な時期だからこそ嫁げないという理由で、妹を一時的に紫月家へ渡していたんだ。荒れに荒れていたが、ようやく落ち着きを取り戻してきたのだ。そろそろ正しい花嫁を渡そうと思っている。もちろん、そこの娘はこちらに戻ってきてもらおう。今日はその日取りを決めたくてだな、すでに準備は進めているんだ」
「くだらない。一時的に渡していたなどと、まるで物のような扱いだな」
「鬼神と呼ばれるわりに人情に熱いとは、これはまた珍しい」

 嘲笑う慧山に、柊羽は苛立つのをなんとか抑え込む。言っていることもやっていることも無茶苦茶だ。これでは椿だけでなく、百合子でさえ使い捨ての駒ではないか。
 すると、虚ろな目をした百合子が柊羽に近付いて、囁いた。

「紫月様、悪い話ではないでしょう? 百合子はその無能よりも優れておりますし、役所に提出している婚姻届通りになるわけですから、お互いにメリットしかありません。私なら、あなたを十分に――」

 百合子が触れようとした途端、柊羽はぱしんと手をはたき落とした。

「断る。貴様らの計画は最初から崩壊している。婚姻届も提出されていない。近々、椿の名を入れて籍を入れるつもりだ」

 柊羽がすべて話すと、百合子と慧山の顔は一瞬にして真っ青になった。

「そ……そんな娘と!? そいつは無能だぞ!? 紫月家が欲しがっていた『幸運の異能』の持ち主は百合子だ!」
「強運を招く異能を受け継ぐ名家のくせに、『幸運の異能』を見分けることもできないのか? 先日の街での一件で十分わかったと思っていたが……少々、買いかぶりすぎていたようだ」
「ど、どういう意味よ!?」
「黒い靄は、呪いをかけられた証拠だ。しかも質の悪い、貧乏神の呪いを受けるとはな」

 柊羽によれば、あやかしの中でも呪いに詳しい者が人間と結託して荒稼ぎをしていることが発覚した。その中に『幸運の異能』を狙い、藤堂家を潰す計画がすでに実行されていたのだ。詳しく調べると、依頼人は藤堂家が先導して進めた事業で蹴落とされ、さらに社交の場で婚約者を横取りされたとある一家によるものだった。
 藤堂家当主という肩書だけで巻き込まれたようなものではあるが、すべての責任を負う人物でありながら、慧山の耳に一切入ってこなかったのは、関係がないと切り捨てたからだ。

「そんな……どうして私が呪われなきゃならないのよ!? 私は皆から必要とされ、愛されるべき存在で……」
 相当ショックだったのか、百合子はその場に立ち崩れた。慧山に至っては「信じられるか!」と一蹴した。
 喚き散らす父と姉の無様な姿に、椿は同情を越え、恐怖さえ感じた。
 しかし、柊羽の手は緩めない。

「自信家で先頭に立つことが多い藤堂家に恨みがある奴は人間だけでも山ほどいる。娘が生まれた当初、『幸運の異能』をそこら中に言いふらしたんだって? 親戚一同、身の振り方を改めて考えるんだな」
「まさか……そのせいで百合子に呪いがかかったとでもいうのか? ありえない! 『幸運の異能』は呪いさえ、も――!?」

 そう言いかけて、慧山はハッとした。

「やっとわかったか。『幸運の異能』は呪いさえも弾き飛ばす。だから椿には呪いがかからなかった」

 藤堂家の人間の多くが呪いにかけられている。その中で唯一かけられなかった椿こそ、真の『幸運の異能』を持つ異能力者であることの証明だ。
 椿はこれを初めて聞かされたとき、すぐには受け入れられなかった。五歳のときに受けた鑑定では確かに椿は能力を持っていないことが証明されていた。異能は生まれ持ってくるものだとされている以上、途中から異能に目覚める事例は存在していない。
 すると、柊羽は椿に聞かせたように、慧山にもわかるように続けた。

「異能は神からの授かりものだという。特別視されるような部類ではない。持って生まれてこなかったから無能などと決めつける、人間のエゴにしか過ぎない。特に『幸運の異能』は親から子に受け継がれていくものだ。特に、形見は想いが入れ込みやすいからな。付喪神を通して引き継がれたのだろう」

 そう言って柊羽は椿のほうを見る。椿の髪には、小さく赤い椿の花飾りがついた簪が挿されている。形見分けされた、母親の簪だ。

「……それ、それさえあれば、私は……!」

 百合子は椿を見て、羨ましそうに手を伸ばした。立ち上がるほどの体力はないようだ。
 椿は恐る恐る近付いてしゃがむと、百合子の手にあるものを握らせた。

「お母様は、『幸運の異能』の異能力者だったのだと思います。お父様も知らなかったようですね。……だから、これを私たちに残してくれたのだと思うんです。……お母様は、いつも心配性だったから」

 百合子は握られた手をそっと開く。そこには、百合の花が描かれ、ひびの入った部分に金継ぎが施された髪飾りがあった。椿が嫁ぐずっと前に、百合子が乱雑に扱い、修理を頼んだにも関わらず最終的に捨てたものだった。

「……あ、ああ……っ、ごめんなさい……ごめんなさい、お母様……!」

 糸が切れたようにぽろぽろと涙をこぼす。周囲に甘やかされるだけ甘え、大切な物に気付けなかった後悔が一気に押し寄せてくる。泣きじゃくる百合子の背中を、椿は優しく撫でた。

(もし、幼少期に本音のはけ口があったら変わっていたのかしら)

 元は仲の良かった姉妹だった。家を守るためとプレッシャーに押しつぶされそうになっていた百合子を、手遅れになる前に助け出すことだってできたのではないか。呪いの事実を聞いて、椿は罪悪感を覚えた。
 しかし、慧山は違った。怒りに震え、目が血走っている。

「黙れ! 百合子、貴様は一族の誇りなのだ、藤堂家のために尽くすのがお前の使命だと、自分で言っていたじゃないか。それ相当の働きを見せろ! 捨てられたいのか!?」

 作業机の上にあったペーパーナイフを取ると、百合子に向かって投げつけようとする。その寸前で柊羽が面を外し、動きを止めた。

「思い通りにならないなら用済み、か。短絡的だな」
「貴様ごときに何がわかる!? 今まで俺がすべてをかけて藤堂家を守ってきたんだ! 無能な奴は、動かされていればいい!」
「……だ、そうだ。椿、どうしたい?」

 そう後ろにいる椿に問う。慧山の身体に巻きついた黒い靄が、先程よりも濃くなっているのが見える。これ以上放っておけば、呪いが蝕んで死に至るだろう。散々虐げられてきた椿にとって、慧山がどうなろうか知ったことではない。

(それでも、一時でも家族だったから)
「旦那様、私の好きなようにさせてください」

 震えながらも告げた言葉に柊羽は小さく微笑む。すぐに椿は自分の髪に挿していた簪を取り、祈る。

(どうか、呪いが解けますように)

 次の瞬間椿から光が溢れ、広がっていくと、慧山にまとわりつく黒い靄が消えていき、屋敷全体にかかっていた重い空気が一気に浄化されていった。暴れる寸前だった慧山はハッとし、次第に力が抜けていくようにその場に座り込んだ。
 がっくりと肩を落としたその無気力な姿に、柊羽は言う。

「『幸運の異能』は優しい異能。決して悪用されるものではない。椿に感謝するんだな」