――なんで公園なんだろ?

菜月羽(なつは)は夏の日差しを浴びながら道を歩いている。耳にはイヤホン。

――別に家でもいいのにね。

何度目かの疑問を心の中で呟く。

今朝のことである。

目が合って早々に、翔羽(とわ)は尋ねてきた。

「姉ちゃん、今日、何か予定ある?」

「別にないけど」

「じゃあさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」

「うん」

菜月羽は特に深く考えることもなく返事をした。すると、翔羽は待ち合わせの場所と時間を指定した。今ここで話すのだと思っていた菜月羽は驚き、また、2人の話を聞いていた母親も口を挟んだ。

「え?今、話すんじゃないの?」

「うん、違う」

「なんでわざわざ外で話すのよ?」

「いいじゃん、別に。俺たちもこの辺の地理には詳しくなっといた方がいいだろ?」

そして。

「あ、俺、その前にサッカー見てくるから。じゃあ!」

母親が返事もしない内に、翔羽は家を飛び出してしまった。残された菜月羽と母親は、自然と視線を交じわせ、首を捻った。

――相変わらずだなぁ。

菜月羽は、ふふっと息を漏らした。

――でも、いいな……。

引っ越してから、翔羽は既に、何度か転校先のサッカー部の見学に行っている。彼は、この地に慣れはじめている。

それに比べ、菜月羽はまだ、この地に気持ちが追いついていない。身体だけが先に引っ越してきてしまった気分である。

その証拠に、菜月羽の周りには多くの名残がある。

スマホから消すことの出来ない秋穂(あきほ)冬杞(ふゆき)の連絡先。

あの日から外すことの出来ないネックレス。

イヤホンから流れる、冬杞と親しくなるきっかけとなった思い出の曲。

触れる度に、幸せが蘇り、そして悲しくなり、涙が溢れそうになる。

それならば、と思わなくもないが、菜月羽にはまだ、思い出を思い出にする勇気がない。しかし、涙を流し出したらきりがないことも分かっている。だから菜月羽は、転校してから1度も泣いていない。

そんなことを漠然と考えながら歩いていると、不意に1人の人物が菜月羽を追い抜いていった。菜月羽は特に気に留めず、ただ茫然とその姿を目で追った。

「……あ」

前を歩く人物が何かを落とした。だが、当の本人は気付くことなく、スタスタと歩き続ける。

菜月羽は急いで落とし物のところへ駆け寄った。それを拾いながら、

「あの!」

と声を掛けた。前の人物が立ち止まる。が、振り返ることはしない。不審に思った菜月羽も、その場に立ち止まる。

「あの、落としましたよ」

しかし、その人物は、やはり振り返らない。

「……ので」

「え?」

低く、くぐもった声。

「それ、俺のじゃないので」

「はい?」

思いも寄らぬ返答に、菜月羽は戸惑う。

「いや、でも――」

「それより、」

「え?」

狼狽える菜月羽の言葉を遮り、その人物はほんの少しだけ大きな声で言った。

「歩いてる時は、せめて片方だけにしておいた方がいいですよ、イヤホン」

そして、その人物は歩き出し、すぐ近くの道を曲がり、菜月羽の視界から消えてしまった。

――追いかけなくちゃ……。

今なら、まだ間に合う。走れば、きっと間に合う。これは間違いなく、あの人物が落としたものなのだ。

しかし、菜月羽の足は動いてくれなかった。代わりに、心臓が忙しなく動いている。

――偶然だよね……。

偶然だとは分かっている。だが、菜月羽の中には、冬杞の言葉が蘇っていた。

『朝じゃねえんだからさ、両耳イヤホン、気を付けた方がいいよ』

『言ったよな、両耳イヤホンは気を付けろ、って』

あの人物に声を掛ける時には咄嗟にイヤホンを外したが、それまではいつもの習慣で両耳にイヤホンをしていた。

――偶然だよね……。

菜月羽はもう1度、同じ言葉を頭の中で繰り返した。

――危ないと思って注意してくれただけ。

そこでようやく、菜月羽は落とし物に目を落とした。そしてまた、動きを止める。

「……なんで?」

その落とし物は封筒だった。おそらく手紙だろう。封筒には、

「ナツ、へ……」

と、書かれている。そして、裏返すと、

「秋穂、ちゃん……」

菜月羽は駆け出した。しかし、道を曲がったところには、もう誰もいなかった。

「……なんで?」

普通に考えれば、秋穂が菜月羽にあてて手紙を書いた、ということになる。

――でも、なんで……?

菜月羽の胸は怖いほど高鳴っている。

――だとしたら、あの人は……?

しばらくそのまま立ち尽くしていたが、ずっとこうしている訳にも、また、手紙をその辺に放置しておく訳にもいかない。菜月羽は半ば放心状態のまま、待ち合わせ場所の公園へと向かった。

公園には、いくつかの遊具がある。人は誰もいない。片隅には、東屋のように屋根のついた休憩場所がある。

菜月羽は日差しを遮ることが出来る休憩場所のベンチに座り、手紙をじっと見つめる。

――中、見ていいかな……?

いけないことだとは分かっている。しかし、菜月羽は、その衝動に勝つことが出来なかった。

封筒には、特にシールなどはついておらず、表に「ナツへ」、裏に「秋穂」と書かれているだけである。菜月羽はそっと封筒から便せんを取り出した。

1枚目の1番上には、やはり「ナツへ」と書かれている。続く2行目には、「先に言っておく、許さない、怒ってる」とあり、不穏な雰囲気を漂わせている。

菜月羽は、ゆっくりと瞳を動かしていく。



ナツへ

先に言っておく、許さない、怒ってる。

ナツ、私が文章考えるの嫌いなこと、知ってるよね?
なのに、私にこんなことさせて、どういうつもり?

この手紙がナツの所に届いている理由は、誰かに聞いて。
説明するの面倒だから。

終業式の日、先生から転校のことを知らされて、私は頭の中が真っ白になった。
ナツがどうして最後の日に課題を休もうって言ったのか、どうして一緒に課題をしようとしなかったのか、その理由も分かった。

ナツ、ナツは賢いと思うよ。
頭がいいとかじゃなくて、なんか、いろいろな意味で。
でも、今回は間違ってる。

夏休みのワクワクで中和?そんな訳ないでしょ。
馬鹿にしないでよね。

しんみりしたくないっていうのは、分からなくはない。
でもさ、やっぱり、言ってほしかった。

泣かないで?すぐに泣きやむ訳ないでしょ。
楽しいことを考えて?そんなに能天気じゃないから。
許してほしい?それは無理。

私のことが大好き?私の方がナツのこと好きに決まってる。

とにかく連絡して。
手紙じゃ無理。とことんお説教しないと気が済まない。
分かった?絶対だからね。

最後に――



手紙を読み終えたあとも、菜月羽はそこから目を逸らすことが出来なかった。

すると。

「超能力者にでもなったつもりかよ」

近くで声が聞こえた。しかし、誰に向けられたものなのかは分からない。

菜月羽は、そっと、手紙から顔を上げる。

ひとつだけ、確かなことがあった。

それは、声の持ち主。

間違えるはずがない。

忘れることなんて出来ない。

ずっと、ずっと、ずっと、想い続けていた。

待っていないはずだった。

期待なんてしていないはずだった。

でも、きっと、心の片隅で微かに願ってしまっていたのだろう。

「なんで……」

そこには冬杞がいた。

「居場所も分からないような奴に、どうやって俺の声が届くんだよ」

これまで聞いたことのないような、大きな声だった。顔は真剣そのもので、じっと菜月羽を睨み付けている。しかし、不思議と恐怖は感じない。むしろ、隠し切ることの出来ない愛が滲み出ている。

頭で考えるより先に身体が動いていた。

冬杞のもとへ走り寄る。

2つの影が1つに重なった。

「ごめんなさい……」

強く強く、2人は互いを抱きしめた。

そして。

「もう、泣いていいよ、菜月羽」

溢れ出る涙を、菜月羽は堪えることが出来ない。けれど、菜月羽にはまだ、伝えなければいけないことがある。

「冬杞くん、ありがとう」



「ひとつ、俺のお願い、聞いてもらっていいですか?」

「ん?」

「これから姉ちゃんに会いますよね?だったら、言ってやって下さい。『もう、泣いていいよ』って」



最後に、私の言うことも聞いてもらうから。

この手紙を読んでるってことは、あの人が近くにいるってことだよね。
もしいないんだったら、今すぐに見つけ出して。

そして、その人を抱きしめて。
抱きしめて、「ごめんなさい」って言いなさい。「ありがとう」って言いなさい。

それで、全部、許してあげるから。



人というのは、これほど涙を流すことが出来るのか。冬杞は半ば感心しながら菜月羽の姿を見守っている。

「大丈夫?」

2人は今、ベンチに並んで座っている。

「……うん」

返事はするものの、菜月羽の涙は止まらず、しきりに指で涙を拭っている。

「まだ、大丈夫じゃないな」

冬杞は彼女の肩を優しくさする。

「じゃあ、俺の話、聞いてくれる?」

彼はにこりと微笑む。

冬杞の話だったら何だって聞く。断る理由などない。菜月羽は黙って頷いた。

秋穂たちの行動には驚かされるばかりだった。それに協力する翔羽も、もちろん、今ここにいる冬杞も、例外ではない。

「弟のことは怒らないでやって。俺たちが巻き込んだだけだから」

菜月羽はまた黙って頷いた。

ようやく、気持ちが落ち着いてきた。菜月羽はそっと息を吐き出した。

もう2度と会うことはないと思っていた冬杞が、今、菜月羽の横にいる。

悲しみの涙は、もう全て出し切った。

すると、不意に、菜月羽の内側から、少しずつ元気が湧いてきた。

「なんでだろ」

菜月羽は両手で顔を覆いながら、ため息にも似た声をこぼした。

「ん?」

「なんで、さっき、冬杞くんって分からなかったんだろ」

「本当は、ここで会おうって思ってた。でも、途中で菜月羽を見掛けて、そうしたらイヤホンが気になって。けど、あそこで会うのはなんか違う気がして、ばれないように近付いた。顔は見られないようにして、声もちょっと変えて。もし、気付かなかったなら、俺の作戦が上手くいったってことだな」

「だとしても……」

悔しい気持ちは拭いきれない。しかし、これ以上考えていても結果は変わらない。気持ちを切り替える。

「あーあ」

冬杞はそっと菜月羽を窺う。

「花火の日は、思い切り泣いても、暗いから顔は見えなくて大丈夫だったけど、今日はだめだね」

菜月羽の元気そうな声に冬杞は安心した。

確かにあの日は夜だった。表情が見えない訳ではなかったが、よく見えなかったというのが事実である。

しかし、今は、夏の日差しがさんさんと降り注いでいる。

菜月羽はゆっくりと両手を外した。すると、彼女の顔を覗き込んでいる冬杞と目が合った。ニッと笑みを浮かべている。

「何?」

「目、真っ赤」

「分かってるよ」

――だから言ってるでしょ?

菜月羽は心の中でぼやいた。そして、再び、両手で顔を覆う。

しかし、今度はすぐに、冬杞がそれを解いた。もう笑っていない。

冬杞は菜月羽の腕を掴んだまま、菜月羽に語りかける。

「菜月羽」

「……何?」

「約束はしない。絶対に会いに行くとか、絶対に連絡するとか」

2人は高校生だ。そう簡単に会いに行くことは出来ないし、きっと、その日の気分で連絡するのが億劫になることもあるだろう。そのことを、異常に不安に感じることも。

だから、冬杞は約束しない。

「……うん」

「でも、菜月羽のことを忘れたりはしない」

強い眼差しで菜月羽を見つめる冬杞に対し、菜月羽の瞳は心配そうに揺れている。

「だから、」

本当は、終業式の日に伝えるつもりだった。

「別れよう」

菜月羽は目を丸くした。

「……別れる?」

急速に不安になる。

しかし。

(仮)(かっこかり)は、おわり」

「……え?」

「恋人(仮)はおわり。だから別れよう。それで、」

冬杞は菜月羽の腕を放し、立ち上がった。つられて、菜月羽も立ち上がる。

向かい合う2人。

「俺は、菜月羽のことが好きです。だから、俺と付き合ってくれませんか?」

ずっとお預けにされていた言葉を、ようやく菜月羽に伝えることが出来た。

冬杞は菜月羽の返事を待つ。

すると、菜月羽がふっと笑みを零した。

「私たち、まだ別れてなかったんだね?」

「え?」

「もうとっくに別れてるのかと思ってた」

今度は冬杞が笑みを零した。

「言っただろ?『別れようって言う』って。手紙越しじゃだめなんだよ、超能力者じゃねえんだし」

「……うん」

「もう(仮)はおわり。俺たちが別れるのもおわり。離れてると不安になるかもしれないけど、俺のこと、信じて」

菜月羽の手紙を読んで以降、冬杞は意識的に右足の癖を封印している。しかし今は、そんな意識をする必要もなく、彼の足はしっかりと地面についている。

伝えたいことは、全て伝えた。

「菜月羽の返事を聞かせて」

不安はある。いつか冬杞に話したように、距離は残酷だ。それが菜月羽の正直な気持ちである。

でも。

――冬杞くんなら、

菜月羽は、かつての自分の言葉を思い出す。

『乗り越える為には、自信がないとだめなんだろうな』

『離れていても自分が相手のことを好きで、相手が自分ことを好きでいてくれる、っていう自信』

改めて思う。

――冬杞くんなら信じられる。

いや、違う。

――冬杞くんを信じたい。

菜月羽は冬杞に抱きついた。

「私も冬杞くんが大好きです。だから別れます。別れて、冬杞くんと付き合います」

涙は流れない。

『姉ちゃんは、そういう時、一切泣かないんですよ』

菜月羽は、今、飛び切りの笑顔を弾けさせている。

☆☆☆