――7時半からだから、

菜月羽(なつは)は心の中で呟く。

――えっと……。

すると、音楽で満たされていた脳内に、駅構内の喧騒が流れ込んできた。振り向くと、イヤホンの片方を持った冬杞(ふゆき)が立っていた。

「あ、冬杞くん」

彼は眉間に皺を寄せた。

「あ、じゃない」

その理由を、菜月羽は何となく察した。

「言ったよな、両耳イヤホンは気を付けろ、って。声掛けても気付かないし」

「……はい」

「菜月羽が思ってる以上に変な奴はいっぱいいるんだからさ、気を付けろよ」

心配されているという錯覚を覚えた菜月羽はにこりと笑う。

「何、笑ってんだよ?」

「ううん、なんでもない」

しかし、冬杞には、そのことは秘密。

「あと、」

「ん?」

「電話でも聞いたけど、ちゃんと親には言ったんだよな?」

昨日、1度だけ冬杞から連絡があった。ちょうど、菜月羽の手元にスマホがある時だったのだが、着信音が鳴って驚いてしまった。このスマホの着信音を聴いたのは、購入してから数回目だ。

『もしもし』

『菜月羽?』

『うん。冬杞くん?』

『うん』

『どうしたの?』

『いや、あれからどうなったかなって』

『ああ、うん、大丈夫。ちゃんと許可もらったよ』

『そっか』

『うん』

『なら、いいや』

『うん』

『じゃあ』

『また明日』

何とも事務的な内容だった。菜月羽にとっては、家族以外と電話をする貴重な体験だったのだが。それでも、電話を終えたあとの彼女は、顔が緩みっ放しだった。

ちなみに、電話を終えた冬杞が、小さくガッツポーズをしたのは、誰にも秘密である。

「大丈夫」

菜月羽は力強く頷いた。

「そっか」

そこで、ようやく2人は、互いの姿を確認した。頭のてっぺんから足のつま先まで、心のシャッターをきるように。

――大丈夫。お母さんにも見てもらったし。

当然、菜月羽は私服で同級生に会ったことなどない。いや、正確には小学生以来か。

そして、もちろん、同級生の私服姿を見るのも久々だ。たまに母親と出掛けていて同級生を見掛けることもあるが、その姿を見ると、菜月羽はすぐにその身を隠す。人見知り故の、小さい頃からの癖である。

だからこそ、今日という日は、そういう意味でも特別だった。

「なんか、やっぱり新鮮だね、学校以外で会うのって。私服も」

思ったことをそのまま口にする。

「そうだな」

冬杞からしてみても、菜月羽と状況はほとんど変わらない。

「冬杞くん、かっこいいよ」

笑いながら言う菜月羽。本気なのか冗談なのか、判断が微妙な言い方だった。

「何だよ」

もちろん、菜月羽は本気だ。

「何か期待してる?」

「ばれた?」

悪戯な笑み。

「冬杞くんにかわいいって言ってもらいたくて」

馬鹿なふりをして、だめ元で言ってみる。

「何だよ、それ」

ふっと息を漏らした冬杞は、

「かわいいよ、菜月羽」

菜月羽の遊びにのった。冬杞は、顔面の火照りを感じた。

こんなことを言い合える仲にはなったが、慣れている訳ではない。こんな冗談にのらなければ、馬鹿なふりでもしなければ、言いたいことを素直に伝えることは、まだまだ難しい。

「行こ」

「うん」

2人はホームに入った。

向かいのホームに電車が入ってきて、多くの人を吐き出した。その中に、浴衣を着た若者がいることに、冬杞は気付く。

「今日って、」

浴衣姿の若者を目で追い続けながら尋ねる。

「ん?」

「何かあった?」

菜月羽は冬杞の視線を辿る。ちょうど人々が、ホームの階段を下って姿を消すところだった。

「今日、花火大会だよ」

「花火大会?」

「うん」

――そういえば、

駅のそこかしこに花火大会のポスターが貼られている。日付は7月15日。確かに今日だ。冬杞を待っている間に菜月羽が見ていたのも、そういえばこのポスターだったな、と思う。

「花火は夜からだけど、お店とかは、もうこの時間から出てるんじゃないのかな?」

「そっか……」

冬杞はまだ、若者たちの影を見つめている。

――恋人なら、

恋人に憧れをもつ菜月羽にとって、買い物に行くよりも花火大会に誘ってあげた方がよかったのかもしれない、と冬杞は思った。市内で開催される花火大会を背にし、これから2人は、多くの恋人の流れに逆らって進んで行くことになる。どこか皮肉めいた事実に、冬杞はほんの少し気分が沈む。

しかし、そんな沈んだ気分をかっさらうかのように、ホームに電車が入り込んできた。自然と冬杞の視界も遮られる。

「冬杞くん」

「ん?」

電車が、止まるか止まらないかの微妙な速度で流れている。

「この電車?」

冬杞は目を細めて電車に表示されている文字を確認する。

「うん」

「そっか、じゃあ乗ろう」

電車から吐き出された人の群れの中には、やはり浴衣姿の若者が交ざっている。皆、どこかウキウキとした楽しげな表情をしている。

冬杞は小さく息をついた。

降りてくる人の塊を避けようとした菜月羽は、冬杞の方に身を寄せた。腕と腕が触れ合う。

「あ、ごめん」

菜月羽が謝った。その時、2人の視線が重なる。そして、冬杞の考えが杞憂だったと実感した。彼女は、ここにいる他の誰よりも、楽しそうな笑みを浮かべていたから。

――よかった。

冬杞も笑みを浮かべた。

降りる人に比べ、乗り込む人は少なかった。電車の中もガランとしている。

2人が乗った電車は6両編成で、座席はロングシートタイプだった。菜月羽たちは誰も座っていないシートの端の方に腰を下ろす。

目的地までは、30分程の短い旅路である。

「私、遠足とか以外で電車に乗るの、初めてかも」

不意に菜月羽がこぼした。

「そうなんだ」

「小さい頃とかはあるかもしれないけど、覚えてる限りでは初めて」

彼女は頭の中の記憶の引き出しを探るように、少しだけ上の方を見た。

「冬杞くんは?」

「俺も――」

俺もそうかも、と言いかけて思い出した。

「そういえば、高校受験の時、こっちの私立も受けたから、その時に乗ったかな」

「あーなるほど。っていうことは、結構最近だね」

「ああ。でも、それぐらいかな。俺も普段は電車なんて乗らない」

「そっか」

そして、菜月羽はほんの少し声量を落として尋ねた。

「最近って、電車に乗る時、みんなスマホ触ってるんだね」

言われて、冬杞はあまり首を動かさないように辺りに視線を送った。確かに、皆、スマホを触っている。あるいは、寝ているか。

「最近はそんなもんじゃねえの?」

「ふーん」

菜月羽はうんうんと頷く。

「みんな、何してるんだろうね。やっぱり、ゲーム?」

スマホ=ゲームというのは、弟の影響が強い。

「それもあるだろうけど、あとはSNSの確認とか、動画とか。あとは、」

「あとは?」

菜月羽は冬杞の顔を覗き込むようにして聞き返した。

「特にすることはないけど、時間をやり過ごす術がなくて、何となく触ってるだけ」

彼女が首を傾げる。

「あの時の俺がそうだった」

「あの時?」

冬杞は菜月羽を見てニッと笑った。冬杞が言う「あの時」とは、朝の教室で出会った「あの時」である。

2人だけの空間で、いくつか言葉を交わしたが、そのあと、冬杞はスマホを取り出し、菜月羽との会話を終了させた。「もうお前に興味はない」オーラを感じたことを、彼女も覚えている。

「あの時の俺は、まだ、菜月羽とどう接していいか分からなかった。でも、あのまま席に座ってるだけだと、どこを見たらいいのか、何か話した方がいいのか、いろいろ考えないといけないような気がして」

菜月羽は頷いた。

「確かに、あの状況でスマホを触ってるのを見たら、『ここで話は終わり』って言われてる気がした。だから私も話し掛けなかったし、一旦、教室を出よう、って思った」

あの時、冬杞=一匹狼のイメージが強かったことは否めない。話し掛けづらい、近付きづらい印象に加えて、彼の行動は、菜月羽を冬杞から遠ざけた。

「まあ、今となっては、あんなごまかし、意味なかったけどな」

冬杞は笑った。

彼は、菜月羽と2人でいる時以外は、やはりいつもの彼だった。誰とも交わらない、一匹狼。そんな様子を見ていると、菜月羽はつい微笑ましくなってしまう。それは、誰も知らない冬杞の姿を知っている誇らしさ、とも言えるかもしれない。菜月羽に見せる冬杞の姿は、一匹狼とは程遠い、柔らかくて優しい存在だ。意外と話すことが好きで、気遣い屋で、菜月羽の心を大きく動かしてくれる。だからこそ、恋人(仮)(かっこかり)というお願いも引き受けてくれたのだ。

しかし。

「後悔してる?」

ほんの少し気になっていた。これまで築き上げてきた「今原冬杞」を壊してしまったのではないか、と。後悔しているのではないか、と。

すると冬杞は、しばらくじっと菜月羽の瞳を見つめた。真顔で見つめられ、菜月羽は少し恥ずかしくなる。

「俺が後悔してると思う?」

質問を質問で返される。

――これは、どっちの意味?

自惚れてもいいのだろうか?けれど、否定されているとも思わなかった。

「思わない」

菜月羽は首を振った。

真顔だった冬杞が、ようやく笑みを見せた。

「俺も思わない」

彼に無理をさせている、そう思う時もなくはなかった。しかし、冬杞にしてみれば、菜月羽の前にいる時も他の同級生の前にいる時も、どれも本当の冬杞なのだ。意識的にスイッチを切り替えている訳でもなく、自然と表情を変えている。

考えてみれば、人は自然と表情を変えている。同じ家族でも、親に見せる顔ときょうだいに見せる顔は違う。同じクラスメイトでも、菜月羽と冬杞の2人きりでいる時の顔と休み時間を過ごす時の顔は違う。けれど、そのことにストレスを感じている訳ではない。例外ももちろんあるだろうが、そういうことを、人は自然に行っている訳で特別なことではない。きっと冬杞も。

菜月羽はそう思うことにする。

「ここに乗ってる人の1人ぐらいは、俺みたいな奴もいるんだろうな」

「ん?」

現実世界に引き戻された菜月羽は、そういえばその話をしていたんだったと思う。

「別にスマホを触りたい訳じゃねえけど、それ以外、時間を潰す方法を知らない奴」

冬杞はさりげなく視線を巡らせた。

「電話なんてないのに着信履歴を確認したり、メールなんて届いてないのに受信を確認したり、特に興味のないニュースの見出しを見たり、意味もなく写真を見直したり、そうやって時間を潰してる人が1人ぐらい」

「あの時」の自分を思い浮かべながら冬杞は力説する。

「何もすることがないなら、ぼーっと窓の外を見てたらいいのにね。景色とか」

電車に乗り慣れていない菜月羽にとって、窓外を眺めることは、スマホの画面を見ているよりも楽しくて面白い。

冬杞はふっと息を漏らした。

「菜月羽だったら、窓の外、見る?」

「うん。音楽聴きながらとか、楽しそう」

「そっか」

そんな他愛のない話をしながら、あっという間に30分の旅は終わってしまった。

電車を降りて、駅の建物から出ると、熱気がぶわっと2人を包み込んだ。電車の中は冷房で程よく涼しさが保たれていたが、外に出ると容赦なく熱気が襲ってくる。7月半ばの午後に出掛けたいと言った時点で、その辺りは覚悟しておくべきだった。

冬杞の言っていた通り、駅からはショッピングモールの一部が確認できた。冬杞に先導してもらい、菜月羽はその横にぴったりとくっついていく。

会話はあまりなかった。暑さのせいもあるが、初めて歩く道に興奮していたというのが菜月羽側の本音である。キョロキョロと辺りを見回し、その景色を胸に刻み込もうとしているように冬杞には映った。だから敢えて会話はせず、思い思いに歩いていた。

ショッピングモールの敷地内に入ると、広大な駐車場が広がっていた。こんな駐車場の1番端っこに駐車しようものなら、駅から歩いてきたのと同じぐらいの時間を掛けないと入口まで辿り着かないんだろうな、と菜月羽はぼんやりと考えた。

「あー、涼しー」

ショッピングモール内は、当たり前かもしれないが、冷房がきいていて、とても快適だった。生き返った経験などないけれど、2人は心身共に生き返った心地になる。

入口のすぐ近くにある館内マップで、目的のショップを探していると、

「あ、あった!」

菜月羽が先に見つけた。指差した先には、確かにショップ名が記されている。

「2階だな」

「うん」

「とりあえず、先にそこから行く?」

「うん」

互いに、どのような心積もりでここまでやって来たのかは分からないが、とりあえずの目的は、菜月羽の弟のプレゼントを購入することだ。冬杞も特に異論はない。

3連休3日目の夕方前ということで、どれほどの混み具合だろうと内心思っていたが、心配する程のことはなかった。歩いていて不快になる程の混雑さでもなく、歩いていて不安になる程の閑散さでもなく、いわゆるほどほどの人出である。

目的のショップはすぐに見つかった。人目に付きやすいところには、いくつかのマネキンが置かれていて、スポーツウェアを身にまとっている。赤・青・黄、カラフルなウェアが、菜月羽たちの目を楽しませてくれる。

「あっ」

冬杞は声を上げた。その視線の先には、菜月羽の弟が好きなサッカーチームのグッズが並んでいた。

「あ、あったね」

2人はそのコーナーに近寄った。

「いっぱい、あるんだね……」

「何、その言い方」

「だって、こんなにあったら迷うでしょ?1種類しかなかったらそれを選ぶだけでいいのに」

冬杞は「何だそれ」と愉快そうに笑う。

「プレゼント選びを苦痛に思ったら元も子もないだろ?もっと楽しんだら?」

「そうなんだけど……」

公式グッズと銘打って並んでいるのは、ユニホーム・キーホルダー・トートバッグ・マスク・靴下・タオル・ぬいぐるみ・帽子・ウエストポーチなどである。ひとつひとつの数は少ないが、どれも種類は豊富に取り揃えられている。

「うーん……」

菜月羽は難しい顔でグッズを見ている。そのまま彼女の様子を観察していても面白かったが、さすがにかわいそうに思えてきて、冬杞は助け船を出した。

「金額は?どれぐらいで考えてるの?」

「うーん、特に。あんまり高いのはさすがに無理だけど、基本的に値段は考えてないかな」

「弟はプレゼント、使いたいタイプなの?」

「ん?」

「例えば、ボールペンをプレゼントされたら、それは使う?それとも使わずに置いておく?」

「あー……」

菜月羽は腕を組んで、弟のことを想像した。

「弟は使うかな、プレゼントでも」

「そっか」

冬杞も腕を組む。

「弟は中学生だったよな?」

「うん」

「てことは、あんまり学校に変なものは持っていけないよな」

高校生にもなれば、余程規律や風紀を重んじる学校でなければ、携帯の持ち込みはOKで、人によってはゲームやマンガだって持ち込んでいる。生徒指導の先生に目を付けられなければ、多少派手な髪飾りをしていたり、こっそりネックレスやブレスレットなどのアクセサリーをしていても、普通に1日を過ごせる。

もちろん、校則には、「華美なもの」は控えるようにと記されているので、生徒指導の先生に見つかれば、即没収かつ反省文が待っている。

しかし、中学生となると、なかなかそうはいかないだろう。普段の生活はもちろん、部活中も指定の体操服か部活動内で作ったオリジナルTシャツぐらいしか着用できないことが多い。

「そうだね。あの子、ユニホームとかあげたら、そのまま学校まで着ていって、先生に怒られそうだし」

「日常的に使えて、学校にも持っていけて、先生に怒られなくて、でも何気に自慢できるもの……」

「それって、」

菜月羽は、冬杞が言う条件に合うものを、ひとつひとつ絞りこんでいった。そして、ゆっくりと手を伸ばし、

「これぐらいしかない、よね?」

タオルを手にした。

「そう、だな」

確かに、条件に合う。

「いいんじゃねえの?」

「だよね!」

菜月羽は目を輝かせた。

タオルといっても、公式グッズともなれば、値段は1000円も2000円もする。誕生日プレゼントとしては、申し分ないだろう。

だが。

「タオルだけでも種類が……」

彼女はこぼす。

種類は多い。再び菜月羽は悩みはじめたが、最終的には、彼女の好みで2つのタオルと、面白いからという理由で公式マスコットキャラクターのキーホルダーを購入することに決めた。そこそこいい値段だったが、これはあくまでも、菜月羽から弟への誕生日プレゼントだ。冬杞がお金を払う訳にはいかない。レジへは菜月羽1人で向かった。

その間、冬杞は隣のショップに入り、ブラブラと見て回った。あまり客はおらず、さして興味もない商品しかなかった為か、菜月羽が来るまでの時間がとても長く感じられた。

数分して、ようやく菜月羽がショップ内に現れた。満足げな笑みを浮かべている彼女を見た瞬間、冬杞は手持ち無沙汰だったことを忘れてしまった。

「冬杞くん」

冬杞は笑みで応じる。

「買えた?」

「うん」

「遅くなかった?人、多かったの?」

菜月羽は首を振った。

「ううん、無料でラッピングしてくれるみたいだったから、お願いしてて。ほら」

スポーツ用品店のロゴが印刷された袋から、更に袋を取り出した。ショップの雰囲気と同様、上品な感じである。

「へー、よかったな」

「うん」

菜月羽は、プレゼントを袋の中に戻した。

そして、改めて、2人は見つめ合う。

「菜月羽、他に見たいところ、ある?」

2人の目的は、あくまでも、プレゼントの購入だった。それを達成した今、2人には何もなくなってしまった。

「うーん、特にないけど……」

けれど、このまま帰りたいとも思わない。まだ、滞在時間は30分程である。菜月羽にとっての貴重な外出をまだまだ楽しみたい、というのが本音である。

冬杞も、その辺りの心情を何となく汲み取った。

「時間は平気なの?」

彼女の母親のことを気にしての発言だった。

「それは大丈夫」

「なら、とりあえず1周する?入りたい店があったら言って」

すると、菜月羽は笑顔を弾けさせた。

「うん」

2人はショッピングモール内を歩きはじめた。

「菜月羽はさ、」

「ん?」

歩きながら冬杞は声を掛ける。

「弟から何か貰ったこと、あるの?」

「うん、あるよ」

「何、貰うの?」

菜月羽は辺りに視線を巡らせながら、冬杞の問いについて考える。

「んー、いろいろあるけど、」

頭の中で幼い頃の弟を思い浮かべた。

「いっても小学生とかだからね。お菓子とかハンカチとかキーホルダーとか、あとは、あの子が描いた絵とか、そういうのかな」

「へー、仲良いんだな」

「そうだね、仲は昔から良い方だと思う」

菜月羽はうんうんと頷いた。

「でも、私は弟と違って、貰ったものを使うことが出来なくて。なんか、もったいないんだよね」

彼女は自分の部屋を想像した。

引き出しの中には、いくつかのハンカチがあり、普段使いしているのだが、その脇には小さな袋が置かれている。それが弟から貰ったプレゼントのハンカチだ。タグなどもそのまま残っている。

壁には、基本的には何も飾っていないのだが、唯一、弟が描いた絵だけは貼られている。何年も前のことで、紙は黄色く変色しているが、今でも、それを見るとクスッと笑みが零れる。

お菓子はさすがに食べてしまうが、外箱に「おねえちゃん」と書かれているものは、なぜか捨てられず、学習机の中に眠っている。

キーホルダーなども、鞄などにはつけず、あくまで、部屋に飾ってある。

「その辺は、人それぞれだよな」

「うん」

2人は、本屋に併設されているCDショップに入った。

「じゃあさ、菜月羽は、恋人から何か欲しい、って思う?」

「恋人から?」

「ああ。考えたことない?」

付き合うことに憧れをもっている節のある菜月羽なら、そんなことを考えたこともあるのではないか、と思ったのだ。

「うーん」

菜月羽は考えるが、

「考えたことないな」

意外な答えが戻ってきた。

「ないんだ、考えたこと」

無数にあるのではないかと思われるCDの壁を見つめながら、菜月羽は頷く。

「私は好きな人が近くにいてくれたらそれでいい、って思っちゃうかな。傍にいてくれたり、一緒に話してくれたり、それで十分。だから、恋人からこれをプレゼントしてほしい、って考えたことはないかな」

「そっか」

そういえば、付き合ってほしいと突拍子もないお願いをされたあの時も、そんなことを言っていたな、と冬杞は思う。

『一緒にいて、一緒に話して、それだけでいい。今原くんの横にいたいだけなの。それ以上、変なことは求めたりしない』

『教室とかじゃなくて、誰もいないところで2人で会いたい。出来れば毎日。別に、ずっと喋ってなくてもいい。なんなら、今原くんは寝ててもいい。その近くに私がいるだけでいい。……だめ?』

あの頃、という程も昔の話ではないが、菜月羽は冬杞のことを「今原くん」と呼んでいた。

「菜月羽らしいな」

「そうかな?」

「ああ。……でも、それじゃ困るんだよな」

冬杞はCDの壁に向かって、ぼそっと呟いた。最後の方は、ほとんど独り言である。

一方の菜月羽は、CDの壁から冬杞の方に顔を向けた。

「ごめん、何か言った?」

「……ううん、何も」

「そっか」

菜月羽は少し首を捻ったが、あまり気にしていないようだ。

――困るんだよな。

今度は心の中で呟いた。右足で、地面をコンコンと蹴っている。それを視界の隅で捉えた菜月羽は、

「あ!でも、」

「ん?」

「もし仮にそういう機会があったら、」

菜月羽は、冬杞のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。

――近い。

冬杞は内心、胸を高鳴らせた。

「こういうの、いいなって思う」

彼女は、冬杞の首元を指差す。その指先には、

「……何のこと?」

何もなかった。菜月羽はにこりと笑う。

「これだよ、これ」

菜月羽はそっと冬杞の首に触れた。例のごとく馬鹿なふりをして。そうでもしなければ、男性の肌に触れることなど出来はしない。

彼女が触れたのは、冬杞が身につけていたネックレスだった。

「……これ?」

「うん」

菜月羽は冬杞の肌から指先を離し、代わりに冬杞がネックレスを持ち上げた。

細いシルバーチェーンの先に葉っぱをモチーフにした飾りがぶら下がっている。いつだったか、冬杞はこのネックレスに一目惚れしてしまい、自分のお金で購入した、ある意味思い入れのあるアクセサリーだった。普段は時計すら身につけていないのだが、その日以降、このネックレスは冬杞の身体の一部と化した。長目のチェーンおかげで、ネックレスは服の内側に影を潜め、制服を着ている時でさえも、誰にも咎められずに冬杞の傍にいる。

そして今も、そのネックレスは服の内側に入れてあったのだが。

「よく気付いたな」

「学校でもしてるよね?時々、首の後ろがキラッて光ってるのが見えて、『ああ、ネックレスしてるんだな』って思ってた」

L高では不必要なアクセサリーは認められていない。生徒指導の先生にばれたら即没収だが、普通に過ごしている分には、ほぼ確実にばれない。

「そうなんだ」

「なんか、アクセサリーって特別だと思わない?」

「え?」

菜月羽はまたCDの壁を見はじめる。時々CDを取り出しては、そっと元に戻している。

「だって、四六時中、肌身離さず、自分のところにあるんだよ?極端かもしれないけど、本当に1日中。特にネックレスだったら、学校でしてても、よっぽどのことがなかったらばれないし、お風呂に入ってる時も、最悪寝てる時だって外さなくてもいい」

「まあ、な」

現に、冬杞はつけっ放しである。

「誰かに堂々と見せる訳じゃなくて、2人だけの秘密。しかも、その秘密が直接肌に触れてるって、なんか、」

菜月羽は冬杞の方を見た。

「素敵だなあ、って」

そして、笑みを浮かべた。その笑みは、冬杞の全てをふわっと包み込むような、とても柔らかい笑みだった。慣れない感覚に動揺した冬杞は、つい、

「でも菜月羽の場合、もったいない、落としたくない、って言って、結局つけないっていうオチもありそうだけど」

軽い冗談で返してしまった。しかし、菜月羽は特に不快には思わなかったようで、

「確かに私ならあり得るかも」

と笑いながら同意された。冬杞も安心し、心地よい笑みを浮かべる。

――それより、

「それより、」

「ん?」

「さっきから何見てんの?」

初めは、ただCDを見ているのだと思っていた。しかし、どうやらそうではない、と冬杞は徐々に感じはじめていた。

「んー」

菜月羽は曖昧な返事をした。だが、諦めたように冬杞を見た。

「あの歌のCD、あるかなと思って」

あの歌、というのが、いつも菜月羽が歌っている「あの歌」だということは、すぐに察しがついた。

「ああ……、あの歌の……」

「うん」

「で、あったの?」

「なかった」

「そっか」

「新しい曲じゃないから、もう売ってないのかな?」

「かもな」

2人はショップを出た。

「さっきの話だけど」

冬杞は言った。「さっき」というのは、どの「さっき」だろうと、菜月羽は思う。

「菜月羽は遠距離恋愛できる?」

『私は好きな人が近くにいてくれたらそれでいい、って思っちゃうかな。傍にいてくれたり、一緒に話してくれたり、それで十分』

「さっき」の言葉だった。菜月羽は恋人が近くにいることを前提にしている。だから、不意に思ったのだ。

しかし、いつまで経っても菜月羽からの返事はなかった。不思議に思って、冬杞は隣を歩く菜月羽を見た。

彼女は真っ直ぐ前を向いていた。表情がほんの少し、怖い。

――聞こえなかった?

「菜月羽」

もう1度声を掛けると、菜月羽は我に返ったように笑みを浮かべ、冬杞の方を見た。

「あ、ごめん」

「どうした?」

「ううん、遠距離恋愛かあ、って思って」

菜月羽はまた前を向いた。

「距離って、」

「ん?」

「残酷だよね?」

「……ん?……残酷?」

「うん」

冬杞は首を傾げた。

「私たちはまだ10代の真ん中。でも、幼稚園・保育園から小学校、小学校から中学校、中学校から高校って、段階が何回も変わって、その度に何らかの出会いと別れがある。もっと言えば、クラスが変わることだって、ちょっとした出会いと別れを繰り返してることと似てると思う」

「うん」

――それは分かる。

冬杞は心の中で呟く。

「きっと、その中に1人ぐらいは、仲が良かったって思う人、いわゆる友だちって思える人がいたと思う。でも、その友だちと今も繋がりがありますか、って聞かれたら、どうかな?」

彼は想像してみる。

「それは……」

「友だちの定義は人それぞれだと思うから、一概には言えないけどね」

菜月羽は前置きをした上で、

「どれだけ仲が良くても、学校が変われば、クラスが変われば、その関係も大きく変わってしまう。

もちろん、会う頻度が少ないから友だちじゃない、っていう訳じゃないけど、でも、やっぱり何かが変わると思う」

冬杞は眉をひそめながら、黙って頷く。

「別に喧嘩別れしてる訳じゃないから、久しぶりに会って、話して、また別れることもあるかもしれない。普段は、その存在すら忘れていたとしても」

彼女の語り口は、妙に淡々としている。

「それでも、その人のことを友だちって思うかは、人それぞれだと思う。距離が生まれたことで、友だちじゃなくて、同級生って思うかもしれない。もしかしたら、ただの知り合いって思うかもしれない。これは、当の本人たちの性格によるのかな」

冬杞には、まだ話のゴールが見えない。

「でも、その人の気持ちとか考え方次第で、友だちでいることは出来る。仮にそれが、一方的なものだったとしても」

菜月羽は笑みを浮かべているが、どこか硬い印象を受ける。

「菜月羽、話のゴールが見えないんだけど?」

とうとう口を挟んでしまった。

2人はフードコートにいる。ドリンクだけを購入して、向かい合って座る。歩き回り、知らず知らずの内に足が疲れていたことを実感する。

冬杞は右足でテーブルの脚を小突いている。菜月羽はその様子をチラリと盗み見た。ドリンクをストローでゴクンと飲み、

「私、好きな人のことは、すっごく好きだと思う」

急に声のトーンを変えて話しはじめた。冬杞は拍子抜けしてしまう。

「は?」

菜月羽は悪戯な笑みを浮かべた。

「ははは、ごめん、話が飛びすぎた」

おかしさを堪えるように、ふふっと更に息を漏らす。

「具体的に話すね」

「ああ」

「まず、私は、会ったことがある人のことを好きになると思う」

「は?」

冬杞はまた、間抜けな声を出す。

「菜月羽、だからさ――」

と言いかけたが、菜月羽は「まあまあ」と彼を宥める。仕方なく、冬杞は黙ることにした。

「私は、SNSで誰かと繋がったり、ゲームで誰かと繋がったり、そういうことは何もやってない。だから、顔も見たことないような人を好きになることはない。つまり、実際に会ったことのある人を好きになる。

で、私は、好きに迷いがある状態では付き合わないと思う。好きじゃないけど雰囲気で、とか、そういうのは多分できない。だから、きっと、本当に好きな人、それもすごく好きな人と恋人になると思う。

それは相手も同じ。私がいくら好きだって思ってても、相手が私のことを好きじゃないって分かってたら、さすがに付き合おうとは思わない。私と同じ熱量とまでは言わないけど、でも少なくとも、ほんの少しでも私のことを好きだっていう愛情を感じられないと、きっと付き合ったりしない」

菜月羽は、自分の恋愛観を赤裸々に語る。

「そんな2人が何かの事情で離れ離れになる。理由はいろいろ考えられるよね?例えば、大学で別々になっちゃうとか、大学じゃないとしても、就職先が全然違うとか。もっと身近なところだと――」

言葉を切った。不自然な途切れに、冬杞は疑問を感じる。

「菜月羽?」

「とにかく、離れ離れになる可能性はいくらでもある」

菜月羽は強引に話を再開したが、冬杞はあまり気にしないことにした。いちいち気にしていたら、先に進まない。

「そして、もしそんな状況になったら――」

彼女はまた言葉を切った。しかし、今度は明らかに「ためている」のが分かる。なぜなら、冬杞を見つめる瞳が笑っているから。

「なったら?」

冬杞もその雰囲気に乗る。

「そんな状況になったら――、辛い!」

彼は頭の中で盛大に転んでしまった。大袈裟に「ためて」おきながら、生まれた言葉はあまりにも普通の言葉だった。

「あのさ――」

しかし、菜月羽は楽しそうだ。見方によっては、空元気にも見える。

「ごめんごめん」

冬杞は大きく息を吐き出す。

「でも、やっぱり辛いと思うな。今まで近くにいた大好きな人と離れないといけない、っていうのは」

菜月羽は真面目に話しはじめる。

「今時、簡単に電話が出来る。メッセージを送れる。なんなら顔を見ながら話すことだって出来る。

でも、それって、偽物じゃないけど本物でもない。その声を発してるのはただの音声、メッセージはただの文字、そこに映ってるのはただの映像。全部、スマホなんだよ。

そのことをふと感じた時、すごく辛くなるんだろうな、って。近いけど会わないのと、遠いから会えないのとでは、同じ『会ってない』っていう状況でも、意味が違ってくるんだよ、きっと」

ストローで氷をかき混ぜる菜月羽。

「恋人と距離って不思議だよね」

「不思議?」

「例えば、1年間、音信不通の人がいたとする。そして、1年ぶりに再会する」

「うん」

「その人が仮に家族だとしたら、その1年の空白も距離も関係ない。家族っていうのは、基本的に『気持ち』で変わるような関係じゃないから。

その人が仮に友だちだとしたら――、これはさっきも言ったね。

じゃあ、その人が仮に恋人だとしたら?特別な事情がある場合は別として、1年間、音信不通の人のことを恋人って言い続けることは出来るのかな?」

「……」

冬杞は即答することが出来ない。

「家族や友だちは距離があっても、連絡がなくても、その関係が成立するのに、恋人ってなると、不安になる。本当に私たちは恋人なのかな、って」

彼は静かに頷いた。

「その不安を払拭する為に、恋人は連絡をとり合ったり、実際に会ったりする。でも距離があると、連絡はとれても会うことは出来ない。やっぱり不安。遠距離じゃなかったら、感じなくてもいい不安なんだよ」

菜月羽は1口ドリンクを飲んだ。

「でも、現実に、遠距離恋愛中の人はいる。すごいな、って思う」

うんうんと頷く菜月羽の表情は、やはりどこか元気がない。

「それを乗り越える為には、自信がないとだめなんだろうな」

「自信?」

「離れていても自分が相手のことを好きで、相手が自分のことを好きでいてくれる、っていう自信」

菜月羽は困ったような笑みを見せた。

「じゃあ、その自信はどうやって感じるの、っていうことになるんだけどね。すぐに会えないんだから、やっぱり連絡をとり合うことがメインになるんだろうけど、お互いそれぞれの生活があるし、性格もあるから。マメに連絡をとり合うことを何とも思わない人もいれば、苦痛に思う人もいるだろうし、難しいんだろうね。上手くバランスをとらないと」

彼女の言っていることはよく分かる。

「だから私も、その自信があれば遠距離恋愛も出来るかな、って。その自信があれば……」

不意に湧いた疑問が、壮大なルートを通ってここまでやって来た。

「じゃあ、その自信がなかったら、別れるってこと?」

「……」

ここまで来たら、もう少し菜月羽のことを聞いてみたかった。

「そういうことに、なるね」

菜月羽は苦笑する。

「相手のことを疑うことになるかもしれないし、相手にいろいろなことを強いることになるかもしれない。……なんて言うんだろ、相手に申し訳ない、って思っちゃいそうで。そうしたら、恋人としてはいられないかな。相手に失礼だよ」

「相手に、か」

自分の気持ちより相手の気持ち、冬杞が菜月羽に抱いた印象だった。もし、本当にこんな状況になったら、菜月羽自身はどう思うのだろう。菜月羽の気持ちはどこに行ってしまうのだろう。

「私、期待しちゃうんだよね」

「期待?」

2人のドリンクは既に空っぽになっている。残っている氷だけが、少しずつ溶けていく。

「また会おう、また連絡する、社交辞令だって分かってても、私は、どこかでずっとそのことを期待して、待ち続けている。そんなことを期待されて、相手も迷惑だろうし、期待する方もどうかと思う。だから別れるってなったら、友だちにしても、恋人にしても、きっぱりと別れないと、私の場合。私自身が変な期待をしないように」

菜月羽は呟いた。言葉を選びながら話すその姿は、とても辛そうだった。

冬杞は強烈に申し訳ない気持ちになった。

「ごめん、なんか、嫌な思いさせた?」

「ううん」

彼女の赤裸々な恋愛観を目の当たりにした冬杞は、菜月羽のことをこの上なくいとおしく思えた。いつも笑顔で明るい印象があるが、どこか影の部分、いや、本当の菜月羽に触れたような気がした。

「お手洗いに行きたい」という菜月羽は、冬杞を残して席を立った。

1人になった菜月羽は、そっと息を吐く。

――なんで、あんなこと……。

わざわざ空気が悪くなるようなことを言う必要などなかった。きっと冬杞も、軽い気持ちで答えてくれることを予想していたのだろう。

――やっぱり、私……。

もう1度、菜月羽は息を吐いた。

一方の冬杞はスマホを見ていた。しかし、何か見たいものがある訳ではない。

――またか……。

無意識の内に、また「時間を潰す方法を知らない奴」になっていた。

「菜月羽、遅いな」

10分程は経っただろうか。迷った末に、冬杞も席を立った。すると、フードコートの入口近くで菜月羽の姿を見掛けた。

「菜月――」

声を掛けようとして思い留まった。菜月羽はスマホを耳に当てていた。

『……そんなに連絡してこなくて大丈夫だから。……マナーにしてあるから、どっちにしても気付かないって。……お願いだから、そんなに心配しないで。……うん。……うん、分かってる、9時でしょ?……大丈夫だよ』

人々のざわめきとショッピングモール内のBGMに交じって、菜月羽の声が聞こえる。内容からして、菜月羽の母親からのようだ。

『……うん。……うん。……だから分かってる。……ねえ、お母さん、言ったよね?最後の思い出なんだから。……だから、あんまり連絡してこないで。……なんかあったら、ちゃんと電話する。……うん、じゃあね』

振り向くと、菜月羽のすぐ目の前に冬杞が立っていた。驚いた菜月羽は目を丸くする。

「冬杞くん……」

「ごめん、遅かったから気になって」

「あ、ごめんね。お母さんから連絡が入ってて」

菜月羽は困ったような笑みを見せながら、スマホを掲げる。

「そっか」

「聞こえてた?」

「ちょっとだけ。心配しなくていい、ってところ」

「そっか。……そうなんだよね、お母さん、心配しすぎなんだよね」

冬杞は、小さな嘘をついた。

――最後の思い出?

どういうことなのだろうか。しかし、なぜか触れることが出来ず、そのことは黙っておいた。

「で、大丈夫なの?」

「全然、大丈夫。何も悪いことしてないから」

菜月羽は言った。

といっても、ここに来てから、もうかなりの時間が経っている。

「そろそろ帰る?」

特に用もない。これ以上フラフラしていても、また足が疲れるだけだ。

冬杞はスマホを取り出し、

「今から30分ぐらいしたら電車来るよ」

菜月羽に特に異論はなかった。

外に出ると、空の色が変わりかけていた。来た道と同じ道を歩いているのだが、どことなく行きよりも人が多い気がする。

2人を追い抜くスーツ姿の男性の肩が菜月羽にぶつかった。

「あっ、と」

思わず声が漏れたが、男性は振り返ることなくスタスタと歩いていく。彼も電車に乗りたいのかもしれない。

「大丈夫?」

「うん、平気」

2人で男性の後ろ姿を見る。

「謝れよな、あいつ」

冬杞は尖った声を発した。どうやら、本気でイライラしているようだ。男性がぶつかった菜月羽の肩をパッパと払う。急なことに、菜月羽は全身をピクッとさせた。

「あ、ごめん」

冬杞は無意識の内に菜月羽に触れていたことを自覚した。菜月羽は少し恥ずかしそうに笑みを浮かべただけだった。

「なんか、急いでるみたいだったね」

話題を元に戻した。そして数分後、2人はその訳を知ることになる。

「何だ、これ」

駅のホームには、行きとは比べものにならないほど、人が密集していた。祝日とはいえ、時刻は午後5時半。帰宅ラッシュと多少関係があるかもしれないが、それにしても、人が多い。

そして、思い出す。

「花火大会、のせいか」

現に、向かいのホームにはそれほど人はいない。つまり、2人が住む街に向けての乗客が多いのだ。浴衣姿の人もちらほらといる。ホームに入ってきた電車にも、人がたくさんいる。

菜月羽と冬杞は顔を見合わせた。

「どうする?」

乗れなくはないのだろうが、いわゆる満員電車だ。今は列の後ろにいるが、この1波をこえれば前の方に移動できるだろう。

「これの次は?」

冬杞はスマホを取り出した。先程調べていた履歴がそのまま残っている。

「20分ぐらいあとかな」

「じゃあ待とうか?」

2人は満員の電車を1本やり過ごし、次の電車を待った。その間、2人は列の前の方に動きは出来たが、また後ろには多くの人が並んでいく。

一方、向かいのホームの人はまばらである。

「次は空いてるかな?」

菜月羽の言葉を裏切るように、次の電車にも乗客がたくさんいた。しかし、もう、これに乗るしかない。

行きとは違い、座席はぎゅうぎゅうに人が詰まっている。壁際、手すりの傍にも、既に多くの人が陣取っている。菜月羽も、必然的に中央に追いやられていく。

「菜月羽」

電車が動き出す前に、冬杞は声を掛けた。

「ん?」

「嫌かもしれないけど、俺の腕、持ってて」

「持つ?」ではなく、「持ってて」と冬杞は頼んだ。何の支えもない電車の中、せめて菜月羽に安心感を与えたかった。その方が冬杞も安心できる。

「うん」

恥ずかしさもあったが、菜月羽は素直に従った。

菜月羽は冬杞の腕を掴んだ。最初は遠慮がちだったが、電車が動きはじめると、遠慮している場合ではなかった。自然と身体が密着する。冬杞は菜月羽の周りの乗客の顔を見た。幸い同じ女性が多く、加えて、2人には特に興味を向けていない。

人の塊は前後左右に揺り動かされる。その度に、菜月羽は冬杞の腕を掴む力を強めた。

ここまで人が多いと、さすがに行きと同じように話すことは出来ない。人々はある種の同志のように、この電車の混雑を無心でやり過ごそうとしていた。スマホがどうだなどと考えている余裕もない。

「はあー」

盛大な深呼吸をする菜月羽を冬杞は微笑ましく見守る。

電車から吐き出され、ホームから吐き出され、駅から吐き出され、ようやく菜月羽は生き返った心地になった。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫」

言葉通り、彼女は笑みを浮かべた。今2人は、人だかりから少し離れた場所にいる。

「私、あんたぎゅうぎゅうの電車に乗るの、初めてだよ。あんな感じだったら、確かに早く行って座りたくなるね」

と言いつつ、初めての経験に菜月羽はとてもワクワクしている。

「あ、そういえば、」

しかし、一転して、表情が暗くなる。

「腕、痛くなかった?私、思いっ切り掴んじゃったよね?」

冬杞は首を振る。

「全然。それより、隣にいた人に足を踏まれた方が痛かった」

「嘘!踏まれたの?」

「うん」

冬杞は笑みを零し、菜月羽は少し狼狽える。

「でも、大丈夫」

本当だった。菜月羽もそれを察する。

「にしても、花火大会ヤバいな」

人波を見つめながら、冬杞はぼそっと呟いた。菜月羽も同じように人波を見つめる。

「冬杞くんは、花火大会、行かないの?」

「行かないな。あの人だかり見たら、余計に」

「確かにね」

菜月羽も同意した。

「菜月羽は?行ったことはある?」

返事がない。菜月羽を見ると、彼女も冬杞を見ていた。

「何?」