葵の住む小さな民家は、美雲神社の一番奥にあった。
 そこを出て少し歩くと、太鼓橋のかかった池がある。橋のちょうど中央には、着流しの男がひとり。欄干にもたれて、池の鯉を餌をやっていた。
 肩につくかかどうかという長さの白銀の髪、左目を覆うように白い布の眼帯を巻いた、どこか不思議な雰囲気を纏う男の名を御蔭(みかげ)といった。
 たしかな住まいはわからないが、御蔭は美雲神社の関係者らしく、葵が庭に出ると、たいてい池の鯉に餌をやっている。
 葵が御蔭と初めて話したのは、もう十年ほど前のことだろうか。葵にとっての御蔭は、親のような兄のような……。この世で、心の内を素直に話すことのできる唯一の存在だった。
 袖に入れてある袋から餌を出しては、御蔭が緩慢な動作で池に投げる。
 太鼓橋の袂で立ち止まった葵が御蔭の横顔を見ていると、彼がおもむろに振り向いた。
「どうしたのですか。そんなところで立ち止まって」
 池の鯉しか見ていないかと思えば、御蔭は葵の気配に気が付いていたらしい。
 葵が太鼓橋を渡って隣に並ぶと、着流しの袖に手を入れた御蔭が、鯉の餌を一掴み、葵に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
 葵が両手を受け皿にして前に出すと、小さくて丸い鯉の餌がバラバラと落ちてくる。
 手のひらで小さな山のようになった鯉の餌を無言で見ていると、
「なんだか今日は、随分と浮かない顔をしていますね」
 御蔭が池に向き直りながら、のんびりとした声で言った。
 御蔭の纏う空気は、いつも穏やかでゆったりとしている。時の流れさえも彼の周りだけは遅いような、そんな気がするときもある。
 実際に、御蔭の見た目は葵が三つの頃からほとんど変わっていないように思う。
 マキノも、ここから去ってしまったキヨも、葵が幼い頃と比べると、髪の艶が減り、目尻にシワができた。けれど、御蔭は、出会ったときに既に成人していたにも関わらず、髪の艶も肌の艶も変わらない。常に変わらぬ姿でそこにあり、成長や老いとは無縁に見えた。