菜月羽(なつは)には話していないことがある。

遡ること、入学式の日。

教室に入ると、窓際の1番前の席に、既に彼女は座っていた。皆、グループで話し合ったり、1人でスマホを触っていたりと、思い思いの時間を過ごしている中、彼女は静かに本を読んでた。

冬杞(ふゆき)は、自分の席、窓際の前から2番目の席に向かう為、必然的に彼女に近づくことになった。

すると、彼女がふっと顔を上げた。

冬杞と、菜月羽の、目が合う。

きっと、ほんの数秒のことだった。しかし、冬杞はあの時のことを、今でもよく覚えている。不安と、緊張と、そのずっとずっと奥にある彼女の覚悟を垣間見たような気持ちだった。

――俺はあの時から……。

きっと冬杞は、あの時から菜月羽に惹かれていたのだ。毎日、彼女の背中を見つめ、彼女のことを考えていた。あの頃の、あの気持ちに、名前をつけることは出来ない。

でも、今の気持ちには、名前をつけることが出来る。

――好き。

菜月羽の傍にいて確信した。言い訳はしない。

だからこそ、冬杞は決心していた。

今日、菜月羽と別れる。恋人(仮)(かっこかり)の関係を終える為に。

そして、菜月羽に告白する。きちんとした恋人関係になる為に。

自習室で会う約束はしていないが、最悪、あの時のように多少強引にでも連れていこう。

――ただ、

ひとつ、気になることがある。

昨日の別れ際の菜月羽の言葉。

『冬杞くんに会えてよかった』

あれは、どういう意味だったのだろう。

――言葉通りの意味?

冬杞は、菜月羽に借りたCD「アナザーストーリー」の歌詞を思い浮かべながら考える。

――「君に会えてよかった」か……。

菜月羽が言っていた通り、あの歌は3番まで聴くと、受け取る印象がガラッと変わってくる。そのことについても、菜月羽と話し合ってみたいと冬杞は思う。

――楽しみだな。

ふっと笑みを浮かべながら、冬杞は教室の扉を開けた。

あの日以降、朝の教室に菜月羽は来なくなった。しかし、冬杞は変わらず、いつもの時間に登校している。当然、教室には1番乗りだった。

でも、

「菜月羽……?」

終業式の日、教室には既に1人の生徒がいた。1番前の窓を開けて、外を見ている。その姿は菜月羽に似ていた。

――いや、違う。

そこにいたのは、

「あ、今原(いまはら)くん、おはよう」

秋穂(あきほ)だった。

「……よ」

爽やかな笑みを見せる秋穂に対し、冬杞は素っ気なかった。内心の動揺を悟られないように、いつも以上に態度が冷たくなる。

「早いんだね、今原くん。いつもこの時間なの?」

2人の接点は皆無である。菜月羽が言っていたように、秋穂はオープンな性格なようで、「一匹狼」の冬杞にも物怖じせずに話し掛けてくる。しかし、冬杞は直接、秋穂の会話には応じない。気になることだけを一方的に尋ねる。

「……なんで、いるの?」

「え?」

「この時間、図書室じゃねえの?」

すると、秋穂は「ああ」と大きく頷いた。

「あれ?なんで今原くんが知ってるの?」

だが、冬杞はやはり、秋穂の問いには答えない。秋穂は秋穂で、そのことを気にしている様子はなかった。

「そうなんだよね。昨日までは図書室で勉強してたの。でも、ナツが昨日、『最後の日ぐらい休んでもいいんじゃない?』って言ってくれて。確かに、ナツのおかげで課題も進んだし、『じゃあそうしよう』って思って。そう思ってたのに、いつもの癖でこの時間に来ちゃったんだよね」

「……じゃあ、新井(あらい)さんは?」

冬杞は尋ねた。秋穂は顔の前で手を振る。

「だから、今日は課題しないから、ナツはいないよ」

――いない?

冬杞は頭の中で首を捻った。

秋穂の言っていることは分かる。いつだったか菜月羽が話していた。

『終業式の日まではしなくてもいいんじゃないかな、って思ってるから、前日までかな?』

しかし、そうだとしたら、菜月羽は朝の教室にいるのではないか?冬杞は直感的に思った。

「え?何?どうしたの?ナツと今原くんって、仲良かったっけ?」

秋穂はまだ1人で話していたが、冬杞の耳には、もう何も入ってこない。

――なんで、いないんだ?

そう思った瞬間、冬杞はハッとして、勢いよく教室を飛び出した。秋穂の声を背中で聞きながら。

冬杞が向かったのは自習室Aだった。勢いよく扉を開ける。

「いない……」

教室にいないのなら、もしかしたらここに来ているのではないかと思ったのだが。

冬杞は急速に勢いを削がれ、引き寄せられるように、いつもの自分の席に座った。なぜか、胸がモヤモヤする。

でも。

――本当に来てないのか?

考えていても分からない。事実は、今ここに菜月羽がいない、ということだけだ。

――ま、そんな日もあるか……。

冬杞は思った。

このまま教室に戻れば、きっと、少し混乱している秋穂がいるだけだろう。

彼はポケットからスマホを取り出し、昨日の夜に取り込んだ「アナザーストーリー」を再生した。イヤホンはないので、スマホのスピーカーから直接流す。ここなら、誰にもばれないだろう。

ショートバージョンを2~3度再生する。この声を聴くのは、昨日の夜に続き2回目だ。

――やっぱり菜月羽だよなあ……。

もちろん、アーティストの歌声もいい。しかし、冬杞にとっての「アナザーストーリー」の歌声は、やはり菜月羽なのだ。

更に2度再生し、たっぷり時間を空けて、冬杞は教室に戻った。

1学期最終日、夏期講習や部活があるにしても、明日から約1ヵ月半の休日である。皆、どことなくソワソワしている。

秋穂は既に他のクラスメイトと喋っており、冬杞は真顔のまま、ふうと息を吐いた。

だが、ほっとしたのは、一瞬だけだった。

何気ない風を装って辺りを見回した時のことだ。胸が、いや、全身が、奇妙にドクンと脈打った。

心臓が止まるかと思った。

ザワザワとした教室のざわめきが、どんどん遠ざかっていく。

皆、この違和感に気付いていないのだろうか?こんなにもはっきりとした違和感に。

遮断された耳にチャイムの音がするりと入り込んできた。それを合図に、クラスメイトは自分の席に座り、少しずつ違和感に気付きはじめる。秋穂にいたっては立ち上がり、1点を指差している。窓際の、誰も座っていない席である。

冬杞の視線も、先程からずっとそちらに向けられている。

数秒後、涌井(わくい)先生が教室に入ってきた。菜月羽と冬杞の共犯者になってくれた、優しい先生だ。いつも、にこにこ笑っている。だが、今は違う。明らかに浮かない顔をしている。

秋穂が先生に向かって何か言っている。そして、塞がれていた冬杞の耳に、ようやく音が戻ってきた。

「新井さんは転校することになりました。昨日が最後の登校でした」



放課後、自習室には机の脚を蹴るコンコンという音が、いつまでも鳴り響いていた。

☆☆☆