今原冬杞。
出席番号2番。
菜月羽と同じクラス。
周囲からの評判は、「一匹狼」。
菜月羽も同様の印象を持っていた。
入学してから最近まで、菜月羽が見掛ける冬杞は、いつも1人だった。他のクラスメイトと群れているところを見たこともなければ、大きな口を開いて笑っているところも見たことがない。
だからこそ、彼のあの笑みは、とても印象的だった。柔らかくて、優しくて、菜月羽は思わず見惚れてしまった。
しかし、冬杞は、1人でいることを苦痛とは思っていないようだ。むしろ、1人でいることを好んでいるようにも思える。
――人が、嫌い?
そんなことも考えた。
その人嫌いが転じて、彼からは「俺に近寄るな」オーラが知らず知らずの内に醸し出されている、ように見えていた。
けれど、ひとつ、勘違いしていた。
「一匹狼」というイメージから、勝手に、冬杞は無口なのだろうかと思っていた。
――でも、
「今原くんって、私が思ってるより、喋るのは好きなのかも」
自然と笑みが零れる菜月羽の姿は、傍から見れば不気味なのかもしれない。
今、菜月羽は、自習室Aにいる。冬杞はいない。
手近な席に座っている。両耳にはイヤホンがついていて、音楽で充満されている。そして、リズムに乗りつつ呟いたのが、さっきの言葉だった。昨日、嵐のような、幻のような、怒濤の時間を過ごしている時に思ったことだった。
「一匹狼」が無口だというのは、大きな思い込みなのかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と顔がにやける。
――楽しいかも、こういうの。
すると。
「え?」
急に、耳に違和感を覚えた。
「何、1人で喋ってんの?」
バッと顔をむけた先には、
「今原くん!」
がいた。彼の右手には、なぜかイヤホンがぶら下がっている。その行く末を見ると、これまたなぜか菜月羽のスカートに繋がっている。
「朝じゃねえんだから、両耳イヤホン、気を付けた方がいいよ」
「え?」
「俺じゃない誰かが来る可能性もある訳だし」
冬杞は右手を差し出した。言葉にはしないが、「返す」と言っている。菜月羽は、その手に持たれていたイヤホンを受け取った。注意する言葉とは裏腹に、冬杞の表情は柔らかかった。
「……気を付けます」
菜月羽は、素直に冬杞の言葉を受け入れた。その言い方がおかしかったのか、冬杞は笑みを浮かべる。
冬杞も適当な席に腰を下ろす。教材置場と化してはいるが、机と椅子はそれなりに残っている。
その動きをじっと見つめていた菜月羽と、冬杞の目が合った。
「……歌って」
真顔で冬杞は言った。菜月羽は優しい笑みを浮かべ、こくりと頷く。
頼んだ訳ではない。しかし、菜月羽は、あの日の歌を歌い出した。上手に歌おうとせず、誰かに聴かせようと力むこともせず、楽しくて思わず口ずさんでいる鼻歌のように、菜月羽の声はメロディーを奏でる。
冬杞はその雰囲気を邪魔しないように、ただじっと耳を澄ます。視線が邪魔にならないように、そっと目を閉じる。
菜月羽の声が聴こえなくなった頃、冬杞はゆっくりと目を開いた。少しだけ、目の前が黒いモヤモヤで霞む。そのモヤモヤに目が慣れ、視界が晴れはじめると、こちらをじっと見つめる菜月羽の顔が見えてきた。既に、イヤホンは外されている。
「……ありがとう」
「うん」
それから2人は、これからのことについて話し合った。
「あ、その前に、」
菜月羽は自分の予想の正確性について確かめたくなった。
「何?」
「今原くんって、人、嫌い?」
単刀直入に尋ねる。
「は?」
「(仮)でも付き合ってるから。基本的なところだけは知っておかないと、と思って。私――」
菜月羽は言葉を切った。冬杞は首を傾げる。
「何?」
「私、嫌われたくないから、今原くんに」
彼女の頬がほんの少し赤くなる。冬杞はそれを見逃さなかった。普段、1人でいる自分のことを気遣ってくれているのだろうと思うと、悪い気はしない。
「普段1人でいるのが多いのは確かだけど、別に人が嫌い、っていう訳じゃねえよ」
正直に答える。
「ただ、無理して人に合わせたいとは思わない。どっちかって言うと、そういうのは面倒だって思ってる。だから、1人でいることの方が多いだけ。別に、気の合う人とだったら近くにいてもいいし、話すことも嫌いじゃない」
――なるほど。
もしかしたら気を遣ってくれているのかもしれない。しかし、少しだけ菜月羽の予想も当たっていた。
「何、その顔」
「え?」
どうやら菜月羽は、無意識の内に、笑みを浮かべていたようだ。
「あ、ううん、なんでもない」
「……そう」
「今原くんと気の合う人になりたいな、と思って」
――この人は、
自分の言葉の意味を理解しているのだろうか、と思う。冬杞自身も他人のことは言えないのは分かっているが、菜月羽は昨日から、危うい言葉を連発しているように感じる。
『うん。むしろ、今原くんじゃないとだめ』
『私、嫌われたくないから、今原くんに』
『今原くんと気の合う人になりたいな、と思って』
話は、これからのことに戻る。
「私からお願いしたいことは2つ」
「どうぞ」
「まず、このことは、他の人に話さないようにしてほしい、って思ってる」
冬杞は黙って頷く。
「私たちが付き合うのは、昨日からの7日間だけ。みんなに伝える程のことじゃないと思ってるし、変に詮索されたくない。私は、ただゆっくりと、今原くんと一緒にいたいだけ。大事にしたくない」
「それは、俺も同感だな」
「あ、でも、もし黙ってること自体が苦痛とかだったら、言ってもいいよ」
慌てて菜月羽は付け加える。しばらく冬杞は、考える素振りをしてみせたが、
「いや、別に、大丈夫」
「そっか」
「新井さんは?」
「私も大丈夫」
菜月羽は頷いた。
「じゃあ、次ね」
「どうぞ」
「これは、私のお願いみたいなものだから、そんなに深刻に考えなくてもいいよ。嫌なら嫌って、はっきり言ってほしい」
壮大な前置き。おかしくて、冬杞はつい笑みを零す。
「いいよ、とりあえず言ってみて」
その笑みに、菜月羽は背中を押してもらう。
「2人だけの時間を作ってほしい」
「ん?」
「教室とかじゃなくて、誰もいないところで2人で会いたい。出来れば毎日。別に、ずっと喋ってなくてもいい。なんなら、今原くんは寝ててもいい。その近くに私がいるだけでいい。……だめ?」
菜月羽は不安そうな表情で冬杞を見た。しかし、そんな顔をする必要は、ない。
「いいよ」
「え?」
「いいよ」
「いいの?」
「うん」
驚いたのは菜月羽である。予想以上にあっさりと、冬杞が受け入れてくれたから。
「場所は?ここでいいの?」
「……ここでいいと思う?」
冬杞はぐるりと自習室内を見回す。
「誰かが使ってる感じもなさそうだし、静かで人通りもないし、俺はいいと思うけど」
菜月羽は笑顔を弾けさせる。
2人共、部活動には所属していない。余程のことがなければ、放課後は暇である。
「本当?じゃあ、ここで会おう」
「ああ。あー、一応言っとくけど、俺、寝ないから」
キョトンとする菜月羽。そして、自分が言った言葉を思い出す。
『なんなら、今原くんは寝ててもいい』
ふふっと菜月羽は笑う。
「了解です」
「他には何かある?」
「私からはそれぐらい。また何かあったら言うよ」
「そうして」
「今原くんは?何かこれだけは、みたいなことない?」
「俺?俺は……」
ない訳ではなかった。昨日からぼんやりと考えていたことが、冬杞にもある。しかし、これは、なんと言うか、
――結構、ハズいよな。
だが、譲れない部分でもあった。
「2つ」
「1つ目は、新井さんの歌を聴きたい」
「うん」
昨日から何度も言っている。むしろ、これが発端で、今、この奇妙な状況に至っている。菜月羽も、特に動揺しない。
「2つ目は、」
「うん」
「別に嫌ならいいけど、」
「何?」
「その今原くんっていう呼び方、やめてほしい、かな」
「……ん?」
「新井さんがどういう気持ちで俺と付き合おう、って言ってくれたのかは、正直よく分からない。『本当に付き合おうと思わなくてもいい』とか、どういう意味だろうって思う。でも、」
冬杞なりにいろいろと考えてみた結果、導かれたものがある。
「でも?」
「本当に勝手な想像でしかないけど、新井さん、多少は恋人っぽいこともしたいんじゃないかと思って」
「……ん?」
本当に勝手な想像でしかなかった。ただ、そう思うことで、冬杞自身、納得しようとしている部分があった。
付き合いたい。
本当に付き合わなくていい。
どこか矛盾している気がした。歌を歌う為の口実とするには、発想が斜め上をいっている。
「だから、俺から提案できるとしたら、そういうことかな、って」
菜月羽は驚いていた。一匹狼、いや、今原冬杞から発せられている言葉とは思えなかった。
「……気を遣って、くれてますか?」
――また、敬語。
これは菜月羽の癖なんだろうな、と冬杞は微笑ましく思う。要所要所で彼女は敬語を使う。
「遣ってない、とは言わない。でも、それはお互い様だろ?」
「まあ、それはそうかもしれませんが……」
「だったら、せめて呼び方ぐらいは恋人っぽくしてみよう。俺、下の名前で呼んでほしい」
「……冬杞、くん?」
「うん、そっちの方がいい」
「冬杞、くん」
菜月羽はもう1度呟く。
「冬杞くん」
今度は冬杞の目を見て言ってみる。
だが。
「……照れます」
「慣れるよ、その内」
と言いつつ、冬杞も内心はドキドキしていた。彼の性格上、親しみを込めて「冬杞くん」と女子から呼ばれることなど、いや、
――男子でもいないか、下の名前で呼ぶ奴。
目を見て「冬杞くん」と言われた時、いろいろな意味でピークだった。目を背けそうになったが、冬杞が言い出したことでもあり、逆に恥ずかしくて、そんなことは出来なかった。
「新井さんは?俺、なんて呼んだらいい?」
「私もいいの?」
「当たり前だろ?」
「……じゃあ、私も下の名前がいい」
――だよな。
提案しておきながら、そう言われることに抵抗を覚えていた。女子の名前を下で呼ぶことなど、いつ以来だろうか?
――もしかして、初めて?
冬杞にとっては、それぐらいのことであった。
「……菜月羽」
2人の鼓動がドクンと大きく脈打つ。
「呼び捨ては、嫌?」
「ううん、菜月羽でいい」
「……そう」
そして、菜月羽はふっと息を漏らした。と思えば、彼女の瞳がみるみる濡れはじめる。
驚いたのは冬杞だけではない。菜月羽自身もだった。
――私、自分が思ってる以上に……。
そのあとのことは考えないようにした。考えたところで、何も変わらないと分かっているから。
しかし、冬杞はそういう訳にはいかない。
「何?どうした?」
突然の涙。
「……ごめん、なんでもない」
1粒だけ流れた涙を、菜月羽は指で拭う。
「……やっぱり、無理してるんじゃねえの?」
どうやら冬杞は、菜月羽の涙を、「本当はこの状況が辛い」のではないかと勘違いしてしまっているようだ。
しかし。
「違う!」
それは全くの誤解である。
「でも……」
「本当に違うの!むしろ嬉しいの」
「嬉しい?」
菜月羽は目元を押さえ、感情が静まるのを待った。
「私、多分、キャラ的に、いじられるタイプじゃないんだと思う。どっちかって言うと、真面目とかそういう風に見られてる気がする」
冬杞はじっと菜月羽を見守った。
「私と一緒にいる子は、男子から下の名前で呼ばれたり、あだ名で呼ばれたりしてる。でも、すぐ隣にいる私は、『新井さん』とか『新井』って呼ばれたりして、下の名前で呼ばれたことなんてほとんどなかった。
小学生までは、もしかしたら名前で呼んでくれる子はいたかもしれないけど、よく覚えてないし。
中学・高校に関しては、みんな『新井さん』って」
冬杞は、先程まで自分が考えていたことが、菜月羽の口からこぼれたことに不思議な感覚を覚えた。
「あ、でも、別に、それが嫌っていう訳じゃないんだよ。私も、男子は名字+くん、女子は名前+ちゃん、そういう風に呼ぼうって無意識の内に決めてて、あんまり、ニックネームとかで呼んでこなかったし。
けど、時々ね、思う時があって。たまには、男子からも名前で呼ばれたいな、って。親しみの証、みたいな気がして。私、今まで、人間関係は、広く浅くみたいなところがあったから。いい思い出になるな、って。
だから……、だからなんか嬉しくて、名前で呼んでもらえることが」
目元がまた熱くなる。
「呼び方だけで人との距離は決まらないとは思うけど、でも、もし恋人が出来たら、どうやって呼び合うんだろう、って思うこともあったりして」
「……そっか」
冬杞は伏し目がちに言った。しかし、表情は柔らかく、何度もうんうんと頷いているところから、菜月羽のことを受け入れてくれたと感じる。
「でも、泣くほど?」
確かに、冬杞の目には大袈裟に映るだろう。冬杞に話したことは事実だ。胸を打たれたのも本当である。
ただ、それだけではない。いろいろな感情が入り交じり、涙となって溢れてしまったのだ。
「ごめん、感情がぐちゃぐちゃで」
「……そっか」
「冬杞くん」
菜月羽は改めて居住まいを正し、冬杞の方を向く。冬杞もそれにつられて、姿勢を正す。
「改めて、よろしくお願いします」
頭を下げる。冬杞はふっと笑う。
「それは、もういいよ」
「え?」
菜月羽は顔を上げる。
「代わりに俺がする」
「ん?」
「菜月羽、よろしくお願いします」
そして、冬杞が頭を下げた。
「え?冬杞くん、なんで?」
――なんでって……。
慌てる菜月羽。顔を伏せながら、冬杞はくくっと笑う。
「なんでって、よく言うよ。菜月羽、俺に同じこと、何回やってると思ってんだよ」
「え?私?そんなにしてる?」
「してる」
「……気付かなかった」
「マジかよ」
「……うん」
2人は心地よい笑いの渦に入り込む。
しばらく、会話もなく笑い続ける。すると、今まで気付かなかった教室の熱気に意識が向く。
「……暑いね」
自習室にもエアコンは設けられている。しかし、本来使われることのない部屋を勝手に使用し、そのエアコンまで拝借するというのは、2人共、気が引ける。とりあえず、今は窓を開けているが、どうやら無風のようだ。
「そういえば、冬杞くんは、ポロシャツ着てないんだね」
菜月羽は冬杞の腕を見た。カッターシャツの袖を2回程折り返し、手首辺りが顔を覗かせている。
「今、俺、廊下側の席だから」
「あー、なるほど」
4月に入学し、しばらくの間は席替えをしていなかった。しかし、2ヵ月程経った6月中旬に、初めて席替えが行われた。そして冬杞は廊下側から2列目、エアコンの風が直撃する場所に移動することになった。その為、授業中は、時に極寒となる。冬杞はカッターシャツを着ることで、この真夏に防寒をしている、ということになる。
「ここに来るようになるんだったら、ポロシャツに変えようかなあ」
「でも、寒いよね、教室は」
「うん、寒い」
ふふっと菜月羽は笑う。
「菜月羽は今、窓側だよな?」
「うん、だから、お昼は暑いんだよね。カーテンは閉まってても、1番窓際だから、どっちにしても暑い」
新井菜月羽。
出席番号1番。
冬杞と同じクラス。
彼女は長年、出席番号1番の宿命を受け続けている。新年度、最初の席、1番窓際の1番前。
「菜月羽こそ、ポロシャツにしたら?」
「んー、私、ポロシャツ買ってないんだよね」
「は?マジ?」
「うん」
「なんでだよ?」
2人が通うL高は、高校の指定するポロシャツがある。ポロシャツ自体の形は一般的なものではあるが、袖のところに校章が印刷されているのが特徴である。
「うーん……」
菜月羽はしばらく考える素振りを見せたあと、
「もったいない、って思ったから」
「もったいない?」
冬杞はそのまま聞き返した。
「うん、着るか着ないか分からないな、と思ったから」
ポロシャツが着用できる時期の目安は一応定められているが、あくまでも自由である。着たくない者は着なくていい。冬杞もポロシャツを持ってはいるが、先程の理由から、着用はしていない。
おそらく、誰しもが入学時に1~2着程は購入している、と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
それにしても、
――もったいない、っていう感覚なのか。
冬杞はほんの少し疑問に思ったが、言葉にはしない。
「まさか、席替えで、また窓際の席になるなんてね」
「だな」
「うん」
「だったら、今からでも遅くはねえんじゃねえの?」
すると、菜月羽はほんの少し表情を曇らせた。
「うーん」
瞳が泳ぐ。
「夏休みまでは、とりあえずこのままでいこうかな。そのあとのことは、また考える」
「そっか」
考え方は人それぞれのようだ、と冬杞は思う。
「あ!でも、」
「ん?」
先程までとは打って変わって、菜月羽の顔に覇気が戻ってきた。
「やっぱり、だめかなあ」
「……なんで?」
菜月羽は悪戯な笑みを浮かべる。
不意に、カッターシャツの袖を肘くらいまで捲った。
――細。
声に出さずに冬杞は叫んだ。
目の前に、白く細い腕がある。自ら光を放っているのではないかと思えるほど、その腕は美しかった。
「細いでしょ、私の腕」
「え?」
「っていうより、太くはないでしょ?」
「まあ、そうだな」
口が裂けても太いとは言わない。
「この腕を見ると、みんなそう言う」
「だろうな」
「私もそう思う。さすがにこの腕で『そんなことないよ』なんて言ったら、嫌味でしかないもんね」
冬杞は黙って頷く。確かにそんなことを言ったら、世の中の多くの人類を敵にまわしそうだ。
「別にね、ダイエットとかしてる訳じゃないんだよ?小さい頃から、食べてもお腹にはお肉がつくんだけど、手足にはそれがつかなくて。つまり、人の目に付きやすいところは細くて、みんなから『痩せてるね』って言われる。それと、」
「それと?」
菜月羽は、にやりと笑みを浮かべた。そして、自分の右手で左手首を掴んだ。
「オレソウ」
「オレソウ……?」
「うん」
冬杞はおうむ返しをした。
「何、オレソウって?」
「この腕を見ると、だいたいの人が言うの、『ちょっと力を入れたら、この腕折れそう』って」
ハッとしたのは冬杞だった。昨日、彼女の腕を掴んだ時のことを思い出す。
『何だよ、この腕……』
『折れるな、これ』
まさしく同じことを考えていた。
「もうね、耳にたこができてるの、その言葉」
一方の菜月羽は楽しそうに笑っている。
「ものすごーく力持ちの人だったら別だけど、そうじゃなかったら、そんなに簡単には折れないよ。なのに、みんな、折れそう折れそう、って。なんでだろうね」
冬杞も思わず笑った。
「……なんでだろうな」
「だからね、あんまり半袖の服は着ないようにしてるの、普段から。まあ、一時の冗談みたいなもので、ピークが過ぎたら何もなくなるけど、たまに何回も言ってくる人がいて。そういう人に申し訳なくなるんだよね」
菜月羽は袖を戻した。
「いろいろ考えてるんだな」
「まあね」
昨日のことは黙っておこう、と冬杞は思う。これ以上、菜月羽の耳に「たこ」ができてしまったらかわいそうだ。
ふと窓の外を見ると、ほんの少しオレンジに染まりはじめている。明るいから勘違いしてしまうが、時刻は6時を過ぎている。
「菜月羽」
「ん?」
「また歌って。で、今日は帰ろ」
「うん」
菜月羽はイヤホンを取り出した。
「冬杞くんも聴く?」
「ううん、いい」
「……そ」
そして静かに、菜月羽の声が響いた。
☆☆☆
出席番号2番。
菜月羽と同じクラス。
周囲からの評判は、「一匹狼」。
菜月羽も同様の印象を持っていた。
入学してから最近まで、菜月羽が見掛ける冬杞は、いつも1人だった。他のクラスメイトと群れているところを見たこともなければ、大きな口を開いて笑っているところも見たことがない。
だからこそ、彼のあの笑みは、とても印象的だった。柔らかくて、優しくて、菜月羽は思わず見惚れてしまった。
しかし、冬杞は、1人でいることを苦痛とは思っていないようだ。むしろ、1人でいることを好んでいるようにも思える。
――人が、嫌い?
そんなことも考えた。
その人嫌いが転じて、彼からは「俺に近寄るな」オーラが知らず知らずの内に醸し出されている、ように見えていた。
けれど、ひとつ、勘違いしていた。
「一匹狼」というイメージから、勝手に、冬杞は無口なのだろうかと思っていた。
――でも、
「今原くんって、私が思ってるより、喋るのは好きなのかも」
自然と笑みが零れる菜月羽の姿は、傍から見れば不気味なのかもしれない。
今、菜月羽は、自習室Aにいる。冬杞はいない。
手近な席に座っている。両耳にはイヤホンがついていて、音楽で充満されている。そして、リズムに乗りつつ呟いたのが、さっきの言葉だった。昨日、嵐のような、幻のような、怒濤の時間を過ごしている時に思ったことだった。
「一匹狼」が無口だというのは、大きな思い込みなのかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と顔がにやける。
――楽しいかも、こういうの。
すると。
「え?」
急に、耳に違和感を覚えた。
「何、1人で喋ってんの?」
バッと顔をむけた先には、
「今原くん!」
がいた。彼の右手には、なぜかイヤホンがぶら下がっている。その行く末を見ると、これまたなぜか菜月羽のスカートに繋がっている。
「朝じゃねえんだから、両耳イヤホン、気を付けた方がいいよ」
「え?」
「俺じゃない誰かが来る可能性もある訳だし」
冬杞は右手を差し出した。言葉にはしないが、「返す」と言っている。菜月羽は、その手に持たれていたイヤホンを受け取った。注意する言葉とは裏腹に、冬杞の表情は柔らかかった。
「……気を付けます」
菜月羽は、素直に冬杞の言葉を受け入れた。その言い方がおかしかったのか、冬杞は笑みを浮かべる。
冬杞も適当な席に腰を下ろす。教材置場と化してはいるが、机と椅子はそれなりに残っている。
その動きをじっと見つめていた菜月羽と、冬杞の目が合った。
「……歌って」
真顔で冬杞は言った。菜月羽は優しい笑みを浮かべ、こくりと頷く。
頼んだ訳ではない。しかし、菜月羽は、あの日の歌を歌い出した。上手に歌おうとせず、誰かに聴かせようと力むこともせず、楽しくて思わず口ずさんでいる鼻歌のように、菜月羽の声はメロディーを奏でる。
冬杞はその雰囲気を邪魔しないように、ただじっと耳を澄ます。視線が邪魔にならないように、そっと目を閉じる。
菜月羽の声が聴こえなくなった頃、冬杞はゆっくりと目を開いた。少しだけ、目の前が黒いモヤモヤで霞む。そのモヤモヤに目が慣れ、視界が晴れはじめると、こちらをじっと見つめる菜月羽の顔が見えてきた。既に、イヤホンは外されている。
「……ありがとう」
「うん」
それから2人は、これからのことについて話し合った。
「あ、その前に、」
菜月羽は自分の予想の正確性について確かめたくなった。
「何?」
「今原くんって、人、嫌い?」
単刀直入に尋ねる。
「は?」
「(仮)でも付き合ってるから。基本的なところだけは知っておかないと、と思って。私――」
菜月羽は言葉を切った。冬杞は首を傾げる。
「何?」
「私、嫌われたくないから、今原くんに」
彼女の頬がほんの少し赤くなる。冬杞はそれを見逃さなかった。普段、1人でいる自分のことを気遣ってくれているのだろうと思うと、悪い気はしない。
「普段1人でいるのが多いのは確かだけど、別に人が嫌い、っていう訳じゃねえよ」
正直に答える。
「ただ、無理して人に合わせたいとは思わない。どっちかって言うと、そういうのは面倒だって思ってる。だから、1人でいることの方が多いだけ。別に、気の合う人とだったら近くにいてもいいし、話すことも嫌いじゃない」
――なるほど。
もしかしたら気を遣ってくれているのかもしれない。しかし、少しだけ菜月羽の予想も当たっていた。
「何、その顔」
「え?」
どうやら菜月羽は、無意識の内に、笑みを浮かべていたようだ。
「あ、ううん、なんでもない」
「……そう」
「今原くんと気の合う人になりたいな、と思って」
――この人は、
自分の言葉の意味を理解しているのだろうか、と思う。冬杞自身も他人のことは言えないのは分かっているが、菜月羽は昨日から、危うい言葉を連発しているように感じる。
『うん。むしろ、今原くんじゃないとだめ』
『私、嫌われたくないから、今原くんに』
『今原くんと気の合う人になりたいな、と思って』
話は、これからのことに戻る。
「私からお願いしたいことは2つ」
「どうぞ」
「まず、このことは、他の人に話さないようにしてほしい、って思ってる」
冬杞は黙って頷く。
「私たちが付き合うのは、昨日からの7日間だけ。みんなに伝える程のことじゃないと思ってるし、変に詮索されたくない。私は、ただゆっくりと、今原くんと一緒にいたいだけ。大事にしたくない」
「それは、俺も同感だな」
「あ、でも、もし黙ってること自体が苦痛とかだったら、言ってもいいよ」
慌てて菜月羽は付け加える。しばらく冬杞は、考える素振りをしてみせたが、
「いや、別に、大丈夫」
「そっか」
「新井さんは?」
「私も大丈夫」
菜月羽は頷いた。
「じゃあ、次ね」
「どうぞ」
「これは、私のお願いみたいなものだから、そんなに深刻に考えなくてもいいよ。嫌なら嫌って、はっきり言ってほしい」
壮大な前置き。おかしくて、冬杞はつい笑みを零す。
「いいよ、とりあえず言ってみて」
その笑みに、菜月羽は背中を押してもらう。
「2人だけの時間を作ってほしい」
「ん?」
「教室とかじゃなくて、誰もいないところで2人で会いたい。出来れば毎日。別に、ずっと喋ってなくてもいい。なんなら、今原くんは寝ててもいい。その近くに私がいるだけでいい。……だめ?」
菜月羽は不安そうな表情で冬杞を見た。しかし、そんな顔をする必要は、ない。
「いいよ」
「え?」
「いいよ」
「いいの?」
「うん」
驚いたのは菜月羽である。予想以上にあっさりと、冬杞が受け入れてくれたから。
「場所は?ここでいいの?」
「……ここでいいと思う?」
冬杞はぐるりと自習室内を見回す。
「誰かが使ってる感じもなさそうだし、静かで人通りもないし、俺はいいと思うけど」
菜月羽は笑顔を弾けさせる。
2人共、部活動には所属していない。余程のことがなければ、放課後は暇である。
「本当?じゃあ、ここで会おう」
「ああ。あー、一応言っとくけど、俺、寝ないから」
キョトンとする菜月羽。そして、自分が言った言葉を思い出す。
『なんなら、今原くんは寝ててもいい』
ふふっと菜月羽は笑う。
「了解です」
「他には何かある?」
「私からはそれぐらい。また何かあったら言うよ」
「そうして」
「今原くんは?何かこれだけは、みたいなことない?」
「俺?俺は……」
ない訳ではなかった。昨日からぼんやりと考えていたことが、冬杞にもある。しかし、これは、なんと言うか、
――結構、ハズいよな。
だが、譲れない部分でもあった。
「2つ」
「1つ目は、新井さんの歌を聴きたい」
「うん」
昨日から何度も言っている。むしろ、これが発端で、今、この奇妙な状況に至っている。菜月羽も、特に動揺しない。
「2つ目は、」
「うん」
「別に嫌ならいいけど、」
「何?」
「その今原くんっていう呼び方、やめてほしい、かな」
「……ん?」
「新井さんがどういう気持ちで俺と付き合おう、って言ってくれたのかは、正直よく分からない。『本当に付き合おうと思わなくてもいい』とか、どういう意味だろうって思う。でも、」
冬杞なりにいろいろと考えてみた結果、導かれたものがある。
「でも?」
「本当に勝手な想像でしかないけど、新井さん、多少は恋人っぽいこともしたいんじゃないかと思って」
「……ん?」
本当に勝手な想像でしかなかった。ただ、そう思うことで、冬杞自身、納得しようとしている部分があった。
付き合いたい。
本当に付き合わなくていい。
どこか矛盾している気がした。歌を歌う為の口実とするには、発想が斜め上をいっている。
「だから、俺から提案できるとしたら、そういうことかな、って」
菜月羽は驚いていた。一匹狼、いや、今原冬杞から発せられている言葉とは思えなかった。
「……気を遣って、くれてますか?」
――また、敬語。
これは菜月羽の癖なんだろうな、と冬杞は微笑ましく思う。要所要所で彼女は敬語を使う。
「遣ってない、とは言わない。でも、それはお互い様だろ?」
「まあ、それはそうかもしれませんが……」
「だったら、せめて呼び方ぐらいは恋人っぽくしてみよう。俺、下の名前で呼んでほしい」
「……冬杞、くん?」
「うん、そっちの方がいい」
「冬杞、くん」
菜月羽はもう1度呟く。
「冬杞くん」
今度は冬杞の目を見て言ってみる。
だが。
「……照れます」
「慣れるよ、その内」
と言いつつ、冬杞も内心はドキドキしていた。彼の性格上、親しみを込めて「冬杞くん」と女子から呼ばれることなど、いや、
――男子でもいないか、下の名前で呼ぶ奴。
目を見て「冬杞くん」と言われた時、いろいろな意味でピークだった。目を背けそうになったが、冬杞が言い出したことでもあり、逆に恥ずかしくて、そんなことは出来なかった。
「新井さんは?俺、なんて呼んだらいい?」
「私もいいの?」
「当たり前だろ?」
「……じゃあ、私も下の名前がいい」
――だよな。
提案しておきながら、そう言われることに抵抗を覚えていた。女子の名前を下で呼ぶことなど、いつ以来だろうか?
――もしかして、初めて?
冬杞にとっては、それぐらいのことであった。
「……菜月羽」
2人の鼓動がドクンと大きく脈打つ。
「呼び捨ては、嫌?」
「ううん、菜月羽でいい」
「……そう」
そして、菜月羽はふっと息を漏らした。と思えば、彼女の瞳がみるみる濡れはじめる。
驚いたのは冬杞だけではない。菜月羽自身もだった。
――私、自分が思ってる以上に……。
そのあとのことは考えないようにした。考えたところで、何も変わらないと分かっているから。
しかし、冬杞はそういう訳にはいかない。
「何?どうした?」
突然の涙。
「……ごめん、なんでもない」
1粒だけ流れた涙を、菜月羽は指で拭う。
「……やっぱり、無理してるんじゃねえの?」
どうやら冬杞は、菜月羽の涙を、「本当はこの状況が辛い」のではないかと勘違いしてしまっているようだ。
しかし。
「違う!」
それは全くの誤解である。
「でも……」
「本当に違うの!むしろ嬉しいの」
「嬉しい?」
菜月羽は目元を押さえ、感情が静まるのを待った。
「私、多分、キャラ的に、いじられるタイプじゃないんだと思う。どっちかって言うと、真面目とかそういう風に見られてる気がする」
冬杞はじっと菜月羽を見守った。
「私と一緒にいる子は、男子から下の名前で呼ばれたり、あだ名で呼ばれたりしてる。でも、すぐ隣にいる私は、『新井さん』とか『新井』って呼ばれたりして、下の名前で呼ばれたことなんてほとんどなかった。
小学生までは、もしかしたら名前で呼んでくれる子はいたかもしれないけど、よく覚えてないし。
中学・高校に関しては、みんな『新井さん』って」
冬杞は、先程まで自分が考えていたことが、菜月羽の口からこぼれたことに不思議な感覚を覚えた。
「あ、でも、別に、それが嫌っていう訳じゃないんだよ。私も、男子は名字+くん、女子は名前+ちゃん、そういう風に呼ぼうって無意識の内に決めてて、あんまり、ニックネームとかで呼んでこなかったし。
けど、時々ね、思う時があって。たまには、男子からも名前で呼ばれたいな、って。親しみの証、みたいな気がして。私、今まで、人間関係は、広く浅くみたいなところがあったから。いい思い出になるな、って。
だから……、だからなんか嬉しくて、名前で呼んでもらえることが」
目元がまた熱くなる。
「呼び方だけで人との距離は決まらないとは思うけど、でも、もし恋人が出来たら、どうやって呼び合うんだろう、って思うこともあったりして」
「……そっか」
冬杞は伏し目がちに言った。しかし、表情は柔らかく、何度もうんうんと頷いているところから、菜月羽のことを受け入れてくれたと感じる。
「でも、泣くほど?」
確かに、冬杞の目には大袈裟に映るだろう。冬杞に話したことは事実だ。胸を打たれたのも本当である。
ただ、それだけではない。いろいろな感情が入り交じり、涙となって溢れてしまったのだ。
「ごめん、感情がぐちゃぐちゃで」
「……そっか」
「冬杞くん」
菜月羽は改めて居住まいを正し、冬杞の方を向く。冬杞もそれにつられて、姿勢を正す。
「改めて、よろしくお願いします」
頭を下げる。冬杞はふっと笑う。
「それは、もういいよ」
「え?」
菜月羽は顔を上げる。
「代わりに俺がする」
「ん?」
「菜月羽、よろしくお願いします」
そして、冬杞が頭を下げた。
「え?冬杞くん、なんで?」
――なんでって……。
慌てる菜月羽。顔を伏せながら、冬杞はくくっと笑う。
「なんでって、よく言うよ。菜月羽、俺に同じこと、何回やってると思ってんだよ」
「え?私?そんなにしてる?」
「してる」
「……気付かなかった」
「マジかよ」
「……うん」
2人は心地よい笑いの渦に入り込む。
しばらく、会話もなく笑い続ける。すると、今まで気付かなかった教室の熱気に意識が向く。
「……暑いね」
自習室にもエアコンは設けられている。しかし、本来使われることのない部屋を勝手に使用し、そのエアコンまで拝借するというのは、2人共、気が引ける。とりあえず、今は窓を開けているが、どうやら無風のようだ。
「そういえば、冬杞くんは、ポロシャツ着てないんだね」
菜月羽は冬杞の腕を見た。カッターシャツの袖を2回程折り返し、手首辺りが顔を覗かせている。
「今、俺、廊下側の席だから」
「あー、なるほど」
4月に入学し、しばらくの間は席替えをしていなかった。しかし、2ヵ月程経った6月中旬に、初めて席替えが行われた。そして冬杞は廊下側から2列目、エアコンの風が直撃する場所に移動することになった。その為、授業中は、時に極寒となる。冬杞はカッターシャツを着ることで、この真夏に防寒をしている、ということになる。
「ここに来るようになるんだったら、ポロシャツに変えようかなあ」
「でも、寒いよね、教室は」
「うん、寒い」
ふふっと菜月羽は笑う。
「菜月羽は今、窓側だよな?」
「うん、だから、お昼は暑いんだよね。カーテンは閉まってても、1番窓際だから、どっちにしても暑い」
新井菜月羽。
出席番号1番。
冬杞と同じクラス。
彼女は長年、出席番号1番の宿命を受け続けている。新年度、最初の席、1番窓際の1番前。
「菜月羽こそ、ポロシャツにしたら?」
「んー、私、ポロシャツ買ってないんだよね」
「は?マジ?」
「うん」
「なんでだよ?」
2人が通うL高は、高校の指定するポロシャツがある。ポロシャツ自体の形は一般的なものではあるが、袖のところに校章が印刷されているのが特徴である。
「うーん……」
菜月羽はしばらく考える素振りを見せたあと、
「もったいない、って思ったから」
「もったいない?」
冬杞はそのまま聞き返した。
「うん、着るか着ないか分からないな、と思ったから」
ポロシャツが着用できる時期の目安は一応定められているが、あくまでも自由である。着たくない者は着なくていい。冬杞もポロシャツを持ってはいるが、先程の理由から、着用はしていない。
おそらく、誰しもが入学時に1~2着程は購入している、と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
それにしても、
――もったいない、っていう感覚なのか。
冬杞はほんの少し疑問に思ったが、言葉にはしない。
「まさか、席替えで、また窓際の席になるなんてね」
「だな」
「うん」
「だったら、今からでも遅くはねえんじゃねえの?」
すると、菜月羽はほんの少し表情を曇らせた。
「うーん」
瞳が泳ぐ。
「夏休みまでは、とりあえずこのままでいこうかな。そのあとのことは、また考える」
「そっか」
考え方は人それぞれのようだ、と冬杞は思う。
「あ!でも、」
「ん?」
先程までとは打って変わって、菜月羽の顔に覇気が戻ってきた。
「やっぱり、だめかなあ」
「……なんで?」
菜月羽は悪戯な笑みを浮かべる。
不意に、カッターシャツの袖を肘くらいまで捲った。
――細。
声に出さずに冬杞は叫んだ。
目の前に、白く細い腕がある。自ら光を放っているのではないかと思えるほど、その腕は美しかった。
「細いでしょ、私の腕」
「え?」
「っていうより、太くはないでしょ?」
「まあ、そうだな」
口が裂けても太いとは言わない。
「この腕を見ると、みんなそう言う」
「だろうな」
「私もそう思う。さすがにこの腕で『そんなことないよ』なんて言ったら、嫌味でしかないもんね」
冬杞は黙って頷く。確かにそんなことを言ったら、世の中の多くの人類を敵にまわしそうだ。
「別にね、ダイエットとかしてる訳じゃないんだよ?小さい頃から、食べてもお腹にはお肉がつくんだけど、手足にはそれがつかなくて。つまり、人の目に付きやすいところは細くて、みんなから『痩せてるね』って言われる。それと、」
「それと?」
菜月羽は、にやりと笑みを浮かべた。そして、自分の右手で左手首を掴んだ。
「オレソウ」
「オレソウ……?」
「うん」
冬杞はおうむ返しをした。
「何、オレソウって?」
「この腕を見ると、だいたいの人が言うの、『ちょっと力を入れたら、この腕折れそう』って」
ハッとしたのは冬杞だった。昨日、彼女の腕を掴んだ時のことを思い出す。
『何だよ、この腕……』
『折れるな、これ』
まさしく同じことを考えていた。
「もうね、耳にたこができてるの、その言葉」
一方の菜月羽は楽しそうに笑っている。
「ものすごーく力持ちの人だったら別だけど、そうじゃなかったら、そんなに簡単には折れないよ。なのに、みんな、折れそう折れそう、って。なんでだろうね」
冬杞も思わず笑った。
「……なんでだろうな」
「だからね、あんまり半袖の服は着ないようにしてるの、普段から。まあ、一時の冗談みたいなもので、ピークが過ぎたら何もなくなるけど、たまに何回も言ってくる人がいて。そういう人に申し訳なくなるんだよね」
菜月羽は袖を戻した。
「いろいろ考えてるんだな」
「まあね」
昨日のことは黙っておこう、と冬杞は思う。これ以上、菜月羽の耳に「たこ」ができてしまったらかわいそうだ。
ふと窓の外を見ると、ほんの少しオレンジに染まりはじめている。明るいから勘違いしてしまうが、時刻は6時を過ぎている。
「菜月羽」
「ん?」
「また歌って。で、今日は帰ろ」
「うん」
菜月羽はイヤホンを取り出した。
「冬杞くんも聴く?」
「ううん、いい」
「……そ」
そして静かに、菜月羽の声が響いた。
☆☆☆