深山一花は一年前、十八の誕生日に籍を入れた。桜が咲く、四月のことだった。
 そして、高校を卒業した今日、一花は離婚するために夫が会いに来るのを待っている。


 結婚のきっかけは、春屋敷という金持ちが結婚相手を募集したことから始まる。
 離婚したばかりで金銭的に余裕がなかった一花の母は直ぐ金のためにその話に食いつき、どんな手を使ったのか分からないが結婚の権利をもぎ取って来た。
 一花がまだ中学生の頃の話だ。
 結婚など考えたこともなかったのに一花の了承も得ずに婚約関係が成立し、戸惑いばかりが頭を埋め尽くしていた。
 夫となる人に手紙を書きなさいと言われ、悩んだ末に正直な気持ちを書いた。
 どうして結婚なんてしないといけないの。疑問を抱くのは当然のことだ。しかし母の決定は絶対で、覆ることがないと幼い頃からの経験で分かっていた一花は婚約を受け止めて、婚約に不安を感じていること、それから家族になるのならたくさん笑顔が溢れる家庭にしたいと綴った。
 返信は直ぐに来た。
 婚約者となった男は一花が手紙に書いたことを馬鹿にせずに丁寧に返答してくれた。
 優しくて、穏やかな人。それが手紙からもった印象だ。
 男の文章は中学生だった一花にも読みやすいもので、穏やかな口調で紡がれる相手の日常は美しさすら感じた。
 家にひとりでいることが多かったこともあり、話し相手に飢えていた一花は手紙を心待ちするようになった。
 そして十八歳の誕生日。おめでとうという言葉と共に送られて来た婚姻届けにサインをした。てっきり結婚する時は顔を合わせると思っていた一花の予想は裏切られ、夫は会いに来なかった。
 なんで、会いに来てくれないんですか。
 裏切られたような気分で手紙を書くと男は、高校を卒業したら迎えに来ると約束をしてくれた。

 それから、約一年たった二月のこと。
 約束の日が迫った夜に事件が起こった。

 こつこつ、と窓が叩かれる音に、布団で横になっていた一花は慌てて起き上がると窓を開けた。
 窓から入って来たのは手紙を咥えた桃色の鳥だ。結婚相手との手紙のやりとりは郵便局ではなく、この鳥か、色違いの青い鳥を介して行われている。いつものように手紙を受け取り、お礼に鳥のおやつをあげながら手紙を開ける。すると、開いた拍子に一枚の花弁がひらりと落ちた。
 桜の花だ。
 花弁を拾い上げ、丁寧に机に置いてから手紙を読む。
『こんにちは。お元気ですか? 貴方と結婚してもうすぐ一年ですね。早く貴方に会いたいです』
 一花を気遣うような文章から始まり、他愛もない日常を綴る手紙を何度か読み直し、送られて来た花弁を光に透かして見る。
 以前の手紙で一花が桜が好きだと言ったから桜の花を入れてくれたのだろう。
『八重桜です』
 追伸に書かれた桜の捕捉に思わず頬を緩める。
 それは一花の夫と同じ名前だった。
 春屋敷八重。それが夫の名前だ。
「八重様はお元気ですか?」
 部屋の中で大人しくしている鳥に問いかけると、鳥が頷いた気がした。
 鳥の反応に満足しながら花を机にそっと置く。生花なのでいつかは萎れてしまうのが残念だなと思っていると、封用の中にラミネートされた桜の押し花が入っていることに気が付いた。少しだけ茶色くなっているが綺麗だ。
 花弁と押し花を仕舞い、レターセットを取りだすと返事を書き始めた。
 その時、こんこんと強めに扉がノックされた。音に驚いた鳥が窓から出て行くのと扉が開くのは同時だった。
「一花、ちょっと話があるからいらっしゃい」
 部屋に入って来た母は一花の返答などまるで興味がないようで、直ぐに部屋から出て行った。
「何だろう」
 時計を確認すると時刻は夜の九時を回っている。こんな時間に呼ばれるのは初めてのことだ。
 急いで部屋から出ると、外気がひんやりと肌を撫でる。何故かとてつもない嫌な予感がして足を竦む。その場で立ち止まる一花を一階から母が急かす声がした。
 どくどくと妙な胸騒ぎを抑えつつ、階段を下りて電気のついた居間に入った。
 部屋には母と知らない男の人がいた。年齢は三十代くらいで落ち着いた雰囲気を纏っている。談笑している所に何故呼ばれたのか分からず、部屋の入り口で止まっていると一花を目に止めたのは、初対面の男だった。
「こんばんは、一花ちゃん」
 初めて会うのに男は馴れ馴れしく一花を呼んだ。ただそれだけなのに、何だか背筋を冷たいもので撫でられたような気持ちの悪さを感じ口が引きつる。
「さあ、一花座って」
 母親が男の隣に座るように示してくる。一花はその場から動かずに問いかけた。
「あの、この人は?」
「この人はね、次に貴方の夫になる人よ」
 母の言葉に一花は混乱し、眉を寄せた。
 どういう意味だろうか。一花には既に夫がいる。次などない。
 不思議と目の前の男が夫かもしれないとは思わなかった。絶対に違うという確信があった。
「この人がね、貴方と結婚したいらしいのよ。だから一花は今の旦那さんと離婚して」
 母は簡単なことのように離婚を口にした。
 何を言われているのか分からなかった。なにかの冗談だと思い「何言っているんですか?」と聞くと母は苛立ったようにぴくりと眉を動かす。
「だから、貴方はこの人と結婚するのよ。今の夫は一度も会ったことないんだから別にいいでしょ?」
「よ、よくないです」
 確かに一花は八重に会ったことはない。しかし、あの手紙で繋がっている。
「なんで? 会いに来ないような男だよ? 騙されているに決まっているわ」
 母の言葉に一花は反論しようと口を開いた。
 手紙にはいつも会いたいという文言がつけられている。それが嘘だとは思えない。きっと会えないのは何か事情があるのだ、そう言いたかったのに一花の言葉は男の声に遮られた。
「事情は聞いたよ。一花ちゃんの時間を搾取するなんて酷い男だよ。大した金額も贈って来ないらしいし、一花ちゃんを幸せにする気が無いんだね」
 男は目を細めた。優し気に見えるのにその表情は獲物を狙う蛇を連想させ、ぞっとした。
「僕はお金に不自由何てさせないからね。大丈夫。幸せにするよ」
 男の手が、怯えて口元を震わせる一花へ伸びる。触られるのが嫌で避けようとすると母の叱責が飛んだ。
「どうして嫌がるの」
 きんと耳を刺すような声にびくつき、反射的に動きが止まる。すると男は一花の手を甲を撫でた後、きゅっと握りしめた。
 汗が滲む手が気持ち悪い。咄嗟に振りほどこうとしたが、母のきつい視線に動くことが出来なかった。
「幸せにするからね」
 男は恍惚の表情を浮かべながら一花の手を触っていた。

 金がないのだな、と冷静に思ったのは男と母が一花を置き去りにして結婚の話を進めている時だ。
 母はブランド物の化粧品で塗り固められた肌を撫でながら、お金が足りないのだと悲し気に言う。一花の今の結婚相手が大した金を寄越さないのだと嘘を吐いた。一花の夫は裕福な暮らしが出来るようにお金を送ってくれている。
 その金を母はブランド物に使ったり、ホストに落としたりしているのだと男との会話で分かった。
 好きな人にお金を使うのは当然のことだ。お金を送って来ない一花の夫が悪いなどとんでもない理論が聞こえてきて一花は絶句した。
 たくさんもらっているのにまだ足りないのだと言う。
 だから新しい金の生る木が欲しいのだ。
「いつ別れられる?」
 いつの間にかふたりの視線が一花に向けられていた。
「え?」
「だから、いつ離婚できるかって」
 苛立ちを隠しもしない母が一花を睨みながら言う。
「い、いつってそんなに早くは……」
「君が高校を卒業するのと同時にに籍を入れたいなあ」
 男は早く結婚したいとカレンダーを見つめた。一花もそっと視線を向ける。
 高校卒業したら迎えに来てくれると約束した。やっと会えると思ったのに。
 一花はつんと鼻が痛むのを感じた。
「覚えているかな? この間駅で話したんだよ?」
 男は夢を見ているみたいな顔で話す。
「気分が悪くてベンチに座っている俺に君が優しく声をかけてくれたんだ」
 男の言葉と一花の記憶が重なる。数日前に駅のベンチで項垂れる男の声をかけた。顔色が悪かったので、自販機で水を買い、駅員さんを呼んだ。ただそれだけだ。言われなかったら思い出しもしなかった出来事を男は運命だと言った。
 こんなものが運命なはずない。
「手紙のやりとりしているでしょ? 離婚届と一緒に出せばいいじゃない」
「それだと断られる可能性があるよ? ここに来てもらおう。俺が話をつけるから」
 母と男の会話が続く。
「ここに? 嫌よ。面倒ごとは。一花が向こうに行って話をつけて来れないの?」
「ああ、そうだね。俺も一緒に行けばいいか」
 一花の言葉を求めていないふたりの会話を聞きながら、八重の事を想った。
 約束を守れないかもしれない。まさか、一花の方から断ることになるとは予想もしてなかった。
 泊まっても良いかな、と問いかけて来る男のぎらついた視線にぞっと肌が泡立つ。母は了承したが、まだ結婚している身だからと一花が必死で拒否した。男が帰ると安堵から崩れ落ちた。
 怖かった。あの男の目は、一花を愛おしんでいるようにも慈しんでいるようにも見えない。あの手紙のような温かみが無い。
 好きなのだと男が言った。優しい一花に心奪われたのだ。そう言いながら一花から夫を引きはがそうとしている。
 それは果たして愛なのだろうか。
「良かったわね、一花」
 呆然と扉を見つめる一花の背後から母が言った。
「あの人ね、一花を五千万で買ってくれるんだって」
 振り返ってみると母は真っ赤な唇を愉悦に上げ、頬を高揚させていた。
 幸せそうだった。母は娘を五千万で男に売りながら楽しそうに笑っていた。
「早く離婚してね、一花」
 これが夢ならば、どれだけ良いだろうか。
 こっそりと手に爪を立てると、痛みが走った。

 部屋に戻った一花は机の上に放置している書きかけの手紙を見つめる。
 高校を卒業したら会えると希望に心を震わせ、浮かれているのが書き出しで分かる。数時間前の自分は随分と幸せ者だった。
 一花は椅子に腰かけると手紙の続きを書き始めた。
 手紙に別れを匂わせるのは嫌だったのでできるだけいつも通りを装って文章を綴る。はやく、貴方に会いたいです、と書いた文字が涙で歪む。
 早く顔が見たい。会って話したいことがたくさんある。それは嘘ではないのに別れを告げるために会うのなら、一生会いたくない。
 泣きながらなんとか手紙を書き終え、窓を開けると待機してくれていたのか鳥が部屋に入って来た。
「あの人に渡して。いつもありがとう」
 鳥のくちばしに手紙を咥えさせるとすぐに飛び立っていく。
 空に羽ばたく鳥の姿が消えまで、その影を見つめ続けた。