「別れてください、旦那様。半年間、ろくに言葉を交わさなかったあなたに、今さら愛などございません」

 その日の夜、しんしんと雪が降り積もり始めた頃、椿は隠すように持っていた離婚届を柊羽の前に差し出した。
 自室だったからか、珍しく素顔での対面となった柊羽は、一体何事かと驚いたように目を見開いている。ずっと面を被っていたこともあって、表情が見えるだけでなく、冷酷と呼ばれる鬼神が人間らしい一面を見せるなんて思ってもおらず、椿は少しだけ新鮮に感じた。
 それでも一向に姿勢を崩さないよう、新たに気を引き締めた。ここまではっきりと自分の意志を告げることなど初めてだが、今は急を要する。

(私のせいでテマリちゃんと旦那様を藤堂家の事情に巻き込んでしまった。これ以上、私がここに留まってしまったら、お姉様が押しかけてくる可能性だってある)

 ならばいっそ、紫月家さえも裏切って押しかけられる前に逃げてしまおう。たとえ百合子が押しかけてきても、目的は椿だ。柊羽に離婚届を書かせた後、役所に提出がてら一度藤堂家に戻れば、彼らが紫月家に押しかける確率は低くなる。
 ただ、そのためには椿が無事に役所に離婚届を提出しなければならない。途中で百合子と遭遇するかもしれないし、また黒い靄が襲い掛かってくるとも限らない。だからこそ、柊羽にはなるべく早く離婚届を書いてもらわなければならなかった。たとえ、柊羽に殺されることになっても。

「どうされました? ご覧の通り、すでに私の欄は記入済みです。早く書いてくださいな」
「……君は、自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「ええ、ですからお願いしているのです。私はこの家に嫁いできて、あなたのお金でいろんなものを頂戴しました。ですが、ろくに会話もなく、寂しい思いをさせたなんて一ミリも思っていないその自己満足なあなたの思考に付き合うのももううんざり。いい加減、この家から出してくださる? こんなに息苦しい場所にいたくありませんの」

 柊羽をまっすぐ見据えながら、顔色を一つ変えることなく椿は言い切った。実際、半分くらいは椿の本心だったかもしれない。顔もろくに合わせることもなく、ひとつ屋根の下で暮らしていただけで妻を大事にしているなんて思われたら困る。
 テマリから聞いた話では、すでに紫月家の立て直しもほぼ完遂に近い。『幸運の異能』はお役御免だろうし、没落寸前の藤堂家に今さら内部情報を流したところで下剋上できるような地位も力も残っていない。
 もう、この家に『藤堂百合子』も『幸運の異能』も不要なのだ。

「きっと、あなたのような美しい容姿であれば、お近づきになりたいご令嬢はいくらでもいらっしゃることと存じます。……異能ではなく、これからは人の心に寄り添ってくださいまし。それが紫月家にとっても、良い方向に繋がると思います」

 この半年間、辛いことなんてなかった。毎朝、柊羽の選んだ素敵な着物に袖を通すのが楽しみだったし、テマリと甘味を食べながら縁側で外の話を聞けるのが嬉しかった。この屋敷にいるときだけは、自分が嫁がされた理由を忘れさせてくれる大切な時間だった。
 先が真っ暗で未来など見えなかった自分に、もう一度立ち直らせてくれた二人を、自分のことでこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

「お願いします、旦那様。私と別れてくださいませ」

 椿はそう言って、ぐっと涙をこらえながら頭を下げる。しばらく沈黙の時間が続いたが、頭を下げたままの椿は、視界の端で離婚届が動いたのを見逃さなかった。バッと顔を上げると、柊羽が離婚届をじっくり見つめている。その姿に、胸がぎゅっと締め付けられた。

(そう、これでいい。これでいいの)

 これ以上、何も望んではいけない――そう思った途端、柊羽がくすっと笑った。

「なにか、間違っていましたでしょうか……?」
「いいや、すまない。……本当のことをいつ話そうかと思っていたが、まさか君がこんな強硬手段を取るとは思わなくてな。強引な一面もあったんだな」

 ククッと喉を鳴らすように笑う柊羽に、椿は眉をひそめる。こんな風に笑うのかと新たな表情を見られたことが嬉しい反面、「本当のこと」とはどういうことかと首を傾げた。
 困惑する椿を前に、柊羽は引き出しから一枚の用紙を椿の前に差し出した。嫁入りの日に震える手を抑えながら書いたあの婚姻届だ。

「ど、どうしてこれがここに? 役所に出されたはずでは……?」
「出せるわけがない。だってここに書かれた名前は、君の名前ではないからだ」