冬杞(ふゆき)くん……」

菜月羽(なつは)は冬杞に1歩近付いた。

「私、行きたいところがある」

「え?」

「時間、ある?」

「あるけど……」

菜月羽は笑顔を浮かべた。

「じゃあ、行こう!」

「え?」

「歩きながら話そ」

本当に菜月羽は歩き出した。

「あ、ちょっと」

冬杞はそのあとを追いかける。

「行くって、どこに?」

「学校」

「学校?」

「うん」

――うん、って……。

平然と答える菜月羽に、冬杞の方が心配になる。

「菜月羽は平気なの?ちゃんと、親に許可もらっ――」

言いかけて、菜月羽が振り返った。

「ちゃんと、許可はもらってる」

そして、再び前を向いて歩きはじめる。

――いや……、なんで許可もらってんだよ……。

疑問に思ったが、口にはしない。冬杞は首を捻りながらも、彼女のあとを追った。

「学校、こんな時間に行っても、意味ねえんじゃねえの?」

電車の件もあり、今の時刻は午後6時半頃である。校舎の利用可能時間は午後7時までで、ここから歩いて行けば、その7時になってしまう。

「大丈夫。それも、許可もらってるから」

――また許可?

冬杞はますます首を捻る。しかし、菜月羽の後ろ姿はどこか楽しげで、問い質す気力が削がれていく。

諦めにも似た感情を抱いた冬杞は、そっと菜月羽の横に並んだ。

「さっきの話だけどね、」

すると、菜月羽の方から口を開いた。

「ん?」

「私、この街に何年か住んでるけど、花火、1回も見たことなくて」

――ああ、花火の話。

そういえば、その話をしているところだった。

「会場にも行ったことないし、他のところからも見たことなくて」

「家から見えないの?」

「うん、音だけ」

花火の打ち上がる光は見える。風向きによっては花火の煙も見える。しかし、肝心の花火は、周囲の建物や木々に遮られ、見ることが出来ない。

お察しの通り、「花火大会に行きたい」と家族に頼んだこともない。そして、弟以外の家族は、そういったイベントに興味はなかった。

「だから、1回ぐらいは見てみたいな、って思ってて」

「そっか」

「で、今から見に行こうかな、って」

「……は?」

冬杞は立ち止まった。菜月羽も立ち止まる。

「金曜日、自習室の窓から外を見た時に、思ったの。『ちょうどここからだったら綺麗にみえるかなあ』って」

そして思い出す。

――そういえば……。

『俺と2人で、行く?』

そう冬杞が声を掛けた時。菜月羽は吸い寄せられるように窓の方へ歩み寄った。

――じゃあ、菜月羽はあの時から?

驚く冬杞を余所に、菜月羽はまた歩き出す。

「いや、でもさ、学校の敷地内には入れたとしても、校舎内は無理だろ?7時で追い出される訳なんだしさ」

当然の疑問を投げかける。

「うん、だから、金曜日に許可はもらった」

「……は?」

そして冬杞はまた思い出した。

『私、職員室に用事があるの、思い出した』

金曜日の別れ際、菜月羽は急にそんなことを言った。

「あの時……」

「善は急げだと思って、先生と交渉してきた」

「マジか……」

菜月羽の大胆さは、付き合いはじめた頃から知っているが、こんなところでも発揮しているとは。

「まあ、『善』かどうかは分かんないけどね」

「それで、先生、いいって?」

その答えは、菜月羽の雰囲気からも察しがつくが、念の為、尋ねてみる。

「条件は6つ」

「うん」

「一つ、生徒・先生、それ以外の全ての人に対して、このことは秘密。

二つ、花火大会は9時までだけど、先生も早く帰りたいから、学校にいていいのは8時半まで。

三つ、使っていいのは自習室Aだけ。

四つ、窓は開けてもいいけど大声は出さない、大きな音を立てない、電気をつけない。

五つ、校内にいていいのは2人だけ。

六つ、――」

そこまで言って、菜月羽は言葉を切った。

「次は?」

無理難題の条件は、今のところ何もない。

「六つ、他の人には言わないこと」

「いや、それって、最初のと一緒だろ?」

「うん」

「うん、って」

「それだけ大切だよ、ってこと」

菜月羽は「大切」という言葉を強調した。確かに、教師の立場からすれば、あまり、というよりは、絶対に周囲にばれてはいけないことだろう。

「よく許してくれたな」

「うん、すっごくお願いしたから」

「すっごくお願いした」ところで許してもらえるのだろうか。冬杞は心の中で首を捻った。しかし、現に許可をもらっているのだから、それが全てなのだろう。

「あとは、」

「ん?」

「冬杞くんが一緒に来てくれるかどうか、なんだけど」

菜月羽はチラッと冬杞を見た。何かを窺うように、そっと。

――そんなこと、

「そんなこと、聞かなくても分かるだろ?」

冬杞の中にNOという答えはない。菜月羽もそれを察した。2人の胸がじんわりと温かくなる。

そして、冬杞はふと思った。

「もしかしてさ、」

「ん?」

上機嫌の菜月羽に向ける疑惑の目。

「最初からそのつもりだった?」

菜月羽の表情が笑顔のまま固まった。口角が上がったままのその表情は、まるで人形のようだ。これは、

――図星だな。

冬杞が菜月羽を誘った時点で、彼女の頭の中にはこの計画が作り上がっていたのだろう。

「ちゃんと、家族に言ってあるんだよな?」

彼はもう確信していた。菜月羽も、もう隠すつもりはない。

「言ってある」

「なんて言ったんだよ?先生には秘密って言われてるんだろ?」

「……学校の敷地内に花火がよく見える場所があるから、そこで見る、って」

「……まあ、嘘じゃないな」

「でしょ?」

菜月羽はどこか自慢げだ。分かりやすく開き直っている。

「でも帰る時間は指定されちゃった。9時に学校に迎えに行く、って」

「ああ……、それで……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

ショッピングモール内で聞いてしまった、母娘の会話。確かに菜月羽は「9時」と言っていた。

――このことか。

「冬杞くんは大丈夫?」

「うん、俺は何時でも」

「私のお母さん、もし冬杞くんが歩いて帰るって知ったら、『送ってく』って言うと思うんだけど、それは――」

「ああ、それは……」

「嫌だよね?」

菜月羽の母親はとにかく心配性で、その対象は我が子に限らない。

「まあ、な」

同級生の親の車、というのは、想像しただけで、何とも気まずい。

「いいよ。俺も家に誰かしらいるだろうし、迎えに来てもらうよ」

「本当!それならお母さんも安心してくれると思う」

見慣れた道を歩く菜月羽の足取りは、行きよりも断然軽い。

L高に近付くにつれ、部活帰りであろうL高生とすれ違う頻度も多くなる。見知った顔がいないかとドキドキしたが、2人共自然と顔を下げるので、特に指を差されることはなかった。

「あのさ、」

ここまで来ると、冬杞の中に、もうひとつ確認したいことが湧いてきた。花火を見るまでにすっきりさせておきたい。

「ん?」

「さっき、向こうで電話してたの、聞こえてた。黙っててごめん」

――電話?

「向こう」とは、ショッピングモールのことだ。何を話していただろう、と菜月羽は頭の中で記憶を捜索する。

「最後の思い出って、どういうこと?」

「え?」

「言ってたよな?」

冬杞は菜月羽を見た。しかし、菜月羽は冬杞を見ない。表情が強張っている。瞳が小刻みに揺れている。

答えは返ってこないかもしれない、冬杞は思った。

「菜月羽」

数秒の沈黙。2人の足音が、やけに大きく耳に届く。

「夏休み前の、」

菜月羽が呟いた。凛とした表情をしている。

「夏休み前の最後の思い出だと思って」

真っ直ぐ前を向く菜月羽。

「今回の花火大会は、夏休み前の、多分最後の大きなイベントでしょ?だから」

――確かにそうかもしれないけど……。

冬杞はまだ菜月羽を見ている。

「それに、来年も再来年も、また花火を見れるか分からないでしょ?花火大会自体がなくなるかもしれないし、自分たちが忙しくて見ることが出来ないかもしれない。他にもいろいろな理由で……」

菜月羽は未来に思いを馳せる。考えすぎだ、と冬杞は言えなかった。そんな雰囲気ではなかった。

「だから、私、どうしても冬杞くんと花火を見たくて。お母さんに今日のことを話す時は、結構必死だった。本当はお母さん、もっと早く帰っておいで、って言ってたんだけど、どうしても花火、見たくて。お母さんに『最後の思い出になるかもしれないから』って説得して、やっと、OKもらった」

向こうに校舎が見えてきた。菜月羽はそれを見つめる。

「あっちにいる時、ずっと気付かなかったけど、お母さんから何回も連絡が入ってて。そのまま気付かないふりをしようかな、って思ったけど、電話して。心配してくれてるのは分かってるけど、あんまり連絡してこないで、って。その時の話が聞こえてたんだね、多分」

――邪魔しないで。

あともう少しで、そんな言葉がこぼれそうになっていたことを菜月羽は思い出した。しかし、それはあまりにも酷な気がして、言葉にはしなかった。そんなことを思ってしまう自分が、たまらなく嫌になる。

一方の冬杞は、彼女の話に、「多分」と同意した。

「最後の思い出って、そういうことだよ」

「そっか」

冬杞にとって、今日という日は特別な1日になるだろう。しかし、それは、菜月羽も同じようだ。いや、おそらく、菜月羽の方が思い入れは強い。人それぞれ、「1日」への思いは違うのだと冬杞は痛感した。

「ありがとう、話してくれて」

菜月羽は首を振った。

「ううん、冬杞くんも話してくれて、ありがとう」

気付けば学校に着いていた。時刻は午後7時頃。グラウンドや駐輪場には、まだちらほらと生徒の姿が見える。今更だが、2人は私服で、そのまま敷地内に入るのは抵抗があった。

「このまま行くの?」

「着いたら電話して、って言われてるから、先に電話してみる」

2人は校門から少し距離を置いたところに移動した。

『……あ、もしもし、先生、新井(あらい)です。……はい、着きました。……あー、まだ、何人か残ってました。……はい。……職員玄関からですか?……はい。……分かりました、頑張ります。……はい』

電話を終えた菜月羽。

「職員玄関から入って、って。みんなに見られないように」

「見られないように、って……」

――無茶なことを。

とは思ったが、行くしかない。

2人は校門から、生徒が使用する正面玄関ではなく、教師や来客が使用する玄関の方へ走った。

「多分、見られてないよな?」

「うん」

職員玄関には、2人の担任・涌井(わくい)先生がいた。

「先生!」

菜月羽が声を掛ける。

「新井さん!声、小さく!」

「……あ、はい」

彼女は小さく頭を下げた。

「あれ?」

菜月羽の肩越しに、涌井先生と冬杞の目が合った。冬杞は軽く頭を下げる。

「新井さん、もう1人って今原(いまはら)くんのことだったの?」

「はい」「え?」

菜月羽が景気よく頷くのと、冬杞が素っ頓狂な声を出すのと、ほぼ同時だった。冬杞は思わず、菜月羽の肩に手を置いた。

「菜月羽、先生に俺のこと言ってないの?」

ヒソヒソ声で尋ねる。

「うん、名前は言ってない」

「なんで?」

「だって、説明しにくいから」

2人の関係はクラスメイトであり、恋人(仮)(かっこかり)である。確かに、他のクラスメイトよりも説明は格段に難しい。案の定、涌井先生も驚いているようで目を丸くしている。明らかに、好奇心剥き出しである。

「え?新井さん、もう1人って、今原くん?」

「はい」

「え?2人って、どういう――」

「先生!」

菜月羽が涌井先生の話を遮る。

「花火、もうすぐはじまっちゃいます」

「あ、そうなの?じゃあ、靴、脱いで。スリッパはこれね」

「靴はどうしたらいいですか?」

「とりあえず来客用のところに入れておいて」

「はい」

2人は言われた通り、靴を脱ぎ、緑色の来客用スリッパを履いた。

「じゃあ、先生!帰る時は、また電話します」

「はいはい、自習室の鍵は開いてるから」

――知ってる。

2人は心の中で呟いた。視線を重ね、にこりと微笑む。

「ありがとうございます」

しかし2人は、何も知らないふりをした。

菜月羽が歩きはじめたので、冬杞も後ろをついていく。結局、冬杞は涌井先生と何も話さなかった。

――上手く誤魔化したな。

冬杞は思った。

校舎内はしんとしていた。

「静かだね」

「ああ」

当たり前だが、周りには誰もいない。電気は消され、まだ僅かに残る太陽の明かりだけが、2人の道を照らし出している。

朝のルーティンを行っていた菜月羽は、その静けさに慣れてはいた。しかし、今はその比ではない。

2人の足音だけが耳に届く。

自習室の扉を開けると、いつもと同じように熱気が襲ってきた。だが、普段の放課後よりも時間が遅い分、まだマシかもしれない。

「あと5分、ギリギリだったね」

菜月羽は窓を開けた。室内と変わらない熱せられた空気が入り込んでくる。

2人は並んで空を見ていた。足は疲れているはずなのに気にならなかった。菜月羽の、冬杞の、心臓の音が、隣に伝わってしまうのではないかと思うほど、大きく脈打つ。

すると。

「あ……」

菜月羽が声を漏らした。

光の筋が、真っ直ぐに上に伸びていく。

そして。

花が咲いた。

数秒遅れて、ドンという音が伝わってくる。

「はじまったな」

「うん」

1輪の花が合図だったかのように、花火は次々と夜空に咲き乱れた。

「すごい……」

5分程続いただろうか?しばらくすると、夜空が一休みするように、静寂が訪れた。「え?終わったの?」と心配になりはじめる頃、また花火が咲き誇る。それの繰り返しだった。

「綺麗……」

菜月羽は呟く。冬杞はそっと彼女の方を見た。満面の笑みが、遠くの花火の光によって輝きを増す。その笑みは冬杞にも伝染し、自然と口角が上がった。

「初めて、ちゃんと見たよ、花火」

「俺も。こんなにしっかり見たの、久しぶり」

花火に魅了されながら、2人は湧き上がってくる言葉を素直に口にする。

どこか近くで、小さな子どもが「花火だあ」と叫んだ。2人は一瞬、ここにいることがばれたのかもしれないと思ったが、そういう訳ではなさそうだ。顔を合わせ、ふふっと笑う。

しばらく瞳のフィルターに焼き付けていた花火だったが、

「花火って、写真でも綺麗に撮れるかな?」

菜月羽はスマホを取り出した。画面越しに見てみたが、やはり本物には敵わない。

「やっぱり、だめだね」

彼女はすぐにスマホをしまった。そして、また、その瞳に焼き付けていった。

「冬杞くんがいてくれてよかった」

「え?」

ちょうど花火が一休みしているところだった。

「私1人だけだったら、こんなことしようと思わなかった。花火も見ないままだったよ」

「……それは、よかった」

「共犯者がいてくれてよかったよ」

「共犯者?」

菜月羽は冬杞を指差しながら、

「共犯者」

楽しそうに笑った。

「何だよ、共犯者って」

冬杞も笑う。全く嫌ではなかった。こんな冗談を言い合えるほどに、2人の距離は縮まっていた。

しかし、冬杞を指差す手を下ろす時、

「あ、ごめんなさい」

菜月羽の右手が冬杞の左手に触れた。そんな些細なことに対して、いちいち謝るところに恋人(仮)の壁を感じる。そして、そんな壁を、今日の今ほど、もどかしく感じたことはなかった。右足で壁を小突く。

冬杞はそっと、しかし力強く、菜月羽の手を握った。

「え?」

その瞬間、再び、花火がはじまった。その花火の音で、菜月羽の声は聞こえないふりをする。

恋人(仮)でも、恋人は恋人だ。手を繋ぐことなど普通のことだ。冬杞は心の中で開き直る。

菜月羽はしばらく、花火を見ず冬杞の横顔を見ていた。目の奥が熱い。胸が高鳴る。しかし、菜月羽は何も言わず、花火を見つめた。そして、自分の手にぎゅっと力を込めた。

時間はあっという間に過ぎてしまう。菜月羽はそれを身に染みて感じる。楽しい時間、幸せな時間は、どうしてあっという間に感じてしまうのだろう。

――もっと続いたらいいのに。

「ん?」

冬杞は何か聞こえた気がして、菜月羽の方を見た。

「なんか言った?」

「ううん」

菜月羽は首を振った。心の声が無意識の内に漏れていたのかもしれないと思い、彼女は1度、唇をきゅっと引き結んだ。

――あと1時間。

――あと45分。

――あと30分。

刻一刻と時間が過ぎる。時計を確認する頻度が増える。

――あと15分。

「早いな、時間が経つの」

菜月羽の心の声が、冬杞の言葉となって耳に届いた。

「そうだね」

静かに同意した。

「今日は私にとって、最高の1日だよ」

「俺も」

「……よかった」

「ついでにさ、」

冬杞は菜月羽と繋がれていた手をそっと解いた。そして、両手を自分の首の後ろに回す。

「菜月羽、後ろ向いて」

「え?」

「いいから」

首を傾げながら、菜月羽は冬杞に背を向けた。すると、肩の辺りに冬杞の手が触れる。

「え?」

振り向こうとしたが、

「まだ動かないで」

冬杞がそれを制した。

自習室の中に、一際明るい光がもたらされる。遅れて、ドンッという大きな音が響いた。

まだ首の後ろに冬杞の温もりがある。くすぐったいような、それ以上に恥ずかしいような。

「よし、いいよ」

冬杞の言葉を合図に、菜月羽は全身の力を抜いた。知らず知らずの内に、緊張していたようだ。

そして、冬杞の方に身体を向ける。その時、

「これ……」

菜月羽の胸元がキラリと光った。

「冬杞くんのネックレス……」

左手でそっと持ち上げて確認する。間違いなかった。

「なんで……?」

冬杞はじっと菜月羽を見た。

「あげる」

「え、でも……」

「欲しいって言ってただろ?」

ショッピングモール内でのことである。確かに、アクセサリーの話はしていた。

けれど。

「あれは、そんなつもりで言った訳じゃ――」

「いいよ」

戸惑う菜月羽を諭すように冬杞は笑みを浮かべた。

「俺にとっても、今日は最高の1日だった。その中に、この思い出も入れておきたい」

「え?」

「俺が菜月羽にプレゼントをした、っていうこと。これも、いい思い出になったらな、って」

冬杞の笑みは優しかった。暗闇でも、よく分かる。

「菜月羽は?……嫌、だった?」

「それは……」

菜月羽はネックレスを見つめた。

「(仮)だから、かっこつけすぎてるのは分かってる。でも、それでも、俺たちは恋人な訳だし、罰は当たんねえと思ってる」

本当は少し勇気が必要なことだった。こんなことをして、菜月羽にひかれるのではないかとも思った。しかし、受け入れてくれる気がした。自惚れているのは承知の上で、菜月羽は喜んでくれると思った。思いたかった。

だが、次の花火が打ち上がった時、

「え?」

菜月羽の瞳がひどく輝いていることに気付いた。

「え?なんで?」

涙が止まらなかった。

――ヤバイ、さっきは我慢できたのに。

急いで菜月羽は涙を指で拭った。

「なんで?なんで泣いてんだよ?」

拭っても拭っても涙は止まらない。

――なんで止まらないの?

「最高の1日だったのに……、それだけで十分だったのに……、こんな素敵なプレゼントまで……」

途切れ途切れに菜月羽は告げる。

「こんなに幸せなことばっかりで、私、もうすぐ罰が当たるね……」

冬杞はふっと笑みを零した。

「なんで罰が当たるんだよ」

菜月羽は手で顔を押さえながら、少し俯いてしまう。

「別に悪いことしてないだろ?」

「でも、私――」

――私……。

そのあとの言葉が続かなかった。伝えたいこと、伝えるべきことは、たくさんあったのに。でも、言葉が詰まって、胸がいっぱいで、何も生まれなかった。

そんな彼女の姿を、冬杞は微笑ましく見つめる。感極まっているのが分かる。きっと、喜んでくれているのだろう、ということも。

しばらく泣き腫らした菜月羽は、ようやく落ち着いてきたようだ。

「落ち着いた?」

「うん……」

菜月羽は頷いた。

「でも、」

「ん?」

「暗くてよかった」

「なんで?」

「私、絶対ひどい顔してる」

ははっと冬杞は笑った。

確かに、あれだけ泣いていたら目も腫れているかもしれない。しかし、今この場所、今この瞬間であれば、表情は分かるが細かい部分までは分からない。

「今日中に治るといいな?」

「え?」

「明日、学校」

現実に引き戻される気分だった。

「そうだね……」

「まあ、俺は見たい気もするけど」

「ひどい……」

ははっとまた冬杞は笑った。つられて菜月羽も笑う。

そして、心身共に落ち着いてくると、今度は急に心配になってきた。

「冬杞くん」

花火はスターマインが披露されている。打ち上げ花火よりも少し低い位置で、バチバチと光を放っている。

「これ、本当にいいの?」

菜月羽はずっと握りしめていたネックレスを冬杞に見せた。長年、冬杞の身体の一部となっていたものだ。

「恋人(仮)としては本当に嬉しい。でも……」

そんなものを貰う申し訳なさもある。

「いいよ」

しかし、冬杞は気にしていない。

「もし、気になるなら、」

「え?」

ニッと彼は笑う。

「いつもの交換条件」

「交換条件?」

冬杞はスマホで時間を見た。

――あと10分。

「歌、聴きたい」

菜月羽は少しだけ目を見開いたあと、黙って頷いた。

いつもより少し抑えめに、菜月羽は歌を歌う。冬杞はその声を聴く。

2人はまた、花火を見る。

2人はまた、手を繋ぐ。

約束の8時半の少し前に、菜月羽は再び涌井先生に電話をした。そして、そっと校舎内を歩き、職員玄関に向かう。

職員玄関は蛍光灯の光に満ちていて、目が眩んでしまった。涌井先生がまた冬杞のことを尋ねようとしたことと、泣き腫らした顔を2人に見られたくないことが相まって、菜月羽と冬杞はそそくさと校舎を出た。涌井先生には、心の中で最大級の感謝の言葉をかけておいた。

今、2人は、生徒用昇降口の段差に座り込んでいる。外はさすがに真っ暗だ。

ここに着いてから、菜月羽は母親に電話をした。予定通り、9時に迎えに来てほしいと伝えた。冬杞も家族に同様の内容をメッセージで送った。すぐに返信が届いて、OKということだった。

L高はこの地域の避難場所にも指定されている。その為、災害時に備えて、校門は開けっ放しになっている。車が来たら、すぐに分かる。

でも、花火は見えない。不規則に花火の音が響くだけだ。

「大丈夫?疲れてない?」

菜月羽が足を伸ばして座り込んでいいるのを見て、冬杞は尋ねた。

「疲れてはいる」

彼女は素直に告げた。

「だよな」

冬杞も同意した。

はあ、っと2人は息を吐いた。そのタイミングがあまりにもぴったりで、2人はふふっと笑った。

もうすぐ幸せな時間が終わってしまう。充実感と虚無感が、同時に胸の中に居住しているような気持ちになる。

「先生、大丈夫かな?」

「何が?」

「めっちゃ気にしてただろ、俺らの関係。他の奴らの前で話したりとか……」

すると菜月羽は首を振った。

「こっそり聞かれることはあるかもしれないけど、他の人の前では大丈夫だよ」

「そうかな?」

「だって、今日のことはばれたら困るでしょ、先生も」

菜月羽は悪戯な笑みを浮かべた。

「それもそうだな」

花火の音が響く。これまでに比べてその時間が長い。クライマックスに差し掛かっているのかもしれない。

「あ……」

菜月羽が短く声を上げた。その視線の先には車のライトが見える。

「あれ、」

校門近くの道端にライトは停車した。

「多分、私のお母さん……」

「そっか……」

別れの時だ。2人は沈黙する。

すると、菜月羽は急にパッと立ち上がった。その手には、弟へのプレゼントもしっかりと握られている。

「冬杞くん、ちょっと待ってて」

「は?」

菜月羽は駆け出した。

「え?あ、ちょっと菜月羽!」

冬杞の呼び掛けも空しく、菜月羽はライトに向かって走っていく。

「え?これで終わり?」

彼は呆然と立ち尽くす。しかし、しばらくすると、車のライトが消えた。

「ん?」

そして、暗闇の中から、

「冬杞くん!」

「菜月羽!」

菜月羽が戻ってきた。持っていた荷物がなくなっている。

「何?どうした?」

「お母さんに言ってきた」

「え?」

「冬杞くんの迎えがまだ来てないから、来るまでもう少し待ってて、って」

「ああ……」

「で、いいよって」

そういった機転はとてもよく利く母親である。

「もうちょっとだけ、一緒にいられる」

菜月羽は微笑んだ。

といっても、特に何かすることがある訳でも、話さなければいけないことがある訳でもない。

「何か、今日中にしておきたいこと、ある?」

冬杞は一応聞いてみた。

しかし。

「ううん、もう十分。いろいろなこと、してもらった」

案の定、菜月羽は首を振った。

「冬杞くんは?何かある?」

「んー」

「あ、たまには歌以外でね」

冬杞は考える。

「ないな」

しかし、結局何も思い浮かばなかった。

「あ、じゃあ……」

菜月羽は冬杞のすぐ隣まで来た。そして、その場に座るように促す。

「このまま、いい?」

2人は横並びに座った。そして菜月羽は、冬杞の身体にその身をもたれさせた。

冬杞にNOの答えはない。

正直なところ、2人の「しておきたいこと」はひとつしかなかった。

――傍にいられたら、それでいい。

夏の熱気が2人を包む。しかし、2人は気にしない。

――大丈夫かな?

心臓の音が冬杞に伝わっていないか菜月羽は心配になる。

――でも、

花火の音できっと分からない。

2人は花火の影に隠れ、暗闇に溶けるように、そっと寄り添い続けた。

☆☆☆