三年間通った高校を卒業し、友人達に別れを告げる。
 地元に残る人も都会に出る人もいるが、どちらの友達とも二度と会えないかもしれない。そう思うと離れ辛かった。しかし、友人達にもみくちゃにされながら学校の前に止まった見慣れつつある黒い車が視界の端に映り、急かされた気がして友人に手を振った。
「おかえり」
 母の代わりに迎えに来たらしいその人は、一花の次の夫になる人だ。
「友達に挨拶できた? 一花は友達が多いんだね。もしかして男友達も多いの? 男は嫌だなぁ。結婚したら男とは話さないでね。連絡も消して」
 最初に挨拶をして来た時から数週間たち、この男は毎日のように一花に会いに来た。そしてまるで既に恋人のように干渉して来る。
 男と話すな。結婚したら外に出ないで。ずっと家にいて。同窓会って怖いんだよ。絶対行かせないから。なんてここ数週間で嫌というほど聞いた。
 一花は適当に相槌を内ながら窓の外へと視線を向けた。
 歩道沿いには綺麗な桜が咲いている。桜を見ると八重から送られて来た手紙の事を思い出す。
 友人とたくさん青春して、たくさん笑ってね。楽しい話を聞かせてください。と以前の手紙に書いてあった。その返信には体育祭で友達と二人三脚に出たエピソードを書いた。それ以外にも会って話したいことがたくさんある。
「漸く、この日が来たね」
 綻びかけていた表情が、男の一言で歪んだ。
 赤信号で車が止まったと同時に男が一花の手を握って来たので、さりげなさを装って振りほどく。
「この後、君の元夫が来るんだよね」
 一花と八重はまだ離婚していないのに、この男の中では既に離婚が成立しているらしい。
 まだ、という言葉が悲しい。
 今日は離婚の話し合いのために八重がわざわざ迎えに来てくれることになっている。
 別れを告げるのが怖くて離婚したいことは、伝えられていない。ただ会いたいです、会えませんかとだけ伝えている。
「俺も一緒に行くから安心してね」
 一花が一人で行くと言っても男は聞いてくれなかった。絶対に一緒に行くからと押し切った男の服装は今まで見たことが無いくらい高そうなスーツだ。夫に一体何を言うつもりなのだろうか。
「気合い入れないとね」
 そう言った男の横顔は自信で満ち溢れている。
 対照的に一花の気分は下がり、ずっと会いたかった八重に会えるというのに口角はずっと下がり続けている。
 男は、それにすら気付かず、楽し気に鼻歌を歌った。

 約束の時間は、午後二時だ。
 時計を見るとあと五分しかない。
 お洒落などする必要はないと男は言ったが、適当な服を着て行くわけにはいかない。急に違う男と結婚をすると言うのだから嫌われるに決まっているのに、出来るだけ心象良く終わりたいと悪足掻きしてしまう。
 何を着ようか悩んだ末に一番大人っぽく見える綺麗目の白いワンピースにした。
 玄関に置いてある姿見で全身を確認し、家を出る。一足早く外に出ていた男が一花の姿を見止めて頬を緩める。
「綺麗だね」
 その言葉に小さく会釈する。この人に褒めて欲しくて着ているわけではないので、褒められても少しも嬉しくない。
 男が時計を確認する。
「時間だ」
 そう、呟いたその時。
 一陣の風が吹いた。強い風に巻き上げられた砂が目に入りそうになり思わずぎゅっと目を瞑る。風のせいで乱れる髪を慌てて抑える。
 春を告げる嵐のような風は直ぐに止んだ。
 ほっとして目を開けると、目の前に桜の花を纏った男性が立っていた。
「え……」
 白い着物に身を包み、真っ白い髪を横で括った男性はこの世のものとは思えない美しい顔立ちをしている。
 男性は肩や髪の毛に付着している桜の花びらを落としながら一花に笑いかけた。
「一花だよね?」
「は、はい」
 名前を呼ばれてことに驚く。
「迎えに来たよ」
 大輪の花が綻ぶ様を彷彿させる笑顔だ。
 男性の綺麗な笑みにぽかんと呆けた表情を返すことしかできない。
「あ、あの」
「ずっと会いたかった。この日が待ち遠しくてたまらなかった」
 白い男性はそう言うと一花の手を握った。
「桜を一緒に見たいと思ってたんだ」
 優しい微笑みと、温かいその言葉に一花ははっとした。
「や、八重様?」
「うん。初めまして。凄く驚いているけど、もしかして想像と違った?」
 違った何てもんじゃない。
 明確な夫像があったわけではないのだが、こんな美丈夫だとは少しも思っていなかった。
 八重は楽しそうに笑うと、握った一花の手を開かせその上に桜の花弁を置いた。
「八重桜……」
「そう。僕と同じ名前」
 先日一花が思ったことと同じことを口にして笑う様子はどこか子供っぽい。新たな発見に頬が緩む。
 そっとその花弁を手で包み込むと、無意識に口が言葉を紡いでいた。
「私も会いたか……」
 しかし、その言葉は言い終わる前に背後から聞こえて来た大きな声に遮られた。
「何をやっているんだ。今すぐ離れろ」
 振り返ると男が一花と八重の間に入ろうとしていた。しかし、透明の壁のようなものに阻まれているようで慌てた様子で喚いている。
 八重を目にして男の事など忘れていたが、八重と会ったのは離婚の申し立てをするためだ。会いたかったなどどの口が言うつもりだ。
 一花はぎゅっと唇を噛みしめ、八重に向き合う。震える口を開き、離婚の話をしようとした。
「一花」
 八重に名前を呼ばれ、口が勝手に閉じる。
「早く連れて帰りたい。もういいかな?」
「え?」
 何を言われたか分からず首を傾げる。微笑んだ八重に引き寄せられ、気が付いたら腕の中にいた。驚いて硬直する一花の周りに再び風が吹き荒れ、桜の花びらが舞う。目の前が見えなくなるほどの桜は綺麗だが、現実離れしすぎていて夢を見ているみたいだ。
「綺麗」
 ほうっと呼吸と共に感嘆の言葉を吐き出すと、八重が優しく答える。
「家にある桜はもっと綺麗だよ。ずっと一花に見せたいと思っていたんだ」
 ほら、見て。と八重が指を差した。その先を視線を追う。
 既に目を前を覆う桜は晴れている。そして、さっきまで見慣れた自宅の前だったのに、いつの間にか日本家屋の豪邸の前に立っていた。
 庭にはたくさんの桜が咲き誇り、一花が今まで見た景色の中で一番美しい。
「ようこそ、我が家へ」
 一花は本来の目的など忘れて八重に誘われるまま一歩足を踏み出していた。
「一花に送っていた桜はここのものだよ」
 八重が舞い散る桜の花弁を一枚キャッチした。一花もそれに倣い取ろうとするが、取ったと思ったら手から滑り落ちて一枚も取れない。
「ふふ、両手を出して」
 言われるまま両手を掬う様にして差し出す。すると勝手に花弁が落ちて来た。
「あげる。全部一花のだよ」
 桜も、この庭も、この家も。八重は心底嬉しそうな顔をしながら言う。誰が聞いても浮かれていると分かる言葉に一花は戸惑う。浮世離れした様子に何だかとんでもない人と結婚してしまったかもしれないと思い始めた。
 顔を綻ばせる八重を見ていると離婚を切り出すタイミングが分からなくなる。
 早く話をしなくてはと思えば思うほど口が重くなる。
 そうこうしている内に玄関の前までたどり着いていた。八重が玄関扉を開ける。広い玄関の向こうに着物姿の女性がふたり立っていた。
「いらっしゃいませ、一花様」
「遠渡遥々お疲れ様です」
 肩辺りで切りそろえた黒髪のふたりは同じ顔をしている。双子だろうか。
 咄嗟に頭を下げて挨拶を返す。
「春屋敷の一同、一花様が来て下さるのを心待ちにしておりました」
「宴会の準備も整っておりますよ」
 宴会という言葉に一花ははっとした。皆一花が来たのは嫁入りのためだと思っている。早く撤回しなければと思い、一花は慌てて口を開いた。
「待ってください、あの、私」
「どうしかした? 何かあった?」
 問いかけて来る八重に向かって、とうとう一番言いたくなかった言葉を告げた。
「私と離婚してほしいのです」
 がばりと頭を上げる。
 怒鳴られても仕方ないことをしている。宴会の準備をして待っていてくれたのだ。使用人らしきふたりの表情には心から祝福の気持ちが溢れていた。それを裏切るのだから、それ相応の罰はしかるべきだ。
 そう思い、頭を下げ続ける一花の頭上から息を呑む音が聞えて来た。
「どうして? 僕は一花に失望されるようなことをしたかな? ずっと会いに来なかったから?」
 八重の声は震えていた。湿り気を帯びているような気がして驚いて顔を上げる。目の前に立つ八重の目は涙で潤み、顔は悲壮感でいっぱいだ。
「ち、ちがうのです。私が悪いのです」
「君に悪いところなんてひとつもない。はっ、もしかして別に好きな男ができた、とか?」
 そんなわけがないと否定したかったのに頭の中に一花が次に結婚する予定の男の顔が浮かんで口ごもった。あの人は決して好きな人ではないが、他者から見れば別の人に心奪われたから離婚を言い渡しに来たと思われても仕方がない。
 一花の反応に八重は愕然とした。
「そんな……」
 呆然とした八重の口から掠れた声が零れ落ちる。するとおかっぱ頭の使用人が慌てた様子で八重を宥める。
「落ち着いてくださいませ、八重様」
「そうです。まずは話し合いです。きっと何かの間違いです」
 しかし、その声は届いていない。八重の美しい瞳は絶望の色に染まっている。
 一花は今すぐに離婚の申し出を撤回して謝りたかったが、母の顔が浮かんで出来なかった。もう一度頭を下げたその時。
 空気が重くなった。次いでどっと大きな音が室内に響く。
「えっ」
 驚いて振り返ると開けっ放しの玄関の外はさっきまでの晴天が嘘のように大雨が降っている。まさにバケツをひっくり返したような雨だ。天変地異かと思うほどの天気の急変に目を白黒させる。
「ああああ、八重様、落ち着いてくださいませ。まずお話し、事情を聞くべきです」
「そんな手軽に大雨を降らせないでください」
 ふたりの切羽詰った声に視線を向けると、泣いている八重にふたりがしがみついていた。
 風と共にやって来た時から思っていたが、やはり一花の夫は特別な存在であるらしい。話振りからこの雨も八重が降らせているようだ。
 はらはらと涙を流す八重、おろおろする使用人ふたり、そして呆然とする一花。どうしていいか分からず視線をうろつかせていると不意に雨が止んだ。
「……確かに、話し合いって大事だよね」
 八重がぼそりと呟き、じっと一花を見た。その目にはもう涙は浮かんでいない。
「一花が惚れた男がどんな奴か知らないけど、僕の方が良い男だってこと教えてあげればいいだけだよね」
 八重の言葉に使用人ふたりは安堵の表情を浮かべて「そうです、まだ間に合います」と声をかける。
「八重様、世界で一番美しいんですから自信を持ってください」
「そこら辺の男なんて目じゃないです」
 ふたりに囃し立てられ自信を取り戻した八重が綺麗な顔面を一花に近づけて挑発的に笑った。
「覚悟しておいて、絶対に一花の心を奪うから」
 奪うもなにも既にわりと奪われているのだが、眼前に迫った八重に何も言えなくなってしまった。