その日も小夜は恭一郎と朝餉を共にした。

 向かい合って食事をして、何かを話すわけではないが、彼と同じ空間にいるのは心地よかった。

 忙しいにも関わらず、恭一郎に疲れた様子はなく小夜はほっとした。

「小夜。仕事が落ち着いたら、また一緒に出掛けよう。どこか行きたいところはあるか?」

 食後のほうじ茶を飲みながら、だしぬけに言われ、小夜は言葉に詰まる。

「……特には。あ、先日のお出かけは楽しかったです。特にみつ豆に感動しました」

 恭一郎と出かけて、もっといろいろと楽しかったはずなのに、慌てた小夜の口から出たのはみつ豆の話しだった。
恭一郎が眉根を寄せる。

「……そうか。では今度は、牛鍋屋はどうだろう? 最近、仕事関係でよく行くなじみの店ができたんだ」

 牛鍋屋はとても流行っていると聞く、小夜も一度は行ってみたいと思っていた。

「はい、ぜひ」

 小夜が答えると恭一郎は満足そうな顔をした。

「もう一度聞くが、小夜はいってみたい場所はないのか?」
 小夜は赤くなって下を向く。

「……一銭蒸気に乗ってみたいのです。船というものに乗ったことがなくて」

「わかった。休みが取れたら、行こう」 
 そう言って笑った。 



 しとしとと雨がふり続き、いつの間にか庭の菖蒲は終わり、紫陽花が咲く。

 恭一郎は相変わらず休みはとれない。
 そんな折、半日だけでもと恭一郎は小夜を茶店に連れて行ってくれた。
 
 みたらし団子に、きんつば。おいしい菓子の味をたくさん知った。

 お出かけはのんびりと、でもその後恭一郎は軍服に身を包みあわただしく出勤する。


 小夜は恭一郎のことを、なんて良い方のだろうと思う。

(でもあまり贅沢すると、新しい奥様が来たら辛くならないかしら……)

 犬神本家の意向は絶対で、石女を娶れと命じられて恭一郎はそれに従った。
 小夜はかぶりを振って、慌てて自分の気持ちに蓋をする。

多くを望んではいけないのだ。

今が小夜にとって一番幸せな時なのだから。やがて終わりが来ることはわかっていたとしても。

恭一郎とは床を共にしたこともないし、一緒に食事をするのは朝餉のみ。 

よく考えてみれば夫婦とは呼べない間柄なのかもしれない。

 最近の小夜は変だ。とても幸せなはずなのに、妙に気持ちが揺れ動く。以前はこんなことはなかった。
 なぜなら、小夜の心はずっと深海に沈んだままだったから。


 その晩、小夜は布団に入ると妙な胸騒ぎがして目が覚めた。どこかでことりと物音を聞いた気がする。

 嫌な予感がして浴衣姿で起き上がると、廊下に出た。玄関に誰かの気配を感じる。気になって廊下を進むと、洋燈にてらされた先に恭一郎と石本が立っていた。

「旦那様、こんな遅くにお出かけですか」

 そばに寄れば、恭一郎は軍服姿に日本刀を持っていた。

「小夜か、こんな夜更けにどうした」

「なんとなく目覚めてしまって」

 小夜は上がり框から降り草履を履くと、いつものように恭一郎の右肩に切り火をした。

「小夜。そのような不安そうな顔をするな。夜半の出動などよくあることだ。風邪をひく早く寝るといい」

 恭一郎はいつも変わらない様子で、淡々と告げる。

「旦那様、こちらをお持ちください」

 小夜が、朱色のお守り袋を差し出した。

「これはお前が作ったのか?」

「実家の神社ではご利益があると評判でした。気休めですが……」

 どうにも嫌な予感がするのだ。

「いや、もらっていこう。小夜、ありがとう」

 恭一郎は束の間、嬉しそうな笑みを浮かべると、再び表情を引き締めて踵を返し玄関から出ていった。

 深夜の庭は妙にしけっぽく、今にも雨が降り出しそうな予感した。

「さあ、奥様、お部屋の方へ」

 石本に促されるように小夜は部屋戻った。

 いったんは床についたものの、胸のざわめきが鎮まることはなかった。

(母様が消えた時も、こんな感じだった)

 小夜は部屋に戻ると母の行李を開ける。

 中にはお札と……。

『小夜、絶対に誰にも知られてはだめ。とても危険だから、父様にも言ってはいけないよ』

『それならば、どうして母様と私にはこんな力があるの?』

 小夜は悲しくなって母に問う。

『それは……。いつか小夜の大切な人のために使いなさい』

ずっと誰にも知られずに、いようと思っていた。母との約束。いつか大切な人のためにと言った母は、小夜に術を継承した。



 小夜は着物に着替えると、髪を梳き短い和紙一本にまとめ、水引で結ぶ。

 母の形見を手に取り、恭一郎の元へ行く決心をした。

 玄関は通らず。土間から草履をはいて庭に出る。栞戸を開けた先に、石本が立っていた。

「奥様、こんなお時間にどちらにおいでです?」

「お願い、石本さん、旦那様のお役に立ちたいのです。行かせてください」

「失礼ですが、奥様はご当主がどちらにいかれたかご存じですか?」

「四谷です! 強い妖魔の気配がしてきます」

 石本は頷く。

「やはり奥様は神通力をお持ちなのですね。では、私がお供しましょう」

「え? でも石本さんは」

「石本です。式に車をひかせます。では参りましょう」

「ありがとうございます」

 夜半に小夜は、四谷へと向かう。

 場所は小夜が指示を出した。はっきりとどこにいるかわかるほど強力な妖魔の群れである。
 
やがてあたりの空気の穢れがましてくる。四谷に近付くにつれ、獣臭が漂ってきた。

「奥様、お顔の色がすぐれませんが大丈夫ですか」

 山犬の遠吠えが聞こえてきた。

一時は絶滅したと思われていた山犬も、文明開化で鬼門が開くとともに異形の妖魔として舞い戻ってきた。

「はい、問題ありません。そういえば、家の式を操っていたのは旦那様ではなく、石本さ……、石本だったのですね」

「左様でございます。奥様、そろそろ現場近くかと存じます」

「車を止めていただけますか? あの、それから今夜のことはどうか旦那様にはご内密に」

 小夜は高台に立つ。下は切り立った崖で、濃い穢れの中で軍服を着た退魔師たちが戦っているのが見えた。最前列には錫杖、棒術、日本刀を持った者たちが、妖魔を打ち据え、切り捨てている。

 後列には札を使う者たちがいて、穢れを祓っていたが、全く追いついていない様子だ。

 退魔師といってもそれぞれ流派があるのだろう。中でも恭一郎はすぐにわかる。青白く淡い光を放つ日本刀。彼が一番強いのだろう。
 小夜は、母の形見である梓弓を構えた。矢はつがえられていない。

 弦を引き絞ると、まるで矢を飛ばしたように弾いた。

 びいんと音が響き渡る。ゆらりと穢れが揺れ、晴れていく。小夜はひたすら弦を引き、弓を鳴らした。



 ―ーその頃、谷底で恭一郎たちは、苦戦を強いられていた。

「隊長、今日の妖魔はしつこいな。次々に湧いてくる」

 いつもひょうひょうとしている行平が、珍しく弱音を吐く。

「これ以上鬼道が広がるとまずいな」

 恭一郎を目がけて牙をむき跳躍する山犬の首を一瞬で切り落とす。。

 厄介なことに、切り伏せるごとに穢れを放つ。それがまた妖魔を呼ぶ。年に数回、穢れが凝り固まってこのように、大量に妖魔が押し寄せ来ることがあるのだ。

 ぐにゃぐにゃと影しか持たない妖魔もいれば、山犬や猩々のように形を持ったものもいる、はっきりと形を持ち牙や角を持つものは強い。

 それは退魔師としての力が強い恭一郎や行平の担当になる。

だが、その強い妖魔が今日は雑魚のごとく湧いて出た。あちらこちらでうめき声上がり、負傷が増えていく。

 そんな中にあって、びいんと弓を弾く音が響いた。その瞬間穢れの中を清涼な風が突風のように吹き抜ける。

「何だ」

恭一郎が目を上げた先、穢れて黒い靄が出ているが、はっきりと浮かび上がるように彼女の姿が見えた。

「なぜ、小夜が・・・」

月のような冴え冴えとした白い光をはなち、凛とした姿で弓を構えて立っていた。

弓は小ぶりで、恐らく巫女が使う梓弓だろう。

彼女はやはり修行を積んだ巫女だったのだ。切り火の時に強い加護を感じたので、もしやと思っていた。

再び彼女が弓を弾く。

弦が鳴るたびに穢れが晴れ、視界は良好になっていく。徐々に鬼道が妖魔を吸い込み閉じ始める。

最前列にいる隊員からざわめきが漏れる。

「誰だ?」

「まさか、巫女か?」

巫女は江戸の時代が終わり、新政府になってから神職から外された。だから退魔師の中に巫女は存在しない。

しかし、小夜の存在が知られるのは危険だ。あまりにも強い神通力を持っている。

彼女が政府に利用されてしまうかもしれない。もちろん恭一郎はそんなことをさせるつもりはないが、犬神本家が横やりを入れ来るのは必然だ。

内心の動揺を隠しながら、恭一郎は部隊に激を飛ばす。

「全員、目の前の敵に意識を集中しろ!」



 
 その頃、高台にいる小夜は――。

「奥様、穢れもだいぶ晴れました。やがて鬼道も閉じるでしょう。退魔師の部隊は優勢です。旦那様はお強いので大丈夫ですから、そ
ろそろ帰りましょう」

「そうですね。旦那様に見つかったら大変です」

 小夜は弓を下げると、ふらりと体がかしいだ。

「奥様!」

「だ、大丈夫です。ちょっと疲れただけで、さあ、帰りましょう」

 石本に支えられながら人力車に乗り、家路につく。

 玄関には明かりがついていて、驚いたことに八重が待っていた。

「まあ、奥様、手にひどい怪我を」

 ひたすら弦を弾き続けていたので、小夜の手が切れて血が滴っていた。

 疲れ切った小夜は、うわごとのように八重に礼を言ってそのまま意識を失った。

 翌朝小夜が目を覚ますと、日は高く昇っていた。

(寝坊をしてしまったわ!)

 この家に嫁いできて初めてのことだ。こんな調子では離縁しても雇ってもらえないかもしれない。

 小夜が布団から身を起こそうとすると目が回る。

「小夜、まだ、起きるのは無理だ。まったく、こんな無茶をして」

「旦那様……?」

 小夜の枕元に、和装姿の恭一郎が座っていた。

「お前、熱を出しているぞ」

「あ、あの……」

「小夜、深夜の外出は禁止だ」

 恭一郎がきりりと眉を吊り上げる。

「ひっ」

 小夜は情けない悲鳴を上げる。恭一郎にバレてしまった。

「言っておくが石本から聞いたわけではない。あのような高台から弓を打てば、お前の姿がはっきり見えるに決まっているだろう。最も行平は小夜だと気づいていなかったようだが、バレたら大ごとだ」

「は、はい」

 起き上がれない小夜は布団に横たわるしかない。恭一郎が、桶で手ぬぐいをしぼり、小夜の額を拭ってくれる。
 小夜は頬を赤く染める。

「旦那様が介抱してくださっていたのですか?」

「いや、俺は途中からだ。明け方まで八重がお前の面倒をみていた」

「とんだ、ご迷惑を」

 固い決意のもとに恭一郎を助けに言ったつもりが、かえって迷惑をかけてしまった。

「迷惑などかけられていない。お前が来なければ、俺の部隊にも犠牲者が出ていただろう。小夜の手柄だが、褒める気はない。そんなことをすれば、またお前は来るだろ?」

「はい、旦那様は大切な方ですから」

 恭一郎が目を見開いた。二人の視線が合った瞬間、彼が目をそらし、小夜は自分の大胆な言葉に気づき真っ赤になった。

「まったく、だからといって、このような無茶を。神通力は使い過ぎると命にかかわるのをしらないのか?」

「知っております。母から大切な時にしかつかわないようにと、人に知られないようにとずっと言われて育ちました」

「それで、俺と石本の他に誰が知っている」

「誰も知りません」

「お前の実父もか」

「はい、母様から、父様にも言ってはいけないと教えられました」

「なるほど。岩原家はいろいろと事情を抱えていそうだな。お前の実父は小夜がそのような強い力を持っていることも知らずに、杉本のような屑に嫁がせたのか」

 呆れたように恭一郎が言う。

「それで、あの旦那様。離縁したあと、ここで雇ってくださるというお話はまだ有効ですか?」

「は?」

 珍しく恭一郎がきょとんした表情をする。

「そんな、お忘れですか? 離縁した後、小夜をここで雇って下るとおっしゃったではありませんか」

 小夜はきゅっと胸が締め付けられるような不安を覚えた。

「おい、何を言っているんだ? まず、なぜ俺がお前と離縁するのだ?」

 驚いたように恭一郎は言う。

「え……、だからそれは、私は石女ではなかも、しれないから」

「いや、はっきりとお前に言わなかった俺も悪かった。あれは冗談のつもりだった」
 恭一郎がため息をつく。

「旦那様も冗談を言うのですか! では私はここで雇って」
「そうではない。雇うも何も離縁しないといっているだろ」

 恭一郎が小夜の言葉を遮った。

「……ご本家の方は?」

「本家の肝いりで決まった結婚だ。離縁などありえない」

 恭一郎の言葉が小夜の心にじわりと染み渡る。ぽろぽろ涙があふれてきた。

「よかった。ずっと旦那様のおそばに置いていただけるのですね」

 小夜はひとしきり泣いた。

「ここへ嫁いできた日から、小夜はずっとそれを気にしていたのか」

「はい、私は一度、婚家からおいだされていますから」

「杉本のやり方は悪質だな」

「それに旦那様が一度も寝所を訪れないので、てっきりほかに恋人がいるのかと」

「なにを言っている。俺には断じて恋人などいない。小夜だけだ」

 小夜はじっと恭一郎を見つめる。恭一郎はほんのりと顔を赤くして困ったように笑う。

「小夜が、俺を恐れているようにみえた。それにお前はすぐに謝るし、怯える。だから、まとうと思っただけだ。小夜が、俺を恐れないようになるまで」

「旦那様……」

 小夜の目から再び大粒の涙があふれ、恭一郎のため息がふってきた。

「だが、もう一つ懸念事項が増えた」
「え?」

「お前には強い神通力があるし、巫女としても優秀だ。それが本家にバレたらひと騒動起こることは間違いない。
そうなると小夜と床を共にしたとして、身ごもったら俺はお前とややこを守らなければない。その際の対策を立てねばならぬから、しばら寝所には行けない。だが離縁は絶対にしない」

 小夜は嬉しさに嗚咽を漏らしながら頷いた。

「俺は、お前を犬神の御家騒動に巻き込んで申し訳なく思っている」 



 結局小夜は五日ほど寝込んだ。

 その間、夫の恭一郎は忙しい仕事の暇を縫うように、小夜を見舞ってくれていた。

 小夜が布団から起き上がれるようになると、みつ豆まで買ってきてくれた。

 床上げが済み、すっかり元気になった小夜は朝餉の支度の手伝いに復活した。

 八重におそわりながら、アサリのすまし汁、焼き魚に、甘辛くに付けた肉を作る。

 八重は揚げ物に、青菜の白あえを準備していた。

 久しぶりの恭一郎との朝餉である。

 箱膳を運び込むと、二人は向かい合った。

「小夜が、元気になってよかった。しかし、無茶はするなよ」

「はい」

 恭一郎は相変わらず、表情があまり動かないが、彼の瞳をまっすぐにみれば、そこに温かい光りがあるのがわかる。

 恭一郎が汁物の碗を手に取ったのをみて、小夜は手を合わせ「いただきます」とつぶやいて、赤い塗り箸をとる。

 いつも通りの静かな朝餉が始まった。

今日の恭一郎は着物を着ているだから、休みなのだとわかった。
 食事が終わり、恭一郎の湯飲みに煎茶を注ぐ時、小夜はずっと疑問に思っていたことをさらりと口にする。

「旦那様、気になっていたのですが、小夜は、お義父様とお義母様にご挨拶に行かなくてもよろしいのでしょうか」

「ああ、その件なら、必要ない」

「もしかて、旦那様のお義父様とお義母様は……」

「ん? 気づいたか?」

「もう、お亡くなりに?」

 恭一郎は苦り切った顔をする。

「いや、ぴんぴんしているぞ。残念ながら、父上は俺の上司だ。偉くなって現場にでなくなり、暇を囲っている」

「そうなのですか。旦那様、小夜はぜひご挨拶に伺いたいです」

「そうか、石本、八重、そこにいるのだろ?」

 ふすまの向こうに恭一郎が声をかける。

「はい、旦那様こちらに」

 本当に襖の向こうにいて二人が揃っていて、小夜は驚いた。

「小夜が父上と母上に、挨拶をしたいそうだ。いい加減、その悪趣味な真似はやまてくれませんか?」
「ほっほっ」
 愉快そうに石本が笑う。

「あらあら、まあ」
 おっとりと八重も笑う。

 八重がパンと手を打った瞬間、二人の姿がぼやけて、品の良い美しい中年男女の姿が現れた。

 小夜はびっくりして、あんぐりと口をあけた。

「……石本さんに、八重さん?」

「正確には石本と八重に化けていた俺の父と母だ。母は妖の血筋でちょっとした変化の力を持っている」

「な、なんてこと」

 小夜はあまりの驚きに後じさりしたが、すぐに正気に戻る。なんと言ってもここは式神が掃除をする家なのだ。それがこの家の常識なのかもしれない。

「お初にお目にかかります。小夜にございます」

 慌てた小夜は畳に額を擦り付けんばかりに、ひれ伏した。

「あなた方の悪趣味に付き合わされた、小夜が可哀そうだ」

 腹を立てたように恭一郎が言う。
 そして、小夜の隣で恭一郎は彼女背中を優しくなでる。

「何を言っている。お前が朴念仁だから、小夜さんが怯えていたのではないか」

「そうよ。可哀そうに小夜ちゃんったら、恭一郎さんが離縁だなんてくだらない冗談を言うから真に受けちゃって、一生懸命家の中でお手伝いしていたのよ。私たちがいなかったらどうなっていたことやら」

「何を言っているんですか? あなたたちはただ楽しんでいただけでしょ」

 呆れたような恭一郎の声に、小夜はそろそろ顔を上げる。

「改めまして、小夜ちゃん、これから先も恭一郎さんをよろしくね」

「小夜さん、末永く恭一郎を頼むよ」

 二人はそういって柔らかく笑う。

「は、はい、全力で恭一郎様をお守りします」

「確かに、小夜ちゃんは強いけれど、ほどほどにね。それに小夜ちゃんの力のことは隠しておくから、この家の外では絶対に漏らしてはダメよ」

「そうだよ。小夜さん、本家にその力がばれたら危険だ」

「は、はい、お義父様、お義母様、ありがとうございます」

 小夜は驚き冷めやらぬ状態だが、何とか言葉を絞り出した。

 そこで義父が振り返る。

「石本、八重、小夜さんを頼むよ」

 襖の向こうから、石本と八重が入ってきた。どうやらこちが本物のようだ。さきほど義父母が化けていた姿と区別がつかない。

「はい、ご隠居様」

「お任せを」

 小夜はますます混乱した。

「父上、母上、いいかげんにしてください!」

 恭一郎が叫んだ。




 その日の昼頃、小夜は恭一郎に連れられて、馬車で銀座の煉瓦街へと向かった。

以前約束した牛鍋屋に行くのだ。

店に着くと、小夜と恭一郎は二階にある個室に通された。

「小夜、今日は悪かった。父と母が調子に乗って」

「いえ、お二人ともとてもよくしてくださいましたから。でもあの、正直混乱しています。本物の石本さんと八重さんとは今日が初対面なのでしょうか?」

「いや違う。父も母も暇なとき入れ替わっていただけだ」

 それを聞いて少しほっとする。

「そうだったんですね。全然気づきませんでした」

「私と一緒に、四谷に向かってくださったのは、お義父様と石本さんどちらでしょう?」

「あれは本物の石本だ。父は本部にいた」

 ということは石本も陰陽師ということになる。それも腕のいい陰陽師だ。

「では帰った時に手当てをしてくださったのは」

「母だ。八重は眠りが深くてね、あの時刻は寝ている」

「そうだったんですか」

小夜が頷いたとき、目の前にアツアツの牛鍋が運ばれてきた。ぶつ切りの大きな牛肉が入っている。それを見た小夜は目を丸くした。

「まあ、大きなお肉がこんなにたくさん」

「小夜は、もう少し太ったほういい」

「はい、旦那様、頑張ります」

「頑張らなくて、少しはのんびりしろ。結婚してから働きづめだと聞いたぞ」

「まさか、朝餉の支度をするとやること以外なくて、困りました」

 小夜は首をふる。

「庭掃除をしていたと聞いたぞ」

「あれは掃除というより、散策でした。お庭は気持ちがいいし、季節の花も美しいです。それに鯉に餌をやるのも楽しかったです」

 小夜は嬉しそうな笑みを浮かべる。

「それはよかった。今まで実家や婚家で大変な目に合ってきたんだ。うちではのんびりとするがいい」

「はい、ありがとうございます」

 小夜、アツアツのお肉を一つ口に入れる。八重の作る繊細な味付けとは違うが、しょうゆの味が聞いていて美味だ。

「そういえば、旦那様は、お酒はのまないのですか?」

「俺はどれだけ飲んでも酔わないから、めったにのまない」

 初めて聞く話だ。

「ちょうどいい、犬神の家についてはなそう」
「はい」

 小夜は箸をおいて姿勢を正す。

「小夜、そんな真剣に聞くような箸ではない。鍋でもつつきながら、ゆっくり過ごそう」
「はい」

 微笑む恭一郎の姿に、小夜の頬は緩む。

 夫は端正で凛々しい顔立ちをしているせいかともすると冷たく見える。だが、とても優しい人なのだと小夜は知っている。

「犬神と名乗っているが、うちは別に犬のつきもの筋の家系ではない。陰陽師の家系で、血筋には鬼がいる」

 さらっととんでもないことを言われて小夜は目を見開いた。

「それほど、驚くこともないだろう。お前もその神通力の強さを考えれば、狐か何か妖の血がまじっているはずだ」

 確かに小夜の母は人であったが、狐ではないかと言われていた。

「ちなみに俺の母方は狐だ。犬神家は同じ血筋で結婚する者が多いが、母も違う家から嫁いで来たんだ。父が石本に化けられたのも母の力だ。陰陽師の血筋に妖がいることはよくあることだ。毒を持って毒を制すということなのだろう。小夜も母親が巫女の家系なのだろう」

「はい、母は梓巫女だと言っていました。突然ふっつりと消えしまいましたが」

「いつか、会えるといいな」

 小夜は恭一郎の言葉に頷いた。

 しかし母きっと鬼道にでも飲み込まれたのだろう。ある日を境に彼女の気配がぷっつりと消えてしまったのだ。

「それで、旦那様、ずっと犬神家の本家のことが気になっておりましたが、何か揉めているのですか?」

「ああ、そのことか。大したことではない。本家の跡目が家族を残して失踪したんだ」

 小夜はその話にびっくりした。

「残ったのはまだ幼児。それで分家であるうちが、本家に繰りあがったらどうかという話が出た。それで本家は小夜が石女だと話を聞きつけて、俺にあてがったんだ」

 小夜は、ふと敏子を思う。

 彼女の心には恋心がったのではないかと。祝言の時、敏子から強い恨みを感じだ。
 
 許嫁に対しての恋心には小夜にも覚えがある。実は杉本に淡い恋心を抱いた時期があった。あの辛い実家から連れ出してくれる人。大人の男性である杉本に憧れていた。もちろん結婚して、すぐにそのような気持ちは無残に砕け散った。

 しかし、恭一郎はとても綺麗で頼りになる。
 仕事はかなり危険だけれど、しっかりとした人だ。さぞや敏子は無念だったろう。
 もしかしたら恭一郎の中にも敏子に対する思いが残っているかもしれない。

 だとしても恭一郎は絶対にそれを小夜の前では見せないだろう。

 恭一郎は優しいから、行き場の小夜を憐れんで一緒にいてくれるのかも……。

「小夜。どうした? 箸が進んでいないが、口に合わなかった」

 気遣うような目で小夜を見る。
 
 小夜はかぶりを振り、微笑んだ。

「いえ、とっても美味しいです」

 誰かの犠牲の上にある己の幸せに、小夜の胸はちくりと痛んだ。