「ねえ、ちょっといい?」

声が聞こえた。誰に向けられたものなのかは分からない。何も反応しないでいると、

今原(いまはら)くん、時間ある?」

秋穂(あきほ)はもう1度、冬杞(ふゆき)に尋ねた。冬杞はようやく、彼女の方を見た。無言で「何?」と問い掛ける。

「時間ある?」

しかし、秋穂はあくまでも、言葉での返事がほしいようだ。

「なんで?」

仕方なく冬杞は口を開いた。

夏休みの真っ只中、冬杞も秋穂も夏期講習を受講する為に、登校している。希望者のみの参加だが、ほぼ全員が出席している。

講習を終え、早々に教室を出た冬杞は、昇降口で室内履きをしまい、スニーカーを出しているところだった。

「ナツのことで話したいことがあるんだけど」

――だよな……。

それ以外、秋穂が冬杞に用があるとは思えない。

正直言うと、話したい気分ではない。

しかし、秋穂は違う。YESと言うまでは逃さない、強い覚悟が見てとれる。

しょうがない、という気持ちで、冬杞は彼女に付き合うことにした。

2人は、人目のない場所へ移動した。校舎の外、人が通らない日陰に入る。

しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのは、秋穂だった。

「今原くん、ナツのこと、何か知ってるんでしょ?」

ストレートな質問だった。

「何かって?」

「転校のことに決まってるでしょ?ナツから聞いてたんじゃないの?」

「俺は、何も知らない」

本当のことだ。冬杞は、転校のことについては、何も知らない。

だが、秋穂はまだ疑っている。

「本当に?本当に何も知らないの?」

「なんで俺がそんなこと知ってるんだよ」

すると、秋穂が冬杞のことをキッと睨み付けた。

「2人、本当は仲が良いんでしょ?」

冬杞は何も言わない。

「あの日、終業式の日、今原くん、私のことを見て、『菜月羽(なつは)』って言ったでしょ?私、気付いてないふりしたけど、本当は聞こえてた。今原くん、ナツのことを『菜月羽』って名前で呼ぶような仲だったの?

そのあとだって、口を開けば、ナツに関係することばっかり聞いて。それに、先生がナツの転校の話をしてた時、今原くん、ずーっとナツの席を見てたでしょ?

あの時は、私もいろいろ驚いて何も思わなかったけど、あとになって、いっぱい考えて。考えれば考えるほど、やっぱりナツと今原くん、何かあるんじゃないか、って」

秋穂は一気に言葉を吐き出していく。きっと、ずっと1人で考えていたのだろう。

「私は別に、2人が仲が良くても、仮に付き合ってても、それを内緒にしてても、それはそれでいい。ただ私は、なんでナツが何も言わずに転校したのか、なんで教えてくれなかったのか、そういうことが知りたいの」

彼女の必死の訴えが、冬杞の胸に次々と釘を打ちつけていく。

しかし、秋穂の求める答えを、冬杞は返してあげることが出来ない。

その代わりに思い出したことがある。

「記憶力はすごくいい」

冬杞はそのまま言葉にする。

「応用力みたいなところが弱くて。時間さえあれば、絶対に正解に辿り着ける」

まさに菜月羽の言う通りだ。秋穂の記憶力は素晴らしい。しかし、それを上手く結びつけるのに、数日かかってしまったのが現状である。

冬杞は、菜月羽の観察力に改めて感心し、内心でふっと笑みを浮かべた。

一方の秋穂は、目を丸くして冬杞を見ている。まるで、珍しい生き物でも見ているような、そんな驚きと、若干の恐怖が入り交じっている。

「なんで――」

秋穂は信じられない気持ちでいっぱいだった。

「ナツみたいなこと、言うの?」

それは、秋穂が菜月羽に、夏休みの課題をしようと提案した時のことである。

「私、頭悪いし、絶対サボるし、だから手伝って。ね、お願い」

すると、菜月羽はにこりと笑った。秋穂の大好きな笑顔。

「サボるのは別として、秋穂ちゃんは頭が悪い訳じゃないと思うよ」

「え?」

そう言って話した内容は、先程冬杞が告げたこととあまりにも酷似している。

「やっぱり2人、何かあるんでしょ?ナツのこと、知ってるんでしょ?転校のことも――」

「知らない」

冬杞は秋穂の言葉を遮った。そのあまりの冷酷さに、秋穂の感情が爆発してしまう。

「知らない知らないって、なんなの?知ってるんでしょ?なんで何も言ってくれないの?今原くんも、ナツも……。

私はナツと友だちだって思ってた。でも、転校のことなんて何も言ってくれなかった。なんでなの?

しかも、今原くんは絶対何か知ってる。なのに、今原くんも何も教えてくれない。

2人して、私をからかってるの?馬鹿にしてるの?友だちって思ってたのは私だけだったの?こんなに必死になって馬鹿みたいじゃない。結局、私はナツにとって、ただのクラスメイトだったってことなの?

ナツなんて――、ナツなんて――」

「もういい!」

冬杞は静かに、でも強く、言葉を放った。

秋穂は冬杞を睨み付けた。意地でも涙は見せまいと思っているのだろう。

――こんな奴の前で絶対泣かない。

そんな心の声が漏れ出ている。

「俺のことは別にどうでもいい。でも、浦口(うらぐち)さん自身のことと、新井(あらい)さんのことは悪く言うなよ」

「なんで、そんなこと今原くんに言われなくちゃ――」

そこで秋穂は言葉を切った。冬杞が秋穂に何かを差し出したから。彼女はそれを訝しげに眺めた。

「……手紙?」

しかし、異様に中身が膨らんでいる。

「新井さんが書いた手紙」

「え?」

冬杞は封筒から便せんを取り出し、更にその中の数枚を秋穂に差し出した。

一瞬躊躇ったあと、秋穂はその便せんを受け取った。見ると、そこには菜月羽の綺麗な字が並んでいる。

終業式の日の放課後。

冬杞の予定は丸潰れだった。菜月羽のいない放課後など、冬杞には必要なかった。さっさと帰宅しようとしていたところを、涌井(わくい)先生に呼び止められた。

断ることなど出来ず、冬杞は涌井先生の後ろをついていき、職員室の隣にある会議室にいるように言われた。文字通り、会議をする為の小さな教室だが、稀に元気のあり余る生徒が呼び出されるお説教部屋としても使用されている。大抵の生徒は、この部屋に呼び出されればソワソワが止まらないのだろうが、冬杞は何も感じない。

少しして、涌井先生が会議室に入ってきた。そして差し出したのが、あの手紙である。

「……これは?」

冬杞はすぐに手を伸ばすことが出来なかった。

「昨日の面談の間に新井さんが私のところに来てね。手紙を書きたいから教室をどこか貸してほしい、って。で、ここが空いてたから、ここを使ってもらったの。

次の面談の合間にはまだ一生懸命書いてるみたいだった。その次の合間に書けました、って言って持ってきて。だから、2時間近くはいたのかもしれない。封筒、パンパンになってるでしょ?」

『先生に用があるだけ』

用、というのはこのことだったのか、と冬杞は納得する。

手を伸ばし、手紙を受け取った。

――確かにいっぱいだな。

「先生、てっきり浦口さんとか、他のクラスメイト全員に向けて書いてるのかと思ってたんだけど、『全部、今原くんに渡してほしい』って言われて。ねえ、やっぱり2人って――」

「先生」

話題が逸れる前に冬杞は割って入った。

「新井さんの転校先、教えて下さい」

すると、涌井先生は先程までの勢いをなくし、顔をしかめた。

「HRでも言ったけど、それは新井さんの希望で教えることは出来ない」

よく出来た教師だと思う。生徒の無茶な要求に応じたり、守るべきものは守ったり。

冬杞は、これ以上の説得は無駄だとすぐに悟った。

「これ、ありがとうございました」

涌井先生にお礼を言い、会議室を後にした。

下校するつもりだったが、気持ちが変わった。冬杞はそのままの足で、自習室Aへと向かう。そして、そこで手紙を読んだ。



冬杞くん

冬杞くん、手紙を受け取ってくれて、ありがとう。
多分、聞きたいこと、たくさんあるよね。
順番に説明します。長くなると思うけど、よかったら読んで下さい。

私の父親は、いわゆる転勤族で、私が覚えている限りでも、幼稚園の頃と小学生の頃、そして今回の3回、引っ越しをしています。
幼稚園の頃のことは、正直、よく覚えていません。でも、小学生の頃のことは、今でもよく覚えています。

小学生の頃は、今回と違って、何日か前に、みんなに転校のことは伝えてありました。
お別れ会もしてもらいました。クラスメイトから手紙を貰ったり、ゲームをしたり、写真を撮ったり。途中から誰が主役なのか分からないようなお別れ会だったけどね。

だけど、その時は、全然寂しくありませんでした。寂しさを感じたのは最後の日。
帰りの会の時、みんなに挨拶をして下さいって言われて教室の前に立つと、寂しさが一気に湧き上がってきました。
楽しい思い出もいっぱいある。
仲の良いクラスメイトもそこそこいた。
離れたくないっていう思いが、次々と湧き上がってきました。
クラスメイトの中には、泣いてくれている子もいました。こんな私との別れを惜しんでくれているのかと思うと、またそれも寂しくて。
でも、転校することに代わりはありません。
私たちは、家族揃って、この街に引っ越してきました。

転校後、私はしばらくぼーっとしていました。
いつものこと、って言わないでね。
ただ、そのぼーっとしていた私を救ってくれたのは、元クラスメイトたちからの手紙でした。

お互い、スマホを持っていない頃です。
私たちは何度か手紙のやりとりを繰り返しました。
「いつ届くかな」ってワクワクして、「今度は何を書こう」ってウキウキして、毎日が楽しくなりました。「あー、友だちって、やっぱりいいな」って思ってました。

だけど、そんな日は、長くは続きませんでした。
段々、手紙をくれる人が少なくなっていきました。手紙が届く頻度も減っていきました。
そして、とうとう誰からも手紙は届かなくなりました。

当たり前だよね。
だって小学生だから――、っていうのは偏見かな。

それぞれの生活がある中で、遠く離れた元クラスメイトのことなんて、すぐに忘れちゃうよね。
でも、あの頃の私は、そうは思っていなかった。
ただただ寂しいって思っていました。

1、2ヵ月、誰からも手紙が届かなくなって、内心、もう2度と手紙が届くことはないと思いはじめていました。
だけどどこかで、期待しているところもありました。「もしかしたら、今日、手紙が届くかもしれない」って。
母親が郵便物を持ってくる時、無意識の内に、それを目で追っていました。
結局、期待通りになることは1度もなかったけどね。

私は、2度目の別れを味わった気分になりました。
大袈裟かもしれないけど、1度目の別れより辛かったかもしれません。

中学校は運がよかったのか、転校することなく同じ学校に通うことが出来ました。
でも、高校に入学をする前には、今回の引っ越しの話があがっていました。

本当のところ、母親と弟と私の3人は、こちらに残るという選択肢もない訳ではありませんでした。
ただ、私がまだ小さい頃、父親が言ったことがありました。「せめて高校生までは、一緒に暮らしたいな」と。
私は、その言葉がずっと頭の中に残っていました。
だから私は、特に断ることもせず、引っ越しの件に同意しました。

そして私は、心に決めました。
あんな別れはもうしたくない。
別れるのは1度だけでいい。
夏休みがはじまるまでの数ヵ月間、無難に生活しよう。
飛び切り仲の良い友だちは要らない。
飛び切り楽しい思い出なんて作らなくていい。
それは別れの瞬間に、全部悲しみとして返ってくる。
それは嫌だ。
だったら、そこそこの生活が出来ればいい。
そう思っていました。

だけど、そんな私の計画は、早々に崩れていきました。
前に、冬杞くんにも話したよね?
秋穂ちゃんです。秋穂ちゃんが、私の気持ちを180度変えてくれました。

みんなと、とことん仲良くなりたい。
楽しい思い出をたくさん作りたい。
たとえそれが、悲しみとして自分のところに戻ってきたとしても、それは私が我慢すればいいことです。
それなら、夏休みがはじまるまでは、転校するまでは、目一杯楽しもう。
そう思うようになりました。

でも、本当は、秋穂ちゃんの前に、私を変えてくれた、というよりも、私に小さなドキドキを与えてくれた人がいました。
あの時は秘密って言ったけど、特別に教えてあげる。

入学式の日のことです。
私は普通に緊張していました。引っ越しとは関係なく、これはただの人見知りが発動しただけです。
誰からも声を掛けられず、誰にも声を掛けることもせず、私は入学式早々、1人で本を読んでいました。
まだ、後ろの席の人は来ていません。名前を見る限り、男子なんだな、ということは分かっていました。

しばらくして、何気なく顔を上げました。
1人の男子が私の横を通り過ぎようとしているところでした。
その時、私たちは偶然、目が合ったのです。
理由はよく分かりません。でも、私は、強い衝撃を受けました。
目を逸らすことが出来ない。
動くことが出来ない。
でも、きっと、それはほんの一瞬のことだったんだと思います。
そして、その男子は、私の後ろの席に座りました。
誰か、分かりましたか?

冬杞くん、あなたです。
今思えば、私は冬杞くんに、その時から惹かれていたんだと思います。
でも、数ヵ月前の私は、そんなこと、何も分かっていなかった。
ただ、冬杞くんの存在にドキドキしていました。
何もないと思った夏休みまでの期間、冬杞くんが学校に来る楽しみを、私に与えてくれました。

と言っても、何もなかったんだけどね。
面と向かって話すこともなかった。そもそも、ちゃんと喋ったこと、なかったんじゃないかな。
最初はそれでよかった。
学校に来て、私が前の席に座って、冬杞くんが後ろの席に座って、それだけでいいと思っていました。

だけど、段々欲が出ちゃったんだろうね。
秋穂ちゃんと仲良くなったことも影響していたのかもしれません。

まずは、いいところを見せなきゃと思って、授業中は、どれだけ退屈な内容でも寝ないように背筋をシャキッとしてみたり。
「ノート見せて」って言われるかもしれないから、とにかく綺麗に板書しようって頑張ったり。
地道にアピールをしていた、つもりでした。
「背中に目があったらいいな」って思ったことも何回もありました。
今、どういう顔してるのかな、ちゃんと考えてるかな、って。

そんなことを考えていたら、冬杞くんの癖にも気付いたんだと思います。
これは知らない方がよかったかな?気持ち悪いよね?
全然、素敵な理由じゃなくて、ごめんなさい。
こんな感じだったから、席替えってなった時は、本当にショックでした。
夏休みまではこのままでいいんじゃない?って、先生に本気で訴えようかなって思ったぐらいです。

ちょっと話が変わるけど、冬杞くんや秋穂ちゃんに出会ってからも、毎朝のルーティンは続けていました。
誰にも言わず、ひっそりと。
まさか、冬杞くんに聴かれてるなんて、思ってもみませんでした。

あれは、何の為の時間だったんだろう。
ちょっと現実に向き合う為の時間、だったのかもしれません。
その時間を、他の人に見られてしまった。
あれは想定外でした。それも、まさか、冬杞くんに見られてしまうなんて、本当にびっくりでした。
きっと、冬杞くんとちゃんと喋った最初の瞬間だったんじゃないかな。
驚きと緊張と恥ずかしさと、いろいろな感情がごちゃ混ぜになりました。
あの時、私は、普通だったのかな?変なこと言ってなかったよね?
でも、これで、冬杞くんとも印象的な思い出が出来ました。
時期も時期だったので、これが冬杞くんとの最後の思い出か……、とも思いました。

だけど、それだけでは終わりませんでした。
冬杞くんは私に、「新井さんの歌を聴かせてほしい」って言ってくれました。
今考えると、あれはどういう意味だったのかな?少し気になります。

冬杞くん、私は冬杞くんに言いました。「夏休みがはじまるまでに、1回ぐらい付き合ってみたい」って。
あれ、本当は少し違います。
付き合いたかった訳じゃない。
恋人をつくりたかった訳じゃない。
私は、冬杞くんと仲良くなりたいって思っていました。
転校するまでに目一杯楽しもうとは思っていたけど、恋人をつくりたいなんて考えたこともありませんでした。
「夏休みがはじまるまでに、冬杞くんと仲良くなりたい」、これが本当の気持ちでした。
でも、何の前触れもなくそんなことを言うことは出来ません。
だから私は、あの瞬間がチャンスだと思いました。せっかくのチャンスを手放したくありませんでした。
そして、咄嗟に嘘をつきました。
ごめんなさい。

冬杞くんと過ごした時間は、本当に幸せでした。
でも、私は早い段階で気付いてしまいました。
私は、私が思っている以上に、冬杞くんのことが好きなんだって。
多分、冬杞くんが私の名前を呼んでくれた時には、もう確信していました。
幸せだった。幸せすぎて怖かった。あと少しで、この幸せを手放すことになるのが辛かった。

だけど私は、目の前の幸せを優先しました。
冬杞くんの隣にいたかった。
冬杞くんの傍にいたかった。
花火の日、時間が止まってほしいって本気で思った。
冬杞くんが喜んでくれるなら、何回でも歌おうって思った。
でも、それを続けることはできません。

私は今回の転校で決めていたことがありました。それは、転校のことを誰にも伝えない、ということです。理由は2つ。
その為に、私は連絡先の交換を極力控えるようにもしていました。
入学の頃から大きく変わってしまった部分もありましたが、そこだけは守り続けていました。

1つ目は、2度目の別れをしない為。
あの頃とは違って、今は簡単に人と繋がれます。手紙なんかよりも、ずっと手軽に。
でも、結局は同じです。
連絡先を知っているからといって、連絡を取り合うとは限りません。
最初の内は頻繁にメッセージを送り合っていても、きっといつか、終わってしまいます。あの頃のように。

全ての悲しみを受け入れる覚悟はあったけど、出来ることなら、2度目の別れはもう味わいたくありませんでした。
SNSをしていないって言えば、みんな「じゃあ、はじめたら教えてね」ってスルーしてくれました。
「じゃあ電話番号だけ教えて」っていう人はいませんでした。
想定外だったのは、秋穂ちゃんと冬杞くんの存在です。
学校の中で、唯一連絡先を交換したのが2人でした。
電話番号だけならいいかと思って。私の意志は結構ブレブレなんだよね。

2つ目は、みんなにしんみりした気持ちになってほしくなかったから、です。
中学生の頃、私は初めて、同級生の転校を見送る側を経験しました。
でも、その人とは、正直、特に交流もなくて、転校のことを知っても「あー、そうなんだ」って思ったぐらいでした。
そんな私も、最後の日には、少ししんみりした気持ちになりました。
そういえば、私の転校の時も、泣いてくれている人がいたなとか、いろいろ思い出しました。
この辺りは人それぞれだと思うけど、見送る側にも、また違った寂しさみたいなものがあるんだなと思いました。

だから、思い上がりでもいい。
今回の私の転校では、誰にもそんな気持ちになってほしくありませんでした。
最後の日までいつも通りでいてほしかった。
もちろん、当日いきなり報告を受けても何かしらの感情を持ってくれる人もいるかもしれないけど、翌日から夏休みもあるし、少しぐらいは和らぐかなって、いろいろ期待もあったかもしれません。

辛いのは私だけで充分。
とにかく、私は、最後の最後まで、連絡先の交換を控え、転校のことは誰にも知らせませんでした。

冬杞くん、最後のあの時、「菜月羽の歌が聴けてよかった」って言ってくれて、すごく嬉しかったです。
勝手なことで申し訳ないけど、私はあの言葉、歌詞の意味として受け取りました。
だから、「冬杞くんに横にいられてよかった」と伝えました。

花火の日、遠距離恋愛の話をしたの、覚えていますか?
あの時、私は「離れていても自分が相手のことを好きで、相手が自分のことを好きでいてくれる、っていう自信」が必要だと言いました。

私は、私が冬杞くんを巻き込んでいると思っていました。
私のわがままに冬杞くんを付き合わせている。
恋人気分を味わっているのは私だけだ。
だから、冬杞くんの言葉は意外だった。意外で嬉しかった。
でも、自信がありませんでした。離れていても、同じ気持ちでいてもらえる自信が。
そして、その自信を感じるには時間がなさすぎました。
私は、自分の気持ちを伝えるのが精一杯でした。

そういえば、3番の歌詞、見ましたか?
私はあまり好きじゃないって言った理由、分かりましたか?
あの言葉の意味、分かりましたか?

あと、恋人(仮)(かっこかり)のこと。
きちんと別れられないままになってしまって、ごめんなさい。
どうしようかな……。
今、言ってもらおうかな……。
もうわがままは言わない。冬杞くんの言葉を受け入れます。
じゃあ、どうぞ。

うん、別れます。

冬杞くん、本当にありがとう。
冬杞くん、幸せをありがとう。
冬杞くん、恋人になってくれてありがとう。
冬杞くん、ドキドキをありがとう。
冬杞くん、大好きです。
冬杞くん、さようなら。



『明日、別れたくないって言って、泣いちゃだめだよ』

菜月羽の言葉が蘇った。

泣かないと思っていた。

泣くはずないと思っていた。

むしろ、菜月羽が泣くのではないかと思っていた。

「……反則だろ」

冬杞の目には涙が溢れていた。行き場のない感情が、涙となって流れ出た。その涙が乾いたあとも、冬杞は自習室から動くことが出来なかった。

――全部、この日の為に……。

『最後の日ぐらい、自分の為に時間を使った方がいいよ』

『最後の日ぐらい休んでもいいんじゃない?』

菜月羽の真面目で、優しい性格が生んだ言葉だと思っていた。いや、間違いではないだろう。

しかし、本心は別にあった。

そして、事ある毎に彼女が話していた「最後」の意味を、冬杞は思い知った気分だった。

今この状況になって、菜月羽の言葉のひとつひとつが、全てここに繋がっているような気がして仕方がなかった。

菜月羽の手紙には続きがある。



冬杞くんにお願いがあります。
もしも、秋穂ちゃんが苦しんでいそうだったら、この手紙を渡してくれませんか?



今がその時なのか、正直、冬杞には分からない。もしかすると、菜月羽が想定していた場面とは違うのかもしれない。

でも、冬杞はこれ以上、秋穂に秋穂自身を責めてほしくなかった。

秋穂に菜月羽を責めてほしくなかった。

恐る恐る冬杞から手紙を受け取った秋穂は、その場でそれを読みはじめた。



秋穂ちゃん

先に謝ります。ごめんなさい。怒らないで下さい。

正直に話します。
入学の頃から、私は、転校することが分かっていました。
だから、あんまりみんなと仲良くしすぎないようにしようって思っていました。
仲良くなりすぎると、別れるのが寂しくなると思ったからです。

でも、その計画は、すぐにめちゃくちゃになりました。
秋穂ちゃんのせいだよ。
秋穂ちゃんが優しくて、キラキラしていて、温かくて、笑顔がかわいくて、お茶目で、記憶力がよくて、応用問題が苦手で、お喋りが好きで、喋りすぎて図書室で怒られて、忘れ物が結構多くて、ノートを貸してあげるといつも落書きしてあって、居眠りしている時の顔が愛らしくて。
ちょっと褒めすぎちゃったかな?
だから私は、限られた短い学校生活を楽しく過ごすことにしたのです。

転校のことを誰にも言わないことは、ずっと前から決めていました。
いろいろな理由があるけど、みんなにしんみりしてほしくないっていうのが大きかったと思います。

調子に乗るな、っていうのは分かっています。
でも、もしかすると、秋穂ちゃんみたいにちょっと変わった人が、私の転校を悲しむかもしれない。
もし、そんな人がいるとしたら、しんみりとした感じでお別れをしたくありませんでした。
突然知ったら知ったで、いろいろ思うことはあると思うけど、次の日から夏休みだし、そのワクワクでだいぶ中和されるかなって、考えなくもなかったり。

だからね、秋穂ちゃん。
もしも、今回の転校のことで、秋穂ちゃんが悩んでいることがあったら、それはもうやめて下さい。
私は秋穂ちゃんのことが大好きです。大好きな秋穂ちゃんが苦しむのは嫌です。
悪いのは私だから。

もし泣いていたら、もう泣かないで。
もし辛かったら、楽しいことを考えて。
もし怒ってたら、出来れば許して下さい。

秋穂ちゃん、ありがとう。大好きです。



手紙を読み終えた秋穂は、崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。俯いている為、冬杞にはその顔が見えない。しかし、小刻みに震える身体と、小さく漏れる嗚咽で、泣いていることは分かる。

しばらくそのままの時間が流れた。

秋穂の気持ちが少しずつ静まっていく。

だが、まだ顔を上げることは出来ない。そのままの体勢で、秋穂は口を開いた。

「本当に、何も知らないんだね」

「……ああ」

「ごめん、怒ったりして」

「……別に」

そんなことで、冬杞の心は傷付いたりしない。

「先生、教えてくれないかな?」

考えることは同じようだ。

「無理だと思う。あの人は、多分、教えてくれない」

「電話は?」

「繋がらない」

終業式の日以降、菜月羽との連絡手段は絶たれてしまった。

転校先不明。

SNSはしていない。

電話は繋がらない。

何度試しても、コール音が聴こえるだけで、本当に聴きたいものはいつまで経っても聴こえない。コール音がするということは、電話番号はそのまま残っているはずだ。つまり、意志をもって「出ない」ようにしているのだろう。

「あ……」

「ん?」

「1回だけ、」

冬杞はあることを思い出した。

「繋がったんだ」

「え?」

「でも、すぐに切れた」

夏休みに入って数日経った頃、だめだと分かっていながらも、冬杞はいつものように菜月羽のスマホに電話を掛けた。空しくコール音が続く。

すると、突然、コール音が途切れた。冬杞の心臓がドクンと脈打った。

『菜月羽!』

思わず叫んだ。しかし、返事はない。その代わりに、

『あ、ヤバい。間違えた』

遠くの方で男性の声がして、その一瞬後には、一方的に通話は切られてしまった。

「多分、弟が間違えて出たんだろうな」

正確なことは分からないが、冬杞はそう予想した。

「弟……」

俯いていた顔を、秋穂はほんの少しだけ浮かして呟いた。

「ナツの弟、何年生だっけ?」

「確か、中2」

すると、急に秋穂が立ち上がった。先程までとは違い、その目には力強さが宿っていた。

「それしかないよ……」

「はい?」

そこからの秋穂は、とても逞しかった。

☆☆☆