「じゃあ今日は3時半までか」
「うん」
7月17日水曜日、三者懇談2日目。
2人は相変わらず自習室にいる。
「菜月羽と浦口さん、やっぱり仲良いんだな」
3時半というのは菜月羽の懇談の時間ではない。もちろん冬杞でもない。
「うん」
秋穂の懇談が終わる時間なのである。
「でも、お母さんと何を話せばいいんだろ?」
菜月羽は困ったように笑う。
「確かにな」
冬杞も同意する。
昨日の朝のこと。突然秋穂が言ったのだ。
「明日、私のお母さんに会ってあげて」
と。
「秋穂ちゃん、家でもよく学校のことを話すみたいなんだけど、その時によく私の名前が出てくるから、1回会ってみたい、って」
その為、秋穂たちの懇談が終わる目安の3時半に教室前で待ち合わせることになったのだ。嫌ではないけれど、戸惑っているのが今の心境である。
「2人が仲良いのはなんで?同じ中学じゃないよな?」
「うん、高校で初めて会った」
菜月羽は数ヵ月前に記憶を遡らせる。その表情は、懐かしんでいるようにも、どこか寂しがっているようにも見える。
「私ね、基本的には人見知りだから、自分から声を掛けるとか、あんまり得意じゃなくて」
冬杞はゆっくりと頷いた。人見知りという点は、冬杞にも通ずるところがある。
「うん」
「入学して最初の頃は、ずっと本ばっかり読んでた」
「ああ……」
昨日、本の話をしていた時に、冬杞が思い出しかけていたことだった。今ではあまり見なくなったが、確かに菜月羽は入学当初、自分の席でよく本を読んでいた。
出席番号1番、新井菜月羽。
出席番号2番、今原冬杞。
席順でいえば前と後ろ。冬杞も1人でいることが多く、その前に座る菜月羽の背中をよく覚えている。
「でも、別に、私はそれが嫌じゃなかった。本を読むことは好きだし、1人でいることも嫌いじゃない」
その気持ちは冬杞もよく分かる。
「それに、そんなに積極的にクラスの子と仲良くなりたいとも思ってなかった。夏休みがはじまるまでに、普通に話が出来るぐらいになってたらいいな、ぐらいの気持ち」
「へー、そうなんだ」
意外だった。今の菜月羽は、クラスによく溶け込んでいるように見える。未だに1人を貫く冬杞とは、対角のところにいる。入学当初はそんなにも消極的だったのか、と冬杞は驚いた。
「でも、それを変えてくれた人が2人いて。その内の1人が秋穂ちゃん」
菜月羽はにこりと笑った。
「変えた?」
「入学してからしばらくの間って、男女別で行動することが多いでしょ?」
その最たるものが健康診断である。何日間かに分けて行われる測定と診断は、男女別に実施される。
浦口秋穂。
出席番号3番。
菜月羽と冬杞と同じクラス。
菜月羽の1番の友だち、といっても過言ではない存在だ。
彼女は、比較的オープンな性格で、誰とでもすぐに仲良くなれる。当然、菜月羽にも声を掛けてくれた。オープンといっても、他人のテリトリーにズカズカと入り込んでくる訳ではなく、上手く人との距離をとっていく。
しかし、菜月羽は、どこかで今だけだと思っていた。最初は近くにいることが多いけれど、それも今だけ。この時期が過ぎれば、秋穂はもっと広い世界にはばたいていく。そう思っていた。
「でも、違った」
秋穂は、普段の休み時間にもよく声を掛けてくれた。性格が違う2人だが、互いに居心地のよさを感じたのかもしれない。詳しい理由は尋ねたことがないので分からない。
しかし、秋穂が社交的であることも事実である。彼女は他のクラスメイトとの交流も絶えなかった。そして、その後ろにちょこんとついている菜月羽も、自然と声を掛けてもらえるようになった。今では、秋穂がいなくても、他のクラスメイトと交流できるようになっている。
「秋穂ちゃんと仲良くなってからは、教室で本を読むことが少なくなった。まあ、本を読んでても、秋穂ちゃんがいると一緒に喋っちゃうからっていうのが、本当のところなんだけどね」
あははっ、と菜月羽は愉快そうに笑った。
「それから私は、考え方が変わったの。夏休みまでに、出来る限り思い切り楽しもう、って。そこそこでいいや、じゃなくて、自分から楽しいことをしていこう、って。秋穂ちゃんが仲良くしてくれたから、私は変わった」
「うん」
「でも、朝の時間は、1人で過ごしたいと思った。だから、朝のことは秋穂ちゃんに話したことはないんだよね」
朝のことというのは、例のルーティンのことだ。
「けど結局、その朝の時間も浦口さんと過ごすことになったんだな」
冬杞は言った。
「確かにそうだね」
菜月羽は今気付いた、という風に、少し驚いた表情をしてみせた。
「で、課題はちゃんと進んでるの?」
「うん、進んでる」
夏休み前に既に発表されている課題は、着実に量を減らしている。
「秋穂ちゃん、自分では頭が悪いって言ってるけど、そんなことないんだよね」
菜月羽は頬杖をつきながら話す。
「秋穂ちゃん、記憶力はすごくいいの。だから、単発の、例えば、一問一答の問題はすらすら解けて」
「うん」
「でも、なんて言うんだろ?応用力?組立力?みたいなところが弱くて」
無意識かもしれないが、菜月羽は左頬を膨らませている。
「公式は分かるけど、どこでその公式を使えばいいか分からない、みたいな」
「そう!そんな感じ!」
菜月羽はうんうんと頷いた。
「だから夏休みの課題は、秋穂ちゃん向きなの」
「なんで?」
「だって、単元ごとに分かれてるから」
「ああ……」
「範囲が狭かったり、細かく分かれたりしていると、使う知識の引き出しも少なくて済むから、時間が掛からない。それ以外も、秋穂ちゃんは時間さえあれば、絶対に正解に辿り着ける」
菜月羽は自信満々に断言する。一方の冬杞は感心しっ放しである。
「すげー分析力」
「一緒にいる時間が多いからね」
「俺も課題、みてもらおうかな」
ははっ、と菜月羽は笑う。
「あ、そうだ。もう1人は?」
「ん?」
「2人いるって言っただろ?菜月羽を変えてくれた人」
『でも、それを変えてくれた人が2人いて』
確かにそう言っていた。
「んー、あと1人はね――」
菜月羽は悪戯な笑みを浮かべた。
「秘密」
冬杞はガクッと崩れ落ちる心地だった。
「何だよ、それ」
ふふっと息を漏らす菜月羽だが、やはり言う気はないようだ。気になるといえば大いに気になるが、無理強いはしない。
――ま、いつか教えてくれるだろうな。
「いつか」を期待している自分に若干呆れつつも、この話は終了した。
「もうすぐ時間だな」
「本当だ」
菜月羽は身支度をはじめた。陽気に鼻歌を歌っている。もちろんあの歌だ。
全ての荷物をまとめた菜月羽は、
「あ!そうだ!」
思い出したように冬杞を見た。
「何?」
冬杞は菜月羽を見上げた。彼女は既に席を立っている。
「この恋人(仮)、明日までにしよ」
「……は?」
思いがけない言葉だった。
「私が最初に言ってたのは、学校がある日の7日間だった。でも一昨日、私の休みに付き合ってもらったから、その日も1日ってカウントして、代わりに終業式の日は省こうと思って。だから明日まで」
――いやいやいやいや、
「一昨日のことは別にいいよ。だから――」
しかし、菜月羽は勢いよく首を振った。
「それはだめだよ。約束は約束だから」
彼女の目は真剣だった。
「それにあの日以降、冬杞くん、本当にずっと私と一緒にいてくれたでしょ?最後の日ぐらい、自分の為に時間を使った方がいいよ」
「いや、だから……」
――そんなこと、気にしなくていいのに。
とは言えなかった。
菜月羽のことだ。菜月羽なりに考えた末なのだろうということは察しがつく。冬杞の本音は、と思わなくもなかったが、冬杞にとって、自分の気持ちより菜月羽の気持ちだ。昨日の会話が思い出される。
「……分かった」
冬杞は渋々という感情を隠さないまま答えた。菜月羽も、その感情に気付かない訳ではなかったが、冬杞の気遣いだと思い、
「……ありがとう」
素直に甘えた。
「あ、でも、明日いっぱいまでは恋人(仮)のままだから、今日はまだ『今までありがとう』は言わないからね」
空気を和ませようと、菜月羽は冗談っぽく言ってみた。
「いいよ。俺も、言うつもりないから」
冬杞も返す。
「じゃあね、ばいばい」
「ああ」
菜月羽は自習室を出た。1人になった自習室は、夏の熱気を思い出したように、急に冬杞の体温を上げた。
☆☆☆
「うん」
7月17日水曜日、三者懇談2日目。
2人は相変わらず自習室にいる。
「菜月羽と浦口さん、やっぱり仲良いんだな」
3時半というのは菜月羽の懇談の時間ではない。もちろん冬杞でもない。
「うん」
秋穂の懇談が終わる時間なのである。
「でも、お母さんと何を話せばいいんだろ?」
菜月羽は困ったように笑う。
「確かにな」
冬杞も同意する。
昨日の朝のこと。突然秋穂が言ったのだ。
「明日、私のお母さんに会ってあげて」
と。
「秋穂ちゃん、家でもよく学校のことを話すみたいなんだけど、その時によく私の名前が出てくるから、1回会ってみたい、って」
その為、秋穂たちの懇談が終わる目安の3時半に教室前で待ち合わせることになったのだ。嫌ではないけれど、戸惑っているのが今の心境である。
「2人が仲良いのはなんで?同じ中学じゃないよな?」
「うん、高校で初めて会った」
菜月羽は数ヵ月前に記憶を遡らせる。その表情は、懐かしんでいるようにも、どこか寂しがっているようにも見える。
「私ね、基本的には人見知りだから、自分から声を掛けるとか、あんまり得意じゃなくて」
冬杞はゆっくりと頷いた。人見知りという点は、冬杞にも通ずるところがある。
「うん」
「入学して最初の頃は、ずっと本ばっかり読んでた」
「ああ……」
昨日、本の話をしていた時に、冬杞が思い出しかけていたことだった。今ではあまり見なくなったが、確かに菜月羽は入学当初、自分の席でよく本を読んでいた。
出席番号1番、新井菜月羽。
出席番号2番、今原冬杞。
席順でいえば前と後ろ。冬杞も1人でいることが多く、その前に座る菜月羽の背中をよく覚えている。
「でも、別に、私はそれが嫌じゃなかった。本を読むことは好きだし、1人でいることも嫌いじゃない」
その気持ちは冬杞もよく分かる。
「それに、そんなに積極的にクラスの子と仲良くなりたいとも思ってなかった。夏休みがはじまるまでに、普通に話が出来るぐらいになってたらいいな、ぐらいの気持ち」
「へー、そうなんだ」
意外だった。今の菜月羽は、クラスによく溶け込んでいるように見える。未だに1人を貫く冬杞とは、対角のところにいる。入学当初はそんなにも消極的だったのか、と冬杞は驚いた。
「でも、それを変えてくれた人が2人いて。その内の1人が秋穂ちゃん」
菜月羽はにこりと笑った。
「変えた?」
「入学してからしばらくの間って、男女別で行動することが多いでしょ?」
その最たるものが健康診断である。何日間かに分けて行われる測定と診断は、男女別に実施される。
浦口秋穂。
出席番号3番。
菜月羽と冬杞と同じクラス。
菜月羽の1番の友だち、といっても過言ではない存在だ。
彼女は、比較的オープンな性格で、誰とでもすぐに仲良くなれる。当然、菜月羽にも声を掛けてくれた。オープンといっても、他人のテリトリーにズカズカと入り込んでくる訳ではなく、上手く人との距離をとっていく。
しかし、菜月羽は、どこかで今だけだと思っていた。最初は近くにいることが多いけれど、それも今だけ。この時期が過ぎれば、秋穂はもっと広い世界にはばたいていく。そう思っていた。
「でも、違った」
秋穂は、普段の休み時間にもよく声を掛けてくれた。性格が違う2人だが、互いに居心地のよさを感じたのかもしれない。詳しい理由は尋ねたことがないので分からない。
しかし、秋穂が社交的であることも事実である。彼女は他のクラスメイトとの交流も絶えなかった。そして、その後ろにちょこんとついている菜月羽も、自然と声を掛けてもらえるようになった。今では、秋穂がいなくても、他のクラスメイトと交流できるようになっている。
「秋穂ちゃんと仲良くなってからは、教室で本を読むことが少なくなった。まあ、本を読んでても、秋穂ちゃんがいると一緒に喋っちゃうからっていうのが、本当のところなんだけどね」
あははっ、と菜月羽は愉快そうに笑った。
「それから私は、考え方が変わったの。夏休みまでに、出来る限り思い切り楽しもう、って。そこそこでいいや、じゃなくて、自分から楽しいことをしていこう、って。秋穂ちゃんが仲良くしてくれたから、私は変わった」
「うん」
「でも、朝の時間は、1人で過ごしたいと思った。だから、朝のことは秋穂ちゃんに話したことはないんだよね」
朝のことというのは、例のルーティンのことだ。
「けど結局、その朝の時間も浦口さんと過ごすことになったんだな」
冬杞は言った。
「確かにそうだね」
菜月羽は今気付いた、という風に、少し驚いた表情をしてみせた。
「で、課題はちゃんと進んでるの?」
「うん、進んでる」
夏休み前に既に発表されている課題は、着実に量を減らしている。
「秋穂ちゃん、自分では頭が悪いって言ってるけど、そんなことないんだよね」
菜月羽は頬杖をつきながら話す。
「秋穂ちゃん、記憶力はすごくいいの。だから、単発の、例えば、一問一答の問題はすらすら解けて」
「うん」
「でも、なんて言うんだろ?応用力?組立力?みたいなところが弱くて」
無意識かもしれないが、菜月羽は左頬を膨らませている。
「公式は分かるけど、どこでその公式を使えばいいか分からない、みたいな」
「そう!そんな感じ!」
菜月羽はうんうんと頷いた。
「だから夏休みの課題は、秋穂ちゃん向きなの」
「なんで?」
「だって、単元ごとに分かれてるから」
「ああ……」
「範囲が狭かったり、細かく分かれたりしていると、使う知識の引き出しも少なくて済むから、時間が掛からない。それ以外も、秋穂ちゃんは時間さえあれば、絶対に正解に辿り着ける」
菜月羽は自信満々に断言する。一方の冬杞は感心しっ放しである。
「すげー分析力」
「一緒にいる時間が多いからね」
「俺も課題、みてもらおうかな」
ははっ、と菜月羽は笑う。
「あ、そうだ。もう1人は?」
「ん?」
「2人いるって言っただろ?菜月羽を変えてくれた人」
『でも、それを変えてくれた人が2人いて』
確かにそう言っていた。
「んー、あと1人はね――」
菜月羽は悪戯な笑みを浮かべた。
「秘密」
冬杞はガクッと崩れ落ちる心地だった。
「何だよ、それ」
ふふっと息を漏らす菜月羽だが、やはり言う気はないようだ。気になるといえば大いに気になるが、無理強いはしない。
――ま、いつか教えてくれるだろうな。
「いつか」を期待している自分に若干呆れつつも、この話は終了した。
「もうすぐ時間だな」
「本当だ」
菜月羽は身支度をはじめた。陽気に鼻歌を歌っている。もちろんあの歌だ。
全ての荷物をまとめた菜月羽は、
「あ!そうだ!」
思い出したように冬杞を見た。
「何?」
冬杞は菜月羽を見上げた。彼女は既に席を立っている。
「この恋人(仮)、明日までにしよ」
「……は?」
思いがけない言葉だった。
「私が最初に言ってたのは、学校がある日の7日間だった。でも一昨日、私の休みに付き合ってもらったから、その日も1日ってカウントして、代わりに終業式の日は省こうと思って。だから明日まで」
――いやいやいやいや、
「一昨日のことは別にいいよ。だから――」
しかし、菜月羽は勢いよく首を振った。
「それはだめだよ。約束は約束だから」
彼女の目は真剣だった。
「それにあの日以降、冬杞くん、本当にずっと私と一緒にいてくれたでしょ?最後の日ぐらい、自分の為に時間を使った方がいいよ」
「いや、だから……」
――そんなこと、気にしなくていいのに。
とは言えなかった。
菜月羽のことだ。菜月羽なりに考えた末なのだろうということは察しがつく。冬杞の本音は、と思わなくもなかったが、冬杞にとって、自分の気持ちより菜月羽の気持ちだ。昨日の会話が思い出される。
「……分かった」
冬杞は渋々という感情を隠さないまま答えた。菜月羽も、その感情に気付かない訳ではなかったが、冬杞の気遣いだと思い、
「……ありがとう」
素直に甘えた。
「あ、でも、明日いっぱいまでは恋人(仮)のままだから、今日はまだ『今までありがとう』は言わないからね」
空気を和ませようと、菜月羽は冗談っぽく言ってみた。
「いいよ。俺も、言うつもりないから」
冬杞も返す。
「じゃあね、ばいばい」
「ああ」
菜月羽は自習室を出た。1人になった自習室は、夏の熱気を思い出したように、急に冬杞の体温を上げた。
☆☆☆