放課後。

菜月羽(なつは)は、生徒指導室の掃除を終え、のんびりと教室へ戻っている途中だった。その後ろ姿を偶然見掛けた冬杞(ふゆき)は、思わず彼女の傍に駆け寄り、

「え?」

後ろから彼女の右腕を掴んだ。

菜月羽は瞬時に振り返った。そこには、恐怖と驚きの表情がある。

今原(いまはら)くん?」

しかし、冬杞の姿を確認すると、恐怖の色はスッと消えていった。

――何だよ、この腕……。

一方の冬杞は、余計なことを考えていた。

2人の高校では、衣替えのシーズンもとっくに過ぎ、生徒たちの多くはポロシャツを着用するようになっている。しかし、強制ではない。少数派ではあるが、長袖のカッターシャツの袖を数回折り返している生徒もいる。冬杞も菜月羽もその少数派である。その折り返した袖から見える手首からしても、菜月羽が太っているとは天地が引っくり返っても思わないが、まさかこんなにも細いとは。服の上からでも、菜月羽の細さが伝わってくる。

――女子って、こんなに細いの?

いや、女子が細いというのには語弊があるだろう。菜月羽が細いのだ、冬杞が想像しているよりも。

――折れるな、これ。

「あの、今原くん?」

我に返る冬杞。

「あのさ、」

「……うん」

「今から、予定ある?」

「……ん?」

「予定、ある?」

有無を言わせない静かな圧力、を与えているつもりはないが、自然と威圧感が増してしまう。

「ない、けど」

「じゃあ、来て」

「……はい?」

冬杞は、菜月羽の返事を待たずに歩きはじめた、彼女の腕を掴んだまま。当然、菜月羽はその身体ごと引っ張られる。菜月羽はバランスを崩しかけるが、何とか堪えた。

周囲には当然、多くの生徒がいる訳だが、その中に見知った人がいるのかどうかも確認できないほど、菜月羽は混乱していた。一方の冬杞は、勢いのままに突き進む。

2人がいたのは第1棟の3階、1年生の教室が主に集まる場所である。そこから2階へ下り、渡り廊下を通って第2棟へ向かう。第2棟の2階には、主に3年生の教室が集中している。

補足すると、第2棟の1階・2階には、3年生の教室や進路指導室・進路資料室などがあり、基本的に1年生の菜月羽や冬杞が長居する理由などない。現に、菜月羽は、特別棟へ移動する為の通過地点という認識をしている。

しかし、冬杞は、そんなことはお構いなしに、第2棟をずんずんと突き進んでいく。

「ねえ、今原くん。どこ行くの?」

後ろから菜月羽の声がする。

「ねえ、今原くん。どうしたの?」

しかし、冬杞は無言を貫いた。今、冬杞を動かしている原動力は、8割程が勢いである。ここで振り向いてしまったら、ここで口を開いてしまったら、その勢いが、それこそ勢いよく削ぎ落とされてしまいそうである。

――ねえ、どこ行くの……?

菜月羽の不安が募る。

そして、2人が辿り着いたのは、「自習室A」という教室だった。

冬杞は何の迷いもなく自習室の扉を開け、そして閉めた。電気はつけず、太陽の明かりだけが室内を満たす。が、それほど暗さに違和感はない。

「ここは……?」

自習室Aというのは第2棟の隅の方にある。普通の教室の半分程の広さ。もともとは3年生を対象とした、文字通り「自習室」としての役割を果たしていた。ちなみに、自習室AというからにはB、次いでC・Dと存在している。そして、自習室Eは第1棟にあり、そこは普通の教室の1.5倍程の広さがある。

だが、近年「自習室1」という、いかにもシンプルな名前の教室が第2棟に新設された。広さは、普通の教室の2倍程。冷暖房完備。赤本などの受験関連の資料も完全装備。おまけに進路指導室の隣という好立地。そちらに自習室の機能が完全にシフトしたことで、自習室A・Bは教材置場、自習室C・Dは少人数授業用の教室として使用されるようになった。

今も、自習室Aには、机や椅子と共に教卓や教材が詰め込まれているが、人が入るスペースも十分残っている。

隅の方にあるせいか、放課後は人通りがほとんどと言っていい程なく、しんとしている。

「あの、今原くん?」

自習室に入った時点で、冬杞は自然と菜月羽の腕を放していた。捕まれていた部分は、まだじんじんしている。気にしていなかったが、意外と力強く捕まれていたようだ。

「どうしたの?」

何度呼び掛けても、冬杞は菜月羽と向き合おうとしない。横を向き、何かをじっと考えている。

しばらく沈黙の時間が続いた。自習室内で聞こえるのは、遠くにある生徒のざわめき、そして、冬杞が机の脚を小突くコンコンという音だけである。

痺れを切らした菜月羽は、再び口を開いた。

「あの、今原くん。何も用がないなら――」

すると、突然、冬杞が菜月羽と正対した。ついに決意を固めた、ということが分かる程の真っ直ぐな冬杞の瞳に、菜月羽は思わず半歩後ろへ退いた。

「なんで、」

菜月羽は息を呑んだ。

「なんで、昨日も今日も、朝の教室にいなかった?」

冬杞の瞳は、真っ直ぐ菜月羽を捉え続けている。一方の菜月羽は、言葉の意味を理解する為に、少々の時間が必要だった。

――ん?

やがて、言葉自体の意味を理解した菜月羽は、それでも言葉の意図を理解できないでいる。

緊迫したこの状況、もっと深刻な「何か」を想像していたのだが、その想像の斜め上をいく冬杞の告白は、菜月羽を拍子抜けさせてしまった。

「どういうこと……?」

「そのままの意味だよ。なんで、朝、教室にいなかった?」

意図は分からないが、この質問に答えなければ、先へ進まなさそうだ。菜月羽は記憶を手繰り寄せる。

「昨日は――、あ、そうだ、球技大会!」

「球技大会?」

「うん、だから」

「だから、何だよ?」

7月の最初の週、高校では期末テストが実施されていた。そして、土日を挟んでの7月8日、その日が菜月羽と冬杞が出会した日である。

翌日の7月9日、つまり昨日については、球技大会が行われていた。各クラスでチームを作り参加する絶対参加型行事、優勝チームには賞品が与えられる。賞品といっても金一封が付与される訳ではなく、例えばボールペンやシャーペン・ノート・マグカップ・クリアファイルにペンケースなど、それ自体は珍しくもない日用品が贈られる。しかし、その賞品には校名や校章があしらわれており、生徒たちからは、3年間で1アイテムぐらいはゲットしたい、という意気込みが感じられる。

毎年、あるいは、毎行事、賞品は変わるが、もちろん、周期的に同じ物もまわってくる。一応、在籍中の3年間は被らないシステムになっているという噂は生徒の間で広まっているが、その辺りは校長の特権となっているようで、詳しいこだわりはよく分からない。

ちなみに、今回の球技大会の賞品はタオルである。

球技大会では、各クラス原則4チーム、女子2チーム、男子2チームを作る。今回は、女子が外でドッジボール、体育館でバレーボール、男子が外でサッカー、体育館でバレーボール、だった。

当然、運動が苦手な生徒もいる訳で、そんな生徒たちは各チームの補欠枠を虎視眈々と狙っている。

今回、2人は、共に体育館チームに振り分けられていた。そして、めでたく、男子は学年優勝を果たし、チームは賞品をゲットしている。

「何、って――、あれ?男子は朝練なかったの?」

昨日は球技大会当日ということもあり、体育館もグラウンドも、その練習の為に朝から開放されていた。菜月羽は他のチームメイトと一緒に朝練をしていたのだが。

「……は?」

「確か男子も体育館で練習してた気がするけど」

曖昧な記憶がはっきりしてきた。

「そうだよ!男子も練習してたよ!」

「練習……?」

――あー、そういえば、そんなこと誰か言ってた気が……。

「昨日は、その朝練に参加してて、教室にはいなかった。今原くんもそうだったんじゃないの?」

「あ、いや、それは……」

――忘れてた……。

「もしかして、忘れてた?」

形勢逆転。なぜか冬杞が追い詰められているような雰囲気になってしまう。

一方の菜月羽は、冬杞の様子から、どうやら図星のようだと薄々勘付いていた。

菜月羽はにこりと微笑んだ。

「まあ、そんなこともあるよ。女子も何人か来てなかったし。忘れちゃうこともあるよね」

冬杞は曖昧に頷いた。

「だったら、」

気を立て直す。

「今日は?」

元の話に戻る。

「今日は、なんで?」

「今日は――」

菜月羽は再び記憶を手繰り寄せる。

「今日は――、あ、そうだ、秋穂(あきほ)ちゃん!」

「あきほ?」

「うん」

「誰?」

「え?」

「え?」

沈黙。

「秋穂ちゃんだよ。出席番号3番、浦口(うらぐち)秋穂ちゃん」

「ああ……。浦口さんのこと……」

クラスメイトにあまり興味はない。下の名前で呼ばれると、すぐには顔と名前が一致しない。特に女子に関しては。

「浦口さんが何?」

「期末テストが終わって、夏休みまではもう授業もほとんどないでしょ?つまり、予習とか復習の時間も少なくて済む」

思えば、菜月羽と冬杞がこんなにも話すのは、初めてのことである。夏休みがはじまるまでに、1度くらいはこういう機会があればいいのに、と思っていた菜月羽にとって、今この瞬間はまさに青天の霹靂だった。

「でも代わりに、夏休みの課題がドサッと渡される」

現に、期末テストが終わってから今日までの間に、各教科担当から多くの課題が発表されている。中学校までの比ではない、膨大な量の課題が。

「それが?」

冬杞には、話のゴールが見えない。

「秋穂ちゃんは、課題を最後の最後まで後回しにして、最終的には間に合わなくなるタイプの人なんだって」

冬杞はゆっくりと顎を引く。対する菜月羽は楽しそうだった。

「だから、夏休みがはじまるまでに、ある程度終わらせたい、って」

「それと新井(あらい)さんと、どういう関係が……?」

「1人だと長続きしないし、課題自体も分からないから、一緒にやろう、って言われて」

菜月羽は周囲から、いわゆる頭のいい生徒として見られている。実際に頭がいいかは別として、秋穂に課題を教えてあげられるだけの学力は、確かにあるだろう。

「だから今日は、教室じゃなくて秋穂ちゃんと一緒に図書館に。そっちの方が気が散らないだろう、って秋穂ちゃんが」

「……そっか」

菜月羽の言い分は理解できた。しかし、冷静に考えてみれば、それは、

「え、ちょっと待って」

「ん?」

「それ、いつまで続けるつもり?」

「秋穂ちゃんと話してた時は、夏休みがはじまるまで、って言ってたんだけどね。でも、終業式の日まではしなくてもいいんじゃないかな、って思ってるから、前日までかな?夏休み以降は、何も」

淀みなく、菜月羽の言葉が流れる。

しかし、一方の冬杞の表情は、どんどん険しくなっていく。いや、険しいどころではない。愕然としている、と言った方がいいのかもしれない。既存の言葉では言い表せない程、彼は、狼狽えている。瞳が悲しげにゆらゆらと揺れている。菜月羽も思わず、一旦口を閉ざし、そして、

「今原くん、どうしたの?」

すると冬杞は、彼女の両腕を掴んだ。その力強さは、先程の比ではない。2人の距離がぐっと縮まる。すぐ目の前に互いの顔がある。菜月羽は思いも寄らぬ出来事に、胸の鼓動が高鳴りっ放しである。

「それじゃあ、もう、朝はあそこにいないの?」

「……うん、そうだね」

冬杞の言う通り、菜月羽のルーティンは思わぬところで幕を下ろしたことになる。確かに物悲しさがあるにはあるが、それは菜月羽に関しては、のことだ。冬杞が必死になる理由が分からない。

「なんで?なんで朝なんだよ?課題なんて、別に朝からしなくてもいいだろ?休み時間だって、昼休みだって、放課後だって、時間はいくらでもあるだろ?」

なぜか必死な冬杞に対し、菜月羽は思わず後退りしそうになる。しかし、そもそも身体はがっちりホールドされているので、動かしたくても動かせない。

――これは、

これは、同じように必死になってしまったらいけないような気がして、菜月羽は敢えて冷静になろうと努める。

「休み時間は10分だよ?移動教室があったらその時点でアウトだし、そもそも時間が短いよ。

昼休みは1時間あるけど、お弁当を食べる時間が必要だし、それこそ移動教室とか他の予定が入ったりして、毎日確実に時間が確保できるか分からない。

放課後は、私は関係ないけど、秋穂ちゃんは部活があるから。そもそも時間が合わない。

つまり、消去法で、朝しかまとまって時間が確保できないんだよ」

ひとつひとつ丁寧に、菜月羽は答えていく。その弁明に、冬杞は納得するしかない。

「だとしても、別にあんな朝早くからする必要ないだろ?わざわざ解錠の時間に合わせてはじめなくても」

「朝一番の授業は8時30分から。仮に、みんなが登校しはじめる8時ぐらいに課題をはじめたとしたら、時間は30分。でも、8時30分ギリギリまで出来る訳じゃないから、実質20分ぐらい。それだけで、あの大量の課題が進むと思う?」

「じゃあ、せめて、教室でしたらいいんじゃねえの?」

「それは私も言ったけど、秋穂ちゃんが嫌みたいで。教室にいたらいろんな誘惑に負けそうだから、って。これは一応、秋穂ちゃんの為にやってることだから、そこは無視することは出来ないよ」

次々と返ってくる弁明に、冬杞はますます狼狽えていく。

「そんな勝手なことされたら困るんだよ。なんでそんなことするんだよ!」

その言葉に菜月羽は眉ひそめる。

「今原くん、確認だけど――」

冬杞がキッと菜月羽の瞳を睨み付ける。

「今原くん、あの時が初めてだったんだよね?」

「は?」

「あの時間、私があそこで歌っているのを見たの」

睨み付けていた冬杞の瞳が揺れる。

――どっちだ?

菜月羽はその反応の真意を見極めようとしたが、それよりも先に冬杞が口を開いた。

「もう、あの歌、聴けないのかよ?なんで、そんな勝手なこと……」

冬杞は一体、何にこだわっているのだろう?菜月羽は頭の中でいろいろなことを考え、そして、ひとつの答えを導き出してみた。

「あ!もしかして、今原くん、あの歌知ってるの?」

「は?」

「あの歌、そんなに有名じゃないと思ってたけど、冬杞くん、知ってるんでしょ?だからそんなにこだわってるんだよね?」

「何言ってんだよ?」

「だったら、私、CD持ってるよ。それ持ってくるから――」

「違うんだよ!」

冬杞は菜月羽の言葉を遮った。

「あの歌のことは全然知らない。タイトルも知らないし、歌ってる人が誰なのかも知らない。そもそも、新井さんが歌ってる以外聴いたことない」

「じゃあ今原くんは何にこだわってるの?」

「俺が求めてるのは、あの歌じゃない。あの歌を歌っている新井さんの声が好きなんだよ。新井さんの歌を聴かせてほしいんだよ。新井さんの声じゃなかったら、CDを渡されても意味ないんだよ!」

そこまで話して、冬杞は我に返った。いや、冷静になった、という方が正しいのかもしれない。

――今、俺、なんて言った?

つい先程までの自分の言葉が、次々と頭の中で反芻される。

――俺、好きって言った?

そして、ある言葉だけが、何度も頭の中を駆け巡る。

――何を、好きって言った?

答えはすぐに出た。

――声。

冬杞はため息を吐く。

たとえ、「声」を好きだと言ったとしても、それはあまりにも、冬杞のキャラではない言葉だった。菜月羽は目を見張り、じっと冬杞を見ている。

菜月羽の腕を掴む、冬杞の手の力が弱まった。そして無言のまま、窓の方に歩み寄り、菜月羽に背を向けた。窓の向こうからは日差しが差し込み、彼を照らしている。

「……あの、今原くん?」

声を掛ける。

「……ごめん、今の、全部忘れて」

「え?」

「時間とらせてごめん。もう、いいよ」

「……今原くん」

もう冬杞くんから返事が戻ってくることはなかった。

菜月羽はしばらく冬杞の背中を見守る。しかし、何の変化もない。仕方なく、彼女は自習室を出ようと扉へ向かった。

その時。

コンコン。

音がした。自習室の外からではなく、中から。本当にすぐ近くから。

振り返ると、冬杞はまだ、同じ場所に立っていた。そして、その右足が、壁をコンコンと小突いている。

――俺、なんであんなこと。

冬杞は心の中で後悔していた。

「今原くん!」

一際大きな声に、冬杞は思わず振り向いた。

「私、今から変なこと言います。だから、先に謝っておきます。ごめんなさい」

菜月羽は頭を下げた。冬杞は驚いて、目を見開く。

「は?何やってんだよ?」

身体を起こした菜月羽の瞳には、不思議な力強さが宿っていた。

「今原くん、私と付き合ってくれませんか?」

「……え?」

冬杞は顔をしかめた。

「何言ってんだよ、新井さん。なんで、そんな急に……」

冷静になっていけばいく程、やはり訳が分からない。どこから飛び火すれば、「付き合う」ことになるのだろう?

「急なことは分かってる。変なこと言ってるのも分かってる。だから、交換条件っていうことでどうかな?」

「交換条件?」

「私は今原くんと付き合いたい、今原くんは私の歌ってる声を聴きたい、その為の交換条件」

冬杞は首を傾げる。

「新井さん、自分の言ってる意味、分かってる?交換条件って、そんな――」

すると菜月羽は、顔の前で勢いよく手を振った。

「別に、私、無理してる訳じゃないからね」

「いや、でも、付き合うって、そんな軽く言えることじゃ――」

「今原くんからしたらそうだよね。

でも、私、ずっと前から思ってたの。夏休みがはじまるまでに、1回ぐらい付き合ってみたい、って」

2人の視線はしっかりと重なっている。

「だからね、ちょうどいいかな、って」

「ちょうどいい?」

「私、別に、今原くんの前で歌うのは平気だよ。もう、1回見られてるし。でも……、なんて言うか……、きっとそれじゃあ、今原くんも抵抗あるでしょ?」

確かに、菜月羽の歌が聴けなくなるのは惜しい。しかし、だからといって、自分の為に菜月羽に時間をとらせて、その上、歌を聴かせてほしいというのは、抵抗がある。

「私も、何の理由もなく、ってなると、ちょっと微妙だから。だから、何か理由があった方がいいかなあ、って」

「いいかなあ、って……」

菜月羽がふざけているようには見えない。むしろ、かなり真剣な様子であることは、冬杞の目にも明らかである。

「新井さんの言いたいことは何となく分かった。でも、だからって付き合うのは……。新井さん、嫌じゃねえの?」

冬杞の質問ももっともだ。

しかし。

「嫌じゃない」

「相手が俺でも?」

「うん。むしろ、今原くんじゃないとだめ」

「俺じゃないと?」

――どういう意味だよ?

「あ、別に、変な意味じゃないから」

――いや、逆に変な意味って何だよ?

「もともと夏休みがはじまるまで、って思ってた、よね?」

菜月羽は念の為、確認してみた。冬杞は黙って頷く。

「だったらその日まで。今日が水曜日で木・金、土日は休みで、月曜日も祝日で休み。で、火・水・木があって、金曜日が終業式だから、その日までの7日間。私と付き合ってくれませんか?」

菜月羽は必死だった。さっきまでの冬杞のように。

「別に、本当に付き合おうと思わなくてもいいから」

「は?」

「恋人(仮)(かっこかり)ぐらいの気持ちでいてくれたら、それでいいの」

「いや、だとしたら……」

――何の為に付き合うんだよ?

余計に意味が分からなくなる。

「一緒にいて、一緒に話して、それだけでいい。今原くんの横にいたいだけなの。それ以上、変なことは求めたりしない」

冬杞はじっと菜月羽を見つめる、その胸の内を探るように。しかし、いくら見つめても、彼女に何か邪心があるとは思えなかった。

「今原くん、お願いします」

菜月羽は頭を下げる。

あの日から今日までの短い期間に、3度も菜月羽に頭を下げられるとは、冬杞は思ってもみなかった。

「新井さん、とりあえず身体起こして」

しばらくの沈黙。

菜月羽は、自分の鼓動の音が漏れ聞こえているのではないかと、気が気ではなかった。

そして、ようやく、空気が動いた。冬杞の小さなため息が聞こえる。

「ふざけてる訳じゃねえんだよな?」

「うん」

「本気で思ってるんだよな?」

「うん」

「夏休みまでの7日間だよな?」

「うん」

「本当に俺でいいの?」

最後の質問。

「うん。今原くんじゃないと、嫌だ」

菜月羽は力強く頷いた。

「なら、」

冬杞にも、もう迷いはなかった。

「いいよ、俺と付き合おう」

菜月羽はにこりと微笑んだ。

そして、思う。

――今原くんって、私が思ってるより、

「ただ、」

安心しきっていた菜月羽の耳に、冬杞の声が流れ込んできた。

「え?」

「俺の頼みも聞いてくれるんだよな?」

2人の視線が絡み合う。

菜月羽はもう1度、大きく頷いた。

「うん」

すると、冬杞の表情から、フッと力が抜けた。しかし、俯き加減の為、その表情をしっかりと確認することが出来ない。

だが、菜月羽には分かる。きっと、あの日と同じような、柔らかくて優しい笑みを浮かべている、と。いや、あの笑みを浮かべていると思いたかっただけなのかもしれない。

「……よろしくお願いします」

菜月羽は頭を下げた。

――4回目。

「新井さんってさ、」

「ん?」

不思議そうな顔をしながら、菜月羽は身体を起こした。

「何?」

「ごめん、何もない」

――頭下げるの好きだよな。

とは言えなかった。

「そっか……」

菜月羽は曖昧に頷く。

「あの、今原くん」

「ん?」

「明日の放課後、ここで会おう」

先程までの勢いは消え失せていた。菜月羽はいつもの菜月羽に戻っている。遠慮がちに冬杞に尋ねる姿は、まるで別人だった。

「いいよ。明日、ここで会おう」

「うん、ありがとう」

笑顔が弾ける。

「じゃあ、私、行くね」

「ああ」

菜月羽は扉の方へ身体を向けた。

「新井さん」

その後ろ姿に声を掛ける。

「ん?」

立ち止まり、振り返る菜月羽。

「よろしく」

菜月羽は黙って頷く、笑顔で。冬杞は、胸が大きく脈打つのを感じる。

そのまま菜月羽は自習室を出た。

校舎内には、吹奏楽部の奏でる楽器の音色が響いていた。

☆☆☆