背後に気配を感じた新井(あらい)菜月羽(なつは)は、そっと振り返った。そして、目を見張った。

「あ……」

菜月羽の瞳には、彼女をじっと見つめる今原(いまはら)冬杞(ふゆき)の姿が映っている。

ほんの一瞬、2人の視線が重なる。しかし、冬杞はすぐに身体の向きを変え、自分の席へと向かった。菜月羽は、その姿を目で追う。

スローモーションに見えた。だが、冬杞が椅子を引いた時、菜月羽は我に返った。

両耳につけていたイヤホンをさっと外す。流行りのワイヤレスタイプではなく、音楽プレーヤーと直接コードを繋ぐタイプである。プレーヤー本体はスカートのポケットの中に入っている。外されたイヤホンは、そのポケットから、だらしなくぶら下がっている。

「あの、」

菜月羽は声を発した。教室には、菜月羽と冬杞しかおらず、必然的にその声は、冬杞に向けられたものということになる。

「おはよう」

俯き気味だった冬杞が、チラッと菜月羽の方を見た。

「……よ」

微かに冬杞の口元が動く。しかし、何と言ったのかは分からない。窓の外から聞こえる運動部の活気溢れる声に掻き消されてしまう。

「あの、」

「何?」

「今原くん、いつからそこに、いた?」

遠慮がちに尋ねる菜月羽。

冬杞は少しの間、何とも言えない微妙な表情をした。一応、考えてくれているようだ。

「新井さんが振り向く、10秒ぐらい前」

菜月羽はすぐに、冬杞を瞳に映す10秒ぐらい前に記憶を巻き戻した。

菜月羽には、入学してすぐから今日まで、人知れず行ってきたルーティンがある。

2人の通う高校では、体育館・グラウンド・部室などを除く、いわゆる普通の教室は、7時30分頃に解錠される。そして菜月羽は、その解錠時間に目掛けて登校する。

野球部や陸上部などの活気とは対照的に、校舎内はしんとしている。生徒がいない訳ではないが、皆、勉強をしたり、スマホをいじったり、本を読んでいたり、寝ていたりと、静かに過ごしていた。

そんな静寂の中、そっと自分の教室の扉を開ける。

「おはようございます」

誰もいないと分かっていながら、菜月羽は呟いた。そして、するりと身体を滑り込ませ、そっと扉を閉める。まるで、泥棒にでもなった気分である。

教室に入った菜月羽は、自分の机に荷物を置く。そのまま席に座ることなく、菜月羽は1番前の窓を開ける。

グラウンド。

住宅の屋根。

遠くの山々。

無限に広がる空。

普通の景色だった。

運動部の活気が、より一層、耳に近付いてくる。

菜月羽は思い切り空気を吸い込む。晴れた日には太陽の、雨降る日には土の香りが、鼻腔をくすぐる。

風で髪の毛が掻き乱されることもあるが、誰もいないので気にしない。

しばらく自然を感じたあと、菜月羽は、スカートのポケットから音楽プレーヤーを取り出し、巻きつけておいたイヤホンを解く。再生ボタンを押したプレーヤーだけ、再びポケットにしまう。両耳にイヤホンを装着すると、菜月羽の耳は音楽でいっぱいになる。

菜月羽が聴く音楽は、いつも決まっている。4分程のその曲を、菜月羽は3回リピートする。

入学してから、本日7月8日まで、幾度となくルーティンを繰り返してきた経験上、4回だと、他の生徒がちらほらと登校をはじめる。2回だと、反対に他の生徒が来るまでに時間が空きすぎて暇になってしまう。つまり、3回がベストなのだ。

少しボリュームを大きめにすることで、菜月羽は外界から完全に隔離された気持ちになる。気分が乗ってくると、その曲を口ずさむこともある。両耳が塞がれていると、自分の声のボリューム調整が難しくなるのだが、そこは対策済みだ。きちんと教室の扉を閉めているのはその為である。グラウンドにいる、朝練に励む生徒たちには、さすがに届いていないだろう。

そうやって、菜月羽は人知れずルーティンをこなしてきた。このルーティンもあと数日、夏休みまであと数日、もう少しで一区切り、というところまできていた。

それなのに。

「10秒前……」

菜月羽はもう1度、言葉をこぼした。しかし、答えは考えるまでもない。

「気持ち良さそうに歌ってたな」

なぜなら、その答えは冬杞が知っているから。

――やっぱり見られてた。

10秒前といえば、2回目のリピートの途中。まさに気持ちよく歌っていた時だ。

菜月羽は顔の火照りを感じる。

一方の冬杞は笑みを浮かべている。しかし、その笑みに嫌味はなかった。

幼い頃の無邪気な姿を思い出しているような。

本を読んでいたら、突然、胸を打つ言葉に出会したような。

街を歩いていたら、不意に、お気に入りの音楽が耳に入り込んできたような。

そんな柔らかくて優しい笑みだった。

そして菜月羽は、その笑みを見て思った。自分の顔の火照りも忘れて。

――今原くんが笑ってる。

思わず凝視してしまった、その初めての表情を。その視線に冬杞は気付き、ふっと真顔に戻る。そして、スマホをいじりはじめた。

2人の間に見えない壁が作られる。我に返った菜月羽は、

「あの、」

三度、声を発する。

「すみませんでした」

頭を下げた。

しばらく間があったあと、冬杞はゆっくりと菜月羽の顔を見た。

「……何に対して謝ってんの?」

静かな声だった。その言葉を合図に、菜月羽は身体を起こす。しかし、視線は下を向いたままだ。その為、冬杞がじっとその姿を見ていることに気付いていない。

「朝から変なものをお見せしてしまったな、と思いまして」

終わりよければ全てよし、とは言うけれど、出来れば、はじめだってよい方が嬉しい。

校舎内での生活が多い菜月羽たち高校生にとって、教室に入る、というのは、学校生活のはじまりと言ってもいいだろう。これからこの小さな空間で、40人程の生徒が、8時間ぐらい生活を共にすることになる。

そんな何気ないスタートに、菜月羽の妙な姿を見せてしまったことは、菜月羽自身の恥ずかしさよりも罪深いもののように思えてしまったのだ。

「その敬語の意味は?」

「これは――」

菜月羽は少し間を置く。

「何となく、です」

自然に出ていた言葉が敬語だったのだ。このことに、特に理由はない。強いて言うならば、冬杞への申し訳なさからだ。

「ふーん」

それきり言葉が返ってこず、菜月羽が顔を上げると、冬杞はスマホをいじっていた。右足で机の脚をコンコンと小突いている。

菜月羽は、これ以上の冬杞の反応を期待できないと踏み、とりあえず、背後の窓を閉めた。

――うーん……。

このまま教室にいてもよかったが、何となく気まずかった。

菜月羽は、スカートからだらんとぶら下がっていたイヤホンを音楽プレーヤーに巻きつけ、そっと自分の席に歩み寄った。鞄から、提出する課題を取り出し、今度は扉に向かう。そろそろ他の生徒も登校しはじめているようで、廊下がざわめいている。

菜月羽は、教室に入る時以上に慎重に、扉を開けた。

「俺は――」

不意に声が聞こえた気がして、菜月羽は教室の中を振り返った。仮に声がしたとすれば、その主は冬杞しかいない訳だが、当の本人は、菜月羽への興味を完全に失っているように思える。スマホを見つめ、相変わらず、右足で机の脚を小突いていた。

――気のせい、かな?

不思議に思いながらも、菜月羽はその場を後にする。

数秒後、ゆっくりと顔を上げた冬杞は、菜月羽が残した影をじっと見つめ続けた。

☆☆☆