「はあ……」
冬杞は、何度目かのため息をついた。もう何度、時計を見たことだろう。
すると、机の上に置いてあったスマホの画面がパッと明るくなった。冬杞は即座に飛びつく。
『もしもし』
『あ、もしもし、冬杞くん?』
『ああ』
菜月羽の声がした。少し抑えめの声だ。
『今から行くね』
『ん、分かった』
『はーい』
何とも簡単な電話だ。それでも、冬杞の気持ちはだいぶ落ち着いた。
しばらくすると、菜月羽は自習室にやって来た。
「冬杞くん!」
笑顔のまま、いつもの席に座る。
「ごめん、遅くなった」
「いや、大丈夫」
冬杞は首を振った。
7月16日火曜日からの3日間、L高では三者懇談が行われる。その為、生徒たちは3限で授業を終えると、早々に教室を追い出される。
当然、自習室には何の影響もない。昨日2人は、いつものようにここで会う約束をしていた。
「何かあったの?」
冬杞はさりげなく尋ねた。単純に気になったのだ。これぐらいの時間なら集まれるだろう、と言っていた時間よりも、15分程遅れて菜月羽がやって来たから。
もともと、菜月羽は、3限の授業後、秋穂を含めた数名のクラスメイトと一緒に、学校近くの飲食店でランチをする約束をしていた。もちろん、そのことは冬杞にも伝えてある。
菜月羽以外のクラスメイトは部活がある為、それに間に合うように解散し、菜月羽だけは自習室に向かう予定だった。ちなみに、冬杞は自習室で1人の昼食を済ませた。
「ううん、話が終わらなかっただけ」
思っていたよりも会話が盛り上がり、想定の時間を過ぎてしまったのだ。
「ごめんね、途中で電話できたらよかったんだけど」
「いや、別にいいよ」
あの電話は店を出た時に、こっそり掛けたものらしい。
クラスメイトと別れてから、菜月羽は急いでここにやって来た。少し汗が流れているが、例のごとく、自習室に涼しさは求められない。窓からの申し訳程度の風だけが頼みの綱だ。
「でも、」
菜月羽がタオルで汗を拭っていると、冬杞がポツリと言った。
「ん?」
「菜月羽のお母さんの気持ち、分かった気がする」
「え?」
彼女は首を傾げた。
「前に言ってただろ、弟とお母さんのこと」
「うん」
もちろん、菜月羽もよく覚えている。
「その話を聞いた時、正直、ちょっとうざいな、って思った」
『私たちのお母さんはね、出来るだけ子どもの行動を把握してたい、って思う人で』
『弟にとって、そういうのが鬱陶しくなることもあるみたい』
自分の家族とは違う、少し窮屈そうな家族だと冬杞は思った。そして菜月羽も、そう思って話したのだ。冬杞の「うざい」という言葉に、特に嫌な気持ちになることはなかった。
「でも、待つ側っていうか、こっち側になると、仕方ないな、って」
待つ側、こっち側というのは、つまり、母親側ということだろうと菜月羽は察した。
「待たせてる側にとって、遅れてしまった10分とか15分には何かしらの理由がある訳で、そんなに長くは感じない。
でも、待ってる側は違う。理由が分かってるならいいけど、理由も分からないまま、連絡もないまま、本当にただ待ってるだけなのは、長いし心配になる。しかもそれが、家族みたいな大切な人だったら、余計に心配になって、何回も何回も口出ししたくなる。
……俺もそんな気分」
最後の言葉だけは、ゴニョゴニョと早口になってしまった。
「……冬杞くん」
菜月羽はそんな冬杞のことをじっと見つめた。
確かに、今の菜月羽は「待たせる側」になっていた。弟と母親のことも、弟の視点から考えていることがほとんどだった。
――待つ側、かあ。
もし、冬杞が約束した時間に自習室に現れなかったら?
もし、何も連絡がなく、ただ待っていることしか出来なかったら?
きっと心配になる。それも、すごく。
「冬杞くんの言う通りだね」
――大切な人なら、余計に。
夏の熱気とは違う温かさが2人の胸に広がる。
「弟にも言っておくね、たまにはお母さんのことも考えてあげて、って」
「ああ、そうして」
そして菜月羽は、学生鞄から文庫本を取り出した。カバーがされていて、何の本かは分からない。
「あのさ、」
「ん?」
「前から思ってたんだけどさ、」
「うん」
冬杞は、菜月羽が机の上に置いた本を見ながら言った。
「なんでこの本、いっつも机の上に出すの?今まで1回も読んでないだろ?」
2人がこの自習室で会うようになって以降、菜月羽はいつも、机の上にこの本を置いていた。しかし、1度も読んでいる姿を見たことはない。菜月羽は「何だ、そんなこと」とでも言い出しそうな、楽しそうな表情をしている。
「もしもの為の準備だよ」
「準備?」
「うん」
「何の?」
「もしも誰かが、何かの間違いで、この教室に入ってきた時、何もなかったら誤魔化しようがないでしょ?」
「まあ……」
「だから、一応、本だけでも置いておこうかな、って」
冬杞は眉間に皺を寄せた。
「なんて言うつもりなんだよ?」
菜月羽は少し瞳を上に動かして、
「んー、静かな場所で本が読みたくて、とか」
すると、冬杞は呆れたように笑った。
「それで誤魔化せるかな?」
菜月羽も同じように笑う。
「まあまあ。お守りみたいなものだと思って」
「ああ」
確かにお守りぐらいにはなるかもしれない。
「その本は菜月羽の?」
「うん」
菜月羽は表紙を捲った。
「私のお気に入りの本。見たことある?」
冬杞は少し顔を近付けた。
「見たことないかな」
「そっか」
「本、好きなの?」
「うん」
彼は何かを思い出そうとしていた。しかし、その前に、
「この本、ラブストーリーなんだけどね」
菜月羽が話しはじめた。冬杞は途中で考えることをやめる。
「ああ」
「あ!」
「何?」
「ネタバレになるけど、いい?」
冬杞は考えた。
「いいよ。多分、俺、読まないと思うし」
その言葉に菜月羽は安心する。
「この本、主人公の男の子と、幼馴染みの女の子のラブストーリーで――」
そこまで話して、菜月羽は少し言葉を止めた。
「分かりやすく言うと、」
そのまま主人公の名前を出しても分かりづらいと思った菜月羽は思考を変えることにする。
「私と葉山くんが幼馴染みだとする」
「は?」
冬杞は思わず声を上げた。
「葉山?」
「うん、葉山くん」
菜月羽の言う「葉山くん」とは、2人と同じクラスの葉山紅也のことである。
「で、私は小さい頃から葉山くんのことが好きなの。でも、葉山くんは私のこと、そういう風に見てくれたことは1度もない」
冬杞の訝しい表情には気付かないふりをして菜月羽は話を進める。
「そんな時、葉山くんには私じゃない好きな人が出来る。葉山くんは私の気持ちなんて知らないまま、私に恋愛相談してくる。私は迷いながらも、結局は、葉山くんの恋が上手くいくように、いろいろと協力することになる。……そんな場面があるの」
「あるの、って――」
――なんで、
「なんで、葉山?」
話の内容よりも、そちらの方が気になってしまった。
「え?だって、分かりやすいかな、って」
菜月羽は悪びれる様子もなく言う。
彼女の言いたいことはよく分かる。
葉山紅也。
出席番号28番。
菜月羽と冬杞と同じクラス。
紅也と2人は特別仲が良いという訳ではない。が、仲が良いかどうかに関わらず、皆が知っていることがある。
それは、紅也に好きな人がいるということ。
そして、その好きな人の名前が「ハルチャン」であること。
彼は隠すこともせず、恥ずかしがることもせず、誰の前でも公言している。その為、クラスメイトは「ハルチャン」の魅力を聞き尽くしている。
しかし、「ハルチャン」の実体を知る者はいない。「ハル」というワードが含まれているクラスメイトはいないので、他のクラスの人ではないかという憶測もあるが、それも不明である。もしかしたら、他の学年かもしれない。そもそも入学当初から「ハルチャン」と言っていたところから考えると、中学生時代には知り合っていたことになる。となると、他の学校の人かもしれない。なかには、「ハルチャン」は2次元の存在なのではないか、という噂があったりなかったり。
そんな紅也の背景を考えると、菜月話の話は確かに分かりやすい。菜月羽は紅也のことが好きで、でも紅也は「ハルチャン」にぞっこんで、どうすれば両想いになれるかを相談される。菜月羽は自分の気持ちを隠して、その恋を応援する。
――分かる。分かるけどさ……。なんで菜月羽の好きな人が葉山なんだよ?
例えば、の話だとは分かっていても、心は穏やかではない。その理由は、冬杞自身がよく分かっている。今更、「その理由は分からない」とは言わない。
もう、冬杞は気付いている。
とっくに、冬杞は認めている。
しかし、菜月羽には言わない。
一方の菜月羽は、紅也の名前を口にしたことを、ただ「分かりやすい」からだと告げる。それ以上でもそれ以下でもなさそうだ。冬杞はそう思うことで、自分の感情を静める。右足で机の脚をコンコンと小突く。
「で?」
冬杞は話の先を促した。
「私、ずっと考えてた。もし自分が幼馴染みの子の立場になったら、どうするんだろう、って」
「うん」
「好きな人の恋を応援するってことは、つまり、自分の恋はどんどん実らなくなる、ってことでしょ?応援している間は近くにいられるかもしれないけど、最後に待っているのは光じゃない」
この本自体は、素敵なハッピーエンドを迎えるようになっており、菜月羽が話しているのは、あくまでもエピソードのひとつである。しかし、菜月羽にとっては何度読んでも考えさせられる、印象的な一幕だ。
「私だったらどうするかな、って。好きな人の恋って、自分にとってはどうなんだろう、って想像して。
本の中では、辛いって思いながらも応援していて、すごいな、って思った。私だったら――、出来ないかもな、って」
好きな人の恋と自分の恋。冬杞は想像する。
「その幼馴染みの子は、告白するっていう選択肢はなかったの?」
ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「その子にはなかった。しかも、その子は、好きな人の恋が上手くいきそうになると、そっと身を引いちゃうの」
「ふーん」
「私もね、いっそのこと告白しちゃえばいいのに、って思ったこともあるんだよ。でもね、」
「ん?」
「最近、その子の気持ちが分かるようになってきて」
ただただ「辛い」とか「悲しい」とか、そんな風に思うだけではなく、心の奥底で考えてみることが最近多くなってきたのだ。
「だって葉山くんには、『ハルチャン』っていう明確に好きな人がいるんだよ?ほんの数パーセントの可能性はあるかもしれないけど、基本的には、ただの迷惑。そんな迷惑、好きな人だからこそ掛けたくない」
菜月羽は、ほんの少しだけ本の世界へと入り込んでいく。
「好きな人の恋、自分の恋っていう比較だと、あんまり実感は湧かないかもしれないけど、恋を幸せとかに置き換えてみたら、私にも分かりやすかった」
冬杞も同じように置き換えてみる。
――好きな人の幸せ、自分の幸せ。
「好きな人が幸せになってくれるなら、自分の幸せなんて後回しでいい。だって、自分のことは、自分の辛さは、自分が外に発信しなかったら誰にもばれない。もし、自分が姿を消すことが好きな人の幸せに繋がるなら、そっといなくなる。それも、自分が我慢するだけでいいんだよ?自分の幸せを優先して、好きな人を困らせたり、傷付けてしまうなら、そんな幸せはいらない」
菜月羽の表情は真剣だった。
「そういう風に、最近考えるようになったの」
「へえ」
冬杞はそんな話をしっかりと受け止めてくれる。
「きっと、恋でも同じ」
彼女の目は、どこか遠くを見ているような、少し寂しげなものだった。
「菜月羽は優しいんだろうな」
彼はゆっくりと言葉を紡いだ。菜月羽も、ゆっくりとこちらの世界に戻ってくる。
「優しい、のかな?」
菜月羽は小さく首を傾げた。
「本を読んでてもそうは思わないけど、自分に当てはめてみると、結局、自己中なだけなのかな、って感じなくもないけどね」
冬杞は口角を上げる。
「そんなこと考え出したら、きりないんじゃね?」
すると、菜月羽もようやく笑みを浮かべた。
「そうなんだよねえ。なんかかっこいいこと言ってるっぽいけど、1分後には違うこと言ってるかもしれないし。もう頭の中、ぐちゃぐちゃなんだよね」
「あ、でも、」
「ん?」
「『自分が外に発信しなかったら誰にもばれない』っていうのはどうかな?」
「……ん?」
「俺は分かると思う、菜月羽のこと」
「……冬杞くん」
呟くようにこぼした冬杞の言葉が、菜月羽の胸をキュッとさせる。菜月羽は涙が溢れるのを必死で堪えながら、何とか笑顔を作った。
「どうかなあ。私、隠すの上手だと思うよ?」
精一杯の軽口を言ってみる。
「はは!何だよ、それ」
その後も菜月羽は、本について語り尽くした。本当に好きなんだな、と分かる程に。冬杞はそんな菜月羽のことを微笑ましく眺める。紅也の件については、もう忘れていた。
ようやく、本の話が一区切りついたところで、菜月羽は時計を見た。
「そういえば、冬杞くん、何時からだっけ?」
今日は冬杞の三者懇談日である。
「3時」
「3時?私、喋りすぎちゃったね」
「全然」
冬杞は首を振った。
「じゃあ、」
菜月羽は音楽プレーヤーを出した。
「聴く?」
小さく首を傾げて、冬杞に尋ねた。
「うん」
冬杞は頷く。
いつもは先に菜月羽が歌っていたが、今日はそれが出来なかった。
冬杞の前では、もう幾度となく歌っている。今思えば、初めの頃は、やはり少し緊張していた。しかし、今となっては、多少音程を外しても、多少歌詞を間違えても、気にならなくなった。
そして冬杞も、それを含めての菜月羽の歌を楽しんでいる。
「じゃあ、行ってくる」
今日は、このタイミングで解散である。
「うん、いってらっしゃい」
菜月羽は手を振って、冬杞を送り出す。冬杞は笑みを浮かべたまま自習室を出た。そして扉を閉めた瞬間、表情は一匹狼に変化する。しかし、頭の中には、菜月羽の優しい歌声が流れ続けていた。
☆☆☆
冬杞は、何度目かのため息をついた。もう何度、時計を見たことだろう。
すると、机の上に置いてあったスマホの画面がパッと明るくなった。冬杞は即座に飛びつく。
『もしもし』
『あ、もしもし、冬杞くん?』
『ああ』
菜月羽の声がした。少し抑えめの声だ。
『今から行くね』
『ん、分かった』
『はーい』
何とも簡単な電話だ。それでも、冬杞の気持ちはだいぶ落ち着いた。
しばらくすると、菜月羽は自習室にやって来た。
「冬杞くん!」
笑顔のまま、いつもの席に座る。
「ごめん、遅くなった」
「いや、大丈夫」
冬杞は首を振った。
7月16日火曜日からの3日間、L高では三者懇談が行われる。その為、生徒たちは3限で授業を終えると、早々に教室を追い出される。
当然、自習室には何の影響もない。昨日2人は、いつものようにここで会う約束をしていた。
「何かあったの?」
冬杞はさりげなく尋ねた。単純に気になったのだ。これぐらいの時間なら集まれるだろう、と言っていた時間よりも、15分程遅れて菜月羽がやって来たから。
もともと、菜月羽は、3限の授業後、秋穂を含めた数名のクラスメイトと一緒に、学校近くの飲食店でランチをする約束をしていた。もちろん、そのことは冬杞にも伝えてある。
菜月羽以外のクラスメイトは部活がある為、それに間に合うように解散し、菜月羽だけは自習室に向かう予定だった。ちなみに、冬杞は自習室で1人の昼食を済ませた。
「ううん、話が終わらなかっただけ」
思っていたよりも会話が盛り上がり、想定の時間を過ぎてしまったのだ。
「ごめんね、途中で電話できたらよかったんだけど」
「いや、別にいいよ」
あの電話は店を出た時に、こっそり掛けたものらしい。
クラスメイトと別れてから、菜月羽は急いでここにやって来た。少し汗が流れているが、例のごとく、自習室に涼しさは求められない。窓からの申し訳程度の風だけが頼みの綱だ。
「でも、」
菜月羽がタオルで汗を拭っていると、冬杞がポツリと言った。
「ん?」
「菜月羽のお母さんの気持ち、分かった気がする」
「え?」
彼女は首を傾げた。
「前に言ってただろ、弟とお母さんのこと」
「うん」
もちろん、菜月羽もよく覚えている。
「その話を聞いた時、正直、ちょっとうざいな、って思った」
『私たちのお母さんはね、出来るだけ子どもの行動を把握してたい、って思う人で』
『弟にとって、そういうのが鬱陶しくなることもあるみたい』
自分の家族とは違う、少し窮屈そうな家族だと冬杞は思った。そして菜月羽も、そう思って話したのだ。冬杞の「うざい」という言葉に、特に嫌な気持ちになることはなかった。
「でも、待つ側っていうか、こっち側になると、仕方ないな、って」
待つ側、こっち側というのは、つまり、母親側ということだろうと菜月羽は察した。
「待たせてる側にとって、遅れてしまった10分とか15分には何かしらの理由がある訳で、そんなに長くは感じない。
でも、待ってる側は違う。理由が分かってるならいいけど、理由も分からないまま、連絡もないまま、本当にただ待ってるだけなのは、長いし心配になる。しかもそれが、家族みたいな大切な人だったら、余計に心配になって、何回も何回も口出ししたくなる。
……俺もそんな気分」
最後の言葉だけは、ゴニョゴニョと早口になってしまった。
「……冬杞くん」
菜月羽はそんな冬杞のことをじっと見つめた。
確かに、今の菜月羽は「待たせる側」になっていた。弟と母親のことも、弟の視点から考えていることがほとんどだった。
――待つ側、かあ。
もし、冬杞が約束した時間に自習室に現れなかったら?
もし、何も連絡がなく、ただ待っていることしか出来なかったら?
きっと心配になる。それも、すごく。
「冬杞くんの言う通りだね」
――大切な人なら、余計に。
夏の熱気とは違う温かさが2人の胸に広がる。
「弟にも言っておくね、たまにはお母さんのことも考えてあげて、って」
「ああ、そうして」
そして菜月羽は、学生鞄から文庫本を取り出した。カバーがされていて、何の本かは分からない。
「あのさ、」
「ん?」
「前から思ってたんだけどさ、」
「うん」
冬杞は、菜月羽が机の上に置いた本を見ながら言った。
「なんでこの本、いっつも机の上に出すの?今まで1回も読んでないだろ?」
2人がこの自習室で会うようになって以降、菜月羽はいつも、机の上にこの本を置いていた。しかし、1度も読んでいる姿を見たことはない。菜月羽は「何だ、そんなこと」とでも言い出しそうな、楽しそうな表情をしている。
「もしもの為の準備だよ」
「準備?」
「うん」
「何の?」
「もしも誰かが、何かの間違いで、この教室に入ってきた時、何もなかったら誤魔化しようがないでしょ?」
「まあ……」
「だから、一応、本だけでも置いておこうかな、って」
冬杞は眉間に皺を寄せた。
「なんて言うつもりなんだよ?」
菜月羽は少し瞳を上に動かして、
「んー、静かな場所で本が読みたくて、とか」
すると、冬杞は呆れたように笑った。
「それで誤魔化せるかな?」
菜月羽も同じように笑う。
「まあまあ。お守りみたいなものだと思って」
「ああ」
確かにお守りぐらいにはなるかもしれない。
「その本は菜月羽の?」
「うん」
菜月羽は表紙を捲った。
「私のお気に入りの本。見たことある?」
冬杞は少し顔を近付けた。
「見たことないかな」
「そっか」
「本、好きなの?」
「うん」
彼は何かを思い出そうとしていた。しかし、その前に、
「この本、ラブストーリーなんだけどね」
菜月羽が話しはじめた。冬杞は途中で考えることをやめる。
「ああ」
「あ!」
「何?」
「ネタバレになるけど、いい?」
冬杞は考えた。
「いいよ。多分、俺、読まないと思うし」
その言葉に菜月羽は安心する。
「この本、主人公の男の子と、幼馴染みの女の子のラブストーリーで――」
そこまで話して、菜月羽は少し言葉を止めた。
「分かりやすく言うと、」
そのまま主人公の名前を出しても分かりづらいと思った菜月羽は思考を変えることにする。
「私と葉山くんが幼馴染みだとする」
「は?」
冬杞は思わず声を上げた。
「葉山?」
「うん、葉山くん」
菜月羽の言う「葉山くん」とは、2人と同じクラスの葉山紅也のことである。
「で、私は小さい頃から葉山くんのことが好きなの。でも、葉山くんは私のこと、そういう風に見てくれたことは1度もない」
冬杞の訝しい表情には気付かないふりをして菜月羽は話を進める。
「そんな時、葉山くんには私じゃない好きな人が出来る。葉山くんは私の気持ちなんて知らないまま、私に恋愛相談してくる。私は迷いながらも、結局は、葉山くんの恋が上手くいくように、いろいろと協力することになる。……そんな場面があるの」
「あるの、って――」
――なんで、
「なんで、葉山?」
話の内容よりも、そちらの方が気になってしまった。
「え?だって、分かりやすいかな、って」
菜月羽は悪びれる様子もなく言う。
彼女の言いたいことはよく分かる。
葉山紅也。
出席番号28番。
菜月羽と冬杞と同じクラス。
紅也と2人は特別仲が良いという訳ではない。が、仲が良いかどうかに関わらず、皆が知っていることがある。
それは、紅也に好きな人がいるということ。
そして、その好きな人の名前が「ハルチャン」であること。
彼は隠すこともせず、恥ずかしがることもせず、誰の前でも公言している。その為、クラスメイトは「ハルチャン」の魅力を聞き尽くしている。
しかし、「ハルチャン」の実体を知る者はいない。「ハル」というワードが含まれているクラスメイトはいないので、他のクラスの人ではないかという憶測もあるが、それも不明である。もしかしたら、他の学年かもしれない。そもそも入学当初から「ハルチャン」と言っていたところから考えると、中学生時代には知り合っていたことになる。となると、他の学校の人かもしれない。なかには、「ハルチャン」は2次元の存在なのではないか、という噂があったりなかったり。
そんな紅也の背景を考えると、菜月話の話は確かに分かりやすい。菜月羽は紅也のことが好きで、でも紅也は「ハルチャン」にぞっこんで、どうすれば両想いになれるかを相談される。菜月羽は自分の気持ちを隠して、その恋を応援する。
――分かる。分かるけどさ……。なんで菜月羽の好きな人が葉山なんだよ?
例えば、の話だとは分かっていても、心は穏やかではない。その理由は、冬杞自身がよく分かっている。今更、「その理由は分からない」とは言わない。
もう、冬杞は気付いている。
とっくに、冬杞は認めている。
しかし、菜月羽には言わない。
一方の菜月羽は、紅也の名前を口にしたことを、ただ「分かりやすい」からだと告げる。それ以上でもそれ以下でもなさそうだ。冬杞はそう思うことで、自分の感情を静める。右足で机の脚をコンコンと小突く。
「で?」
冬杞は話の先を促した。
「私、ずっと考えてた。もし自分が幼馴染みの子の立場になったら、どうするんだろう、って」
「うん」
「好きな人の恋を応援するってことは、つまり、自分の恋はどんどん実らなくなる、ってことでしょ?応援している間は近くにいられるかもしれないけど、最後に待っているのは光じゃない」
この本自体は、素敵なハッピーエンドを迎えるようになっており、菜月羽が話しているのは、あくまでもエピソードのひとつである。しかし、菜月羽にとっては何度読んでも考えさせられる、印象的な一幕だ。
「私だったらどうするかな、って。好きな人の恋って、自分にとってはどうなんだろう、って想像して。
本の中では、辛いって思いながらも応援していて、すごいな、って思った。私だったら――、出来ないかもな、って」
好きな人の恋と自分の恋。冬杞は想像する。
「その幼馴染みの子は、告白するっていう選択肢はなかったの?」
ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「その子にはなかった。しかも、その子は、好きな人の恋が上手くいきそうになると、そっと身を引いちゃうの」
「ふーん」
「私もね、いっそのこと告白しちゃえばいいのに、って思ったこともあるんだよ。でもね、」
「ん?」
「最近、その子の気持ちが分かるようになってきて」
ただただ「辛い」とか「悲しい」とか、そんな風に思うだけではなく、心の奥底で考えてみることが最近多くなってきたのだ。
「だって葉山くんには、『ハルチャン』っていう明確に好きな人がいるんだよ?ほんの数パーセントの可能性はあるかもしれないけど、基本的には、ただの迷惑。そんな迷惑、好きな人だからこそ掛けたくない」
菜月羽は、ほんの少しだけ本の世界へと入り込んでいく。
「好きな人の恋、自分の恋っていう比較だと、あんまり実感は湧かないかもしれないけど、恋を幸せとかに置き換えてみたら、私にも分かりやすかった」
冬杞も同じように置き換えてみる。
――好きな人の幸せ、自分の幸せ。
「好きな人が幸せになってくれるなら、自分の幸せなんて後回しでいい。だって、自分のことは、自分の辛さは、自分が外に発信しなかったら誰にもばれない。もし、自分が姿を消すことが好きな人の幸せに繋がるなら、そっといなくなる。それも、自分が我慢するだけでいいんだよ?自分の幸せを優先して、好きな人を困らせたり、傷付けてしまうなら、そんな幸せはいらない」
菜月羽の表情は真剣だった。
「そういう風に、最近考えるようになったの」
「へえ」
冬杞はそんな話をしっかりと受け止めてくれる。
「きっと、恋でも同じ」
彼女の目は、どこか遠くを見ているような、少し寂しげなものだった。
「菜月羽は優しいんだろうな」
彼はゆっくりと言葉を紡いだ。菜月羽も、ゆっくりとこちらの世界に戻ってくる。
「優しい、のかな?」
菜月羽は小さく首を傾げた。
「本を読んでてもそうは思わないけど、自分に当てはめてみると、結局、自己中なだけなのかな、って感じなくもないけどね」
冬杞は口角を上げる。
「そんなこと考え出したら、きりないんじゃね?」
すると、菜月羽もようやく笑みを浮かべた。
「そうなんだよねえ。なんかかっこいいこと言ってるっぽいけど、1分後には違うこと言ってるかもしれないし。もう頭の中、ぐちゃぐちゃなんだよね」
「あ、でも、」
「ん?」
「『自分が外に発信しなかったら誰にもばれない』っていうのはどうかな?」
「……ん?」
「俺は分かると思う、菜月羽のこと」
「……冬杞くん」
呟くようにこぼした冬杞の言葉が、菜月羽の胸をキュッとさせる。菜月羽は涙が溢れるのを必死で堪えながら、何とか笑顔を作った。
「どうかなあ。私、隠すの上手だと思うよ?」
精一杯の軽口を言ってみる。
「はは!何だよ、それ」
その後も菜月羽は、本について語り尽くした。本当に好きなんだな、と分かる程に。冬杞はそんな菜月羽のことを微笑ましく眺める。紅也の件については、もう忘れていた。
ようやく、本の話が一区切りついたところで、菜月羽は時計を見た。
「そういえば、冬杞くん、何時からだっけ?」
今日は冬杞の三者懇談日である。
「3時」
「3時?私、喋りすぎちゃったね」
「全然」
冬杞は首を振った。
「じゃあ、」
菜月羽は音楽プレーヤーを出した。
「聴く?」
小さく首を傾げて、冬杞に尋ねた。
「うん」
冬杞は頷く。
いつもは先に菜月羽が歌っていたが、今日はそれが出来なかった。
冬杞の前では、もう幾度となく歌っている。今思えば、初めの頃は、やはり少し緊張していた。しかし、今となっては、多少音程を外しても、多少歌詞を間違えても、気にならなくなった。
そして冬杞も、それを含めての菜月羽の歌を楽しんでいる。
「じゃあ、行ってくる」
今日は、このタイミングで解散である。
「うん、いってらっしゃい」
菜月羽は手を振って、冬杞を送り出す。冬杞は笑みを浮かべたまま自習室を出た。そして扉を閉めた瞬間、表情は一匹狼に変化する。しかし、頭の中には、菜月羽の優しい歌声が流れ続けていた。
☆☆☆