「ここ、か……」
冬杞は待ち合わせ時間の10分前に、中学校の前に到着した。初めての校舎を繁々と見つめていると、
「あの!」
1人の人物が駆け寄ってきた。
「えっと、今原先輩?」
「ああ」
「すみません、待ちました?」
「いや」
冬杞は首を振った。
「そうですか。あ、とりあえず、こっちに」
言われるままに、その人物についていく。が、途中で不安になり、
「俺、入っても大丈夫なの?」
菜月羽の弟、翔羽に問い掛けた。2人は校舎の敷地内、グラウンドがよく見える場所に移動していた。
「いいんじゃないっすか?だめだったら、一緒に怒られて下さい」
翔羽はサラッと答えた。
「……ああ」
翔羽がそう言うのであれば、冬杞も同意するしかない。
「俺、てっきり、浦口先輩が来るのかと思ってました。ずっと連絡を取り合ってたのは、浦口先輩なので」
冬杞が秋穂に手紙を見せたあの日。立ち上がったあとの秋穂の行動力には、冬杞も頭が下がる思いだった。
菜月羽の作り上げた壁を壊すことはおそらく不可能に近い。
突破口があるとすれば弟の翔羽しかいない。
秋穂はまず、菜月羽と同じ中学出身の同級生を探しはじめた。該当する者は10名程しかいなかったが、幸運にもその中の1人に、翔羽と同学年のきょうだいをもつ者がいた。同級生を経由して、そのきょうだいとコンタクトをとる。余程のことがなければ、翔羽の存在自体は知っているだろうが、だからといって、仲が良いかどうかは別問題である。案の定、そのきょうだいは、翔羽の転校のことは知っていたが、特に交流がある訳ではないということだった。
そこで、そのきょうだいに、翔羽と仲の良かった人物を探してもらうことにした。
ポイントは、サッカーとスマホゲーム。
サッカーが好きな翔羽なら、そのサッカーを通じて今でも繋がっている人がいるのではないか?
姉のスマホを借りてまでスマホゲームをしているのなら、そのゲーム上で繋がっている人がいるのではないか?
秋穂の予想は、結論から言うと、大あたりだった。
スマホゲーム上で、今も翔羽と交流がある同級生を見つけた。事情を説明してもらい、その同級生とも連絡を取る。そして、その同級生を経由して、秋穂と翔羽はとうとう繋がることが出来た。
しかし、冬杞の中には、一抹の不安があった。翔羽は菜月羽の弟だ。菜月羽から何かしらの忠告を受けている可能性は十分に考えられる。
だが、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。翔羽は何の躊躇いもなく、自分たちの居場所を教えてくれた。
『私と弟って、結構、性格とか真逆なところがあって』
まさにその通りのようである。あるいは単純に、弟を突破口として居場所を探し出そうとする秋穂たちの執念を、菜月羽が予測できなかっただけかもしれない。
ここまで辿り着くのに数日である。随時、報告を受けていた冬杞は、秋穂の社交性と行動力に驚くばかりだった。
そして、秋穂は告げた。
「今原くん、ナツに会いに行ってきて」
と。
そして、今に至る。
「まあ、いろいろあって」
翔羽の問いに、冬杞は曖昧に答える。
当然、秋穂の提案には冬杞も困窮した。しかし、秋穂は「部活があるから」とか「課題やらないといけないから」とか、ぼそぼそと言い訳をして、その提案を取り下げることはしなかった。
現在に至るまで、菜月羽と冬杞の関係を秋穂に伝えることはしていない。けれど、菜月羽が冬杞に手紙を託したという事実が、彼女に何らかの影響を与えたのだろう。最終的には、冬杞もその提案を受け入れた。
翔羽も、特に追究することはしなかった。
「浦口先輩は姉ちゃんの友だちって言ってました。今原先輩は?」
「俺は……」
言葉に詰まる。翔羽がチラッと冬杞に視線を送る。
「前の高校のクラスメイト」
「それだけ?」
「それだけ……」
それだけ、ではない。しかし、詳しく説明する気にはなれない。
冬杞は話題を変えた。
「なんて言ってここに来たの?」
「え?」
「母親に聞かれなかった?」
翔羽は「ああ」と大きく頷く。
「サッカー見てくる、って言ってきました」
「サッカー?」
「はい」
翔羽はニッと笑った。確かに2人の前に広がるグラウンドでは、生徒たちがサッカーをしている。
「嘘ではないですよね?」
「まあ、な」
冬杞もふっと笑った。そして、少し迷って、
「菜月羽は、元気?」
と尋ねた。
「姉ちゃんですか?うーん、そうですね、元気は元気ですよ。でも、まあ、気になることがあるとすれば――」
冬杞は翔羽を見た。
「何?」
「んー、まだ泣いてない、ってことですかね」
「泣いてない?」
「はい」
意味が分からず、冬杞は首を傾げた。
「姉ちゃんって、結構、涙脆いんですよ。
前にばあちゃんが死んだ時、1番泣いてたのは姉ちゃんでした。クラスメイトに嫌なことをされたっていって泣いたり、転んで怪我をしたっていって泣いたり、友だちとクラスが別になったっていって泣いたり、それこそ転校するのが辛いっていって泣いたり……。
まあ、さすがに親の前ではワンワン泣かないですけど、俺の前ではしょっちゅうですよ」
冬杞は笑みを浮かべた。それは冬杞も体験済みである。
「そう考えると、今回はまだ泣いてなくて。転校が辛くない訳じゃないと思うんですけどね」
「……そっか」
翔羽は腕を組んで、考える素振りを見せた。しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「姉ちゃんって、痛いとか悲しいとか辛いとか、そういう時にはしょっちゅう泣くんですよ。だから、逆に俺は、そういう時、全然泣かなくて。だって、姉ちゃんが泣いてる隣で俺もワンワン泣いてたら、ヤバくないですか?何となく、俺はしっかりしなきゃって思うようになって。
でも、その反動なのかは分かんないですけど、俺、嬉しいとか感動するとか、そういう時に涙脆くなって。試合で勝った時とか、めっちゃ感動する映画を観た時とか。だけど、姉ちゃんは、そういう時、一切泣かないんですよ」
「え?」
冬杞は思わず声を漏らす。
「嬉しい時は嬉しいって笑って、感動する時は感動するって喜んで、でも涙は見せないんです」
翔羽はまた腕を組んだ。
「そういうところは、俺たち、正反対なんですよね」
うんうんと頷く。
「……それって、」
「はい?」
「最近も、同じ?」
なぜか驚いた表情をしている冬杞を見て、翔羽は内心、首を捻りながらも最近の菜月羽を思い浮かべる。
「そうですね。まあ、さすがに、ちょっと怪我しただけで泣くことはないですけど、基本的には変わってないですよ。
あ、それこそ、転校する1週間前ぐらいにはよく泣いてましたよ。『転校したくない』、『別れたくない』って。だから、これはしばらく引きずるなって思ってたんですけど、実際はそんなにで。もしかすると、俺がいないところで思い切り泣いたのかもしれないですけどね」
「……そっか」
――そっか……。そうだったんだ……。
冬杞は大きな勘違いをしていた。菜月羽の涙の意味を取り違えていた。あの涙は、ずっと、嬉しさや喜びの涙だと思っていた。
菜月羽のことを「菜月羽」と呼んだ時。
花火の日にネックレスをプレゼントした時。
2人が最後に別れた時。
嬉しくて、感動して、感極まって、彼女は涙を流しているのだと思い込んでいた。
――でも、違った。
菜月羽は、常にその先へ感情を進めていたのだ。どれだけ嬉しくても、数日後には離れ離れになってしまう悲しみに、菜月羽は思いを進めていた。あんなにも素直に彼女は感情をさらけ出し、別れを嘆いていた。そのことに冬杞は気付くことが出来なかった。
『私、隠すの上手だと思うよ?』
いつだったか、菜月羽が言っていたことを思い出す。
見えない何かに、ひどく打ちひしがれている冬杞を余所に、翔羽はもうひとつ思いついたことを口にする。
「あとはネックレスですかね」
冬杞は翔羽の言葉によって、現実に引き戻された。
「え?」
「姉ちゃん、今までアクセサリーとか、身につけるようなタイプじゃなかったんですよ。それが最近気付いたんですけど、姉ちゃん、何気にネックレスしてて。あんなの持ってたんだ、って思いました。しかも、四六時中、ずーっとですよ?いつからしてたのかな?何か心境の変化でもあったんですかね?」
最後の方は、ブツブツと独り言のように言葉をこぼしていた。
一方の冬杞は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
「あ!あれ」
翔羽は校門の方を指差した。冬杞もそちらに顔を向ける。
「あの人たち、今度姉ちゃんが通う予定の高校の生徒ですよ」
「そうなんだ」
2人の視線の先には、学生鞄を持った3人の女子高生が歩いていた。1人は薄手のパーカーのようなものを羽織っているが、2人はポロシャツを着ている。
その様子を見て冬杞はハッとした。
「あ……」
「ん?先輩、どうかしましたか?」
「あ、いや……」
冬杞は曖昧に答えた。
――そういうことだったのか。
今度は、心の中でそっと呟いた。
『んー、私、ポロシャツ買ってないんだよね』
『もったいない、って思ったから』
『着るか着ないか分からないな、と思ったから』
『夏休みまでは、とりあえずこのままでいこうかな。そのあとのことは、また考える』
菜月羽はずっと転校のことを考えていたのだと、つくづく思う。
そして冬杞は、知らず知らずの内に彼女を傷付けていた。無自覚だったとはいえ、いや、無自覚だったからこそ、冬杞はあの頃の自分を恨めしく思う。
「結局、俺は……」
翔羽にも聞き取れないような、小さな声で冬杞はぼやいた。
――結局、俺は何も分かってなかった……。
――菜月羽の表面しか見てなかった……。
そんな冬杞の横で、翔羽は呑気にサッカーを見ている。
「姉ちゃんも、いい加減、SNSしてくれねえかな」
翔羽は呟いた。冬杞はチラッと彼の方を見る。
「そうだよ、絶対、説得しねえと」
何かを思い出したのか、翔羽は、今度は勢いよく宣言した。
「今回、俺、本当大変だったんですよ。姉ちゃん、SNS一切してないから、浦口先輩とのやり取りは全部電話で」
「……ああ」
「SNSだったら、ゲームしてるふりして連絡を取り合えばいいんですよ。でも電話だと、姉ちゃんの目を盗んでしないとだめで。ていうか、姉ちゃんだけじゃないんですよ。親の目も盗んでしないとだめなんですよ。で、電話が終わったら履歴は即削除、これがどれだけ神経を使うか分かりますか?」
翔羽は興奮状態のまま、これまでの苦労を訴える。冬杞は思わず圧倒された。
『連絡をくれても、弟がゲームをしてると、すぐに返事ができなくて。アプリ自体も入ってない。とりあえずはこれで何とかなってるから、まあ、夏休みまでは様子を見ようかな、って』
確か、菜月羽はそう言っていた。冬杞はそのまま翔羽に伝えてみる。
すると、翔羽は盛大に首を振った。
「いやいや、俺はSNSやってほしい派ですから。せめて、家族用のアカウントだけでも作ればいいのに、って思ってるぐらいです。でも、姉ちゃんは嫌だ、って」
「なんで?」
「自分の性格上、他の人にSNSをやってるかって聞かれたら、やってるって正直に答えるから、って。そうやって勢いのままどんどん連絡先を交換した結果、名前だけの連絡先が増えていくのは嫌だ、って」
翔羽の表情が、ほんの少し悲しみをはらんだものに変わる。
「だったら、名前を消したらいいじゃないですか?そう言ったら、それは本当に繋がりがなくなってしまうみたいで空しい、って言うんですよ?だったら、最初から何もしない、って。
まあ、姉ちゃんの言ってること、分からなくはないんですよ。でも、そういうのって、どっかで割り切らないといけないじゃないですか?」
かつての別れのトラウマなんだろうな、と冬杞は
考えていた。
連絡先を交換してはいるものの、段々と疎遠になっていき、ただ登録してあるだけの状態になるのが「2度目の別れ」だとすれば、名前を消すことは「3度目の別れ」というところか。きっと翔羽も、その辺りのことは分かっているのだろう。翔羽であれば、無理にでもSNSをはじめさせることは出来るはずだ。しかし、それをしないということは、菜月羽の気持ちを優先したいという思いが根底にあるからなのだろう。
「大変だったんだな」
だからこそ冬杞は、翔羽の話には肯定も否定もしなかった。ただ、彼の苦労を労う。そして、
「これ」
冬杞は自分が持っていた荷物のひとつを翔羽に差し出した。
「え?なんですか?」
「いろいろ手伝ってもらったお礼」
「え?マジですか!」
「ああ」
「開けていいっすか?」
翔羽はルンルンで中を覗く。が、すぐにピタリと動きを止めた。驚きの表情を滲ませている。
「これ……」
「先輩に貰ったって言えば嘘にはならねえんじゃないかな?……でも、まあ、たまには母親のことも考えてあげろよ」
冬杞は優しい目で翔羽を見つめた。
「先輩、」
翔羽はまだ驚きの目をしていたが、しばらくして、ふっとその緊張を解いた。
「最近、俺、誕生日だったんですけど、その時、姉ちゃんに同じこと言われましたよ。それに、」
彼は、自分の首にかけていたタオルをするりと引っ張り、手に取った。そのタオルは、当然、冬杞にも見覚えがある。そして、冬杞が今、手渡したのは、
「これ、色違いのタオルですよね?」
冬杞は敢えて返事をしない。
「今原先輩、やっぱり、姉ちゃんとただの元クラスメイトじゃないですよね?」
挑発するような翔羽の目。しかし、冬杞は笑みを浮かべるだけである。その笑みが何を意味するのか、翔羽は考える。そして、
「ひとつ、俺のお願い、聞いてもらっていいですか?」
☆
冬杞は待ち合わせ時間の10分前に、中学校の前に到着した。初めての校舎を繁々と見つめていると、
「あの!」
1人の人物が駆け寄ってきた。
「えっと、今原先輩?」
「ああ」
「すみません、待ちました?」
「いや」
冬杞は首を振った。
「そうですか。あ、とりあえず、こっちに」
言われるままに、その人物についていく。が、途中で不安になり、
「俺、入っても大丈夫なの?」
菜月羽の弟、翔羽に問い掛けた。2人は校舎の敷地内、グラウンドがよく見える場所に移動していた。
「いいんじゃないっすか?だめだったら、一緒に怒られて下さい」
翔羽はサラッと答えた。
「……ああ」
翔羽がそう言うのであれば、冬杞も同意するしかない。
「俺、てっきり、浦口先輩が来るのかと思ってました。ずっと連絡を取り合ってたのは、浦口先輩なので」
冬杞が秋穂に手紙を見せたあの日。立ち上がったあとの秋穂の行動力には、冬杞も頭が下がる思いだった。
菜月羽の作り上げた壁を壊すことはおそらく不可能に近い。
突破口があるとすれば弟の翔羽しかいない。
秋穂はまず、菜月羽と同じ中学出身の同級生を探しはじめた。該当する者は10名程しかいなかったが、幸運にもその中の1人に、翔羽と同学年のきょうだいをもつ者がいた。同級生を経由して、そのきょうだいとコンタクトをとる。余程のことがなければ、翔羽の存在自体は知っているだろうが、だからといって、仲が良いかどうかは別問題である。案の定、そのきょうだいは、翔羽の転校のことは知っていたが、特に交流がある訳ではないということだった。
そこで、そのきょうだいに、翔羽と仲の良かった人物を探してもらうことにした。
ポイントは、サッカーとスマホゲーム。
サッカーが好きな翔羽なら、そのサッカーを通じて今でも繋がっている人がいるのではないか?
姉のスマホを借りてまでスマホゲームをしているのなら、そのゲーム上で繋がっている人がいるのではないか?
秋穂の予想は、結論から言うと、大あたりだった。
スマホゲーム上で、今も翔羽と交流がある同級生を見つけた。事情を説明してもらい、その同級生とも連絡を取る。そして、その同級生を経由して、秋穂と翔羽はとうとう繋がることが出来た。
しかし、冬杞の中には、一抹の不安があった。翔羽は菜月羽の弟だ。菜月羽から何かしらの忠告を受けている可能性は十分に考えられる。
だが、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。翔羽は何の躊躇いもなく、自分たちの居場所を教えてくれた。
『私と弟って、結構、性格とか真逆なところがあって』
まさにその通りのようである。あるいは単純に、弟を突破口として居場所を探し出そうとする秋穂たちの執念を、菜月羽が予測できなかっただけかもしれない。
ここまで辿り着くのに数日である。随時、報告を受けていた冬杞は、秋穂の社交性と行動力に驚くばかりだった。
そして、秋穂は告げた。
「今原くん、ナツに会いに行ってきて」
と。
そして、今に至る。
「まあ、いろいろあって」
翔羽の問いに、冬杞は曖昧に答える。
当然、秋穂の提案には冬杞も困窮した。しかし、秋穂は「部活があるから」とか「課題やらないといけないから」とか、ぼそぼそと言い訳をして、その提案を取り下げることはしなかった。
現在に至るまで、菜月羽と冬杞の関係を秋穂に伝えることはしていない。けれど、菜月羽が冬杞に手紙を託したという事実が、彼女に何らかの影響を与えたのだろう。最終的には、冬杞もその提案を受け入れた。
翔羽も、特に追究することはしなかった。
「浦口先輩は姉ちゃんの友だちって言ってました。今原先輩は?」
「俺は……」
言葉に詰まる。翔羽がチラッと冬杞に視線を送る。
「前の高校のクラスメイト」
「それだけ?」
「それだけ……」
それだけ、ではない。しかし、詳しく説明する気にはなれない。
冬杞は話題を変えた。
「なんて言ってここに来たの?」
「え?」
「母親に聞かれなかった?」
翔羽は「ああ」と大きく頷く。
「サッカー見てくる、って言ってきました」
「サッカー?」
「はい」
翔羽はニッと笑った。確かに2人の前に広がるグラウンドでは、生徒たちがサッカーをしている。
「嘘ではないですよね?」
「まあ、な」
冬杞もふっと笑った。そして、少し迷って、
「菜月羽は、元気?」
と尋ねた。
「姉ちゃんですか?うーん、そうですね、元気は元気ですよ。でも、まあ、気になることがあるとすれば――」
冬杞は翔羽を見た。
「何?」
「んー、まだ泣いてない、ってことですかね」
「泣いてない?」
「はい」
意味が分からず、冬杞は首を傾げた。
「姉ちゃんって、結構、涙脆いんですよ。
前にばあちゃんが死んだ時、1番泣いてたのは姉ちゃんでした。クラスメイトに嫌なことをされたっていって泣いたり、転んで怪我をしたっていって泣いたり、友だちとクラスが別になったっていって泣いたり、それこそ転校するのが辛いっていって泣いたり……。
まあ、さすがに親の前ではワンワン泣かないですけど、俺の前ではしょっちゅうですよ」
冬杞は笑みを浮かべた。それは冬杞も体験済みである。
「そう考えると、今回はまだ泣いてなくて。転校が辛くない訳じゃないと思うんですけどね」
「……そっか」
翔羽は腕を組んで、考える素振りを見せた。しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「姉ちゃんって、痛いとか悲しいとか辛いとか、そういう時にはしょっちゅう泣くんですよ。だから、逆に俺は、そういう時、全然泣かなくて。だって、姉ちゃんが泣いてる隣で俺もワンワン泣いてたら、ヤバくないですか?何となく、俺はしっかりしなきゃって思うようになって。
でも、その反動なのかは分かんないですけど、俺、嬉しいとか感動するとか、そういう時に涙脆くなって。試合で勝った時とか、めっちゃ感動する映画を観た時とか。だけど、姉ちゃんは、そういう時、一切泣かないんですよ」
「え?」
冬杞は思わず声を漏らす。
「嬉しい時は嬉しいって笑って、感動する時は感動するって喜んで、でも涙は見せないんです」
翔羽はまた腕を組んだ。
「そういうところは、俺たち、正反対なんですよね」
うんうんと頷く。
「……それって、」
「はい?」
「最近も、同じ?」
なぜか驚いた表情をしている冬杞を見て、翔羽は内心、首を捻りながらも最近の菜月羽を思い浮かべる。
「そうですね。まあ、さすがに、ちょっと怪我しただけで泣くことはないですけど、基本的には変わってないですよ。
あ、それこそ、転校する1週間前ぐらいにはよく泣いてましたよ。『転校したくない』、『別れたくない』って。だから、これはしばらく引きずるなって思ってたんですけど、実際はそんなにで。もしかすると、俺がいないところで思い切り泣いたのかもしれないですけどね」
「……そっか」
――そっか……。そうだったんだ……。
冬杞は大きな勘違いをしていた。菜月羽の涙の意味を取り違えていた。あの涙は、ずっと、嬉しさや喜びの涙だと思っていた。
菜月羽のことを「菜月羽」と呼んだ時。
花火の日にネックレスをプレゼントした時。
2人が最後に別れた時。
嬉しくて、感動して、感極まって、彼女は涙を流しているのだと思い込んでいた。
――でも、違った。
菜月羽は、常にその先へ感情を進めていたのだ。どれだけ嬉しくても、数日後には離れ離れになってしまう悲しみに、菜月羽は思いを進めていた。あんなにも素直に彼女は感情をさらけ出し、別れを嘆いていた。そのことに冬杞は気付くことが出来なかった。
『私、隠すの上手だと思うよ?』
いつだったか、菜月羽が言っていたことを思い出す。
見えない何かに、ひどく打ちひしがれている冬杞を余所に、翔羽はもうひとつ思いついたことを口にする。
「あとはネックレスですかね」
冬杞は翔羽の言葉によって、現実に引き戻された。
「え?」
「姉ちゃん、今までアクセサリーとか、身につけるようなタイプじゃなかったんですよ。それが最近気付いたんですけど、姉ちゃん、何気にネックレスしてて。あんなの持ってたんだ、って思いました。しかも、四六時中、ずーっとですよ?いつからしてたのかな?何か心境の変化でもあったんですかね?」
最後の方は、ブツブツと独り言のように言葉をこぼしていた。
一方の冬杞は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
「あ!あれ」
翔羽は校門の方を指差した。冬杞もそちらに顔を向ける。
「あの人たち、今度姉ちゃんが通う予定の高校の生徒ですよ」
「そうなんだ」
2人の視線の先には、学生鞄を持った3人の女子高生が歩いていた。1人は薄手のパーカーのようなものを羽織っているが、2人はポロシャツを着ている。
その様子を見て冬杞はハッとした。
「あ……」
「ん?先輩、どうかしましたか?」
「あ、いや……」
冬杞は曖昧に答えた。
――そういうことだったのか。
今度は、心の中でそっと呟いた。
『んー、私、ポロシャツ買ってないんだよね』
『もったいない、って思ったから』
『着るか着ないか分からないな、と思ったから』
『夏休みまでは、とりあえずこのままでいこうかな。そのあとのことは、また考える』
菜月羽はずっと転校のことを考えていたのだと、つくづく思う。
そして冬杞は、知らず知らずの内に彼女を傷付けていた。無自覚だったとはいえ、いや、無自覚だったからこそ、冬杞はあの頃の自分を恨めしく思う。
「結局、俺は……」
翔羽にも聞き取れないような、小さな声で冬杞はぼやいた。
――結局、俺は何も分かってなかった……。
――菜月羽の表面しか見てなかった……。
そんな冬杞の横で、翔羽は呑気にサッカーを見ている。
「姉ちゃんも、いい加減、SNSしてくれねえかな」
翔羽は呟いた。冬杞はチラッと彼の方を見る。
「そうだよ、絶対、説得しねえと」
何かを思い出したのか、翔羽は、今度は勢いよく宣言した。
「今回、俺、本当大変だったんですよ。姉ちゃん、SNS一切してないから、浦口先輩とのやり取りは全部電話で」
「……ああ」
「SNSだったら、ゲームしてるふりして連絡を取り合えばいいんですよ。でも電話だと、姉ちゃんの目を盗んでしないとだめで。ていうか、姉ちゃんだけじゃないんですよ。親の目も盗んでしないとだめなんですよ。で、電話が終わったら履歴は即削除、これがどれだけ神経を使うか分かりますか?」
翔羽は興奮状態のまま、これまでの苦労を訴える。冬杞は思わず圧倒された。
『連絡をくれても、弟がゲームをしてると、すぐに返事ができなくて。アプリ自体も入ってない。とりあえずはこれで何とかなってるから、まあ、夏休みまでは様子を見ようかな、って』
確か、菜月羽はそう言っていた。冬杞はそのまま翔羽に伝えてみる。
すると、翔羽は盛大に首を振った。
「いやいや、俺はSNSやってほしい派ですから。せめて、家族用のアカウントだけでも作ればいいのに、って思ってるぐらいです。でも、姉ちゃんは嫌だ、って」
「なんで?」
「自分の性格上、他の人にSNSをやってるかって聞かれたら、やってるって正直に答えるから、って。そうやって勢いのままどんどん連絡先を交換した結果、名前だけの連絡先が増えていくのは嫌だ、って」
翔羽の表情が、ほんの少し悲しみをはらんだものに変わる。
「だったら、名前を消したらいいじゃないですか?そう言ったら、それは本当に繋がりがなくなってしまうみたいで空しい、って言うんですよ?だったら、最初から何もしない、って。
まあ、姉ちゃんの言ってること、分からなくはないんですよ。でも、そういうのって、どっかで割り切らないといけないじゃないですか?」
かつての別れのトラウマなんだろうな、と冬杞は
考えていた。
連絡先を交換してはいるものの、段々と疎遠になっていき、ただ登録してあるだけの状態になるのが「2度目の別れ」だとすれば、名前を消すことは「3度目の別れ」というところか。きっと翔羽も、その辺りのことは分かっているのだろう。翔羽であれば、無理にでもSNSをはじめさせることは出来るはずだ。しかし、それをしないということは、菜月羽の気持ちを優先したいという思いが根底にあるからなのだろう。
「大変だったんだな」
だからこそ冬杞は、翔羽の話には肯定も否定もしなかった。ただ、彼の苦労を労う。そして、
「これ」
冬杞は自分が持っていた荷物のひとつを翔羽に差し出した。
「え?なんですか?」
「いろいろ手伝ってもらったお礼」
「え?マジですか!」
「ああ」
「開けていいっすか?」
翔羽はルンルンで中を覗く。が、すぐにピタリと動きを止めた。驚きの表情を滲ませている。
「これ……」
「先輩に貰ったって言えば嘘にはならねえんじゃないかな?……でも、まあ、たまには母親のことも考えてあげろよ」
冬杞は優しい目で翔羽を見つめた。
「先輩、」
翔羽はまだ驚きの目をしていたが、しばらくして、ふっとその緊張を解いた。
「最近、俺、誕生日だったんですけど、その時、姉ちゃんに同じこと言われましたよ。それに、」
彼は、自分の首にかけていたタオルをするりと引っ張り、手に取った。そのタオルは、当然、冬杞にも見覚えがある。そして、冬杞が今、手渡したのは、
「これ、色違いのタオルですよね?」
冬杞は敢えて返事をしない。
「今原先輩、やっぱり、姉ちゃんとただの元クラスメイトじゃないですよね?」
挑発するような翔羽の目。しかし、冬杞は笑みを浮かべるだけである。その笑みが何を意味するのか、翔羽は考える。そして、
「ひとつ、俺のお願い、聞いてもらっていいですか?」
☆