「冬杞くん……」
菜月羽は冬杞に1歩近付いた。
「私、行きたいところがある」
「え?」
「時間、ある?」
「あるけど……」
菜月羽は笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行こう!」
「え?」
「歩きながら話そ」
本当に菜月羽は歩き出した。
「あ、ちょっと」
冬杞はそのあとを追いかける。
「行くって、どこに?」
「学校」
「学校?」
「うん」
――うん、って……。
平然と答える菜月羽に、冬杞の方が心配になる。
「菜月羽は平気なの?ちゃんと、親に許可もらっ――」
言いかけて、菜月羽が振り返った。
「ちゃんと、許可はもらってる」
そして、再び前を向いて歩きはじめる。
――いや……、なんで許可もらってんだよ……。
疑問に思ったが、口にはしない。冬杞は首を捻りながらも、彼女のあとを追った。
「学校、こんな時間に行っても、意味ねえんじゃねえの?」
電車の件もあり、今の時刻は午後6時半頃である。校舎の利用可能時間は午後7時までで、ここから歩いて行けば、その7時になってしまう。
「大丈夫。それも、許可もらってるから」
――また許可?
冬杞はますます首を捻る。しかし、菜月羽の後ろ姿はどこか楽しげで、問い質す気力が削がれていく。
諦めにも似た感情を抱いた冬杞は、そっと菜月羽の横に並んだ。
「さっきの話だけどね、」
すると、菜月羽の方から口を開いた。
「ん?」
「私、この街に何年か住んでるけど、花火、1回も見たことなくて」
――ああ、花火の話。
そういえば、その話をしているところだった。
「会場にも行ったことないし、他のところからも見たことなくて」
「家から見えないの?」
「うん、音だけ」
花火の打ち上がる光は見える。風向きによっては花火の煙も見える。しかし、肝心の花火は、周囲の建物や木々に遮られ、見ることが出来ない。
お察しの通り、「花火大会に行きたい」と家族に頼んだこともない。そして、弟以外の家族は、そういったイベントに興味はなかった。
「だから、1回ぐらいは見てみたいな、って思ってて」
「そっか」
「で、今から見に行こうかな、って」
「……は?」
冬杞は立ち止まった。菜月羽も立ち止まる。
「金曜日、自習室の窓から外を見た時に、思ったの。『ちょうどここからだったら綺麗にみえるかなあ』って」
そして思い出す。
――そういえば……。
『俺と2人で、行く?』
そう冬杞が声を掛けた時。菜月羽は吸い寄せられるように窓の方へ歩み寄った。
――じゃあ、菜月羽はあの時から?
驚く冬杞を余所に、菜月羽はまた歩き出す。
「いや、でもさ、学校の敷地内には入れたとしても、校舎内は無理だろ?7時で追い出される訳なんだしさ」
当然の疑問を投げかける。
「うん、だから、金曜日に許可はもらった」
「……は?」
そして冬杞はまた思い出した。
『私、職員室に用事があるの、思い出した』
金曜日の別れ際、菜月羽は急にそんなことを言った。
「あの時……」
「善は急げだと思って、先生と交渉してきた」
「マジか……」
菜月羽の大胆さは、付き合いはじめた頃から知っているが、こんなところでも発揮しているとは。
「まあ、『善』かどうかは分かんないけどね」
「それで、先生、いいって?」
その答えは、菜月羽の雰囲気からも察しがつくが、念の為、尋ねてみる。
「条件は6つ」
「うん」
「一つ、生徒・先生、それ以外の全ての人に対して、このことは秘密。
二つ、花火大会は9時までだけど、先生も早く帰りたいから、学校にいていいのは8時半まで。
三つ、使っていいのは自習室Aだけ。
四つ、窓は開けてもいいけど大声は出さない、大きな音を立てない、電気をつけない。
五つ、校内にいていいのは2人だけ。
六つ、――」
そこまで言って、菜月羽は言葉を切った。
「次は?」
無理難題の条件は、今のところ何もない。
「六つ、他の人には言わないこと」
「いや、それって、最初のと一緒だろ?」
「うん」
「うん、って」
「それだけ大切だよ、ってこと」
菜月羽は「大切」という言葉を強調した。確かに、教師の立場からすれば、あまり、というよりは、絶対に周囲にばれてはいけないことだろう。
「よく許してくれたな」
「うん、すっごくお願いしたから」
「すっごくお願いした」ところで許してもらえるのだろうか。冬杞は心の中で首を捻った。しかし、現に許可をもらっているのだから、それが全てなのだろう。
「あとは、」
「ん?」
「冬杞くんが一緒に来てくれるかどうか、なんだけど」
菜月羽はチラッと冬杞を見た。何かを窺うように、そっと。
――そんなこと、
「そんなこと、聞かなくても分かるだろ?」
冬杞の中にNOという答えはない。菜月羽もそれを察した。2人の胸がじんわりと温かくなる。
そして、冬杞はふと思った。
「もしかしてさ、」
「ん?」
上機嫌の菜月羽に向ける疑惑の目。
「最初からそのつもりだった?」
菜月羽の表情が笑顔のまま固まった。口角が上がったままのその表情は、まるで人形のようだ。これは、
――図星だな。
冬杞が菜月羽を誘った時点で、彼女の頭の中にはこの計画が作り上がっていたのだろう。
「ちゃんと、家族に言ってあるんだよな?」
彼はもう確信していた。菜月羽も、もう隠すつもりはない。
「言ってある」
「なんて言ったんだよ?先生には秘密って言われてるんだろ?」
「……学校の敷地内に花火がよく見える場所があるから、そこで見る、って」
「……まあ、嘘じゃないな」
「でしょ?」
菜月羽はどこか自慢げだ。分かりやすく開き直っている。
「でも帰る時間は指定されちゃった。9時に学校に迎えに行く、って」
「ああ……、それで……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
ショッピングモール内で聞いてしまった、母娘の会話。確かに菜月羽は「9時」と言っていた。
――このことか。
「冬杞くんは大丈夫?」
「うん、俺は何時でも」
「私のお母さん、もし冬杞くんが歩いて帰るって知ったら、『送ってく』って言うと思うんだけど、それは――」
「ああ、それは……」
「嫌だよね?」
菜月羽の母親はとにかく心配性で、その対象は我が子に限らない。
「まあ、な」
同級生の親の車、というのは、想像しただけで、何とも気まずい。
「いいよ。俺も家に誰かしらいるだろうし、迎えに来てもらうよ」
「本当!それならお母さんも安心してくれると思う」
見慣れた道を歩く菜月羽の足取りは、行きよりも断然軽い。
L高に近付くにつれ、部活帰りであろうL高生とすれ違う頻度も多くなる。見知った顔がいないかとドキドキしたが、2人共自然と顔を下げるので、特に指を差されることはなかった。
「あのさ、」
ここまで来ると、冬杞の中に、もうひとつ確認したいことが湧いてきた。花火を見るまでにすっきりさせておきたい。
「ん?」
「さっき、向こうで電話してたの、聞こえてた。黙っててごめん」
――電話?
「向こう」とは、ショッピングモールのことだ。何を話していただろう、と菜月羽は頭の中で記憶を捜索する。
「最後の思い出って、どういうこと?」
「え?」
「言ってたよな?」
冬杞は菜月羽を見た。しかし、菜月羽は冬杞を見ない。表情が強張っている。瞳が小刻みに揺れている。
答えは返ってこないかもしれない、冬杞は思った。
「菜月羽」
数秒の沈黙。2人の足音が、やけに大きく耳に届く。
「夏休み前の、」
菜月羽が呟いた。凛とした表情をしている。
「夏休み前の最後の思い出だと思って」
真っ直ぐ前を向く菜月羽。
「今回の花火大会は、夏休み前の、多分最後の大きなイベントでしょ?だから」
――確かにそうかもしれないけど……。
冬杞はまだ菜月羽を見ている。
「それに、来年も再来年も、また花火を見れるか分からないでしょ?花火大会自体がなくなるかもしれないし、自分たちが忙しくて見ることが出来ないかもしれない。他にもいろいろな理由で……」
菜月羽は未来に思いを馳せる。考えすぎだ、と冬杞は言えなかった。そんな雰囲気ではなかった。
「だから、私、どうしても冬杞くんと花火を見たくて。お母さんに今日のことを話す時は、結構必死だった。本当はお母さん、もっと早く帰っておいで、って言ってたんだけど、どうしても花火、見たくて。お母さんに『最後の思い出になるかもしれないから』って説得して、やっと、OKもらった」
向こうに校舎が見えてきた。菜月羽はそれを見つめる。
「あっちにいる時、ずっと気付かなかったけど、お母さんから何回も連絡が入ってて。そのまま気付かないふりをしようかな、って思ったけど、電話して。心配してくれてるのは分かってるけど、あんまり連絡してこないで、って。その時の話が聞こえてたんだね、多分」
――邪魔しないで。
あともう少しで、そんな言葉がこぼれそうになっていたことを菜月羽は思い出した。しかし、それはあまりにも酷な気がして、言葉にはしなかった。そんなことを思ってしまう自分が、たまらなく嫌になる。
一方の冬杞は、彼女の話に、「多分」と同意した。
「最後の思い出って、そういうことだよ」
「そっか」
冬杞にとって、今日という日は特別な1日になるだろう。しかし、それは、菜月羽も同じようだ。いや、おそらく、菜月羽の方が思い入れは強い。人それぞれ、「1日」への思いは違うのだと冬杞は痛感した。
「ありがとう、話してくれて」
菜月羽は首を振った。
「ううん、冬杞くんも話してくれて、ありがとう」
気付けば学校に着いていた。時刻は午後7時頃。グラウンドや駐輪場には、まだちらほらと生徒の姿が見える。今更だが、2人は私服で、そのまま敷地内に入るのは抵抗があった。
「このまま行くの?」
「着いたら電話して、って言われてるから、先に電話してみる」
2人は校門から少し距離を置いたところに移動した。
『……あ、もしもし、先生、新井です。……はい、着きました。……あー、まだ、何人か残ってました。……はい。……職員玄関からですか?……はい。……分かりました、頑張ります。……はい』
電話を終えた菜月羽。
「職員玄関から入って、って。みんなに見られないように」
「見られないように、って……」
――無茶なことを。
とは思ったが、行くしかない。
2人は校門から、生徒が使用する正面玄関ではなく、教師や来客が使用する玄関の方へ走った。
「多分、見られてないよな?」
「うん」
職員玄関には、2人の担任・涌井先生がいた。
「先生!」
菜月羽が声を掛ける。
「新井さん!声、小さく!」
「……あ、はい」
彼女は小さく頭を下げた。
「あれ?」
菜月羽の肩越しに、涌井先生と冬杞の目が合った。冬杞は軽く頭を下げる。
「新井さん、もう1人って今原くんのことだったの?」
「はい」「え?」
菜月羽が景気よく頷くのと、冬杞が素っ頓狂な声を出すのと、ほぼ同時だった。冬杞は思わず、菜月羽の肩に手を置いた。
「菜月羽、先生に俺のこと言ってないの?」
ヒソヒソ声で尋ねる。
「うん、名前は言ってない」
「なんで?」
「だって、説明しにくいから」
2人の関係はクラスメイトであり、恋人(仮)である。確かに、他のクラスメイトよりも説明は格段に難しい。案の定、涌井先生も驚いているようで目を丸くしている。明らかに、好奇心剥き出しである。
「え?新井さん、もう1人って、今原くん?」
「はい」
「え?2人って、どういう――」
「先生!」
菜月羽が涌井先生の話を遮る。
「花火、もうすぐはじまっちゃいます」
「あ、そうなの?じゃあ、靴、脱いで。スリッパはこれね」
「靴はどうしたらいいですか?」
「とりあえず来客用のところに入れておいて」
「はい」
2人は言われた通り、靴を脱ぎ、緑色の来客用スリッパを履いた。
「じゃあ、先生!帰る時は、また電話します」
「はいはい、自習室の鍵は開いてるから」
――知ってる。
2人は心の中で呟いた。視線を重ね、にこりと微笑む。
「ありがとうございます」
しかし2人は、何も知らないふりをした。
菜月羽が歩きはじめたので、冬杞も後ろをついていく。結局、冬杞は涌井先生と何も話さなかった。
――上手く誤魔化したな。
冬杞は思った。
校舎内はしんとしていた。
「静かだね」
「ああ」
当たり前だが、周りには誰もいない。電気は消され、まだ僅かに残る太陽の明かりだけが、2人の道を照らし出している。
朝のルーティンを行っていた菜月羽は、その静けさに慣れてはいた。しかし、今はその比ではない。
2人の足音だけが耳に届く。
自習室の扉を開けると、いつもと同じように熱気が襲ってきた。だが、普段の放課後よりも時間が遅い分、まだマシかもしれない。
「あと5分、ギリギリだったね」
菜月羽は窓を開けた。室内と変わらない熱せられた空気が入り込んでくる。
2人は並んで空を見ていた。足は疲れているはずなのに気にならなかった。菜月羽の、冬杞の、心臓の音が、隣に伝わってしまうのではないかと思うほど、大きく脈打つ。
すると。
「あ……」
菜月羽が声を漏らした。
光の筋が、真っ直ぐに上に伸びていく。
そして。
花が咲いた。
数秒遅れて、ドンという音が伝わってくる。
「はじまったな」
「うん」
1輪の花が合図だったかのように、花火は次々と夜空に咲き乱れた。
「すごい……」
5分程続いただろうか?しばらくすると、夜空が一休みするように、静寂が訪れた。「え?終わったの?」と心配になりはじめる頃、また花火が咲き誇る。それの繰り返しだった。
「綺麗……」
菜月羽は呟く。冬杞はそっと彼女の方を見た。満面の笑みが、遠くの花火の光によって輝きを増す。その笑みは冬杞にも伝染し、自然と口角が上がった。
「初めて、ちゃんと見たよ、花火」
「俺も。こんなにしっかり見たの、久しぶり」
花火に魅了されながら、2人は湧き上がってくる言葉を素直に口にする。
どこか近くで、小さな子どもが「花火だあ」と叫んだ。2人は一瞬、ここにいることがばれたのかもしれないと思ったが、そういう訳ではなさそうだ。顔を合わせ、ふふっと笑う。
しばらく瞳のフィルターに焼き付けていた花火だったが、
「花火って、写真でも綺麗に撮れるかな?」
菜月羽はスマホを取り出した。画面越しに見てみたが、やはり本物には敵わない。
「やっぱり、だめだね」
彼女はすぐにスマホをしまった。そして、また、その瞳に焼き付けていった。
「冬杞くんがいてくれてよかった」
「え?」
ちょうど花火が一休みしているところだった。
「私1人だけだったら、こんなことしようと思わなかった。花火も見ないままだったよ」
「……それは、よかった」
「共犯者がいてくれてよかったよ」
「共犯者?」
菜月羽は冬杞を指差しながら、
「共犯者」
楽しそうに笑った。
「何だよ、共犯者って」
冬杞も笑う。全く嫌ではなかった。こんな冗談を言い合えるほどに、2人の距離は縮まっていた。
しかし、冬杞を指差す手を下ろす時、
「あ、ごめんなさい」
菜月羽の右手が冬杞の左手に触れた。そんな些細なことに対して、いちいち謝るところに恋人(仮)の壁を感じる。そして、そんな壁を、今日の今ほど、もどかしく感じたことはなかった。右足で壁を小突く。
冬杞はそっと、しかし力強く、菜月羽の手を握った。
「え?」
その瞬間、再び、花火がはじまった。その花火の音で、菜月羽の声は聞こえないふりをする。
恋人(仮)でも、恋人は恋人だ。手を繋ぐことなど普通のことだ。冬杞は心の中で開き直る。
菜月羽はしばらく、花火を見ず冬杞の横顔を見ていた。目の奥が熱い。胸が高鳴る。しかし、菜月羽は何も言わず、花火を見つめた。そして、自分の手にぎゅっと力を込めた。
時間はあっという間に過ぎてしまう。菜月羽はそれを身に染みて感じる。楽しい時間、幸せな時間は、どうしてあっという間に感じてしまうのだろう。
――もっと続いたらいいのに。
「ん?」
冬杞は何か聞こえた気がして、菜月羽の方を見た。
「なんか言った?」
「ううん」
菜月羽は首を振った。心の声が無意識の内に漏れていたのかもしれないと思い、彼女は1度、唇をきゅっと引き結んだ。
――あと1時間。
――あと45分。
――あと30分。
刻一刻と時間が過ぎる。時計を確認する頻度が増える。
――あと15分。
「早いな、時間が経つの」
菜月羽の心の声が、冬杞の言葉となって耳に届いた。
「そうだね」
静かに同意した。
「今日は私にとって、最高の1日だよ」
「俺も」
「……よかった」
「ついでにさ、」
冬杞は菜月羽と繋がれていた手をそっと解いた。そして、両手を自分の首の後ろに回す。
「菜月羽、後ろ向いて」
「え?」
「いいから」
首を傾げながら、菜月羽は冬杞に背を向けた。すると、肩の辺りに冬杞の手が触れる。
「え?」
振り向こうとしたが、
「まだ動かないで」
冬杞がそれを制した。
自習室の中に、一際明るい光がもたらされる。遅れて、ドンッという大きな音が響いた。
まだ首の後ろに冬杞の温もりがある。くすぐったいような、それ以上に恥ずかしいような。
「よし、いいよ」
冬杞の言葉を合図に、菜月羽は全身の力を抜いた。知らず知らずの内に、緊張していたようだ。
そして、冬杞の方に身体を向ける。その時、
「これ……」
菜月羽の胸元がキラリと光った。
「冬杞くんのネックレス……」
左手でそっと持ち上げて確認する。間違いなかった。
「なんで……?」
冬杞はじっと菜月羽を見た。
「あげる」
「え、でも……」
「欲しいって言ってただろ?」
ショッピングモール内でのことである。確かに、アクセサリーの話はしていた。
けれど。
「あれは、そんなつもりで言った訳じゃ――」
「いいよ」
戸惑う菜月羽を諭すように冬杞は笑みを浮かべた。
「俺にとっても、今日は最高の1日だった。その中に、この思い出も入れておきたい」
「え?」
「俺が菜月羽にプレゼントをした、っていうこと。これも、いい思い出になったらな、って」
冬杞の笑みは優しかった。暗闇でも、よく分かる。
「菜月羽は?……嫌、だった?」
「それは……」
菜月羽はネックレスを見つめた。
「(仮)だから、かっこつけすぎてるのは分かってる。でも、それでも、俺たちは恋人な訳だし、罰は当たんねえと思ってる」
本当は少し勇気が必要なことだった。こんなことをして、菜月羽にひかれるのではないかとも思った。しかし、受け入れてくれる気がした。自惚れているのは承知の上で、菜月羽は喜んでくれると思った。思いたかった。
だが、次の花火が打ち上がった時、
「え?」
菜月羽の瞳がひどく輝いていることに気付いた。
「え?なんで?」
涙が止まらなかった。
――ヤバイ、さっきは我慢できたのに。
急いで菜月羽は涙を指で拭った。
「なんで?なんで泣いてんだよ?」
拭っても拭っても涙は止まらない。
――なんで止まらないの?
「最高の1日だったのに……、それだけで十分だったのに……、こんな素敵なプレゼントまで……」
途切れ途切れに菜月羽は告げる。
「こんなに幸せなことばっかりで、私、もうすぐ罰が当たるね……」
冬杞はふっと笑みを零した。
「なんで罰が当たるんだよ」
菜月羽は手で顔を押さえながら、少し俯いてしまう。
「別に悪いことしてないだろ?」
「でも、私――」
――私……。
そのあとの言葉が続かなかった。伝えたいこと、伝えるべきことは、たくさんあったのに。でも、言葉が詰まって、胸がいっぱいで、何も生まれなかった。
そんな彼女の姿を、冬杞は微笑ましく見つめる。感極まっているのが分かる。きっと、喜んでくれているのだろう、ということも。
しばらく泣き腫らした菜月羽は、ようやく落ち着いてきたようだ。
「落ち着いた?」
「うん……」
菜月羽は頷いた。
「でも、」
「ん?」
「暗くてよかった」
「なんで?」
「私、絶対ひどい顔してる」
ははっと冬杞は笑った。
確かに、あれだけ泣いていたら目も腫れているかもしれない。しかし、今この場所、今この瞬間であれば、表情は分かるが細かい部分までは分からない。
「今日中に治るといいな?」
「え?」
「明日、学校」
現実に引き戻される気分だった。
「そうだね……」
「まあ、俺は見たい気もするけど」
「ひどい……」
ははっとまた冬杞は笑った。つられて菜月羽も笑う。
そして、心身共に落ち着いてくると、今度は急に心配になってきた。
「冬杞くん」
花火はスターマインが披露されている。打ち上げ花火よりも少し低い位置で、バチバチと光を放っている。
「これ、本当にいいの?」
菜月羽はずっと握りしめていたネックレスを冬杞に見せた。長年、冬杞の身体の一部となっていたものだ。
「恋人(仮)としては本当に嬉しい。でも……」
そんなものを貰う申し訳なさもある。
「いいよ」
しかし、冬杞は気にしていない。
「もし、気になるなら、」
「え?」
ニッと彼は笑う。
「いつもの交換条件」
「交換条件?」
冬杞はスマホで時間を見た。
――あと10分。
「歌、聴きたい」
菜月羽は少しだけ目を見開いたあと、黙って頷いた。
いつもより少し抑えめに、菜月羽は歌を歌う。冬杞はその声を聴く。
2人はまた、花火を見る。
2人はまた、手を繋ぐ。
約束の8時半の少し前に、菜月羽は再び涌井先生に電話をした。そして、そっと校舎内を歩き、職員玄関に向かう。
職員玄関は蛍光灯の光に満ちていて、目が眩んでしまった。涌井先生がまた冬杞のことを尋ねようとしたことと、泣き腫らした顔を2人に見られたくないことが相まって、菜月羽と冬杞はそそくさと校舎を出た。涌井先生には、心の中で最大級の感謝の言葉をかけておいた。
今、2人は、生徒用昇降口の段差に座り込んでいる。外はさすがに真っ暗だ。
ここに着いてから、菜月羽は母親に電話をした。予定通り、9時に迎えに来てほしいと伝えた。冬杞も家族に同様の内容をメッセージで送った。すぐに返信が届いて、OKということだった。
L高はこの地域の避難場所にも指定されている。その為、災害時に備えて、校門は開けっ放しになっている。車が来たら、すぐに分かる。
でも、花火は見えない。不規則に花火の音が響くだけだ。
「大丈夫?疲れてない?」
菜月羽が足を伸ばして座り込んでいいるのを見て、冬杞は尋ねた。
「疲れてはいる」
彼女は素直に告げた。
「だよな」
冬杞も同意した。
はあ、っと2人は息を吐いた。そのタイミングがあまりにもぴったりで、2人はふふっと笑った。
もうすぐ幸せな時間が終わってしまう。充実感と虚無感が、同時に胸の中に居住しているような気持ちになる。
「先生、大丈夫かな?」
「何が?」
「めっちゃ気にしてただろ、俺らの関係。他の奴らの前で話したりとか……」
すると菜月羽は首を振った。
「こっそり聞かれることはあるかもしれないけど、他の人の前では大丈夫だよ」
「そうかな?」
「だって、今日のことはばれたら困るでしょ、先生も」
菜月羽は悪戯な笑みを浮かべた。
「それもそうだな」
花火の音が響く。これまでに比べてその時間が長い。クライマックスに差し掛かっているのかもしれない。
「あ……」
菜月羽が短く声を上げた。その視線の先には車のライトが見える。
「あれ、」
校門近くの道端にライトは停車した。
「多分、私のお母さん……」
「そっか……」
別れの時だ。2人は沈黙する。
すると、菜月羽は急にパッと立ち上がった。その手には、弟へのプレゼントもしっかりと握られている。
「冬杞くん、ちょっと待ってて」
「は?」
菜月羽は駆け出した。
「え?あ、ちょっと菜月羽!」
冬杞の呼び掛けも空しく、菜月羽はライトに向かって走っていく。
「え?これで終わり?」
彼は呆然と立ち尽くす。しかし、しばらくすると、車のライトが消えた。
「ん?」
そして、暗闇の中から、
「冬杞くん!」
「菜月羽!」
菜月羽が戻ってきた。持っていた荷物がなくなっている。
「何?どうした?」
「お母さんに言ってきた」
「え?」
「冬杞くんの迎えがまだ来てないから、来るまでもう少し待ってて、って」
「ああ……」
「で、いいよって」
そういった機転はとてもよく利く母親である。
「もうちょっとだけ、一緒にいられる」
菜月羽は微笑んだ。
といっても、特に何かすることがある訳でも、話さなければいけないことがある訳でもない。
「何か、今日中にしておきたいこと、ある?」
冬杞は一応聞いてみた。
しかし。
「ううん、もう十分。いろいろなこと、してもらった」
案の定、菜月羽は首を振った。
「冬杞くんは?何かある?」
「んー」
「あ、たまには歌以外でね」
冬杞は考える。
「ないな」
しかし、結局何も思い浮かばなかった。
「あ、じゃあ……」
菜月羽は冬杞のすぐ隣まで来た。そして、その場に座るように促す。
「このまま、いい?」
2人は横並びに座った。そして菜月羽は、冬杞の身体にその身をもたれさせた。
冬杞にNOの答えはない。
正直なところ、2人の「しておきたいこと」はひとつしかなかった。
――傍にいられたら、それでいい。
夏の熱気が2人を包む。しかし、2人は気にしない。
――大丈夫かな?
心臓の音が冬杞に伝わっていないか菜月羽は心配になる。
――でも、
花火の音できっと分からない。
2人は花火の影に隠れ、暗闇に溶けるように、そっと寄り添い続けた。
☆☆☆
菜月羽は冬杞に1歩近付いた。
「私、行きたいところがある」
「え?」
「時間、ある?」
「あるけど……」
菜月羽は笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行こう!」
「え?」
「歩きながら話そ」
本当に菜月羽は歩き出した。
「あ、ちょっと」
冬杞はそのあとを追いかける。
「行くって、どこに?」
「学校」
「学校?」
「うん」
――うん、って……。
平然と答える菜月羽に、冬杞の方が心配になる。
「菜月羽は平気なの?ちゃんと、親に許可もらっ――」
言いかけて、菜月羽が振り返った。
「ちゃんと、許可はもらってる」
そして、再び前を向いて歩きはじめる。
――いや……、なんで許可もらってんだよ……。
疑問に思ったが、口にはしない。冬杞は首を捻りながらも、彼女のあとを追った。
「学校、こんな時間に行っても、意味ねえんじゃねえの?」
電車の件もあり、今の時刻は午後6時半頃である。校舎の利用可能時間は午後7時までで、ここから歩いて行けば、その7時になってしまう。
「大丈夫。それも、許可もらってるから」
――また許可?
冬杞はますます首を捻る。しかし、菜月羽の後ろ姿はどこか楽しげで、問い質す気力が削がれていく。
諦めにも似た感情を抱いた冬杞は、そっと菜月羽の横に並んだ。
「さっきの話だけどね、」
すると、菜月羽の方から口を開いた。
「ん?」
「私、この街に何年か住んでるけど、花火、1回も見たことなくて」
――ああ、花火の話。
そういえば、その話をしているところだった。
「会場にも行ったことないし、他のところからも見たことなくて」
「家から見えないの?」
「うん、音だけ」
花火の打ち上がる光は見える。風向きによっては花火の煙も見える。しかし、肝心の花火は、周囲の建物や木々に遮られ、見ることが出来ない。
お察しの通り、「花火大会に行きたい」と家族に頼んだこともない。そして、弟以外の家族は、そういったイベントに興味はなかった。
「だから、1回ぐらいは見てみたいな、って思ってて」
「そっか」
「で、今から見に行こうかな、って」
「……は?」
冬杞は立ち止まった。菜月羽も立ち止まる。
「金曜日、自習室の窓から外を見た時に、思ったの。『ちょうどここからだったら綺麗にみえるかなあ』って」
そして思い出す。
――そういえば……。
『俺と2人で、行く?』
そう冬杞が声を掛けた時。菜月羽は吸い寄せられるように窓の方へ歩み寄った。
――じゃあ、菜月羽はあの時から?
驚く冬杞を余所に、菜月羽はまた歩き出す。
「いや、でもさ、学校の敷地内には入れたとしても、校舎内は無理だろ?7時で追い出される訳なんだしさ」
当然の疑問を投げかける。
「うん、だから、金曜日に許可はもらった」
「……は?」
そして冬杞はまた思い出した。
『私、職員室に用事があるの、思い出した』
金曜日の別れ際、菜月羽は急にそんなことを言った。
「あの時……」
「善は急げだと思って、先生と交渉してきた」
「マジか……」
菜月羽の大胆さは、付き合いはじめた頃から知っているが、こんなところでも発揮しているとは。
「まあ、『善』かどうかは分かんないけどね」
「それで、先生、いいって?」
その答えは、菜月羽の雰囲気からも察しがつくが、念の為、尋ねてみる。
「条件は6つ」
「うん」
「一つ、生徒・先生、それ以外の全ての人に対して、このことは秘密。
二つ、花火大会は9時までだけど、先生も早く帰りたいから、学校にいていいのは8時半まで。
三つ、使っていいのは自習室Aだけ。
四つ、窓は開けてもいいけど大声は出さない、大きな音を立てない、電気をつけない。
五つ、校内にいていいのは2人だけ。
六つ、――」
そこまで言って、菜月羽は言葉を切った。
「次は?」
無理難題の条件は、今のところ何もない。
「六つ、他の人には言わないこと」
「いや、それって、最初のと一緒だろ?」
「うん」
「うん、って」
「それだけ大切だよ、ってこと」
菜月羽は「大切」という言葉を強調した。確かに、教師の立場からすれば、あまり、というよりは、絶対に周囲にばれてはいけないことだろう。
「よく許してくれたな」
「うん、すっごくお願いしたから」
「すっごくお願いした」ところで許してもらえるのだろうか。冬杞は心の中で首を捻った。しかし、現に許可をもらっているのだから、それが全てなのだろう。
「あとは、」
「ん?」
「冬杞くんが一緒に来てくれるかどうか、なんだけど」
菜月羽はチラッと冬杞を見た。何かを窺うように、そっと。
――そんなこと、
「そんなこと、聞かなくても分かるだろ?」
冬杞の中にNOという答えはない。菜月羽もそれを察した。2人の胸がじんわりと温かくなる。
そして、冬杞はふと思った。
「もしかしてさ、」
「ん?」
上機嫌の菜月羽に向ける疑惑の目。
「最初からそのつもりだった?」
菜月羽の表情が笑顔のまま固まった。口角が上がったままのその表情は、まるで人形のようだ。これは、
――図星だな。
冬杞が菜月羽を誘った時点で、彼女の頭の中にはこの計画が作り上がっていたのだろう。
「ちゃんと、家族に言ってあるんだよな?」
彼はもう確信していた。菜月羽も、もう隠すつもりはない。
「言ってある」
「なんて言ったんだよ?先生には秘密って言われてるんだろ?」
「……学校の敷地内に花火がよく見える場所があるから、そこで見る、って」
「……まあ、嘘じゃないな」
「でしょ?」
菜月羽はどこか自慢げだ。分かりやすく開き直っている。
「でも帰る時間は指定されちゃった。9時に学校に迎えに行く、って」
「ああ……、それで……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
ショッピングモール内で聞いてしまった、母娘の会話。確かに菜月羽は「9時」と言っていた。
――このことか。
「冬杞くんは大丈夫?」
「うん、俺は何時でも」
「私のお母さん、もし冬杞くんが歩いて帰るって知ったら、『送ってく』って言うと思うんだけど、それは――」
「ああ、それは……」
「嫌だよね?」
菜月羽の母親はとにかく心配性で、その対象は我が子に限らない。
「まあ、な」
同級生の親の車、というのは、想像しただけで、何とも気まずい。
「いいよ。俺も家に誰かしらいるだろうし、迎えに来てもらうよ」
「本当!それならお母さんも安心してくれると思う」
見慣れた道を歩く菜月羽の足取りは、行きよりも断然軽い。
L高に近付くにつれ、部活帰りであろうL高生とすれ違う頻度も多くなる。見知った顔がいないかとドキドキしたが、2人共自然と顔を下げるので、特に指を差されることはなかった。
「あのさ、」
ここまで来ると、冬杞の中に、もうひとつ確認したいことが湧いてきた。花火を見るまでにすっきりさせておきたい。
「ん?」
「さっき、向こうで電話してたの、聞こえてた。黙っててごめん」
――電話?
「向こう」とは、ショッピングモールのことだ。何を話していただろう、と菜月羽は頭の中で記憶を捜索する。
「最後の思い出って、どういうこと?」
「え?」
「言ってたよな?」
冬杞は菜月羽を見た。しかし、菜月羽は冬杞を見ない。表情が強張っている。瞳が小刻みに揺れている。
答えは返ってこないかもしれない、冬杞は思った。
「菜月羽」
数秒の沈黙。2人の足音が、やけに大きく耳に届く。
「夏休み前の、」
菜月羽が呟いた。凛とした表情をしている。
「夏休み前の最後の思い出だと思って」
真っ直ぐ前を向く菜月羽。
「今回の花火大会は、夏休み前の、多分最後の大きなイベントでしょ?だから」
――確かにそうかもしれないけど……。
冬杞はまだ菜月羽を見ている。
「それに、来年も再来年も、また花火を見れるか分からないでしょ?花火大会自体がなくなるかもしれないし、自分たちが忙しくて見ることが出来ないかもしれない。他にもいろいろな理由で……」
菜月羽は未来に思いを馳せる。考えすぎだ、と冬杞は言えなかった。そんな雰囲気ではなかった。
「だから、私、どうしても冬杞くんと花火を見たくて。お母さんに今日のことを話す時は、結構必死だった。本当はお母さん、もっと早く帰っておいで、って言ってたんだけど、どうしても花火、見たくて。お母さんに『最後の思い出になるかもしれないから』って説得して、やっと、OKもらった」
向こうに校舎が見えてきた。菜月羽はそれを見つめる。
「あっちにいる時、ずっと気付かなかったけど、お母さんから何回も連絡が入ってて。そのまま気付かないふりをしようかな、って思ったけど、電話して。心配してくれてるのは分かってるけど、あんまり連絡してこないで、って。その時の話が聞こえてたんだね、多分」
――邪魔しないで。
あともう少しで、そんな言葉がこぼれそうになっていたことを菜月羽は思い出した。しかし、それはあまりにも酷な気がして、言葉にはしなかった。そんなことを思ってしまう自分が、たまらなく嫌になる。
一方の冬杞は、彼女の話に、「多分」と同意した。
「最後の思い出って、そういうことだよ」
「そっか」
冬杞にとって、今日という日は特別な1日になるだろう。しかし、それは、菜月羽も同じようだ。いや、おそらく、菜月羽の方が思い入れは強い。人それぞれ、「1日」への思いは違うのだと冬杞は痛感した。
「ありがとう、話してくれて」
菜月羽は首を振った。
「ううん、冬杞くんも話してくれて、ありがとう」
気付けば学校に着いていた。時刻は午後7時頃。グラウンドや駐輪場には、まだちらほらと生徒の姿が見える。今更だが、2人は私服で、そのまま敷地内に入るのは抵抗があった。
「このまま行くの?」
「着いたら電話して、って言われてるから、先に電話してみる」
2人は校門から少し距離を置いたところに移動した。
『……あ、もしもし、先生、新井です。……はい、着きました。……あー、まだ、何人か残ってました。……はい。……職員玄関からですか?……はい。……分かりました、頑張ります。……はい』
電話を終えた菜月羽。
「職員玄関から入って、って。みんなに見られないように」
「見られないように、って……」
――無茶なことを。
とは思ったが、行くしかない。
2人は校門から、生徒が使用する正面玄関ではなく、教師や来客が使用する玄関の方へ走った。
「多分、見られてないよな?」
「うん」
職員玄関には、2人の担任・涌井先生がいた。
「先生!」
菜月羽が声を掛ける。
「新井さん!声、小さく!」
「……あ、はい」
彼女は小さく頭を下げた。
「あれ?」
菜月羽の肩越しに、涌井先生と冬杞の目が合った。冬杞は軽く頭を下げる。
「新井さん、もう1人って今原くんのことだったの?」
「はい」「え?」
菜月羽が景気よく頷くのと、冬杞が素っ頓狂な声を出すのと、ほぼ同時だった。冬杞は思わず、菜月羽の肩に手を置いた。
「菜月羽、先生に俺のこと言ってないの?」
ヒソヒソ声で尋ねる。
「うん、名前は言ってない」
「なんで?」
「だって、説明しにくいから」
2人の関係はクラスメイトであり、恋人(仮)である。確かに、他のクラスメイトよりも説明は格段に難しい。案の定、涌井先生も驚いているようで目を丸くしている。明らかに、好奇心剥き出しである。
「え?新井さん、もう1人って、今原くん?」
「はい」
「え?2人って、どういう――」
「先生!」
菜月羽が涌井先生の話を遮る。
「花火、もうすぐはじまっちゃいます」
「あ、そうなの?じゃあ、靴、脱いで。スリッパはこれね」
「靴はどうしたらいいですか?」
「とりあえず来客用のところに入れておいて」
「はい」
2人は言われた通り、靴を脱ぎ、緑色の来客用スリッパを履いた。
「じゃあ、先生!帰る時は、また電話します」
「はいはい、自習室の鍵は開いてるから」
――知ってる。
2人は心の中で呟いた。視線を重ね、にこりと微笑む。
「ありがとうございます」
しかし2人は、何も知らないふりをした。
菜月羽が歩きはじめたので、冬杞も後ろをついていく。結局、冬杞は涌井先生と何も話さなかった。
――上手く誤魔化したな。
冬杞は思った。
校舎内はしんとしていた。
「静かだね」
「ああ」
当たり前だが、周りには誰もいない。電気は消され、まだ僅かに残る太陽の明かりだけが、2人の道を照らし出している。
朝のルーティンを行っていた菜月羽は、その静けさに慣れてはいた。しかし、今はその比ではない。
2人の足音だけが耳に届く。
自習室の扉を開けると、いつもと同じように熱気が襲ってきた。だが、普段の放課後よりも時間が遅い分、まだマシかもしれない。
「あと5分、ギリギリだったね」
菜月羽は窓を開けた。室内と変わらない熱せられた空気が入り込んでくる。
2人は並んで空を見ていた。足は疲れているはずなのに気にならなかった。菜月羽の、冬杞の、心臓の音が、隣に伝わってしまうのではないかと思うほど、大きく脈打つ。
すると。
「あ……」
菜月羽が声を漏らした。
光の筋が、真っ直ぐに上に伸びていく。
そして。
花が咲いた。
数秒遅れて、ドンという音が伝わってくる。
「はじまったな」
「うん」
1輪の花が合図だったかのように、花火は次々と夜空に咲き乱れた。
「すごい……」
5分程続いただろうか?しばらくすると、夜空が一休みするように、静寂が訪れた。「え?終わったの?」と心配になりはじめる頃、また花火が咲き誇る。それの繰り返しだった。
「綺麗……」
菜月羽は呟く。冬杞はそっと彼女の方を見た。満面の笑みが、遠くの花火の光によって輝きを増す。その笑みは冬杞にも伝染し、自然と口角が上がった。
「初めて、ちゃんと見たよ、花火」
「俺も。こんなにしっかり見たの、久しぶり」
花火に魅了されながら、2人は湧き上がってくる言葉を素直に口にする。
どこか近くで、小さな子どもが「花火だあ」と叫んだ。2人は一瞬、ここにいることがばれたのかもしれないと思ったが、そういう訳ではなさそうだ。顔を合わせ、ふふっと笑う。
しばらく瞳のフィルターに焼き付けていた花火だったが、
「花火って、写真でも綺麗に撮れるかな?」
菜月羽はスマホを取り出した。画面越しに見てみたが、やはり本物には敵わない。
「やっぱり、だめだね」
彼女はすぐにスマホをしまった。そして、また、その瞳に焼き付けていった。
「冬杞くんがいてくれてよかった」
「え?」
ちょうど花火が一休みしているところだった。
「私1人だけだったら、こんなことしようと思わなかった。花火も見ないままだったよ」
「……それは、よかった」
「共犯者がいてくれてよかったよ」
「共犯者?」
菜月羽は冬杞を指差しながら、
「共犯者」
楽しそうに笑った。
「何だよ、共犯者って」
冬杞も笑う。全く嫌ではなかった。こんな冗談を言い合えるほどに、2人の距離は縮まっていた。
しかし、冬杞を指差す手を下ろす時、
「あ、ごめんなさい」
菜月羽の右手が冬杞の左手に触れた。そんな些細なことに対して、いちいち謝るところに恋人(仮)の壁を感じる。そして、そんな壁を、今日の今ほど、もどかしく感じたことはなかった。右足で壁を小突く。
冬杞はそっと、しかし力強く、菜月羽の手を握った。
「え?」
その瞬間、再び、花火がはじまった。その花火の音で、菜月羽の声は聞こえないふりをする。
恋人(仮)でも、恋人は恋人だ。手を繋ぐことなど普通のことだ。冬杞は心の中で開き直る。
菜月羽はしばらく、花火を見ず冬杞の横顔を見ていた。目の奥が熱い。胸が高鳴る。しかし、菜月羽は何も言わず、花火を見つめた。そして、自分の手にぎゅっと力を込めた。
時間はあっという間に過ぎてしまう。菜月羽はそれを身に染みて感じる。楽しい時間、幸せな時間は、どうしてあっという間に感じてしまうのだろう。
――もっと続いたらいいのに。
「ん?」
冬杞は何か聞こえた気がして、菜月羽の方を見た。
「なんか言った?」
「ううん」
菜月羽は首を振った。心の声が無意識の内に漏れていたのかもしれないと思い、彼女は1度、唇をきゅっと引き結んだ。
――あと1時間。
――あと45分。
――あと30分。
刻一刻と時間が過ぎる。時計を確認する頻度が増える。
――あと15分。
「早いな、時間が経つの」
菜月羽の心の声が、冬杞の言葉となって耳に届いた。
「そうだね」
静かに同意した。
「今日は私にとって、最高の1日だよ」
「俺も」
「……よかった」
「ついでにさ、」
冬杞は菜月羽と繋がれていた手をそっと解いた。そして、両手を自分の首の後ろに回す。
「菜月羽、後ろ向いて」
「え?」
「いいから」
首を傾げながら、菜月羽は冬杞に背を向けた。すると、肩の辺りに冬杞の手が触れる。
「え?」
振り向こうとしたが、
「まだ動かないで」
冬杞がそれを制した。
自習室の中に、一際明るい光がもたらされる。遅れて、ドンッという大きな音が響いた。
まだ首の後ろに冬杞の温もりがある。くすぐったいような、それ以上に恥ずかしいような。
「よし、いいよ」
冬杞の言葉を合図に、菜月羽は全身の力を抜いた。知らず知らずの内に、緊張していたようだ。
そして、冬杞の方に身体を向ける。その時、
「これ……」
菜月羽の胸元がキラリと光った。
「冬杞くんのネックレス……」
左手でそっと持ち上げて確認する。間違いなかった。
「なんで……?」
冬杞はじっと菜月羽を見た。
「あげる」
「え、でも……」
「欲しいって言ってただろ?」
ショッピングモール内でのことである。確かに、アクセサリーの話はしていた。
けれど。
「あれは、そんなつもりで言った訳じゃ――」
「いいよ」
戸惑う菜月羽を諭すように冬杞は笑みを浮かべた。
「俺にとっても、今日は最高の1日だった。その中に、この思い出も入れておきたい」
「え?」
「俺が菜月羽にプレゼントをした、っていうこと。これも、いい思い出になったらな、って」
冬杞の笑みは優しかった。暗闇でも、よく分かる。
「菜月羽は?……嫌、だった?」
「それは……」
菜月羽はネックレスを見つめた。
「(仮)だから、かっこつけすぎてるのは分かってる。でも、それでも、俺たちは恋人な訳だし、罰は当たんねえと思ってる」
本当は少し勇気が必要なことだった。こんなことをして、菜月羽にひかれるのではないかとも思った。しかし、受け入れてくれる気がした。自惚れているのは承知の上で、菜月羽は喜んでくれると思った。思いたかった。
だが、次の花火が打ち上がった時、
「え?」
菜月羽の瞳がひどく輝いていることに気付いた。
「え?なんで?」
涙が止まらなかった。
――ヤバイ、さっきは我慢できたのに。
急いで菜月羽は涙を指で拭った。
「なんで?なんで泣いてんだよ?」
拭っても拭っても涙は止まらない。
――なんで止まらないの?
「最高の1日だったのに……、それだけで十分だったのに……、こんな素敵なプレゼントまで……」
途切れ途切れに菜月羽は告げる。
「こんなに幸せなことばっかりで、私、もうすぐ罰が当たるね……」
冬杞はふっと笑みを零した。
「なんで罰が当たるんだよ」
菜月羽は手で顔を押さえながら、少し俯いてしまう。
「別に悪いことしてないだろ?」
「でも、私――」
――私……。
そのあとの言葉が続かなかった。伝えたいこと、伝えるべきことは、たくさんあったのに。でも、言葉が詰まって、胸がいっぱいで、何も生まれなかった。
そんな彼女の姿を、冬杞は微笑ましく見つめる。感極まっているのが分かる。きっと、喜んでくれているのだろう、ということも。
しばらく泣き腫らした菜月羽は、ようやく落ち着いてきたようだ。
「落ち着いた?」
「うん……」
菜月羽は頷いた。
「でも、」
「ん?」
「暗くてよかった」
「なんで?」
「私、絶対ひどい顔してる」
ははっと冬杞は笑った。
確かに、あれだけ泣いていたら目も腫れているかもしれない。しかし、今この場所、今この瞬間であれば、表情は分かるが細かい部分までは分からない。
「今日中に治るといいな?」
「え?」
「明日、学校」
現実に引き戻される気分だった。
「そうだね……」
「まあ、俺は見たい気もするけど」
「ひどい……」
ははっとまた冬杞は笑った。つられて菜月羽も笑う。
そして、心身共に落ち着いてくると、今度は急に心配になってきた。
「冬杞くん」
花火はスターマインが披露されている。打ち上げ花火よりも少し低い位置で、バチバチと光を放っている。
「これ、本当にいいの?」
菜月羽はずっと握りしめていたネックレスを冬杞に見せた。長年、冬杞の身体の一部となっていたものだ。
「恋人(仮)としては本当に嬉しい。でも……」
そんなものを貰う申し訳なさもある。
「いいよ」
しかし、冬杞は気にしていない。
「もし、気になるなら、」
「え?」
ニッと彼は笑う。
「いつもの交換条件」
「交換条件?」
冬杞はスマホで時間を見た。
――あと10分。
「歌、聴きたい」
菜月羽は少しだけ目を見開いたあと、黙って頷いた。
いつもより少し抑えめに、菜月羽は歌を歌う。冬杞はその声を聴く。
2人はまた、花火を見る。
2人はまた、手を繋ぐ。
約束の8時半の少し前に、菜月羽は再び涌井先生に電話をした。そして、そっと校舎内を歩き、職員玄関に向かう。
職員玄関は蛍光灯の光に満ちていて、目が眩んでしまった。涌井先生がまた冬杞のことを尋ねようとしたことと、泣き腫らした顔を2人に見られたくないことが相まって、菜月羽と冬杞はそそくさと校舎を出た。涌井先生には、心の中で最大級の感謝の言葉をかけておいた。
今、2人は、生徒用昇降口の段差に座り込んでいる。外はさすがに真っ暗だ。
ここに着いてから、菜月羽は母親に電話をした。予定通り、9時に迎えに来てほしいと伝えた。冬杞も家族に同様の内容をメッセージで送った。すぐに返信が届いて、OKということだった。
L高はこの地域の避難場所にも指定されている。その為、災害時に備えて、校門は開けっ放しになっている。車が来たら、すぐに分かる。
でも、花火は見えない。不規則に花火の音が響くだけだ。
「大丈夫?疲れてない?」
菜月羽が足を伸ばして座り込んでいいるのを見て、冬杞は尋ねた。
「疲れてはいる」
彼女は素直に告げた。
「だよな」
冬杞も同意した。
はあ、っと2人は息を吐いた。そのタイミングがあまりにもぴったりで、2人はふふっと笑った。
もうすぐ幸せな時間が終わってしまう。充実感と虚無感が、同時に胸の中に居住しているような気持ちになる。
「先生、大丈夫かな?」
「何が?」
「めっちゃ気にしてただろ、俺らの関係。他の奴らの前で話したりとか……」
すると菜月羽は首を振った。
「こっそり聞かれることはあるかもしれないけど、他の人の前では大丈夫だよ」
「そうかな?」
「だって、今日のことはばれたら困るでしょ、先生も」
菜月羽は悪戯な笑みを浮かべた。
「それもそうだな」
花火の音が響く。これまでに比べてその時間が長い。クライマックスに差し掛かっているのかもしれない。
「あ……」
菜月羽が短く声を上げた。その視線の先には車のライトが見える。
「あれ、」
校門近くの道端にライトは停車した。
「多分、私のお母さん……」
「そっか……」
別れの時だ。2人は沈黙する。
すると、菜月羽は急にパッと立ち上がった。その手には、弟へのプレゼントもしっかりと握られている。
「冬杞くん、ちょっと待ってて」
「は?」
菜月羽は駆け出した。
「え?あ、ちょっと菜月羽!」
冬杞の呼び掛けも空しく、菜月羽はライトに向かって走っていく。
「え?これで終わり?」
彼は呆然と立ち尽くす。しかし、しばらくすると、車のライトが消えた。
「ん?」
そして、暗闇の中から、
「冬杞くん!」
「菜月羽!」
菜月羽が戻ってきた。持っていた荷物がなくなっている。
「何?どうした?」
「お母さんに言ってきた」
「え?」
「冬杞くんの迎えがまだ来てないから、来るまでもう少し待ってて、って」
「ああ……」
「で、いいよって」
そういった機転はとてもよく利く母親である。
「もうちょっとだけ、一緒にいられる」
菜月羽は微笑んだ。
といっても、特に何かすることがある訳でも、話さなければいけないことがある訳でもない。
「何か、今日中にしておきたいこと、ある?」
冬杞は一応聞いてみた。
しかし。
「ううん、もう十分。いろいろなこと、してもらった」
案の定、菜月羽は首を振った。
「冬杞くんは?何かある?」
「んー」
「あ、たまには歌以外でね」
冬杞は考える。
「ないな」
しかし、結局何も思い浮かばなかった。
「あ、じゃあ……」
菜月羽は冬杞のすぐ隣まで来た。そして、その場に座るように促す。
「このまま、いい?」
2人は横並びに座った。そして菜月羽は、冬杞の身体にその身をもたれさせた。
冬杞にNOの答えはない。
正直なところ、2人の「しておきたいこと」はひとつしかなかった。
――傍にいられたら、それでいい。
夏の熱気が2人を包む。しかし、2人は気にしない。
――大丈夫かな?
心臓の音が冬杞に伝わっていないか菜月羽は心配になる。
――でも、
花火の音できっと分からない。
2人は花火の影に隠れ、暗闇に溶けるように、そっと寄り添い続けた。
☆☆☆