――なんで公園なんだろ?
菜月羽は夏の日差しを浴びながら道を歩いている。耳にはイヤホン。
――別に家でもいいのにね。
何度目かの疑問を心の中で呟く。
今朝のことである。
目が合って早々に、翔羽は尋ねてきた。
「姉ちゃん、今日、何か予定ある?」
「別にないけど」
「じゃあさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
「うん」
菜月羽は特に深く考えることもなく返事をした。すると、翔羽は待ち合わせの場所と時間を指定した。今ここで話すのだと思っていた菜月羽は驚き、また、2人の話を聞いていた母親も口を挟んだ。
「え?今、話すんじゃないの?」
「うん、違う」
「なんでわざわざ外で話すのよ?」
「いいじゃん、別に。俺たちもこの辺の地理には詳しくなっといた方がいいだろ?」
そして。
「あ、俺、その前にサッカー見てくるから。じゃあ!」
母親が返事もしない内に、翔羽は家を飛び出してしまった。残された菜月羽と母親は、自然と視線を交じわせ、首を捻った。
――相変わらずだなぁ。
菜月羽は、ふふっと息を漏らした。
――でも、いいな……。
引っ越してから、翔羽は既に、何度か転校先のサッカー部の見学に行っている。彼は、この地に慣れはじめている。
それに比べ、菜月羽はまだ、この地に気持ちが追いついていない。身体だけが先に引っ越してきてしまった気分である。
その証拠に、菜月羽の周りには多くの名残がある。
スマホから消すことの出来ない秋穂と冬杞の連絡先。
あの日から外すことの出来ないネックレス。
イヤホンから流れる、冬杞と親しくなるきっかけとなった思い出の曲。
触れる度に、幸せが蘇り、そして悲しくなり、涙が溢れそうになる。
それならば、と思わなくもないが、菜月羽にはまだ、思い出を思い出にする勇気がない。しかし、涙を流し出したらきりがないことも分かっている。だから菜月羽は、転校してから1度も泣いていない。
そんなことを漠然と考えながら歩いていると、不意に1人の人物が菜月羽を追い抜いていった。菜月羽は特に気に留めず、ただ茫然とその姿を目で追った。
「……あ」
前を歩く人物が何かを落とした。だが、当の本人は気付くことなく、スタスタと歩き続ける。
菜月羽は急いで落とし物のところへ駆け寄った。それを拾いながら、
「あの!」
と声を掛けた。前の人物が立ち止まる。が、振り返ることはしない。不審に思った菜月羽も、その場に立ち止まる。
「あの、落としましたよ」
しかし、その人物は、やはり振り返らない。
「……ので」
「え?」
低く、くぐもった声。
「それ、俺のじゃないので」
「はい?」
思いも寄らぬ返答に、菜月羽は戸惑う。
「いや、でも――」
「それより、」
「え?」
狼狽える菜月羽の言葉を遮り、その人物はほんの少しだけ大きな声で言った。
「歩いてる時は、せめて片方だけにしておいた方がいいですよ、イヤホン」
そして、その人物は歩き出し、すぐ近くの道を曲がり、菜月羽の視界から消えてしまった。
――追いかけなくちゃ……。
今なら、まだ間に合う。走れば、きっと間に合う。これは間違いなく、あの人物が落としたものなのだ。
しかし、菜月羽の足は動いてくれなかった。代わりに、心臓が忙しなく動いている。
――偶然だよね……。
偶然だとは分かっている。だが、菜月羽の中には、冬杞の言葉が蘇っていた。
『朝じゃねえんだからさ、両耳イヤホン、気を付けた方がいいよ』
『言ったよな、両耳イヤホンは気を付けろ、って』
あの人物に声を掛ける時には咄嗟にイヤホンを外したが、それまではいつもの習慣で両耳にイヤホンをしていた。
――偶然だよね……。
菜月羽はもう1度、同じ言葉を頭の中で繰り返した。
――危ないと思って注意してくれただけ。
そこでようやく、菜月羽は落とし物に目を落とした。そしてまた、動きを止める。
「……なんで?」
その落とし物は封筒だった。おそらく手紙だろう。封筒には、
「ナツ、へ……」
と、書かれている。そして、裏返すと、
「秋穂、ちゃん……」
菜月羽は駆け出した。しかし、道を曲がったところには、もう誰もいなかった。
「……なんで?」
普通に考えれば、秋穂が菜月羽にあてて手紙を書いた、ということになる。
――でも、なんで……?
菜月羽の胸は怖いほど高鳴っている。
――だとしたら、あの人は……?
しばらくそのまま立ち尽くしていたが、ずっとこうしている訳にも、また、手紙をその辺に放置しておく訳にもいかない。菜月羽は半ば放心状態のまま、待ち合わせ場所の公園へと向かった。
公園には、いくつかの遊具がある。人は誰もいない。片隅には、東屋のように屋根のついた休憩場所がある。
菜月羽は日差しを遮ることが出来る休憩場所のベンチに座り、手紙をじっと見つめる。
――中、見ていいかな……?
いけないことだとは分かっている。しかし、菜月羽は、その衝動に勝つことが出来なかった。
封筒には、特にシールなどはついておらず、表に「ナツへ」、裏に「秋穂」と書かれているだけである。菜月羽はそっと封筒から便せんを取り出した。
1枚目の1番上には、やはり「ナツへ」と書かれている。続く2行目には、「先に言っておく、許さない、怒ってる」とあり、不穏な雰囲気を漂わせている。
菜月羽は、ゆっくりと瞳を動かしていく。
☆
ナツへ
先に言っておく、許さない、怒ってる。
ナツ、私が文章考えるの嫌いなこと、知ってるよね?
なのに、私にこんなことさせて、どういうつもり?
この手紙がナツの所に届いている理由は、誰かに聞いて。
説明するの面倒だから。
終業式の日、先生から転校のことを知らされて、私は頭の中が真っ白になった。
ナツがどうして最後の日に課題を休もうって言ったのか、どうして一緒に課題をしようとしなかったのか、その理由も分かった。
ナツ、ナツは賢いと思うよ。
頭がいいとかじゃなくて、なんか、いろいろな意味で。
でも、今回は間違ってる。
夏休みのワクワクで中和?そんな訳ないでしょ。
馬鹿にしないでよね。
しんみりしたくないっていうのは、分からなくはない。
でもさ、やっぱり、言ってほしかった。
泣かないで?すぐに泣きやむ訳ないでしょ。
楽しいことを考えて?そんなに能天気じゃないから。
許してほしい?それは無理。
私のことが大好き?私の方がナツのこと好きに決まってる。
とにかく連絡して。
手紙じゃ無理。とことんお説教しないと気が済まない。
分かった?絶対だからね。
最後に――
☆
手紙を読み終えたあとも、菜月羽はそこから目を逸らすことが出来なかった。
すると。
「超能力者にでもなったつもりかよ」
近くで声が聞こえた。しかし、誰に向けられたものなのかは分からない。
菜月羽は、そっと、手紙から顔を上げる。
ひとつだけ、確かなことがあった。
それは、声の持ち主。
間違えるはずがない。
忘れることなんて出来ない。
ずっと、ずっと、ずっと、想い続けていた。
待っていないはずだった。
期待なんてしていないはずだった。
でも、きっと、心の片隅で微かに願ってしまっていたのだろう。
「なんで……」
そこには冬杞がいた。
「居場所も分からないような奴に、どうやって俺の声が届くんだよ」
これまで聞いたことのないような、大きな声だった。顔は真剣そのもので、じっと菜月羽を睨み付けている。しかし、不思議と恐怖は感じない。むしろ、隠し切ることの出来ない愛が滲み出ている。
頭で考えるより先に身体が動いていた。
冬杞のもとへ走り寄る。
2つの影が1つに重なった。
「ごめんなさい……」
強く強く、2人は互いを抱きしめた。
そして。
「もう、泣いていいよ、菜月羽」
溢れ出る涙を、菜月羽は堪えることが出来ない。けれど、菜月羽にはまだ、伝えなければいけないことがある。
「冬杞くん、ありがとう」
☆
「ひとつ、俺のお願い、聞いてもらっていいですか?」
「ん?」
「これから姉ちゃんに会いますよね?だったら、言ってやって下さい。『もう、泣いていいよ』って」
☆
最後に、私の言うことも聞いてもらうから。
この手紙を読んでるってことは、あの人が近くにいるってことだよね。
もしいないんだったら、今すぐに見つけ出して。
そして、その人を抱きしめて。
抱きしめて、「ごめんなさい」って言いなさい。「ありがとう」って言いなさい。
それで、全部、許してあげるから。
☆
人というのは、これほど涙を流すことが出来るのか。冬杞は半ば感心しながら菜月羽の姿を見守っている。
「大丈夫?」
2人は今、ベンチに並んで座っている。
「……うん」
返事はするものの、菜月羽の涙は止まらず、しきりに指で涙を拭っている。
「まだ、大丈夫じゃないな」
冬杞は彼女の肩を優しくさする。
「じゃあ、俺の話、聞いてくれる?」
彼はにこりと微笑む。
冬杞の話だったら何だって聞く。断る理由などない。菜月羽は黙って頷いた。
秋穂たちの行動には驚かされるばかりだった。それに協力する翔羽も、もちろん、今ここにいる冬杞も、例外ではない。
「弟のことは怒らないでやって。俺たちが巻き込んだだけだから」
菜月羽はまた黙って頷いた。
ようやく、気持ちが落ち着いてきた。菜月羽はそっと息を吐き出した。
もう2度と会うことはないと思っていた冬杞が、今、菜月羽の横にいる。
悲しみの涙は、もう全て出し切った。
すると、不意に、菜月羽の内側から、少しずつ元気が湧いてきた。
「なんでだろ」
菜月羽は両手で顔を覆いながら、ため息にも似た声をこぼした。
「ん?」
「なんで、さっき、冬杞くんって分からなかったんだろ」
「本当は、ここで会おうって思ってた。でも、途中で菜月羽を見掛けて、そうしたらイヤホンが気になって。けど、あそこで会うのはなんか違う気がして、ばれないように近付いた。顔は見られないようにして、声もちょっと変えて。もし、気付かなかったなら、俺の作戦が上手くいったってことだな」
「だとしても……」
悔しい気持ちは拭いきれない。しかし、これ以上考えていても結果は変わらない。気持ちを切り替える。
「あーあ」
冬杞はそっと菜月羽を窺う。
「花火の日は、思い切り泣いても、暗いから顔は見えなくて大丈夫だったけど、今日はだめだね」
菜月羽の元気そうな声に冬杞は安心した。
確かにあの日は夜だった。表情が見えない訳ではなかったが、よく見えなかったというのが事実である。
しかし、今は、夏の日差しがさんさんと降り注いでいる。
菜月羽はゆっくりと両手を外した。すると、彼女の顔を覗き込んでいる冬杞と目が合った。ニッと笑みを浮かべている。
「何?」
「目、真っ赤」
「分かってるよ」
――だから言ってるでしょ?
菜月羽は心の中でぼやいた。そして、再び、両手で顔を覆う。
しかし、今度はすぐに、冬杞がそれを解いた。もう笑っていない。
冬杞は菜月羽の腕を掴んだまま、菜月羽に語りかける。
「菜月羽」
「……何?」
「約束はしない。絶対に会いに行くとか、絶対に連絡するとか」
2人は高校生だ。そう簡単に会いに行くことは出来ないし、きっと、その日の気分で連絡するのが億劫になることもあるだろう。そのことを、異常に不安に感じることも。
だから、冬杞は約束しない。
「……うん」
「でも、菜月羽のことを忘れたりはしない」
強い眼差しで菜月羽を見つめる冬杞に対し、菜月羽の瞳は心配そうに揺れている。
「だから、」
本当は、終業式の日に伝えるつもりだった。
「別れよう」
菜月羽は目を丸くした。
「……別れる?」
急速に不安になる。
しかし。
「(仮)は、おわり」
「……え?」
「恋人(仮)はおわり。だから別れよう。それで、」
冬杞は菜月羽の腕を放し、立ち上がった。つられて、菜月羽も立ち上がる。
向かい合う2人。
「俺は、菜月羽のことが好きです。だから、俺と付き合ってくれませんか?」
ずっとお預けにされていた言葉を、ようやく菜月羽に伝えることが出来た。
冬杞は菜月羽の返事を待つ。
すると、菜月羽がふっと笑みを零した。
「私たち、まだ別れてなかったんだね?」
「え?」
「もうとっくに別れてるのかと思ってた」
今度は冬杞が笑みを零した。
「言っただろ?『別れようって言う』って。手紙越しじゃだめなんだよ、超能力者じゃねえんだし」
「……うん」
「もう(仮)はおわり。俺たちが別れるのもおわり。離れてると不安になるかもしれないけど、俺のこと、信じて」
菜月羽の手紙を読んで以降、冬杞は意識的に右足の癖を封印している。しかし今は、そんな意識をする必要もなく、彼の足はしっかりと地面についている。
伝えたいことは、全て伝えた。
「菜月羽の返事を聞かせて」
不安はある。いつか冬杞に話したように、距離は残酷だ。それが菜月羽の正直な気持ちである。
でも。
――冬杞くんなら、
菜月羽は、かつての自分の言葉を思い出す。
『乗り越える為には、自信がないとだめなんだろうな』
『離れていても自分が相手のことを好きで、相手が自分ことを好きでいてくれる、っていう自信』
改めて思う。
――冬杞くんなら信じられる。
いや、違う。
――冬杞くんを信じたい。
菜月羽は冬杞に抱きついた。
「私も冬杞くんが大好きです。だから別れます。別れて、冬杞くんと付き合います」
涙は流れない。
『姉ちゃんは、そういう時、一切泣かないんですよ』
菜月羽は、今、飛び切りの笑顔を弾けさせている。
☆☆☆
菜月羽は夏の日差しを浴びながら道を歩いている。耳にはイヤホン。
――別に家でもいいのにね。
何度目かの疑問を心の中で呟く。
今朝のことである。
目が合って早々に、翔羽は尋ねてきた。
「姉ちゃん、今日、何か予定ある?」
「別にないけど」
「じゃあさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
「うん」
菜月羽は特に深く考えることもなく返事をした。すると、翔羽は待ち合わせの場所と時間を指定した。今ここで話すのだと思っていた菜月羽は驚き、また、2人の話を聞いていた母親も口を挟んだ。
「え?今、話すんじゃないの?」
「うん、違う」
「なんでわざわざ外で話すのよ?」
「いいじゃん、別に。俺たちもこの辺の地理には詳しくなっといた方がいいだろ?」
そして。
「あ、俺、その前にサッカー見てくるから。じゃあ!」
母親が返事もしない内に、翔羽は家を飛び出してしまった。残された菜月羽と母親は、自然と視線を交じわせ、首を捻った。
――相変わらずだなぁ。
菜月羽は、ふふっと息を漏らした。
――でも、いいな……。
引っ越してから、翔羽は既に、何度か転校先のサッカー部の見学に行っている。彼は、この地に慣れはじめている。
それに比べ、菜月羽はまだ、この地に気持ちが追いついていない。身体だけが先に引っ越してきてしまった気分である。
その証拠に、菜月羽の周りには多くの名残がある。
スマホから消すことの出来ない秋穂と冬杞の連絡先。
あの日から外すことの出来ないネックレス。
イヤホンから流れる、冬杞と親しくなるきっかけとなった思い出の曲。
触れる度に、幸せが蘇り、そして悲しくなり、涙が溢れそうになる。
それならば、と思わなくもないが、菜月羽にはまだ、思い出を思い出にする勇気がない。しかし、涙を流し出したらきりがないことも分かっている。だから菜月羽は、転校してから1度も泣いていない。
そんなことを漠然と考えながら歩いていると、不意に1人の人物が菜月羽を追い抜いていった。菜月羽は特に気に留めず、ただ茫然とその姿を目で追った。
「……あ」
前を歩く人物が何かを落とした。だが、当の本人は気付くことなく、スタスタと歩き続ける。
菜月羽は急いで落とし物のところへ駆け寄った。それを拾いながら、
「あの!」
と声を掛けた。前の人物が立ち止まる。が、振り返ることはしない。不審に思った菜月羽も、その場に立ち止まる。
「あの、落としましたよ」
しかし、その人物は、やはり振り返らない。
「……ので」
「え?」
低く、くぐもった声。
「それ、俺のじゃないので」
「はい?」
思いも寄らぬ返答に、菜月羽は戸惑う。
「いや、でも――」
「それより、」
「え?」
狼狽える菜月羽の言葉を遮り、その人物はほんの少しだけ大きな声で言った。
「歩いてる時は、せめて片方だけにしておいた方がいいですよ、イヤホン」
そして、その人物は歩き出し、すぐ近くの道を曲がり、菜月羽の視界から消えてしまった。
――追いかけなくちゃ……。
今なら、まだ間に合う。走れば、きっと間に合う。これは間違いなく、あの人物が落としたものなのだ。
しかし、菜月羽の足は動いてくれなかった。代わりに、心臓が忙しなく動いている。
――偶然だよね……。
偶然だとは分かっている。だが、菜月羽の中には、冬杞の言葉が蘇っていた。
『朝じゃねえんだからさ、両耳イヤホン、気を付けた方がいいよ』
『言ったよな、両耳イヤホンは気を付けろ、って』
あの人物に声を掛ける時には咄嗟にイヤホンを外したが、それまではいつもの習慣で両耳にイヤホンをしていた。
――偶然だよね……。
菜月羽はもう1度、同じ言葉を頭の中で繰り返した。
――危ないと思って注意してくれただけ。
そこでようやく、菜月羽は落とし物に目を落とした。そしてまた、動きを止める。
「……なんで?」
その落とし物は封筒だった。おそらく手紙だろう。封筒には、
「ナツ、へ……」
と、書かれている。そして、裏返すと、
「秋穂、ちゃん……」
菜月羽は駆け出した。しかし、道を曲がったところには、もう誰もいなかった。
「……なんで?」
普通に考えれば、秋穂が菜月羽にあてて手紙を書いた、ということになる。
――でも、なんで……?
菜月羽の胸は怖いほど高鳴っている。
――だとしたら、あの人は……?
しばらくそのまま立ち尽くしていたが、ずっとこうしている訳にも、また、手紙をその辺に放置しておく訳にもいかない。菜月羽は半ば放心状態のまま、待ち合わせ場所の公園へと向かった。
公園には、いくつかの遊具がある。人は誰もいない。片隅には、東屋のように屋根のついた休憩場所がある。
菜月羽は日差しを遮ることが出来る休憩場所のベンチに座り、手紙をじっと見つめる。
――中、見ていいかな……?
いけないことだとは分かっている。しかし、菜月羽は、その衝動に勝つことが出来なかった。
封筒には、特にシールなどはついておらず、表に「ナツへ」、裏に「秋穂」と書かれているだけである。菜月羽はそっと封筒から便せんを取り出した。
1枚目の1番上には、やはり「ナツへ」と書かれている。続く2行目には、「先に言っておく、許さない、怒ってる」とあり、不穏な雰囲気を漂わせている。
菜月羽は、ゆっくりと瞳を動かしていく。
☆
ナツへ
先に言っておく、許さない、怒ってる。
ナツ、私が文章考えるの嫌いなこと、知ってるよね?
なのに、私にこんなことさせて、どういうつもり?
この手紙がナツの所に届いている理由は、誰かに聞いて。
説明するの面倒だから。
終業式の日、先生から転校のことを知らされて、私は頭の中が真っ白になった。
ナツがどうして最後の日に課題を休もうって言ったのか、どうして一緒に課題をしようとしなかったのか、その理由も分かった。
ナツ、ナツは賢いと思うよ。
頭がいいとかじゃなくて、なんか、いろいろな意味で。
でも、今回は間違ってる。
夏休みのワクワクで中和?そんな訳ないでしょ。
馬鹿にしないでよね。
しんみりしたくないっていうのは、分からなくはない。
でもさ、やっぱり、言ってほしかった。
泣かないで?すぐに泣きやむ訳ないでしょ。
楽しいことを考えて?そんなに能天気じゃないから。
許してほしい?それは無理。
私のことが大好き?私の方がナツのこと好きに決まってる。
とにかく連絡して。
手紙じゃ無理。とことんお説教しないと気が済まない。
分かった?絶対だからね。
最後に――
☆
手紙を読み終えたあとも、菜月羽はそこから目を逸らすことが出来なかった。
すると。
「超能力者にでもなったつもりかよ」
近くで声が聞こえた。しかし、誰に向けられたものなのかは分からない。
菜月羽は、そっと、手紙から顔を上げる。
ひとつだけ、確かなことがあった。
それは、声の持ち主。
間違えるはずがない。
忘れることなんて出来ない。
ずっと、ずっと、ずっと、想い続けていた。
待っていないはずだった。
期待なんてしていないはずだった。
でも、きっと、心の片隅で微かに願ってしまっていたのだろう。
「なんで……」
そこには冬杞がいた。
「居場所も分からないような奴に、どうやって俺の声が届くんだよ」
これまで聞いたことのないような、大きな声だった。顔は真剣そのもので、じっと菜月羽を睨み付けている。しかし、不思議と恐怖は感じない。むしろ、隠し切ることの出来ない愛が滲み出ている。
頭で考えるより先に身体が動いていた。
冬杞のもとへ走り寄る。
2つの影が1つに重なった。
「ごめんなさい……」
強く強く、2人は互いを抱きしめた。
そして。
「もう、泣いていいよ、菜月羽」
溢れ出る涙を、菜月羽は堪えることが出来ない。けれど、菜月羽にはまだ、伝えなければいけないことがある。
「冬杞くん、ありがとう」
☆
「ひとつ、俺のお願い、聞いてもらっていいですか?」
「ん?」
「これから姉ちゃんに会いますよね?だったら、言ってやって下さい。『もう、泣いていいよ』って」
☆
最後に、私の言うことも聞いてもらうから。
この手紙を読んでるってことは、あの人が近くにいるってことだよね。
もしいないんだったら、今すぐに見つけ出して。
そして、その人を抱きしめて。
抱きしめて、「ごめんなさい」って言いなさい。「ありがとう」って言いなさい。
それで、全部、許してあげるから。
☆
人というのは、これほど涙を流すことが出来るのか。冬杞は半ば感心しながら菜月羽の姿を見守っている。
「大丈夫?」
2人は今、ベンチに並んで座っている。
「……うん」
返事はするものの、菜月羽の涙は止まらず、しきりに指で涙を拭っている。
「まだ、大丈夫じゃないな」
冬杞は彼女の肩を優しくさする。
「じゃあ、俺の話、聞いてくれる?」
彼はにこりと微笑む。
冬杞の話だったら何だって聞く。断る理由などない。菜月羽は黙って頷いた。
秋穂たちの行動には驚かされるばかりだった。それに協力する翔羽も、もちろん、今ここにいる冬杞も、例外ではない。
「弟のことは怒らないでやって。俺たちが巻き込んだだけだから」
菜月羽はまた黙って頷いた。
ようやく、気持ちが落ち着いてきた。菜月羽はそっと息を吐き出した。
もう2度と会うことはないと思っていた冬杞が、今、菜月羽の横にいる。
悲しみの涙は、もう全て出し切った。
すると、不意に、菜月羽の内側から、少しずつ元気が湧いてきた。
「なんでだろ」
菜月羽は両手で顔を覆いながら、ため息にも似た声をこぼした。
「ん?」
「なんで、さっき、冬杞くんって分からなかったんだろ」
「本当は、ここで会おうって思ってた。でも、途中で菜月羽を見掛けて、そうしたらイヤホンが気になって。けど、あそこで会うのはなんか違う気がして、ばれないように近付いた。顔は見られないようにして、声もちょっと変えて。もし、気付かなかったなら、俺の作戦が上手くいったってことだな」
「だとしても……」
悔しい気持ちは拭いきれない。しかし、これ以上考えていても結果は変わらない。気持ちを切り替える。
「あーあ」
冬杞はそっと菜月羽を窺う。
「花火の日は、思い切り泣いても、暗いから顔は見えなくて大丈夫だったけど、今日はだめだね」
菜月羽の元気そうな声に冬杞は安心した。
確かにあの日は夜だった。表情が見えない訳ではなかったが、よく見えなかったというのが事実である。
しかし、今は、夏の日差しがさんさんと降り注いでいる。
菜月羽はゆっくりと両手を外した。すると、彼女の顔を覗き込んでいる冬杞と目が合った。ニッと笑みを浮かべている。
「何?」
「目、真っ赤」
「分かってるよ」
――だから言ってるでしょ?
菜月羽は心の中でぼやいた。そして、再び、両手で顔を覆う。
しかし、今度はすぐに、冬杞がそれを解いた。もう笑っていない。
冬杞は菜月羽の腕を掴んだまま、菜月羽に語りかける。
「菜月羽」
「……何?」
「約束はしない。絶対に会いに行くとか、絶対に連絡するとか」
2人は高校生だ。そう簡単に会いに行くことは出来ないし、きっと、その日の気分で連絡するのが億劫になることもあるだろう。そのことを、異常に不安に感じることも。
だから、冬杞は約束しない。
「……うん」
「でも、菜月羽のことを忘れたりはしない」
強い眼差しで菜月羽を見つめる冬杞に対し、菜月羽の瞳は心配そうに揺れている。
「だから、」
本当は、終業式の日に伝えるつもりだった。
「別れよう」
菜月羽は目を丸くした。
「……別れる?」
急速に不安になる。
しかし。
「(仮)は、おわり」
「……え?」
「恋人(仮)はおわり。だから別れよう。それで、」
冬杞は菜月羽の腕を放し、立ち上がった。つられて、菜月羽も立ち上がる。
向かい合う2人。
「俺は、菜月羽のことが好きです。だから、俺と付き合ってくれませんか?」
ずっとお預けにされていた言葉を、ようやく菜月羽に伝えることが出来た。
冬杞は菜月羽の返事を待つ。
すると、菜月羽がふっと笑みを零した。
「私たち、まだ別れてなかったんだね?」
「え?」
「もうとっくに別れてるのかと思ってた」
今度は冬杞が笑みを零した。
「言っただろ?『別れようって言う』って。手紙越しじゃだめなんだよ、超能力者じゃねえんだし」
「……うん」
「もう(仮)はおわり。俺たちが別れるのもおわり。離れてると不安になるかもしれないけど、俺のこと、信じて」
菜月羽の手紙を読んで以降、冬杞は意識的に右足の癖を封印している。しかし今は、そんな意識をする必要もなく、彼の足はしっかりと地面についている。
伝えたいことは、全て伝えた。
「菜月羽の返事を聞かせて」
不安はある。いつか冬杞に話したように、距離は残酷だ。それが菜月羽の正直な気持ちである。
でも。
――冬杞くんなら、
菜月羽は、かつての自分の言葉を思い出す。
『乗り越える為には、自信がないとだめなんだろうな』
『離れていても自分が相手のことを好きで、相手が自分ことを好きでいてくれる、っていう自信』
改めて思う。
――冬杞くんなら信じられる。
いや、違う。
――冬杞くんを信じたい。
菜月羽は冬杞に抱きついた。
「私も冬杞くんが大好きです。だから別れます。別れて、冬杞くんと付き合います」
涙は流れない。
『姉ちゃんは、そういう時、一切泣かないんですよ』
菜月羽は、今、飛び切りの笑顔を弾けさせている。
☆☆☆