離縁の雨が降りやめば


***

 龍の眷属であると言われる竜堂(りゅうどう)家に生まれた葵が、美雲神社(みくもじんじゃ)に祀られている一つ目の龍神様の花嫁になったのは三つのときだった。
 御空色の瞳を持って生まれた女の子が三つになる年に、美雲神社の龍神様に嫁がせる。これは、龍の眷属である竜堂家が行わなければいけない古くからの習わしなのだ。
 龍神様の花嫁として美雲神社に送り込まれた女の子は、敷地の中にある古い民家で、現世の人間と関わりを持つことなく十六の誕生日までを過ごす。
 花嫁には生家から付けられる世話係がいるが、その者たちが食事や着替え、湯浴みの手伝い以外で花嫁に関わることはほとんどない。世話係は、花嫁と無駄な会話をすることを禁じられているのだ。
 美雲神社の龍神様は、現世から隔離されて暮らす花嫁から、土地や人を守るための神力を得るのだという。
 そうして花嫁が十六歳の誕生日を迎えると、不思議なことに大量の雨が降る。これは、龍神が十六まで美雲神社で過ごした花嫁に離縁を(しら)せる合図で、《離縁の雨》と呼ばれている。
 雨は三日三晩降り続いたのちに、四日目の朝に必ず嘘のようにぴたりと止む。
 雨が止むと天は美しい御空色(みそらいろ)に晴れ、龍神に離縁された花嫁は現世に帰ることになる。
 現世に帰った花嫁は、竜堂家の男子の中で自分と一番血縁の遠い者と婚姻関係を結び、次の龍神の花嫁となる女児を産まなければならない。それが龍神の花嫁として生まれた者の定めで、もう何代目になるかもわからない花嫁として美雲神社に連れてこられた葵も、その習わしから逃れることは許されない。
 当代の花嫁である葵の十六の誕生日は三日後。それから三日間離縁の雨が降り、その翌日に龍神様と葵の離縁が成立する。
(ぐずつく空は、花嫁が龍神様に離縁される日が近付いていることを現世に報せようとしているのかしら)
 虚ろに天を仰いでそんなことを考えていた葵だったが、
「まさか、そんなはずがないわね」 
 ふっとため息を吐きながら、ひとりごちた。
 花嫁も離縁の雨も、竜堂家が行っている古い因習。
 三つの頃に花嫁として美雲神社に嫁いできた葵だが、一つ目の龍の神様になどお目にかかったことがない。
 花嫁も十六歳の誕生日のあとの離縁も、次代の花嫁を産むための婚姻も、全て形式上のこと。
 花嫁の十六歳の誕生日のあとに雨が降り続けるというのは不思議だが、それだって、偶然が重なっただけのことでほんとうに龍神様の力なのかどうかも怪しい。
 現在、竜堂家が侯爵の地位にあるのは、龍の眷属であるとされているからで。竜堂家は龍の眷属であることを知らしめるための因習をずっと繰り返してきているだけなのだ。
 少なくとも、葵はそんなふうに感じていた。


 空を見飽きた葵が少し散歩にでも行こうかと腰をあげると、
「葵様。失礼いたします」
 後ろの襖が開いて、世話係のシノが部屋に入ってきた。
 シノは、一年ほど前に竜堂家から送られてきた若い世話係だ。
 もともと、葵の世話係はキヨとマキノのふたりだった。ふたりとも葵が三つの頃から世話係に付いてくれていたのだが、高齢で穏やかな性格のキヨと無口だが仕事は完璧にこなすマキノとの距離感が葵にはちょうど心地よかった。
 ところが、一年前にキヨが病気をして世話係を続けられなくなり、まだ若いシノが代わりにやってきた。
 新入りのシノは、龍神様の花嫁と接するための決まり事をきちんと教えられていないらしい。必要な会話以外はしてこなかったキヨやマキノと違って、シノは必要なことも不要なこともよくしゃべる。
 明るい性格でおしゃべりなシノは、所作も仕事も大雑把で、葵には少しうるさかった。
「葵様。章太郎(しょうたろう)様からお着物が送られてまいりました。離縁の雨が降りやんだ朝、葵様を迎える日にこれを着てほしいとのことですよ。ご覧になってみてください」
 部屋に入ってきたシノが、持っていた着物を畳の上に広げる。
「まあ、華やかで素敵ですよ。ね、葵様」
 蝶と洋花の模様が入った空色の着物。葵の目に、それは質素な民家の和室の上で随分と派手で異質に見えた。
「そうね。しまっておいて」
 葵が着物を遠目にちらっとだけ見て顔をそらすと、
「あまりお気に召しませんでしたか?」
 シノが残念そうな声で聞いてきた。
「そういうわけではないけれど……。離縁の雨が降って止むまで、わたしは龍神様の花嫁としての役割を果たさなければいけないから」
「そうはおっしゃいましても葵様。十六のお誕生日まであと三日ですよ。ここを出る準備だって、ちゃんと進めておかねばいけません。葵様の人生はまだこれからなのですから、離縁したあとのことを少しくらい考えたって、龍神様はお叱りにはならないと思います」
「……そうね」
 気のない声で答える葵に、シノが小さく肩をすくめてみせる。
 付き合いの浅いシノのことを、葵はいまいち信用できていなかった。さらに、ここに来る前にシノが仕えていたのが竜堂家の章太郎であるということも、葵が彼女を信用しきれない要因になっている。

 竜堂(りゅうどう) 章太郎(しょうたろう)は葵の従兄にあたる男で、竜堂家の時期当主になるのではと言われている。
 龍神様と離縁したあと、葵は章太郎のところに嫁ぐことが決められていた。葵と十ほど年の離れている章太郎には既に正妻がいるので、葵は次代の龍神の花嫁を産むための側女として娶られるのだ。
 その婚姻が決まったのが、ちょうど一年ほど前。シノがキヨの代わりに葵の世話係になったばかりの頃のこと。
 そんな状況だったから、葵にはシノが章太郎によって送り込まれてきた内通者のように思えてしまってならない。
 離縁後の夫となる章太郎とは彼が美雲神社に参拝にきた際に数回顔を合わせたこともある。だが、葵は彼のことがあまり好きではなかった。
 三つの頃に龍神様の花嫁となった葵は、結婚は家が決めることで、個人の好き嫌いでどうにかなるものではないことはもちろんよくわかっている。
 けれど……。章太郎のところに嫁いだあとのことを考えれば気が重く、葵は章太郎に嫁ぎ直すくらいなら、本当に存在するかもわからない、ひとつ目の龍神様の妻でいたほうが幾分もマシだと思うのだ。
「少し庭を散歩してきます」
 葵は座っていた縁側から腰をあげると、ため息を吐きながら民家の外に出た。

 葵の住む小さな民家は、美雲神社の一番奥にあった。
 そこを出て少し歩くと、太鼓橋のかかった池がある。橋のちょうど中央には、着流しの男がひとり。欄干にもたれて、池の鯉を餌をやっていた。
 肩につくかかどうかという長さの白銀の髪、左目を覆うように白い布の眼帯を巻いた、どこか不思議な雰囲気を纏う男の名を御蔭(みかげ)といった。
 たしかな住まいはわからないが、御蔭は美雲神社の関係者らしく、葵が庭に出ると、たいてい池の鯉に餌をやっている。
 葵が御蔭と初めて話したのは、もう十年ほど前のことだろうか。葵にとっての御蔭は、親のような兄のような……。この世で、心の内を素直に話すことのできる唯一の存在だった。
 袖に入れてある袋から餌を出しては、御蔭が緩慢な動作で池に投げる。
 太鼓橋の袂で立ち止まった葵が御蔭の横顔を見ていると、彼がおもむろに振り向いた。
「どうしたのですか。そんなところで立ち止まって」
 池の鯉しか見ていないかと思えば、御蔭は葵の気配に気が付いていたらしい。
 葵が太鼓橋を渡って隣に並ぶと、着流しの袖に手を入れた御蔭が、鯉の餌を一掴み、葵に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
 葵が両手を受け皿にして前に出すと、小さくて丸い鯉の餌がバラバラと落ちてくる。
 手のひらで小さな山のようになった鯉の餌を無言で見ていると、
「なんだか今日は、随分と浮かない顔をしていますね」
 御蔭が池に向き直りながら、のんびりとした声で言った。
 御蔭の纏う空気は、いつも穏やかでゆったりとしている。時の流れさえも彼の周りだけは遅いような、そんな気がするときもある。
 実際に、御蔭の見た目は葵が三つの頃からほとんど変わっていないように思う。
 マキノも、ここから去ってしまったキヨも、葵が幼い頃と比べると、髪の艶が減り、目尻にシワができた。けれど、御蔭は、出会ったときに既に成人していたにも関わらず、髪の艶も肌の艶も変わらない。常に変わらぬ姿でそこにあり、成長や老いとは無縁に見えた。


「葵……?」
 葵がぼんやりして両手の指のあいだから、ぽとぽとと鯉の餌を落としていると、振り向いた御蔭が首を傾げる。
 横に流した前髪から覗く、御蔭の右目。白布の眼帯に覆われていないほうの彼の瞳は、晴れの日の澄んだ空を思わせる美しい青。その目がわずかに細められるのを見ながら、葵は喉の奥から競り上がってくる名前もわからない苦しさをぐっと飲み込んだ。
「だって、わたし、もうすぐ十六になってしまうの」
 小さな声でつぶやくと、
「ああ、あと三日で誕生日ですね」
 御蔭が目を細めたまま、ゆるやかに口角を引き上げた。
 おだやかな御蔭の声には、まるで感情の乱れがない。
 龍神様と離縁してここから出て行く葵のことを、御蔭はどう思っているのだろう。
 葵が両手をぎゅっと握りしめると、鯉の餌が溢れてこぼれ、太鼓橋の床を池のほうへと転がり落ちていく。
 水面に落ちた餌に池の鯉たちが集まり、あっという間に全て飲み込んだ。

***

 葵が御蔭と出会ったのは、三つで龍神様に嫁いできたばかりの頃だった。
 龍神様の花嫁になるために生まれてきた葵は、竜堂家で厳しく躾けられ、三つになる頃には、大人の言うことをよく聞く物分かりの良い子になっていた。
 三つを過ぎて母から引き離され、美雲神社の奥にある民家に連れてこられた葵は、自分に特別なお勤めがあるのだということを子どもながらに理解していた。
 それでも、夜にひとりで寝床に入ると心細くなり、母が恋しくて涙がこぼれ、眠れなくなってしまう。
 明け方まで泣いて眠れない葵を見かねたキヨは、一日中民家の中で過ごしていた葵を昼間に神社の庭へと連れ出すようになった。
 昼間にたくさん歩いてお日さまを浴びれば、夜もよく眠れるだろう、と。キヨは考えたようだった。
 葵がキヨと手を繋いで散歩に出かけると、白銀の髪の着流しの男が庭の池の太鼓橋の袂にしゃがんでいた。
 何をしているのかと葵が見ると、男が袖からなにかを掴み取って池へと投げた。その途端、池の水がバシャバシャと泡立つ。
 目を凝らして見ると、集まってきた池の鯉達が口をぱくぱくと動かしていた。
 男は、池の鯉に餌をやっていたのだ。
 葵が大量の鯉が池の水面から顔を出して口を動かす様を少し不気味に思っていると、白銀の男が肩越しに振り返る。その瞬間、葵は大きく目を見開いた。
 男の右目は澄んだ空のように青くて美しいのに、左目は白布で覆うように隠されていたからだ。
 まだ三つの葵は、そのような人を見るのが初めてで。つい、じっと見入ってしまう。
 葵が足を止めると、キヨが不思議そうな顔で池のほうを見た。それから、葵の視線の先に気づいて「ああ……」と気怠げに息を吐く。


 葵がキヨと共にしばらく足を止めていると、男が横に流した前髪の向こうで御空色の瞳をふっと細めた。
「おや、めずらしい。あなたには私が見えるのですね」
 男がのんびりとした声で話しかけてくる。
 何のことだかわからず葵が困っていると、キヨがぐいっと葵の手を引いた。
「さあ、葵様、そろそろ行きましょう。池の鯉なら、またいつでも見れますよ」
 キヨがそう言って歩き出す。キヨに引かれた葵は、男からふいっと顔をそらした。
 そのあとも、白銀の髪の男は散歩の度に池のそばにいた。
 太鼓橋の欄干にもたれていたり、池のそばでしゃがんでいたり。いつ見ても、のんびりと池を眺めながら鯉に餌をやっている。
 けれど、葵が初めに男の言葉を無視して以来、彼が葵に話しかけてくることはなかった。
 葵は男のことが少し気になっていたが、キヨといるときに彼に話しかけることもできない。

 それから月日が経ち、六つになった頃。葵は神社の庭の中をひとりで散歩することを許された。
 ひとりで散歩に出た葵が池へと向かうと、太鼓橋の袂で、白銀の髪の着流しの男が、初めて会ったときと同じようにしゃがんで鯉に餌をやっていた。
 少し離れたところから葵がじっと見ていると、男が袖に手を入れて、掴んだものを差し出してきた。
「あなたもやりますか?」
 流した前髪の向こうから、澄んだ青の瞳が葵をやさしく見つめる。
 咄嗟に頭を左右に振ると、男が「そうですか」と、掴んでいたものを池に投げた。
 池の鯉たちが投げられた餌に一斉に群がるのを、葵がやはり少し不気味に思いながら見ていると、
「今日はおひとりですか?」
 男が訊ねてきた。
 龍神様の花嫁として美雲神社にやって来てから、葵はキヨとマキノ以外の人間と話すことがほとんどない。
「……む、六つになったので」
 よく知らない男と話すのに緊張して、言葉が少しつっかえる。
「なるほど、もう六つになられましたか」
 ゆるりと口角をあげた男が、なぜか感慨深げに頷く。
 葵が不思議そうに瞬きすると、男が一度腰を上げて、葵の前で膝をついた。

「ご挨拶が遅れましたね。私の名前は御蔭(みかげ)です。あなたは?」
 同じ目線の高さで初めて御蔭に見つめられたとき、幼い葵の胸は戸惑いに揺れた。
 左目を白布で覆っていても、御蔭は子どもの葵にもわかるほど整った顔立ちをしていた。
 葵がじっと見ていると、御蔭が、「ああ……」とつぶやいて左目の眼帯に触れる。
「これが気になりますか?」
 葵がこくりと頷くと、御蔭がわずかに眉を下げる。
「片方の目が悪いので、これをはずすことができないのです」
 御蔭の言葉に頷きながら、葵は少し勿体無いなと思った。見えている部分だけでも充分に美しい御蔭の素顔は、もっと美しいだろうから。
「わたしの名は葵といいます。この神社のひとつ目の龍神様の花嫁です」
「葵ですか。良い名ですね」
 少し緊張の解けた葵が名乗ると、御蔭がふっと笑う。その笑みは美しく、不思議な妖艶さがあって。幼い葵の胸を、また戸惑いに揺らすのだった。

 初めて御蔭と言葉を交わした夜、葵はキヨとマキノに彼のことを話した。
 だが、世話係のふたりはとぼけた顔で、「そのような人、この神社の敷地内にいらっしゃいましたでしょうか」と言う。
 次に御蔭に会ったとき、葵がそのことを話すと、
「そうでしょうね。私は、ここの人には見えていないようですから」
 御蔭は少し淋しそうな顔でそう言った。
「もしかして、その目が、ほかと違うせい?」
 白布で覆った左目を気にする葵に、御蔭は肯定も否定もしなかった。
 その頃の葵は、世の中では、少し人と違う容姿しているだけで、冷たくあたられたり、見えないもののように扱われる場合があることを知っていた。
 御空色の瞳で生まれ、龍神様の花嫁として美雲神社に閉じ込められた自分や母がそうだ。冷たくあしらわれて、虐げられている側。
 そして御蔭は、きっと自分と同じ側の人間。葵は、御蔭のことをそういうふうに理解したのだった。

***

「章太郎様は、葵の次の結婚相手として決して悪くはないでしょう。竜堂家の時期当主ですし、容姿も良いと評判ですよ」
 竜堂 章太郎との結婚についての不安を伝えると、御蔭は鯉の餌を池に投げ入れながら、ゆっくりとした口調で葵を宥めてきた。
「確かに、悪くはないわ。けれど、わたしはあの方がわたしを見る目が嫌い。わたしのことを欲の対象としか見ていないのがはっきりとわかるんだもの。今も、龍神様と離縁したあとに着てほしいと華やかな着物が贈られてきたのだけど……。着物からあの方の下心が透けて見えるようで、嫌気がしたわ。まだほかの方と婚姻関係にあるわたしの機嫌をとろうとする章太郎様のことを、奥様はどう思っているのかしら」
 不快げに、葵が柳眉をひそめる。
 龍神様との離縁した葵を迎えることになっている章太郎には、既に正妻がいる。
 子はいないらしいが、だからこそなおのこと、龍神様の次代の花嫁を産むための側妻をよく思わないだろう。
 先代の龍神様の花嫁であった葵の母が、離縁の後に嫁がされたのも既に結婚をしている男のところだった。
 母は次の龍神様の花嫁となる葵を産むまでも、産んだ後も、嫁いだ竜堂家の男の欲の対象にされ、正妻に疎まれ、葵が三つで龍神様の花嫁になったのと同時に、竜堂家から離縁された。
 母が竜堂家から追い出されていたことを、葵は成長してからキヨとマキノのウワサ話で知った。