盛夏のさかり、小夜の平穏な生活に小さな波紋のような変化が訪れた。

 「ねえ、小夜さん、西洋の小物を置いて店が近くにできたんですよ。一緒にお買い物に行きませんか?」

 最近犬神家に入った年若い使用人の公江が嬉しそうに誘ってくる。

 彼女は何度も八重は石本から小夜を奥様と呼ぶようにと注意されているが、「小夜さん」とよぶ。

 小夜の方でも、公江と年も近いことから気にしてなかった。

 公江は犬神家の末端の分家の娘だ。結婚が決まっている君江は、半年間だけ行儀見習いもかねて犬神家で預かることになったらしい。

 『適当に相手にするぐらいでいい。小夜が気に入らなければ、追い出すから』

 恭一郎がそんな恐ろしいことを言っていた。

 公江は流行に敏感で小夜に街ではやっているものを教えてくれる。

 小夜は掃除をしたり、炊事をしたりする方がおちつくのだが、公江はそうではないようで、何かというと出かけたがる。

 今日も西洋から入ったリボンが欲しいと言っていたので、小夜は付き合うことにした。

 公江は歩きたがらないので、馬車で店に向かった。

 ガラス張りの洒落た店は、西洋風で草履や靴のまま商品を見ることができた。公江は目を輝かせている。

 白い絹のリボンが気に入ったようだ。

 「わあ、見てください、小夜さん、このリボン可愛いです。私に似合うと思います?」

 「ええ、とってもお似合いですよ」

 「じゃあ、これを買います!」

 会計の段階になって、公江は焦り出す。

 「どうしましょう!持ち合わせがないわ」

 残念そうにため息をつく。

 「会計は私がしましょう」

 「本当ですか! 小夜さんありがとうございます! お礼に私のとっておきの茶店をお教えします。ぜひ、恭一郎さんと行っていただきたいので」

 親戚筋のせいか、ご当主と呼ばす、「恭一郎さん」と呼ぶ。これについても何度も注意を受けている。
 
 公江は天真爛漫な娘で、悪気などないのだろう。

 彼女は楽しげに大通りから狭い路地へと入っていく。

 「女学校に通っている頃によく行った店なんです」

 路地を進むにつれ、人通りが少なりあたりは薄暗くなる。

 「公江さん、道を間違えたのではないですか?」

 公江はクスクスと笑う。

 「敏子さん連れてきましたわよ」

 しゃれた洋装姿に洋傘を持った敏子がふらりと現れた。

 「あなたは…」

 小夜が驚いて公江を振り返ろうとすると、後ろから羽交い絞めにされた。

 公江の方がずっと上背があり、体重もある。小柄な小夜は身動きが出来ない。

 「どういうことなんですか?」

 「恭一郎さんに、こんな貧相な娘をあてがうなんて」

 眉をひそめて敏子が吐き捨てる。

 小夜は嫌な予感がして、公江の拘束を解こうとする。

 「そんなに暴れないで、すぐにすむから。公江から来たのだけれど、あなた月のものがあるって」

 「え?」

 「だから念のために」

 言うや否や、洋傘を小夜の下腹部を目がけて突き出した。

 「やめて!」

 そう叫んだ瞬間。目の前に男が現れた。

 「貴様! どいうつもりだ!」

 仕事に行ったはずの恭一郎が合わられ、敏子から洋傘を奪う。
 「ひっ」

 一声叫ぶと、公江が小夜を突き飛ばして逃げ出したが、その先には石本が待ち構えていた。

 「違うの、恭一郎さん、誤解よ」

 泣いて恭一郎に縋ったが、有無を言わさず。恭一郎は巡査に敏子を引き渡した。

 小夜はそれ呆然としてみる。命を狙われたのは初めてだ。

 「ごめんなさい。私が旦那様を敏子様から奪ってしまったから」

 小夜の目から涙があふれる。

 「馬鹿なことをいうな。俺はもとから敏子が苦手だ」

 「え?」

 「敏子は本家が勝手に決めた許嫁だ。小夜に変わってほっとした」

 恭一郎が怒ったような顔で言う。

 「そ、そうだったんですが」

 「小夜、危険な目に合わせてすまない。必ず俺が守る」
 そう言って、恭一郎は震える小夜をぎゅっと抱きしめた。

 初めての抱擁は力強く、優しく、温かくて小夜の悲しみや苦しみを包み込む。

 どきどきと伝わる恭一郎の胸の鼓動に、小夜は頬を染めて頭を預けた。

 ――小夜は旦那様をお慕いしております。