今原(いまはら)冬杞(ふゆき)

出席番号2番。

菜月羽(なつは)と同じクラス。

周囲からの評判は、「一匹狼」。

菜月羽も同様の印象を持っていた。

入学してから最近まで、菜月羽が見掛ける冬杞は、いつも1人だった。他のクラスメイトと群れているところを見たこともなければ、大きな口を開いて笑っているところも見たことがない。

だからこそ、彼のあの笑みは、とても印象的だった。柔らかくて、優しくて、菜月羽は思わず見惚れてしまった。

しかし、冬杞は、1人でいることを苦痛とは思っていないようだ。むしろ、1人でいることを好んでいるようにも思える。

――人が、嫌い?

そんなことも考えた。

その人嫌いが転じて、彼からは「俺に近寄るな」オーラが知らず知らずの内に醸し出されている、ように見えていた。

けれど、ひとつ、勘違いしていた。

「一匹狼」というイメージから、勝手に、冬杞は無口なのだろうかと思っていた。

――でも、

「今原くんって、私が思ってるより、喋るのは好きなのかも」

自然と笑みが零れる菜月羽の姿は、傍から見れば不気味なのかもしれない。

今、菜月羽は、自習室Aにいる。冬杞はいない。

手近な席に座っている。両耳にはイヤホンがついていて、音楽で充満されている。そして、リズムに乗りつつ呟いたのが、さっきの言葉だった。昨日、嵐のような、幻のような、怒濤の時間を過ごしている時に思ったことだった。

「一匹狼」が無口だというのは、大きな思い込みなのかもしれない。

そんなことを考えていると、自然と顔がにやける。

――楽しいかも、こういうの。

すると。

「え?」

急に、耳に違和感を覚えた。

「何、1人で喋ってんの?」

バッと顔をむけた先には、

「今原くん!」

がいた。彼の右手には、なぜかイヤホンがぶら下がっている。その行く末を見ると、これまたなぜか菜月羽のスカートに繋がっている。

「朝じゃねえんだから、両耳イヤホン、気を付けた方がいいよ」

「え?」

「俺じゃない誰かが来る可能性もある訳だし」

冬杞は右手を差し出した。言葉にはしないが、「返す」と言っている。菜月羽は、その手に持たれていたイヤホンを受け取った。注意する言葉とは裏腹に、冬杞の表情は柔らかかった。

「……気を付けます」

菜月羽は、素直に冬杞の言葉を受け入れた。その言い方がおかしかったのか、冬杞は笑みを浮かべる。

冬杞も適当な席に腰を下ろす。教材置場と化してはいるが、机と椅子はそれなりに残っている。

その動きをじっと見つめていた菜月羽と、冬杞の目が合った。

「……歌って」

真顔で冬杞は言った。菜月羽は優しい笑みを浮かべ、こくりと頷く。

頼んだ訳ではない。しかし、菜月羽は、あの日の歌を歌い出した。上手に歌おうとせず、誰かに聴かせようと力むこともせず、楽しくて思わず口ずさんでいる鼻歌のように、菜月羽の声はメロディーを奏でる。

冬杞はその雰囲気を邪魔しないように、ただじっと耳を澄ます。視線が邪魔にならないように、そっと目を閉じる。

菜月羽の声が聴こえなくなった頃、冬杞はゆっくりと目を開いた。少しだけ、目の前が黒いモヤモヤで霞む。そのモヤモヤに目が慣れ、視界が晴れはじめると、こちらをじっと見つめる菜月羽の顔が見えてきた。既に、イヤホンは外されている。

「……ありがとう」

「うん」

それから2人は、これからのことについて話し合った。

「あ、その前に、」

菜月羽は自分の予想の正確性について確かめたくなった。

「何?」

「今原くんって、人、嫌い?」

単刀直入に尋ねる。

「は?」

(仮)(かっこかり)でも付き合ってるから。基本的なところだけは知っておかないと、と思って。私――」

菜月羽は言葉を切った。冬杞は首を傾げる。

「何?」

「私、嫌われたくないから、今原くんに」

彼女の頬がほんの少し赤くなる。冬杞はそれを見逃さなかった。普段、1人でいる自分のことを気遣ってくれているのだろうと思うと、悪い気はしない。

「普段1人でいるのが多いのは確かだけど、別に人が嫌い、っていう訳じゃねえよ」

正直に答える。

「ただ、無理して人に合わせたいとは思わない。どっちかって言うと、そういうのは面倒だって思ってる。だから、1人でいることの方が多いだけ。別に、気の合う人とだったら近くにいてもいいし、話すことも嫌いじゃない」

――なるほど。

もしかしたら気を遣ってくれているのかもしれない。しかし、少しだけ菜月羽の予想も当たっていた。

「何、その顔」

「え?」

どうやら菜月羽は、無意識の内に、笑みを浮かべていたようだ。

「あ、ううん、なんでもない」

「……そう」

「今原くんと気の合う人になりたいな、と思って」

――この人は、

自分の言葉の意味を理解しているのだろうか、と思う。冬杞自身も他人のことは言えないのは分かっているが、菜月羽は昨日から、危うい言葉を連発しているように感じる。

『うん。むしろ、今原くんじゃないとだめ』

『私、嫌われたくないから、今原くんに』

『今原くんと気の合う人になりたいな、と思って』

話は、これからのことに戻る。

「私からお願いしたいことは2つ」

「どうぞ」

「まず、このことは、他の人に話さないようにしてほしい、って思ってる」

冬杞は黙って頷く。

「私たちが付き合うのは、昨日からの7日間だけ。みんなに伝える程のことじゃないと思ってるし、変に詮索されたくない。私は、ただゆっくりと、今原くんと一緒にいたいだけ。大事にしたくない」

「それは、俺も同感だな」

「あ、でも、もし黙ってること自体が苦痛とかだったら、言ってもいいよ」

慌てて菜月羽は付け加える。しばらく冬杞は、考える素振りをしてみせたが、

「いや、別に、大丈夫」

「そっか」

新井(あらい)さんは?」

「私も大丈夫」

菜月羽は頷いた。

「じゃあ、次ね」

「どうぞ」

「これは、私のお願いみたいなものだから、そんなに深刻に考えなくてもいいよ。嫌なら嫌って、はっきり言ってほしい」

壮大な前置き。おかしくて、冬杞はつい笑みを零す。

「いいよ、とりあえず言ってみて」

その笑みに、菜月羽は背中を押してもらう。

「2人だけの時間を作ってほしい」

「ん?」

「教室とかじゃなくて、誰もいないところで2人で会いたい。出来れば毎日。別に、ずっと喋ってなくてもいい。なんなら、今原くんは寝ててもいい。その近くに私がいるだけでいい。……だめ?」

菜月羽は不安そうな表情で冬杞を見た。しかし、そんな顔をする必要は、ない。

「いいよ」

「え?」

「いいよ」

「いいの?」

「うん」

驚いたのは菜月羽である。予想以上にあっさりと、冬杞が受け入れてくれたから。

「場所は?ここでいいの?」

「……ここでいいと思う?」

冬杞はぐるりと自習室内を見回す。

「誰かが使ってる感じもなさそうだし、静かで人通りもないし、俺はいいと思うけど」

菜月羽は笑顔を弾けさせる。

2人共、部活動には所属していない。余程のことがなければ、放課後は暇である。

「本当?じゃあ、ここで会おう」

「ああ。あー、一応言っとくけど、俺、寝ないから」

キョトンとする菜月羽。そして、自分が言った言葉を思い出す。

『なんなら、今原くんは寝ててもいい』

ふふっと菜月羽は笑う。

「了解です」

「他には何かある?」

「私からはそれぐらい。また何かあったら言うよ」

「そうして」

「今原くんは?何かこれだけは、みたいなことない?」

「俺?俺は……」

ない訳ではなかった。昨日からぼんやりと考えていたことが、冬杞にもある。しかし、これは、なんと言うか、

――結構、ハズいよな。

だが、譲れない部分でもあった。

「2つ」

「1つ目は、新井さんの歌を聴きたい」

「うん」

昨日から何度も言っている。むしろ、これが発端で、今、この奇妙な状況に至っている。菜月羽も、特に動揺しない。

「2つ目は、」

「うん」

「別に嫌ならいいけど、」

「何?」

「その今原くんっていう呼び方、やめてほしい、かな」

「……ん?」

「新井さんがどういう気持ちで俺と付き合おう、って言ってくれたのかは、正直よく分からない。『本当に付き合おうと思わなくてもいい』とか、どういう意味だろうって思う。でも、」

冬杞なりにいろいろと考えてみた結果、導かれたものがある。

「でも?」

「本当に勝手な想像でしかないけど、新井さん、多少は恋人っぽいこともしたいんじゃないかと思って」

「……ん?」

本当に勝手な想像でしかなかった。ただ、そう思うことで、冬杞自身、納得しようとしている部分があった。

付き合いたい。

本当に付き合わなくていい。

どこか矛盾している気がした。歌を歌う為の口実とするには、発想が斜め上をいっている。

「だから、俺から提案できるとしたら、そういうことかな、って」

菜月羽は驚いていた。一匹狼、いや、今原冬杞から発せられている言葉とは思えなかった。

「……気を遣って、くれてますか?」

――また、敬語。

これは菜月羽の癖なんだろうな、と冬杞は微笑ましく思う。要所要所で彼女は敬語を使う。

「遣ってない、とは言わない。でも、それはお互い様だろ?」

「まあ、それはそうかもしれませんが……」

「だったら、せめて呼び方ぐらいは恋人っぽくしてみよう。俺、下の名前で呼んでほしい」

「……冬杞、くん?」

「うん、そっちの方がいい」

「冬杞、くん」

菜月羽はもう1度呟く。

「冬杞くん」

今度は冬杞の目を見て言ってみる。

だが。

「……照れます」

「慣れるよ、その内」

と言いつつ、冬杞も内心はドキドキしていた。彼の性格上、親しみを込めて「冬杞くん」と女子から呼ばれることなど、いや、

――男子でもいないか、下の名前で呼ぶ奴。

目を見て「冬杞くん」と言われた時、いろいろな意味でピークだった。目を背けそうになったが、冬杞が言い出したことでもあり、逆に恥ずかしくて、そんなことは出来なかった。

「新井さんは?俺、なんて呼んだらいい?」

「私もいいの?」

「当たり前だろ?」

「……じゃあ、私も下の名前がいい」

――だよな。

提案しておきながら、そう言われることに抵抗を覚えていた。女子の名前を下で呼ぶことなど、いつ以来だろうか?

――もしかして、初めて?

冬杞にとっては、それぐらいのことであった。

「……菜月羽」

2人の鼓動がドクンと大きく脈打つ。

「呼び捨ては、嫌?」

「ううん、菜月羽でいい」

「……そう」

そして、菜月羽はふっと息を漏らした。と思えば、彼女の瞳がみるみる濡れはじめる。

驚いたのは冬杞だけではない。菜月羽自身もだった。

――私、自分が思ってる以上に……。

そのあとのことは考えないようにした。考えたところで、何も変わらないと分かっているから。

しかし、冬杞はそういう訳にはいかない。

「何?どうした?」

突然の涙。

「……ごめん、なんでもない」

1粒だけ流れた涙を、菜月羽は指で拭う。

「……やっぱり、無理してるんじゃねえの?」

どうやら冬杞は、菜月羽の涙を、「本当はこの状況が辛い」のではないかと勘違いしてしまっているようだ。

しかし。

「違う!」

それは全くの誤解である。

「でも……」

「本当に違うの!むしろ嬉しいの」

「嬉しい?」

菜月羽は目元を押さえ、感情が静まるのを待った。

「私、多分、キャラ的に、いじられるタイプじゃないんだと思う。どっちかって言うと、真面目とかそういう風に見られてる気がする」

冬杞はじっと菜月羽を見守った。

「私と一緒にいる子は、男子から下の名前で呼ばれたり、あだ名で呼ばれたりしてる。でも、すぐ隣にいる私は、『新井さん』とか『新井』って呼ばれたりして、下の名前で呼ばれたことなんてほとんどなかった。

小学生までは、もしかしたら名前で呼んでくれる子はいたかもしれないけど、よく覚えてないし。

中学・高校に関しては、みんな『新井さん』って」

冬杞は、先程まで自分が考えていたことが、菜月羽の口からこぼれたことに不思議な感覚を覚えた。

「あ、でも、別に、それが嫌っていう訳じゃないんだよ。私も、男子は名字+くん、女子は名前+ちゃん、そういう風に呼ぼうって無意識の内に決めてて、あんまり、ニックネームとかで呼んでこなかったし。

けど、時々ね、思う時があって。たまには、男子からも名前で呼ばれたいな、って。親しみの証、みたいな気がして。私、今まで、人間関係は、広く浅くみたいなところがあったから。いい思い出になるな、って。

だから……、だからなんか嬉しくて、名前で呼んでもらえることが」

目元がまた熱くなる。

「呼び方だけで人との距離は決まらないとは思うけど、でも、もし恋人が出来たら、どうやって呼び合うんだろう、って思うこともあったりして」

「……そっか」

冬杞は伏し目がちに言った。しかし、表情は柔らかく、何度もうんうんと頷いているところから、菜月羽のことを受け入れてくれたと感じる。

「でも、泣くほど?」

確かに、冬杞の目には大袈裟に映るだろう。冬杞に話したことは事実だ。胸を打たれたのも本当である。

ただ、それだけではない。いろいろな感情が入り交じり、涙となって溢れてしまったのだ。

「ごめん、感情がぐちゃぐちゃで」

「……そっか」

「冬杞くん」

菜月羽は改めて居住まいを正し、冬杞の方を向く。冬杞もそれにつられて、姿勢を正す。

「改めて、よろしくお願いします」

頭を下げる。冬杞はふっと笑う。

「それは、もういいよ」

「え?」

菜月羽は顔を上げる。

「代わりに俺がする」

「ん?」

「菜月羽、よろしくお願いします」

そして、冬杞が頭を下げた。

「え?冬杞くん、なんで?」

――なんでって……。

慌てる菜月羽。顔を伏せながら、冬杞はくくっと笑う。

「なんでって、よく言うよ。菜月羽、俺に同じこと、何回やってると思ってんだよ」

「え?私?そんなにしてる?」

「してる」

「……気付かなかった」

「マジかよ」

「……うん」

2人は心地よい笑いの渦に入り込む。

しばらく、会話もなく笑い続ける。すると、今まで気付かなかった教室の熱気に意識が向く。

「……暑いね」

自習室にもエアコンは設けられている。しかし、本来使われることのない部屋を勝手に使用し、そのエアコンまで拝借するというのは、2人共、気が引ける。とりあえず、今は窓を開けているが、どうやら無風のようだ。

「そういえば、冬杞くんは、ポロシャツ着てないんだね」

菜月羽は冬杞の腕を見た。カッターシャツの袖を2回程折り返し、手首辺りが顔を覗かせている。

「今、俺、廊下側の席だから」

「あー、なるほど」

4月に入学し、しばらくの間は席替えをしていなかった。しかし、2ヵ月程経った6月中旬に、初めて席替えが行われた。そして冬杞は廊下側から2列目、エアコンの風が直撃する場所に移動することになった。その為、授業中は、時に極寒となる。冬杞はカッターシャツを着ることで、この真夏に防寒をしている、ということになる。

「ここに来るようになるんだったら、ポロシャツに変えようかなあ」

「でも、寒いよね、教室は」

「うん、寒い」

ふふっと菜月羽は笑う。

「菜月羽は今、窓側だよな?」

「うん、だから、お昼は暑いんだよね。カーテンは閉まってても、1番窓際だから、どっちにしても暑い」

新井菜月羽。

出席番号1番。

冬杞と同じクラス。

彼女は長年、出席番号1番の宿命を受け続けている。新年度、最初の席、1番窓際の1番前。

「菜月羽こそ、ポロシャツにしたら?」

「んー、私、ポロシャツ買ってないんだよね」

「は?マジ?」

「うん」

「なんでだよ?」

2人が通うL高は、高校の指定するポロシャツがある。ポロシャツ自体の形は一般的なものではあるが、袖のところに校章が印刷されているのが特徴である。

「うーん……」

菜月羽はしばらく考える素振りを見せたあと、

「もったいない、って思ったから」

「もったいない?」

冬杞はそのまま聞き返した。

「うん、着るか着ないか分からないな、と思ったから」

ポロシャツが着用できる時期の目安は一応定められているが、あくまでも自由である。着たくない者は着なくていい。冬杞もポロシャツを持ってはいるが、先程の理由から、着用はしていない。

おそらく、誰しもが入学時に1~2着程は購入している、と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。

それにしても、

――もったいない、っていう感覚なのか。

冬杞はほんの少し疑問に思ったが、言葉にはしない。

「まさか、席替えで、また窓際の席になるなんてね」

「だな」

「うん」

「だったら、今からでも遅くはねえんじゃねえの?」

すると、菜月羽はほんの少し表情を曇らせた。

「うーん」

瞳が泳ぐ。

「夏休みまでは、とりあえずこのままでいこうかな。そのあとのことは、また考える」

「そっか」

考え方は人それぞれのようだ、と冬杞は思う。

「あ!でも、」

「ん?」

先程までとは打って変わって、菜月羽の顔に覇気が戻ってきた。

「やっぱり、だめかなあ」

「……なんで?」

菜月羽は悪戯な笑みを浮かべる。

不意に、カッターシャツの袖を肘くらいまで捲った。

――細。

声に出さずに冬杞は叫んだ。

目の前に、白く細い腕がある。自ら光を放っているのではないかと思えるほど、その腕は美しかった。

「細いでしょ、私の腕」

「え?」

「っていうより、太くはないでしょ?」

「まあ、そうだな」

口が裂けても太いとは言わない。

「この腕を見ると、みんなそう言う」

「だろうな」

「私もそう思う。さすがにこの腕で『そんなことないよ』なんて言ったら、嫌味でしかないもんね」

冬杞は黙って頷く。確かにそんなことを言ったら、世の中の多くの人類を敵にまわしそうだ。

「別にね、ダイエットとかしてる訳じゃないんだよ?小さい頃から、食べてもお腹にはお肉がつくんだけど、手足にはそれがつかなくて。つまり、人の目に付きやすいところは細くて、みんなから『痩せてるね』って言われる。それと、」

「それと?」

菜月羽は、にやりと笑みを浮かべた。そして、自分の右手で左手首を掴んだ。

「オレソウ」

「オレソウ……?」

「うん」

冬杞はおうむ返しをした。

「何、オレソウって?」

「この腕を見ると、だいたいの人が言うの、『ちょっと力を入れたら、この腕折れそう』って」

ハッとしたのは冬杞だった。昨日、彼女の腕を掴んだ時のことを思い出す。

『何だよ、この腕……』

『折れるな、これ』

まさしく同じことを考えていた。

「もうね、耳にたこができてるの、その言葉」

一方の菜月羽は楽しそうに笑っている。

「ものすごーく力持ちの人だったら別だけど、そうじゃなかったら、そんなに簡単には折れないよ。なのに、みんな、折れそう折れそう、って。なんでだろうね」

冬杞も思わず笑った。

「……なんでだろうな」

「だからね、あんまり半袖の服は着ないようにしてるの、普段から。まあ、一時の冗談みたいなもので、ピークが過ぎたら何もなくなるけど、たまに何回も言ってくる人がいて。そういう人に申し訳なくなるんだよね」

菜月羽は袖を戻した。

「いろいろ考えてるんだな」

「まあね」

昨日のことは黙っておこう、と冬杞は思う。これ以上、菜月羽の耳に「たこ」ができてしまったらかわいそうだ。

ふと窓の外を見ると、ほんの少しオレンジに染まりはじめている。明るいから勘違いしてしまうが、時刻は6時を過ぎている。

「菜月羽」

「ん?」

「また歌って。で、今日は帰ろ」

「うん」

菜月羽はイヤホンを取り出した。

「冬杞くんも聴く?」

「ううん、いい」

「……そ」

そして静かに、菜月羽の声が響いた。

☆☆☆