私の耳は人間と違って顔の横に付いていない。
 三角形で頭の上に付いており、なんなら白い体毛に包まれている。
 
 さながら狐のようだ。
 
 妖返(あやかしがえ)りというらしい。遠い時代に妖と交わった血がまれに発現すると私のようになる。必要もないのに尾骨からはしっかりしっぽも生えている。

「着物に穴を空けて着るなんて、ほんと狐っ()は破廉恥ね」

 異形の私にまともな呼び名はなかった。
 軽蔑のまなざしを向けてくるのは血の繋がっている実の妹だ。

「こんなのとっちゃえばいいじゃん!」

 年の離れたわんぱくな弟が、力加減を知らない強さでしっぽを引っ張ってくる。

「痛い!痛い!お願いやめて!」

「ヨーカイたいじだー!!」

 私が本気で痛がると弟はむしろ喜んだ。

「取れてもどうせ生えるんじゃないの?」

 こちらを見ることもなく母が冷ややかにつぶやく。

「はえるとこみたーい!」

 それを受けて弟が調子付く。

「やめてって言ってるでしょう!」

 軽く引き剥がしたいだけだったのに、痛みの余り私は弟を突き飛ばしてしまった。

「うわーん!おねえちゃんにいじめられたー!」

「うわ、お姉ちゃんサイテー」

 弟が泣き出すのと同時に妹からの非難が飛んでくる。
 私は自分の血の気がサーっと引いていくのがわかった。

 母が見てないわけがない。

「こんのっ狐憑きが!」

 鳴り響くパーンという乾いた音。頬に走る激しい痛み。その平手の一撃でひ弱な私は倒れ込む。

「弟の面倒もロクに見れないのか!妖怪め!誰が餌をあげてやってると思っているんだ!この穀潰し!」

 そこに痛覚があることを絶対わかっているはずなのに。
 母は力の限り私のしっぽを踏みつけた。


 これが私の日常。こんなのが私の……家族。


 地方貴族の第一子として産まれた私は、物心ついた時には小さな離れでの暮らしだった。
 玉のように大事に育てられたわけではない。
 できるだけ人目に付かないようにただ遠くへ追いやられただけだ。
 それが証拠に離れには文机もなければランプもない。
 丸窓から取れる明かりだけが頼りで、わずかな楽しみは汚れて捨てられる所だった古い絵本だ。だがそれも暗くなれば読むことはできない。陽が落ちると共に眠るだけの人生。

 たまに呼び出されて居間に行けばさっきの仕打ち。
 まだ痛みの残るしっぽを優しく抱きかかえて布団の中で丸くなる。

 どうして。なぜ。私は狐憑きなの。

「歴史ある髙遠(たかとお)の娘がこれだなどと……末代までの恥だ!」

 こんな私が産まれた時に父は喜ぶどころか頭を抱えてそんなことを言ったらしい。
 教えてくれたのはあの母親だ。

 居場所がない。この家には私の居場所がない。
 見られたら恥だからと、六畳のこの部屋から自分の意志で出ていいのは雪隠(トイレ)とお風呂のみ。
 そのお風呂だって週に一度。においだってしてくる。してきて当たり前なのに――

「なんか動物臭いんですけどー。狐っ娘てちゃんと体洗えないの?」

 妹とすれ違うことがあればなじられる。

 こんな私だってもう十六だ。ほんとは身綺麗にしたい。老婆のようだとからかわれるこの白い髪だって櫛で梳いて色鮮やかな紐でくくって――
 駄目だ。こんな冷える夜更けにささやかな幸せを夢見てしまったら、流さなくていい涙があふれてきてしまう。希望を持つから絶望するんだ。
 何も望まない。何も望まなくていいんだ。
 生きているだけで食事は用意してもらえる身分。幸せなことじゃない。

 でもせめてちゃんと生きて、そして普通に死にたかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。窓の外は雪景色だった。昨日からしんしんと降り積もっていたらしい。今もちらちらと舞っている。
 寒さにもう一度布団にくるまると、乱暴にふすまが開いた。

「起きなさい!お父様がお話があるとのことよ」

 母に布団をはがされて、私は何年振りかの大広間へと足を運んだ。
 父母妹弟。みな揃っている。

「お前の嫁ぎ先が決まった」

 着いて正座するなり、父が厳つい顔で言い放つ。

「私に……?」

 そんな話どこで進んでいたのだろうか。

「荷物をまとめて今日中に立て。地図に名前も場所も書いてある」

「今日中……!?」

 そんな、急すぎる。

「どうせ大した荷物なんてないでしょ。穴あきのぼろ切れ臭いんだから全部持っていきなさいよ」

 鼻をつまみ、しっしと追い払うしぐさで妹が言う。
 確かに荷物は少ないが、今日みたいな寒空の雪道を出歩ける装備がない。
 しかも地図は県境をまたいでいる。
 まともに外を歩いたこともない私の身体では、晴天でさえたどり着けるか怪しい。

「嫁ぐのが嫌というわけではありません。準備もすぐに済ませます。でもどうか日を改めてはもらえませんか?」

 精一杯のへりくだり。額を畳に擦りつけての懇願。

「日を改める理由がない。向こうもお前のことを待ち焦がれている。一刻でも早くだ」

 父はそうまで言うが馬車を用意してくれるわけではない。逃げ場がなくなっていく。

「寒いから嫌なだけじゃないの?この狐っ娘」

「ハンっ、さんざん育ててもらっていい話が来たっていうのに、天気が悪いから行きたくないとか、あんた何様?」

「そ、そんなつもりじゃ……」

「だったら素直にハイだけ言えばいいでしょうが!」

 母の声が怒声に変わる。
 あとはもう、どう答えても詰められるだけだと脳が思考を拒否し始めた。

「返事は!?」

 早く答えないと……
 そうは思うのに身がすくんで、喉が絞まる。
 お願い、今日は叩かないで、踏まないで。
 呼吸が浅くなって、瞳がうるむ。

「は、はい行きます……」

 行きたくなんてないのに。なぜ、こんな嘘を言ってしまうのだろう。

「まったく。狐にはご立派な耳もしっぽもあるんだから問題ないでしょうが」

「ヨーカイはさむいのへーき!」

 全身に狐のような体毛があれば平気だったかもしれない。でも私が人間じゃないのは耳としっぽだけだ。

「話はこれだけだ。達者でな」

 私の離れでの牢獄生活はこんなあっさりした父の挨拶で終わりを告げた。


 ◇ ◇ ◇


 初めて開けた玄関の先は新しい地獄だった。
 出歩くのを許されていない私に今まで靴というものは必要がなかった。
 だから履いていく物がない。
 つまり、私はこの雪道を素足で行くということだ。
 一面の銀世界。ちらちらと舞う雪。
 踏み出した一歩目は足首まで埋もれた。
 冷たいを通り越して痛みすら感じる足先。
 二歩目で両足が埋まると、体温が全て地面に吸われていくような感覚になった。
 着物こそ三重にしたが、こんな状態で歩いていくのは不可能だ。
 泣いて懇願すれば、今一度家に帰してもらえないだろうか。
 そんな希望すら打ち砕くように、人がいなかったはずの玄関がぴしゃりと閉まる。
 鍵のかかった音すら聞こえてしまった。

 不意に涙があふれてくる。
 家族は私のことを虐めてもいい動物(ペット)のように思っている。――そう考えていた。
 とんだ思い違いだ。

 家族は私に死んで欲しい(・・・・・・)と思っていたのだ。

 こんな寒空の下、他県の嫁ぎ先へ徒歩で行けなどというのは。
 それはもうつまり、そういうことだ。

 お望み通りこの屋敷の玄関前で死んでやろうか。そしたら多少の醜聞も出るかもしれない。
 それとも――
 死なずにたどり着ければ、それがこの仕打ちに一矢報いることになるのだろうか。 

 そんなことを考えながら歩き出さなければならない自分の境遇に私はこの生を呪った。



 自分の生家が山の中の広大な土地の上に建っているのは、なんとなくわかっていたが、県境までは完全に峠道だった。
 ただ学の足りない私では地図の見方もおぼつかない。なるべく開けた所を通っているが、いつ遭難してもおかしくない。
 誰かが通り過ぎれば助けを求めようと思っていた。だが驚くほどに人とすれ違う事はなかった。


 
 ――。



 もう何時間、歩き続けたのか。
 県境は超えたはず。
 でも雪舞う天気で太陽の位置はわからない。
 震える身体。自分のしっぽを前に持ってきて抱きしめる。
 足の感覚はとっくになくなった。
 いつ動かなくなってもおかしくない。
 命が尽きるのが先か、たどり着くのが先か。
 頭に積もる雪を払う元気もなくなっていた。

 吹雪いているわけでもないのに、視界がかすんでいる。
 自分の呼吸音が少し遠くに聞こえた。
 頭がぼんやりしていてまるで夢心地のよう。

 私、歩いてる?歩けてる?

 わからなくなってきた。
 足を動かしているはず。
 本当に動いている?

 夢の中で怪物に追われる時、必死に走っているつもりでもまるで怪物との距離が離れないように。
 必死に歩いているつもりで、すでに私は立ち尽くしていた。

 気付いた瞬間、頭をぶんぶんと振り、息を大きく吸い込んだ。
 もう一歩。あと一歩。
 きっともうすぐだから。

 そうやって踏み出した一歩は私の意志に反してもつれた。
 雪の上に転がる私。

「あっ…………」

 倒れた痛みも雪上の冷たさも感じない。
 何も感じない身体。
 起き上がれない私。
 霞んでいく視界に、風の音さえ聞こえなくなる耳。


 結局、普通には死ねなかったな………… 


 ◇ ◇ ◇


「――――?」

 次に私の視界に入ってきたのは、辺り一面の銀世界ではなく、木造りの天井だった。まだひどくぼやけてよくは見えないが。
 暖かい。
 羽毛だろうか。ふっくらとした布団をかけられて、私は囲炉裏のそばに寝かされていた。

「目が覚めたか?」

 声のするほうに視線を動かすと囲炉裏を挟んだ向こうに男性があぐらをかいて座っている。
 家の中――?
 私は助かったの?

「あ、足……!」

 凍傷で壊死していてもおかしくない。
 はっとなった私は布団から足先をだして、視界の端になんとかそれをとらえる。

 足首より下は人間のそれではなくなっていた。

 耳やしっぽと一緒だ。外傷こそないが白い体毛に覆われていた。

 より人間から離れてしまった……。大丈夫だったことよりもショックの方が大きい。
 視線を感じて、慌てて足を布団の中にしまう。
 今更だ。頭の耳が出ているというのに。

「君が、俺の嫁か」

 低く感情の読めない声で男性が言う。
 この方がもしかして私の旦那様?
 だとしたら、私はぎりぎり着いていたんだ。

「髙遠家の……長女です」

 名乗る名前を持ち合わせていないというのはこんなにも不便なのか。

「君のその姿はなんだ」

「…………」

 なんと答えればよいのだろう。
 そもそも私が妖返りであることを旦那様は知っていたのか。
 もし何も知らない所に来たのがこんな妖怪だったなら……

 怖い。

 この口ぶりは知らされてなかったのでは?
 知ったうえで結婚を受け入れてくれてなければ私は……
 きっと私はまた寒空の中に放り出される。
 ダメだ。言葉を発する勇気が出ない。

「何故、行き倒れていた」

 質問が変わった。これならまだ答えられる。

「歩いて来ましたので。そこで力尽きてしまいました」

「歩いてだと!?」

 旦那様の声が驚きに変わる。コホンと咳ばらいをする旦那様。

「荷物は後から来るのか」

「いえ、全て持ってきました」

「……」

 囲炉裏の薪が弾ける音がする。

「ふざけているな……」

 私の心の芯がすーっと冷えていく。
 旦那様の声は完全に怒気をはらんでいる。
 名家との縁談が来たと思ったら、着の身着のままのぼろの妖怪がやって来たのだ。
 だまされたと思っても仕方がない。

「離婚だ」

 旦那様が冷たく言い放つ。
 あぁ……。
 きっと私の人生はもとからこういう風になるように最初から決まっていたのだ。

「おかしいだろうが!」

 声を荒げて旦那様が近付いてくる。
 ごめんなさい。
 助かったなんて、希望を抱いてごめんなさい。
 ずっと絶望したままでいますから、どうかもう虐めないでください。

 旦那様が私の背に手を入れ上体を軽く起こす。
 頬を叩かれる――!
 反射的にそう思って、私はぎゅっと目をつぶった。


「こんなに可憐な君がどうしてこんな仕打ちを受けているんだ!!」


 ――痛みは飛んでこなかった。
 旦那様のもう片方の手は私の手を優しく握っただけだった。

「男の足でも何時間かかると思っている!? それをあんな雪の日に防寒具(コート)もなしに……! 聞けば荷物もないという、嫁入りの娘がだぞ!? 足がそう(・・)だから靴を履かないものかと思ったが、大方そもそも靴がないのだろう? 手もなんだこれは……。骨の形が浮いて……強く握れば折れてしまってもおかしくないではないか! ちゃんと食べさせてもらっていたのか!? くそっ、なにが髙遠だ! そんな家との繋がりなど俺に要るものか!!」

 一気にまくしたてる旦那様に私の口は開きっぱなしだ。
 旦那様は怒っている。それは確かだ。
 でもそれは私宛てではなかった。
 臆病な私でもわかる。
 だって――

「どうして、旦那様が泣いているのですか」

「泣いていたのは君だろうが! 俺は見たぞ、行き倒れていたあの日。抱き起こした君の頬の跡を!」

 旦那様は私の為に泣いてくれてるのだから。

 この暖かさはなんなんだろう。
 私の部屋にはなかった囲炉裏があるから?
 くたびれてぺちゃんこになった私の布団とはまるで違う、ふわふわの布団にくるまれているから?

 多分違う。
 でも知らないものすぎて心がぐちゃぐちゃになる。
 乱されて定まらなくて困ってしまう。

 ただ手放したくないと思った。
 そう、握ってくれたこの手を放したくない。
 これは私のほんとの気持ちだ。

 ゆっくりぎゅっと旦那様の手を握り返す。
 旦那様がじっと私を見つめた。上体を持ち上げてくれていた背中の手をゆっくりと降ろす。
 手が空くと涙を拭い、今度は両手で私の手を握り、旦那様は――

「俺と結婚しよう」

 私にそう告げた。

 …………?

 …………結婚?

「えっ、でもさっき……」

「ああ、髙遠とは離婚だ。そしたら君に帰る家はあるのか」

「私に帰る場所なんて……」

「なら君はもうあそこの人間ではない。そして俺は君にそばにいて欲しい。だが使用人みたいになられても困る。君とは対等でいたいし、俺は君の笑顔が見てみたい。そんな風に女性をそばに置いておける言の葉など俺はこれぐらいしか知らん。何度でも言うぞ。俺と結婚してくれ」

 言葉と瞳が同じくらい真っすぐすぎて、直視できない。

「でも、私は妖返りの狐憑きで……」

「構わん。同じ人間だ」

「でも、ほら私動物臭いですし……」

「においが気になるのならあとで風呂に入るといい。だが言っておくがこの距離感で話していても俺はなんにも感じないぞ。結婚できるな」

「こ、こんなみすぼらしい私では……」

「服を買おう。食事も毎日ちゃんと用意する。よく食べてよく休め。自然と本来の美しさを取り戻すはずだ。そしたら結婚してくれるか?」

 揺るぎない意志というのはこういうものを言うのだろうか。
 私は最初から嫁ぎに来た身。
 名家という条件がなくてもめとってくれるというのなら願ってもない話だろう。

 でも。

「どうして、私でいいのですか……? 誰でもよかったのですか?」

 こんな芯の通った旦那様にきっと私は相応しくない。
 一時の憐れみや同情で私を選んでくれるというのなら、いつか必ず後悔させてしまう。

「私でなどと言うな。誰でもいいわけがない。君だ。俺が結婚するのは君でなければ嫌だ」

「なぜ? 私、何もありません。私、いらない子だったんです。本当、妖返りって人間じゃないんですよ。ただの狐です。動物に教養はありません。字なんて最近十つは離れた弟と一緒になってやっと覚えたんです。おかげで絵本ぐらいしか読めません。狐は汚いから……台所には入れません。なので料理なんて一切できません。同じ理由で洗濯もしたことがないです。狐が洗った所で菌が付くらしいです……。裁縫はしっぽの穴を空けることしか知りません。それもぎっざぎざにしか切れなくて……。ほんと私には何も――」


「君にはもふもふがあるだろうが!!」


 少し苛立った様子の旦那様に遮られる。

「……も、もふもふ?」

 不思議な響きだ。けど、なんだか旦那様が言うには似つかわしくない可愛らしさがある。

「頭の上にちょこんと乗っかってるかのようなもふもふの耳! ふわふわの真っ白なしっぽ! ふかふかの足元! それらと調和するかのような銀と見まがう白い髪! 俺が今まで見てきたどの女性よりも可愛らしい、唯一無二だ! 君の境遇が、君が狐であることを恥ずかしいと思うようにしているのかもしれない。だったら、俺が肯定し続けてやる。君の狐である部分は君の魅力の一部であって、君を否定する要素ではないことを俺が肯定し続ける!」

 私は口をつぐんでしまう。
 旦那様がくれる感情が多すぎて、返す言葉を上手く吐き出せない。

「ああ、そうだ。これは一目惚れした男の単なる我儘だ。見た目だけで口説くなど、軽薄で軟派だとさげすんでくれても構わない。でもだからこそだ。まだ君のことを何も知らない。もっと君が知りたい。君が何に笑って何に怒って何を幸せに感じるのか。君の心に触れて――それには君にそばにいて欲しいんだ。足りないものなんてこれからいくらでも増やしていけばいい。何もないなどそんな悲しいことを言うな。俺は、もう……君が大切なんだ!」

 旦那様の心そのものみたいな、とても強い言葉。
 信じさせる力があった。
 私なんかが それ を求めていいんだろうかという迷いそのものを断ち切ってくれる。
 太陽の輝きみたいな光があった。

 願ってみたい。
 手に入れてみたい。
 
 私もちゃんと生きて(しあわせになって)みたい――!

 あぁ、神様。私の人生に希望を願っても絶望しない日があるとするならば。
 一日だけでもいいから。どうかそれを今日のこの日にしてください。

「旦那様……、どうか末永く、よろしくお願いします」

 言い切った瞬間、どうして出てくるのかわからない涙があふれてくる。
 次第に自分でも我慢できずにひっくひっくと恥ずかしくしゃくり上げてしまう。
 これじゃまるで幼子だ。

「ごめんなさっ……、これはっ……いやとかじゃっ……なくって……」

 慌てて言い訳する私。にじんだ視界の向こうでもわかった。
 旦那様は優しく微笑んでくれている。
 そしてすっと私の背を抱き上げると、自分の胸へと引き寄せて、そのまま優しく抱きしめてくれた。

「うあ……、ああ……」

 もうダメだ。声を我慢することができない。
 だってこんな優しさなんて知らない。
 もらったことがない。
 十六の人生でたった一度も。
 父からも母からも妹からも弟からも。他の誰からも!
 私に触れる手はいつだって私を傷つけるものだったし、涙を流すときに借りれる胸なんてどこにもなかった。
 声を上げて泣くことは、うるさいから叩いてくださいって言ってるのと変わらなかったんだ。

 それなのに。
 全部受け止めてくれる人がここにいる。
 こんなに声を上げて泣き続けられる居場所を、安心できる世界をくれる人がここにいる。

 十余年閉じ込めていた感情が、痛みが、悲しみが、苦しみが、堰を切ったようにあふれては流れていった。


 ◇ ◇ ◇


 旦那様が言うには、私は三日三晩寝込んでいたらしい。
 自分で食べれますと言ったけれど、旦那様はかたくなに無理をするなと言って熱いおかゆをふーふーしてまで食べさせてくれた。
 もう完全に子ども扱い。
 恥ずかしい。
 でも実の母にすらこんなことをされた記憶がなくて、気持ちの半分は「嬉しい」だった。

 少し動けるようになって、お風呂をもらうことにした。
 何日ぶりかの身体の汚れを落として湯船につかると今日あった出来事が次々と頭に浮かんでくる。
 親身になって泣いてくれた旦那様。
 優しさって受け取ると暖かく感じるんだね。
 そして、こんな私に求婚してくれた旦那様。

(もふもふは可愛い)

 ふふっ、もふもふっていい響き。自分の頭の耳を優しくなでてみる。母には切り落としてやると鋏すら向けられたのに……これを可愛いと思っていいんだ。
 また、旦那様言ってくれないかな。望みすぎるのはよくないことだろうか。
 旦那様の真剣なまなざしを思い返すとなんだか顔が熱くなってくる。
 これは湯船に浸かっているせいじゃない。
 そう自覚してなおさら火が出そうになった。

 旦那様……

 子どもみたいに泣きじゃくる私を優しく抱きしめ続けてくれた旦那様。
 時に頭をなで、時に背中をさすってくれた旦那様。
 私のひ弱な身体を思ってのことか、触れるか触れないかみたいな力加減だった。

 嬉しい。
 私を本当に大切なもののように扱ってくれているのが嬉しい。

 誰かにこんな気持ちを抱いたことがないから、この言葉であっているのかわからない。
 わからないけど……、旦那様を思い浮かべながらぽつりと言ってみる。
 
「好き……」

 口に出した言葉が正解だよと言わんばかりに胸がきゅっとなった。
 ああ、きっと私の真っ白な耳ですら赤くなってるに違いない。
 ぶくぶくと湯船に沈んでいく私。
 旦那様が一目惚れと言ってくれるなら、私は一心惚れ(・・・・)です。


 ◇ ◇ ◇


 お風呂から上がって、冷静になって気付いたことがある。

「旦那様、お名前なんて言うんだろ……」

 囲炉裏のある居間へ戻ると、旦那様のあぐらの上に乗っかっている生き物がいた。
 身体を丸めて気持ちよさそうにしている。全身真っ白でわたあめみたい。
 旦那様の言葉を借りるならこの子もまたもふもふだ。

「あがったのか。ん? ああ、この子はウメ。ポメラニアンだ」

 私の視線に気付いたのか、なでなでしている生き物を旦那様が説明してくれる。

「ぽめらにあん?」

 聞きなれない言葉に私は首を傾げる。

「ああ、犬の種類だ。メスのポメラニアン。ウメだ」

「わんちゃん! この子も犬なんですね」

「見たことなかったか?」

「はい。前の屋敷では飼ってなかったので本物を見たのは初めてです。それに、私の中ではわんちゃんは桃太郎で出てくるイメージしかなくて……」

「なるほどな。桃太郎のイメージだと凛々しいものだったかもしれないが、この子は梅の花のように可愛いだろう?」

 なんだか、旦那様得意げ。

「ええ。とっても! 私もなでていいですか?」

「もちろんだ」

 旦那様のそばに座ってウメちゃんにそっと触れてみる。
 大人しい。
 初めての私に吠えることもなく素直になでさせてくれる。
 ふわふわの毛は私なんかよりずっと触り心地がよかった。

 熱心にウメちゃんをなでていると、旦那様はなんと私の頭をなではじめた。
 
 ふいうちだ。

 別に全然いやとかじゃないんだけど、その、紅くなってしまうのがバレてしまったら困る。
 絶対恥ずかしくて固まってしまう。

「そ、そんなに私が可愛いですか!?」

 固まってしまうくらいなら! とふり絞って出てきた言葉があまりにもおかしい。
 私は混乱している。間違いない。

「ああ可愛い」

 間髪入れずに旦那様が返す。
 ……その頭をなでる手をのけてください旦那様。

「う……ウメちゃんよりもですか?」

 ダメだ。旦那様といると知らない自分が出てくる。
 どうして私わんちゃんと張り合おうとしてるの?

「ふふ、可愛いぞ」

 そして、やっぱり旦那様はたじろぎもせず言ってのける。
 これ以上可愛いをもらってしまったら、いっぱいいっぱいになってしまう。
 話題を変えなきゃ……。

「あの、旦那様のお名前が知りたいです……」

「そういえば、自己紹介もまだだったな。順番があべこべですまない。天御(あまみ)晴慈(せいじ)だ。天御は代々医者の家系でな。俺の専門は動物。普段はよく軍部に出入りして馬の面倒を見ている」

 天御晴慈様……。
 改めてまじまじとお顔を見てみると、立派な名前の通り精悍な顔付きだ。だから最初は怖さすら感じたのだけれど。
 今じゃ微笑まれると心臓がきゅっとなる。

「お馬さんのお医者さま」

「ああ。馬達もいい子ばかりでな。軍の馬だけあって、よく訓練されていて健康で肉付きが良い。そして、やはりなんといってもたてがみのふさふさ感が素晴らしいんだ。毎日ブラッシングしてあげたいほどだ。……あぁ、すまない。すぐ熱が入ってしまうのは悪い癖なんだ。君の名前を聞かないとな」

「あの……私」

 ちゃんと言わなきゃという気持ちと、言いづらいからお馬さんの話をもうちょっと聞いていたかったという思いとその二つがあって。
 私は後者の思いを圧し潰す。

「名前がありません……。名無しです」

 どんな顔してるんだろうか今の私は。
 名前すら親につけてもらえないなんて、やっぱり自分は恥ずかしい生き物だったんだなって実感してしまって辛い。
 小さく縮こまってしまった私を晴慈様はどんな顔で見ているのか。顔を上げれない。

「……名前を付けよう。とびっきりのいい名前を。俺が毎日呼んでも飽きない、君が毎日名乗ってもその度に嬉しくなるような名前だ」

 私の不安を包み込むように晴慈様の優しい声色が響く。
 やっぱりこの人は私の太陽だ。
 こんな私でも、その光に向かってなら顔を上げることができる。
 晴慈様は相も変わらず優しい表情だ。

「どんな名前がいい?」

 そう聞かれて答えに窮する。
 名前って、普通どんなものだったっけ?

「晴慈様が付けてくれた名前なら。私はきっとずっと嬉しいです」

「そうか……。そうだな……、とまり――天御とまりはどうだ?」

「とまり――」

「ああ。こんな寒い冬に俺に会いに来てくれた、蹴鞠のように可愛い女の子に相応しい名前だと思うんだ」

 蹴鞠……。小さい頃の妹が色鮮やかな球で遊んでいたのをいつも欲しがるように丸窓から見ていたっけ。
 そんな意味を込められたら嬉しくて答えは一択に決まる。

「はい、私とまりがいいです。これからとまりって名乗りますね」

「ああ! 字は革より毛の方が君らしいから。こっちにしよう」

 ウメちゃんをどかして晴慈様が筆をとる。
 さすが晴慈様。漢字に疎い私でもわかる。達筆だ。
 冬に毬で冬毬(とまり)。狐だった私に初めての名前。晴慈様が付けてくれた名前。

 私、また泣いてしまうかも……
 私の潤んだ瞳に気付いてか気付かずか、晴慈様はまた私の頭に手を置く。
 頭から、耳までまんべんなくなでられた。
 
 …………。

「晴慈様、耳はくすぐったい……です」

 私の訴えに晴慈様はぱっと手を離した。

「すまない。今日はもう遅いから寝ないとな。俺は明日から仕事で朝から空けてしまうのだが心配しないで欲しい。助っ人を呼んである」

「助っ人?」

「ああ、俺の母だ」

 なるほど、晴慈様のお義母(かあ)さま。

「それじゃおやすみ冬毬」

「はい、おやすみなさい晴慈様」

 挨拶を返したあとに気付く。

 お義母さまが来るの!?


 ◇ ◇ ◇


 嫁ぎ先のお義母さまに失礼がないようにしなくちゃ! ってことくらいはこんな私でもわかる。
 朝からぐーぐー寝てる所を叩き起こされたりしないように早起きするつもりだったけど、そもそも緊張でほぼ起きていたみたいになってしまった。
 おかげで晴慈様のお見送りはちゃんとできた。

「いってらっしゃいませ晴慈様」

「無理して起きてこなくともよかったのに。まだ本調子ではないだろう? 顔色でわかるぞ。まぁゆっくり療養してくれ。君には休息が必要だ」

 朝から晴慈様は私をなでなでしてくれる。
 ウメちゃんが隣で元気にわんわんと吠えると、晴慈様はウメちゃんもわしゃわしゃとなでまわしてから仕事に出て行った。
 休息が必要……。ちゃんと寝なかったからひどい顔をしているのかも。
 ウメちゃんとちょっと遊んだら、横になってゆっくりしよう。


 ◇ ◇ ◇


「あらまぁ、晴慈の言うとおりねぇ!」

 布団で横になっていた私は、はつらつとした女性の声で起こされた。
 って、昨日の決意の意味……。

「ご、ごめんなさい。お出迎えもせず……」

 絶対、晴慈様のお義母さまだ。慌てて居住まいをただすように身を起こす。

「いいのよ、いいのよぉ。病み上がりなんでしょう? ゆっくり寝ときなさいな。何か食べたいものある? びっくりしたわぁ。お嫁さんをもらうって話は聞いてたんだけど、大体ひとりでなんでもできちゃう晴慈が速達で『たすけて』なんて手紙よこすんだもの。最初はてっきり下手うってお嫁さんに逃げられたのかと思ったけどそうじゃなくてよかったわ」

 すごい喋るお方だ。食べたいものを答えていいのかがわからない。

「なにか作ろうかしら。あらぁウメちゃんも元気ねぇ。よーしよしよし。おかゆは昨日食べれたのよね?」

「は、はい」

「煮物とかにしましょうか。ね? お野菜持ってきたのよ。これ柔らかくして消化よくして、そしたらあったまるし」

「は、はい!」

「もう! 私は怖い先生じゃないのよ。美しい月で美月っていうの。ほら、そんなに背筋を伸ばさなくていいから」

 そう言って微笑むと親子だということがはっきりとわかった。晴慈様と同じ笑い方をしている。

「ところであなたはお名前なんて言うの? 晴慈がずっと寝込んでて聞けなかったって」

 お義母さまが私の前に座る。

「すみません、冬毬って言います」

 慌てて頭をさげる。名乗るのも遅すぎだ。全部ぐだぐだで恥ずかしい。

「良い名前ねぇ。あなたって感じがすごいするわ」

「晴慈様に名付けてもらいました」

「……晴慈が?」

 いぶかしげな目つきに変わるお義母さま。私なにか変なことを言ってしまっただろうか。

「もしかして、あの動物好き息子、自分の趣味であなたの名前変えさせたんじゃないでしょうね!?」

 あぁ、勘違い、勘違いですお義母さま。

「そんなことはなくて、私にもともと名前がなかったから付けてくれたんです」

「本当? あいつに変なことされてない? 事によっちゃお義母さん出るとこ出るわよ!」

「大丈夫、大丈夫です! 晴慈様はずっと優しくて、頭だっていっぱいなでてくれる良い人です!」

「やっぱり手出してんじゃない、あのどら息子!」

「ええええ!?」

 頭なでるのはダメなことなんかじゃないと思うんですけどお義母さま。

「帰ったら言っといてやるからね! 他に何か困ってることないかしら?」

 なぜか「言ってくれる」ことになってしまったけれど、訂正できる気がしないので諦めよう。

「ええと、私しっぽもあるんですけど、新しい着物はまだ穴をあけてなくてお尻が窮屈で……鋏があれば」

 実は昨日のお風呂あがりからずっとそうだったのだけれど、晴慈様には恥ずかしくて言えなかった。
 そもそも新しく用意してくれた物にいきなり穴を空けるのも――という気持ちもあった。

「まぁまぁ! じゃあそっちを先にしちゃいましょう。ほら冬毬ちゃん脱いで脱いで。お義母さんに任せなさい」

 言われるがままにやってもらったが、切りっぱなしとは違って、しっぽが引っかかったり痛まないように別の布を使って境界の処理もしてくれた。
 すごい。
 これがきちんと仕事ができる人の手際なんだ。
 ものの数分で仕上げるその様子は私には魔法のように見えた。

「あの、お義母さまはいつまでいてくれるんですか?」

「あら、やだぁ。いつまでいて欲しい?」

 頬に手を当て、全身を傾げて聞いてくるお義母さま。おいくつなんだろうか。なんだか可愛い。

「ええと、お義母さまに時間があるのならしばらくは……」

「それはどうして?」

「私にお仕事を教えてください」

 両手をあわせ、頭を下げる。

 晴慈様は言っていた。助っ人だと。
 お義母さまはずっといてくれるわけじゃない。当たり前だ。普通の夫婦は二人で力をあわせて日々を暮らしていくものなのだから。
 けれど、今の私は晴慈様の足手まといにしかならない。

「私、裁縫も料理も掃除も洗濯もどれも満足にできないんです。お嫁さん失格なんです。このままじゃ晴慈様と一緒に暮らす資格なんてないんです」

「そんな、資格だなんて。あの子と一緒にいてくれるだけでいいのよ。昔っから無口でほとんどお友達もいなくて、勉強だけはやたらできたから立派に馬医者やってるけれど、正直お嫁さんをもらうとか無理だと思ってたもの。それがねぇ、とんとん拍子に髙遠との縁談がきて」

「私、もう髙遠の人間でもないんです」

「へ?」

 手紙は私が寝込んでいる時に書かれたのかもしれない。昨日の経緯をお義母さまが知らなくても無理はないだろう。

「その……私、いらない子だったんです。名前がないのもそのせいで……。それで嫁に行けって言われて、雪の中裸足で歩いてきたんですけど行き倒れてしまって。たぶん髙遠には野垂れ死んだって思われてます」

 所在なさげに頭の耳を触ってしまう。

「それでうちの子はなんて?」

「髙遠とは離婚だって。でも私とは結婚しようって……」

 お義母さまがぐっと身体を折り曲げて、わなわなと拳を握りしめている。

「……あの」

「よぉく言った晴慈ぃ! さすが私の子ねぇ!!」

 勢いよく立ち上がるお義母さま。

「そりゃ、そうよね。こんな可愛い子がいらない子扱い? 破談よ離婚よ破棄、撤回よそんなもん。高慢ちきな貴族様からありがたい話だとは思ってたけど、裏を返せば天御なんて――ってことでしょう? 失礼ったらありゃしないわ。でもあなたはいらない子なんかじゃないからね冬毬ちゃん。晴慈と一緒に私も保障する。医者やってたら妖返りなんてそんな悪いもんでも珍しいものでもないのよ。百年に一回くらいは普通に産まれてくるんだし。なんだっけ、お仕事? いっぱいお義母さんと一緒に勉強しましょ。やーん、お義母さん久々に娘が増えて嬉しいわぁ」

 あぁ、こんな素敵な人に育てられたから晴慈様も優しい人に育ったんだろうな。

「どうか、よろしくお願いします。お義母さま」

 再び両手をあわせて深く深く頭を下げた。


 ◇ ◇ ◇


 台所。早速お料理のお手伝い。

「冬毬ちゃんは包丁使ったことあるのかしら?」

「いえ……」

 持ち方はこんな感じだろうか……。

「そうね、まな板ににんじん置いて切ってみましょうか。空いてるほうの手でちゃんと押さえるのよ」

「はい……」

 自分でもびっくりするくらいぎこちない。まずはへたの部分を切り落とせばいいのかな。

「あ、ちょっとまって冬毬ちゃん。押さえる手は猫の手よ」

「猫の手……狐の私がしていいんでしょうか?」

 一瞬の間。

「ふふっ、あっはっはっは。ちょっと待って冬毬ちゃん。そんなこと言い出したら人間だって猫の手しちゃダメでしょ」

 それもそっか。

「もう、面白いんだから。猫の手ってのはね、卵を包むように軽くグーの手にすることよ。それで押さえてみて。指を切らない大事なお作法だから」

 お義母さまが自分の手で実演してくれる。見よう見まねでにんじんのへたを切り落とす。
 上手くできてます?

「いい調子よ。皮はむいてあるし、そのまま輪切りにしていきましょう。だいたいおんなじ大きさを意識してね」

 と、言われたのに全部切り終わったら太さがバラバラだ。

「ごめんなさい……」

「はーい、ごめんなさい禁止! 初めてなんだから怪我しなきゃ全部成功よ。お義母さん、冬毬ちゃんのしょんぼりした顔見たくて教えてるわけじゃないからね。できたよって顔してればいいの」

 そういうお義母さまの顔は輝くような笑顔だ。

「特に冬毬ちゃんは悲しそうな顔をしがちだから、もっとにこにこしてればいいのよ。晴慈だって言ってなかった? 君の笑顔が見たいとかさ」

 その場にいたかのように当ててくるのが流石というか。
 でも、言うとおりだ。お義母さまのような笑顔をしている方が晴慈様もきっと喜んでくれる。
 真似してみよう。

「うーん、笑顔もあとで鏡で練習ね」

 ダメでした。


 ◇ ◇ ◇


 張り切って色々練習したせいで晴慈様が帰ってくる前に私は寝てしまっていた。
 そう気付いたのは二人の話し声で目が覚めたからだ。とはいってもちゃんと聞こえてくるわけではない。隣の部屋で何か話していることがわかるといった程度だ。
 聞き耳をたてるのも良くないし、もう一度寝てしまおう。
 そう決めた瞬間。

「私ひとつ気になったのだけど、あの子お礼が言えないのかしら?」

 そこだけはっきりと聞こえてしまった。
 それに対する晴慈様の声は低くて聞き取れない。
 
 私、あれ……私、どうして……?
 心臓が早鐘を打っている。熱くもないのにじんわりと汗が出てくる。
 言える機会はいっぱいあったはずだ。
 言わなきゃいけない場面もいっぱいあったはずだ。
 しっぽ穴作ってくれたのも、お料理を教えてくれたのも、笑顔の練習に付き合ってくれたのも、そのあとの漢字のお勉強だって、今日ずっと付きっきりでいてくれたじゃない。

 なんで、ありがとうの一言も言った覚えがないの?
 お義母さまに失礼がないようになんて意気込んでいたけれど、全然礼儀がなってないじゃない。
 やっぱりお嫁さん失格だ。
 狐の私の馬鹿。バカ。ばか。

 それに晴慈様にだって言えてない。
 命すら助けてもらったはずなのに、とんでもない量の優しさももらったはずなのに。
 私、自分のことばっかりで大事なことを伝え忘れているなんて……

 どうしよう。
 あんな素敵なお義母さまに嫌われてしまっていたら、大好きな晴慈様にも心良く思われてなかったら……。
 あの優しい二人に失望されるのが今はたまらなく怖い。
 未熟な自分の不甲斐なさに瞳がうるむ。

 明日ちゃんと謝って、明日ちゃんと今までのお礼を言おう。
 それしかない。
 そうするしかないんだ。

 気付けば二人の話し声もしなくなり、私は泣きそうになる目をぎゅっとつぶってもう一度眠りについた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。意を決して居間のふすまを開ける。
 そこにはもう朝食の用意がされていて、晴慈様もお義母さまもウメちゃんもいた。

「あらぁ、おはよう冬毬ちゃん。よく眠れた?」

「おはよう冬毬」

 二人はいつもと同じように微笑みながら私に挨拶をくれる。
 やっぱり優しいのだこの人たちは。
 朝から昨日のことを叱ってくれてもいいのに。その方がお礼も言いやすいのに。

「おはようございます」

「冬毬、今日こそはちゃんと休んでくれ。昨日より顔色が悪く見えるぞ」

 私の覇気のなさに晴慈様が心配してくれる。

「ご飯食べれそう?」

 お義母さまもおひつからご飯をよそる手を止めて先に聞いてくれる。

「あの、昨日はすみませんでした」

 お義母さまに腰を折って謝罪する。

「え、え? そんな謝られることあったかしら? ごめんなさいは禁止よ冬毬ちゃん?」

「着物のしっぽ穴ありがとうございました。包丁の使い方、猫の手教えてくれてありがとうございました。笑顔の練習いっぱい付き合ってくれてありがとうございました。名前の書き方教えてくれてありがとうございました。そして、お礼も言わない礼儀知らずですみませんでした」

 お義母さまを見て言う勇気がなくて、畳をじっと見つめたまま一気に言ってのけてしまう。

「まってまってまって冬毬ちゃん! そんな今にも泣きそうな顔で言わないで。まるでここからお別れするみたいに聞こえちゃうわ」

「昨日、何を言ったんだ母さん!」

「晴慈様、違うんです。夜中に聞こえてしまったんです。お礼も言えない子なのねって。私が聞き耳を立てたんです。その通りだなって思って、だから今日ちゃんとお礼を言わなきゃって……」

「やだやだ! そこだけ聞こえてたら、私、完全に最悪な姑じゃない!」

 頭に手をあててぶんぶんと身体を左右に振るお義母さま。

「そもそも母さんは声がでかいんだよ」

「違うのよ、冬毬ちゃん。お礼がなかったのをなじりたかったわけじゃないのよ。あなた、ごめんなさいやすみませんはちゃんと言うでしょう? むしろ多いくらいに。それなのにお礼や感謝を言わないっていうのは、感謝より謝罪が当たり前の世界にあなたがいたってこと。それはどれだけ辛いことなんだろうねってそんなことを話していただけなのよ。ほら、晴慈もちゃんとフォローして!」

 バシンと晴慈様の背中を叩くお義母さま。

「大体、母さんが言ったとおりだ。冬毬はありがとうという言葉に拒否感やトラウマがあるのかもしれないと余計な詮索をしていた。失礼なのはこっちだ。すまない」

 私は力が抜けて、すとんとその場に腰を落としてしまう。
 慌てた様子の晴慈様とお義母さまがそばに来てくれる。なんならウメちゃんも。
 あぁ、結局二人は昨日も今も私のことを心配してくれているだけ。

「ありがとうございます。ありあとうございます。二人とも大好きです」

 弱虫な私の感情が爆発して、ぼろぼろと涙がこぼれていく。

「あらあらまぁまぁ。こんなおばさんのこともう好きになってくれたの? 嬉しいわぁ。お義母さんも冬毬ちゃんのこと大好きよ」

 ぎゅっと抱きしめてくれるお義母さま。

「俺もだぞ冬毬。だから、そんなに泣かないでくれ。せっかく昨日笑顔の練習をしたんだろう?」

「だって……っ、すごくっ……怖かったんです。優しい人たちに……、もうっ……、だいっすきな……ふたりっ……に、嫌われたら……っ、どうしようって……失うっ……のが、こんなに怖いっ……なんて、知らな……かったんです」

「あぁもうこの子は……お義母さんもらい泣きしちゃう。晴慈ぃ! こんな可愛い子幸せにできなかったら男がすたるわよ!」

「安心しろ。たとえ天地がひっくり返っても俺は冬毬を幸せにし続ける」

 優しい抱擁と、力強い言葉とで少しずつ私は落ち着きを取り戻していった。


 ◇ ◇ ◇


 朝食が済んで、晴慈様の出発の時間。
 私は今日もお見送りだ。

「冬毬、一昨日、耳をさわったのはすまなかった」

 出掛けにに晴慈様はそんなことを言う。
 くすぐったかったあの時のことだろうか?
 そんな改まって言うようなことじゃないのに。

「いえ、そんな……」

「母に叱られてな。少し自重する」

 あっ、ほんとにちゃんと言ったんだお義母さま。

「大丈夫ですよ。私、晴慈様になでられるのす……」

 好きですからと言ってしまいそうになって口をつぐむ。
 この言い方はちょっと恥ずかしすぎる。

「……す?」

「す、……すごく嬉しいので」

 視線が泳いで、手をもじもじさせてしまう。
 これでも十分恥ずかしかった。

「そうか。冬毬ありがとう」

 そう言いながらぽんっと私の頭に手を置く晴慈様。
 お礼を言いたいのは私の方――そうだ、ちゃんと伝えなければ!

「ありがとうは私の方です晴慈様。行き倒れた私を介抱してくれてありがとうございます。こんな私に求婚してくれてありがとうございます。泣き虫な私を優しく抱きしめて、頭をいっぱいなでてくれてありがとうございます。私のこといつも大切にしてくれるのとっても嬉しいです」

 言えてなかったお礼をいっぱい伝えれた。
 晴慈様と目が合う。
 一瞬の間があって。

「冬毬の気持ちも欲しい」

 少しばつが悪そうに晴慈様が催促してくる。
 気持ち? 感謝の気持ちじゃなくて?
 どういうことだろう。わからなくて首を傾げてしまう。

「冬毬は俺のことをどう思ってる?」

 どう? どうってもちろん――。
 思い当たって、晴慈様の欲しい言葉がわかってしまって、一気に顔が紅潮してしまう。

「あの、す……、だい……」

 さっきは二人宛てだったからすっと言えたけれど、言えない。
 上手いこと言えるわけがない。
 晴慈様宛にしてしまうと、違うのだ。
 上も下もないけれど、これは別物だ。
 この気持ちは私が思ってる以上に大きくて、取り扱い方がわからない。

「ふふ、時間だ。行ってくるよ冬毬」

 言い淀んでるうちに、手を振って玄関をくぐって行ってしまう晴慈様。
 少し、寂しそうな、残念そうな、そんな風に見えてしまったのは私に言ってあげられなかった後ろめたさがあるからか。

 あぁ……。
 いつかちゃんと言えるようになるので、もうちょっと時間をください。

「大好きです……晴慈様」

 閉じた玄関に小声で呟くと、ガラッと戸が開いた。

「!?」

 まだ、そこにいたの!?

 忘れ物でもしたのか、すたすたと晴慈様が戻ってきて――気付けば晴慈様の顔がすごい近くにあった。

「俺も大好きだ。冬毬」

 肩を抱き寄せられて、暖かいものが唇に触れる。

 世界の時間が止まる。

 一瞬か永遠かわからないその時間のあと、再び消えていく晴慈様。

 …………

 あれ、晴慈様、今、私に接吻(キス)してくれた……?
 ということは私、今、晴慈様とキスしちゃったの……?

 同じことを言ってる気がしたけれど、そんなことはどうでもいいというか上手く考えられない。
 心臓が胸の内から飛び出しているんじゃないか、というほどバクバクしている。
 全身が熱くなって、顔なんか特に燃えてるみたいになって、そしたら腰が抜けて立てなくなってしまった。
 横にはなでろと言わんばかりのへそ天ウメちゃんがいたので、私は真っ赤に染まった顔を隠すようにウメちゃんのもふもふに突っ込んだ。

「きゃー! 冬毬ちゃーん、お天気雨降ってきちゃったわ。洗濯物手伝って―!」

 奥からお義母さまの声が聞こえる。

「は、はーい!」

 しまったこんな所でへたり込んでいる場合じゃなかった。
 でもずるいよ晴慈様。玄関で待ち伏せですか? あんなのはズルです、反則です。

 今度は逆に晴慈様をドキドキさせてみたい。
 驚かせてみたい。笑わせてみたい。喜ばせてみたい。
 ちょっぴり怒らせてもみたい。ダメかな。

 もらってばかりの自分じゃなくて、幸せを返せる自分になりたい。
 私を選んでくれてありがとうっていっぱい言える人になりたい。
 私と一緒になってよかったでしょう? って可愛く言える子になりたい。

 あぁ、なりたいものがいっぱいあるな。
 ちょっとずつ手に入れていこう。
 晴慈様は言ってくれたものね。足りないものは増やしていけばいいんだって。

 もふもふのウメちゃんを抱き上げて、もふもふの私は立ち上がって歩き出す。
 優しい人たちとこれからも幸せな日々を過ごすために――。